はてなキーワード: ニュアンスとは
まずさぁ
「鼻で笑う」の使い方が間違っている。この慣用句はバカにするニュアンスであり「怒り」とも「呆れ」とも異なる。
普段から正しい日本語で生きてる読者であれば、まずこの時点で「こいつの日本語能力大丈夫か?」という懐疑的視点がインストールされる
さらに、「怒り」と「呆れ」の感情はそれほど近くない。女はズルいと怒っている人は同時に呆れたりしない。
当然、だから「鼻で笑」いもしない。恵まれた女に接した時の感情は「憤り」「むかつく」「顔を真っ赤にしてマジレス」とかじゃないか?俺ならそうなるが。
一文が長い!(パァン)
大学に行っても目立つタイプ、拗らせミソジニーを発動する拗らせエリートの同級生男子が、いつの間にかそのまっすぐな人柄にやられて好意を抱いたりする程度にはモテる。
「大学に行っても目立つタイプ、」が誰に掛かっている形容詞なのかわかりづらいため、すらすらと読めずウッと詰まってしまう。
おそらく「同級生男子」を形容したいのだろうが、そこまで同級生男子にフォーカスしたいならまず紹介に1段落使え。
寅子の家には、父が面倒を見ている司法試験合格を目指す書生がいて(アッパークラスのご家庭ならでは)この書生とも「私たち同じ道を進む仲間よね」という異性友達ムーブをぶちかましているが、書生は寅子に片思いである。
突然出てきた書生の紹介がまた長い・・・
と思ったらまた拗らせエリートに話題が移る。そもそも三人称を揺らすな。読者はまだ「同級生=エリート」っていう代名詞の変遷も消化できてねえから。
ナナメ読みしたら、「エリート」と「同級生」と「書生」っていうキャラが3人いるのか、エリートで同級生で書生なのかも不明なわけ。さらに登場人物に次々フォーカス移されたんじゃ目が滑ってわかんねえんだわ
書生の紹介したならしばらく書生にまつわる話だけしろ。
何がそりゃそうだなのかもわかんねぇしよ。
それお前の中でのそりゃそうだだろ。そのお前の価値観べつに普遍的じゃないから。
は~わかりにくい
繰り返すが、これで「文章構成がうますぎる」とか「説明が上手」とか、正気か?
あのさ、読み手の頭ン中を想定してなくて自分視点すぎなんだよね。お前女だろ?これわりと女特有なんだよな。
お前の頭の中では最高面白トレンディドラマがリプレイされてんのかもしれないけどさ、こっちにはリプレイするための録画がないの。まずそれ理解してくれ。
話が時系列すぎだから。頭の中でストーリーを追いながらそれを乱雑に出力してるだけにしか見えん。
だったらあらすじを書けばいいのに、あらすじとしては重要であろう情報を中途半端に省略するからもはや何が言いたいかわからん。
「魅力的である。」どん! じゃねーよ
お前がごくごく個人的に魅力的に感じてるだけだろ
その下の1段落読んでも全然魅力的に感じなかったよ俺は。魅力的であるって言いたいんだったら魅力を書けよ
「恵まれた家庭に生まれて能力もあるスーパーウーマンです。舞台が戦争なので時勢に巻き込まれて色々苦労します。実はモデルとなった女性が実在します。」
はあそうですか、としかならねーのよ。
そのキャラのパーソナリティや、そのドラマの各回のストーリーはもちろんのこと、あるキャラに魅力を感じるための価値観からして根本的にお前と共有してないのよ
お前がどんな人物を魅力的に感じるかをこっちに前提として押し付けてくんの辞めろ
ここで初出の情報
そうですか
ん?来週・・・?あっ、これって「今やってるドラマの紹介」なのかよ!過去作じゃなくて!
で、よく見ると上の方に
とか書いてあんのな
その段落登場人物の情報じゃねーのかよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
段落に質の異なる情報を混ぜるな!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
これまでずっと恵まれていたはずのものをどんどん奪われ不満が溜まっている人たち、「女は狡い」、「現代の女は特権階級だ」と思っている人
いま現在恵まれてない男ってのは、別に産まれてこの方恵まれていた時代なんかねえんだよな
「これまでずっと恵まれていた」って、まあそれはあったのかもしれんけど、時代とか世紀レベルの話でしょそれ。マクロな話じゃん
ミクロな男個人の視点では「昔は享受してた特権をいつのまにか奪われた」みたいな認知はしてないの
「俺の知らない上の世代が勝手に好き放題やったせいで、生まれつき色々なものを剥奪された状態から人生がスタートし、それが今も継続中」なの
だから最初からそうなんだけど、この後もお前の価値観にちょいちょい引っかかるんだよね
まずそれを知ってほしい
無理かな・・・男憎いもんね
フェミニズムドラマくっさーと思った時点で、ドラマとしてよくできてるかとかどうでもよくなるんだよね。拒絶。拒否。無理!Not for me
で、逆にドラマとしてよくできてるかどうかを気にする人なら、フェミニズムドラマくっさーとは思わないでしょ
無価値
節々で感じるんだけど、お前はいったい誰を想定して文章を書いてるんだろうな
ぶっちゃけ「自分と価値観を共にして、別に自分が紹介なんかしなくても魅力を感じてくれるであろう内輪の友達」だろ?
だってお前の紹介を見れば見るほどキモすぎてみる気うせてくるもん
お前の目的が
であれば大失敗してると思う
これはお前がオナニーを公開してるだけ
お前が、自分が気持ち良くなる方法をひたすら熱弁してるだけなんだよ
と本気で思ってるんであれば、まずやるべきはこのオナニーみたいな文章を公開することじゃなくて
「フェミニズム大嫌いな人」がどのような人生や経験を経て大嫌いになったのか考察することなんだよね
妄想で捉えてる
認知が歪んでる
まあ本気では思ってないんだろうな
別にフェミニズム大嫌いな人と仲良くしたい理由とかなさそうだし
kura-2 フェミ好きでもキライでもないけど、これ見て見たいと一ミリも思えないな。まったくもって興味がわかない。アンテナ折れてるのかなー
2024/05/18 リンク yellowyellow
折れてない!折れてないよ!お前のアンテナビンビンだよ!
元々興味ない奴がこれで興味を持つことは絶対にあり得ません。むしろ無理度が増すし、「なんかキモいな・・・」ってちょっと引くくらいが適切
自分がやってしまったこと(例えそれがわずかなものでも)が確実に原因で起きてしまった不幸と、まったく自分に原因のない不幸とではどちらがより耐えがたいものだろうか。
前者は「あのとき自分がこうしていなかったら…」というような激しい後悔に苛まれるだろうし、後者は そのことの理不尽さの前でおのれの無力さをおもいしることだろう。
さて、その選択はとりあえず個人の手に委ねることにして、最初の問いの「不幸」を「恐怖」と置き換えてみよう。
[A]その人自身に起こるべくして起きた恐怖
と
[B]全く原因不明の恐怖
どちらがより怖いか。まあケースバイケースというか結局はその状況に立たされなければ答えは出ないだろうが話を続ける。
[A]の原因というのを、過去にはたらいた明らかに人道に反する行為、とより狭義のものとし、 それ以外を後者にいれるとすれば、一般的に「ホラー映画」と呼ばれているものはほぼ全てが後者を扱ったものだといえよう。
原因が呪いのヴィデオテープを見たということにしろ遺伝子操作に失敗して前代未聞のウィルスに感染してしまったことにしろそれらはとくに人道に反するというほどものではなく、せいぜい無根拠な禁忌を犯したという程度だ。
そして観客はその恐怖を、襲われている者に 感情移入/同化してともに味わい、それから逃れるとホッとして、それからまたそいつに襲われて……、 で最終的には原因が解き明かされるなり逃げ切るなりで幕は下りる。作る側も、いかに観客を引き込ませるかを意図して作っているし、そこで描かれる恐怖というのはあくまで襲われる側から見たものだ。
ところで、[A]の恐怖を描いた映画がいまやほとんどないのは、非のある者がこうむる恐怖を因果応報・当然のものとしてみなし逆に追いつめていく方が主人公として描かれているからである。
すなわち正当な復讐をする勧善懲悪の物語となってしまう。当然それは「恐怖= 襲われる側への感情移入により抱くもの」の図式が成り立たないのは言うまでもない。
では[A]の恐怖が恐怖映画として成立する場合とはどのようなものであるか。
それは、執行される復讐方法が観客に感情移入など到底させないほどおぞましいものであるときである。
観客を思考停止に陥れさせるほどの残酷なもの。このとき、その恐怖はまさに恐怖そのものとしてスクリーンに映し出される。
黒沢清監督作品『蛇の道』(1998年)はこのような映画である。
いや、これだけではこの作品を ひどく矮小化していることになる。
この作品の恐怖は、あるひとつの極点に立ってしまった人間がとってしまう行為の目をそむけずにはいられないような醜悪さが、これでもかこれでもかと露呈されていくことにある。
かといってそれは単に悪趣味とかたづけられるような類いのものでは断じてない。
それが、紛れもなく人間の性質によるので、恐怖を通り越してとにかく正視しがたいのだ。
それでもひとはこの映画を見るというほとんど拷問のような行為をやめようとしないのは、その恐怖の果てにも救いがあるはずだと信じているからにほかならないのだが……。
この映画での哀川はほぼ、人間の醜悪さを次々と 引き出す媒体として存在している。またその媒体としての仕事ぶりの的確さは、この世界の物理学的法則を解明していく学習塾でのもうひとつの姿とも重なり、存在論的に否定しがたいものとなるのだ。 あえて例えるならばこの作品での哀川の存在は、ルー・リードの声の響きのようだ。優しさ/慈悲深さと、 その奥にある圧倒的強度をほこる底無しの得体の知れなさ、そしてかなり強引なのにもかかわらず 抗いきれない魅惑にも似た正しさ(のようなもの)を備えている。
いや、やはりできるだけ見ないほうがよい。レンタルビデオ屋のやくざものコーナーに、絶対的「大凶」としてなにげなく陳列されているのが、 この作品の存在としてしごくふさわしいものだとおもわれる。
(2024年5月付記:リメイク版公開の報に触れ、四半世紀前にこのような文章をひっそり公開していたのを思い出したのでまたひっそりと匿名公開させていただきました。ニュアンスを変えない程度に改行等いじりましたが、死語である「ヴィデオ」」」云々の最終2行は削れませんでした。)
その中途がクソクズ、ならわかる
クソクズな中途を雇わないでほしい、もわかる
■もう男だけは雇わないでくれ
人事の評価では優秀だという噂の独身男(45)が入ってきたが、こいつが危険人物だった。今までよく社会人生活を送れていたなというレベル。
自分の仕事じゃないと感じたら一切やらない
◯◯さんが会議参加遅れるそうなんで先に司会して進めておいてもらえますか、と依頼しても、いざその会議に戻ってくると一切進んでいない。理由を聞くと、俺はこの会議の司会者じゃないから。
タスクを振っても何故俺がそれをする必要が?って言い出す。その押し問答をしている間で片付くようなタスクにすらこれを言い出すので、まともに仕事を振ることができない。
自分だけは頭がいいと思っている
取引先との会議で説明が伝わらないとき、露骨にイライラし始める。自分の言いたいことが伝わらないのはお前らが悪いとでもいただけに。
この間はついにあなた(取引先)の理解力が低いんじゃないですかってニュアンスのことを言ってしまい炎上しかけた。即座に上司がフォローしてなんとか事なきを得たが、その会議については次からそいつは出禁になった。
目下の人間に対するパワハラ、セクハラ
子会社の人に当たりが強い。気に入らないやつがいると使えない、無能呼ばわりして怒鳴る。中国人の人には日本語わかる?って煽り散らかす。
飲み会でもセクハラを連発。新人のイケメンの男に対して、俺の娘を引き取ってくれないか?って笑顔で提案していた。その新人君はぎこちない笑顔を浮かべながら勘弁してくださいよ〜的な笑顔を浮かべていたのがいたたまれなかった。
とにかく、ある程度の年齢になっても独身の男ってまともではないという思いをより強くした。世間ではこうした意見は言いづらいが、一度経験してしまうと、偏見は拭いづらい。
人事の評価では優秀だという噂の独身男(45)が入ってきたが、こいつが危険人物だった。今までよく社会人生活を送れていたなというレベル。
◯◯さんが会議参加遅れるそうなんで先に司会して進めておいてもらえますか、と依頼しても、いざその会議に戻ってくると一切進んでいない。理由を聞くと、俺はこの会議の司会者じゃないから。
タスクを振っても何故俺がそれをする必要が?って言い出す。その押し問答をしている間で片付くようなタスクにすらこれを言い出すので、まともに仕事を振ることができない。
取引先との会議で説明が伝わらないとき、露骨にイライラし始める。自分の言いたいことが伝わらないのはお前らが悪いとでもいただけに。
この間はついにあなた(取引先)の理解力が低いんじゃないですかってニュアンスのことを言ってしまい炎上しかけた。即座に上司がフォローしてなんとか事なきを得たが、その会議については次からそいつは出禁になった。
子会社の人に当たりが強い。気に入らないやつがいると使えない、無能呼ばわりして怒鳴る。中国人の人には日本語わかる?って煽り散らかす。
飲み会でもセクハラを連発。新人のイケメンの男に対して、俺の娘を引き取ってくれないか?って笑顔で提案していた。その新人君はぎこちない笑顔を浮かべながら勘弁してくださいよ〜的な笑顔を浮かべていたのがいたたまれなかった。
とにかく、ある程度の年齢になっても独身の男ってまともではないという思いをより強くした。世間ではこうした意見は言いづらいが、一度経験してしまうと、偏見は拭いづらい。
ぶっちゃけ増田的にはこれ愚問でしかないんだけど、たぶんみんなタイトルだけ見て完全にこの記事の内容勘違いして想像してると思うんだよね。
この記事は、実はその勘違いがどっから起きてんのかって話です。
夏目漱石の有名な一節「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と、昨今みんな当たり前のように理解したつもりで使ってる「政治的な正しさ」が日本語の乱れによってどんな風に誤って解釈されているか。
まあこの辺でちゃんとしてる人はもう気づいてると思うけど、それは「的な」という便利ないいかげんな日本語表現から来てるよってことを述べる記事でござんす。気づかなかった君こそ読もう。
「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」って言葉は、国語の授業で「こころ」を読んだ中高生はたいてい知ってる。
ときには授業のあとにクラスで、冗談めかして馬鹿だ馬鹿だと言い合う遊びが流行ったりしただろう。
でもその意味を本当には理解できているのか? 「精神的に向上心のないもの」とは何だ? 「精神的にでなく向上心のないもの」とは何が違うんだ?
この言葉は作中で計二回用いられている。一度めはKが何気ない場面で「私(若き日の先生)」にかけた言葉。そして二度めは、それを反復して「私」がKにやり返した言葉だ。
最初の場面にはただこう書かれている。
つまりKにとって「精神的に向上心のないもの」とは、ただ「日蓮の事について取り合わなかったもの」のことなのだ。
次の場面には、これをもうちょっと細かく解説した文がつけられている。
Kは昔から精進という言葉が好きでした。私はその言葉の中に、禁欲という意味も籠っているのだろうと解釈していました。しかし後で実際を聞いて見ると、それよりもまだ厳重な意味が含まれているので、私は驚きました。道のためにはすべてを犠牲にすべきものだというのが彼の第一信条なのですから、摂欲や禁欲は無論、たとい欲を離れた恋そのものでも道の妨害になるのです。
ここでは「精神的に向上心のないもの」とは、一言で言えば恋をするものということになっている。
もうだいぶ見えてきた。実はこの「精神的に」という言葉は、君たちが思ってるよりだいぶシンプルで、現代となっては時代錯誤過ぎて本気には取れないような内容なのだ。
spiritually
そう、Kにとっての「精神的に向上心のないもの」とは、ただ単に宗教的精進をしないものということなのだ。
普通の向上心、つまり立身出世とか勉学の追究とか、そういう現世利益とは程遠いという意味で、わざわざ「精神的に」とつけているのだ。
これは英語のpolitically correctの訳語なので、英語で調べるのが手っ取り早い。オックスフォード英英辞典のcorrectの項目には、こんな類似表現が紹介されている。
environmentally correct
環境的に正しい、とでも訳そうか。これはどういう意味だろうか?
普通に考えれば、平易な日本語で言う「環境に優しい」くらいの意味だろう。まかり間違っても、本音では違うんだけど環境に配慮して用意した建前、なんて入りくんだ意味ではないだろう。
それなのになぜ、「政治的に正しい」という表現になると、そのような皮肉を含んだ偽善的なニュアンスをもつものになると考える人がいるのだろうか? 同じニュアンスで「優しい政治の」くらいにふんわり理解しても良さそうなものなのに。
結論を言えば、これはひとえに「的な」という便利な、それゆえに乱暴に使われがちな日本語表現の問題から来ている。もちろんそれと、そういう曖昧さを悪用しようとするずるい詭弁愛好精神にもよるものだけど、これを言い出すと話がややこしくなるので触れません。
「的な」という言葉は、上で見てきた例のように、英語の名詞から作られた形容詞を直訳するための便利な接尾語という側面がある。この場合、もとの英語の意味内容をそのまま適用して、その名詞の事柄に関するものというくらいのニュアンスしか持たないとおおらかに解釈しておくべきだ。
しかしここに何故、もっと皮肉なニュアンスが含まれると勘違いしてしまいがちなのか。
君たち的にはどう思う?
……そう、つまりこういうことだよね。口語のブロークンな表現として、「オレ的には」「アイツ的には」なんて言い方で、その人にとってはそうだけど、他の人には必ずしも理解されるわけではないよっていうエクスキューズの言葉に使われているからだよね。
でも注意深く考えてみればわかるけど、それは一般の形容詞を作る場合、特に外国語を訳して作られた言葉の場合には何の関係もない、あくまで「的な」の複数の意味内容のひとつにすぎないんだよね。それこそ、「口語的」にはそうだけど、堅い術語では違うわけ。
こういう解釈で「精神的な」「政治的な」を解釈したら、本来の意味が薄れちゃう。「政治的な正しさ」に建前だとか皮肉な意味なんてないし、「精神的な向上心」は「気持ち的に高まる」みたいな曖昧な意味ではない。
増田的には、みんながもっとこの点に注意深く、誠実になってくれることを切に望むよ。将来展望的に。
もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事の書類ばかりとなった昨今。
でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。
書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。
生まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖の詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。
頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初の感想だった。普通に文章だったからだ。
調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで
「韻」という言葉もその時初めて知った。
井上靖の詩集を手に取ったのは、国語の教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。
というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初の詩集だった。
小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。
季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなものが短歌や俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。
特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平の短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉のニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。
幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。
自分の世界の表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。
例えば、雪という詩がある。
雪
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
こういう二行の少年の詩を読んだことがある。
みつけた詩だ。雪が降って来ると、
私はいつもこの詩のことを思い出す。
中学生の私は、なるほどと思った。
詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉のなかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。
鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。
当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。
いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。
ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。
山頭火は面白い。普通の俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。
定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌のエントリーポイントとなって、
しかし俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。
いつしか手にしていたのは、興津要の解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。
剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代の言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。
その後は巴毎晩組み敷かれ
木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代の川柳で妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい。
一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。
俵万智のサラダ記念日がベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。
例えば、こんな一首。
あさま山荘事件を起こした連合赤軍の幹部、坂口弘が収監中の東京拘置所から毎週のように短歌を朝日歌壇に投稿していた頃だ。
朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌の表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。
風花って知っていますか
渡辺松男と太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇をリアルにみていた人にしかわからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱が発酵すると詠んだりする太田美和。
実生活で恋をしていた私は太田美和の言葉に自分を重ね合わせた。
でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。
大学を卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。
生活が一変した。
書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。
世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。
山頭火も武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接と資格だ!という日々。
就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。
たまに思い出しては、現代短歌の最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。
若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。
それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。
そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。
思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分が死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。
中年になっていいかげん自分の限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖の感覚がとてもよくわかるようになった。
これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。
詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。
どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。
鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯な子供の姿を思い浮かべる、という
文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワインと食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。
ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種やビンテージ、気候土壌などさまざまな情報がある。
しかしワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのときの話題、体調などに大きく左右される。
水だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。
マリアージュという言葉があるように、ワインは一種の調味料として機能するため、食べ合わせは重要だ。
ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見のワインでしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。
逆に偽の情報を表現豊かに補完してしまえば、コンビニで販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。
ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的な規律として表現することはできない。
詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。
井上靖が「小学校の教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき、井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。
その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。
どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときのメンタル、いわば偶然の力だと思う。
渡辺松男と太田美和が並んで歌壇に掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。
失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会。
そのときに自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。
ところで、先日、Yahooの芸能ニュースをみていたら、TBSのプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人が俳句の先生から5点と酷評されたと報じていた。
消しゴムが 白き水面に ボウフラを
というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味を説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。
ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人の俳句が酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組の演出・脚本としてはそれがオチなのだろう。
演出もさることながら、これは、他の出演者の俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。
虹の下 クレヨンの箱 踊り出す
天王山 黒ずむ袖に 薄暑光
薫風や 隣の君と 教科書を
こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。
バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージで作品のクオリティが補完されてしまうのだ。
しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校の児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。
消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月の番組で文房具だからまだ気持ちはフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。
ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。
それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。
いいかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。
一方で白い水面(ノートの隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。
ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。
と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ。
ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。
また、どんくさいもの、弱者がボウフラというノート上のより小さい存在に視線をフォーカスする、という手法は小林一茶の方法とも通じるところがある。
番組の評者は、この芸人の俳句を酷評したうえ、次のような添削をしたという。
夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。
しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組だからね。
ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界は一種のルッキズムだ。夏休みとかいって勝手におめかしさせようとするんじゃねーよ。
そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつの動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語や川柳で身につけたものだろうから、ゆりやんの一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。
×ユニーク → ◯ユーモラス、ファニー
あとひとつは?
音が紛らわしいという意味では「スマート」、英語と全然違う使われ方という意味では「マンション」が良い線行ってるなと思いました。
アナログ、バーチャル、イメージなど中途半端に知られた技術用語みたいになっているものだとちょっとまたニュアンスが違う気がします。「インストール」の物理的用法を知らないのはカタカナ語とは違うし。
フェミニストは今は流石に。
サービスも大分間違っているけど、用法が多いので正しい使い方もそれなりに多いと難しい。
寄せられた意見の中でこの二つに加えるのが適切だなと思ったのは
でした。
形容詞で、気軽に使えそうでありながら、英語ではさっぱり意味が通じないという落とし穴感で選びました。
は、ネイティブにも通じないことはない気がするので選を逃れました。
は、使う機会は少なそうだけど日本人の要注意な単語としてリストアップしておきたいと思いました。
増田は元々「市販のペペロンチーノソース、味が濃すぎるからパスタ二人前が丁度良い」とか言いながらドカ食い糖尿病寸前まで行っていた馬鹿なデブである。
齢30を過ぎ、尿に変な泡が立ち始めていよいよこれはヤバいと一念発起し、30kg痩せた過去を持つ。
そのとき、健康的に痩せるために血糖値とインスリンの関係については大分勉強したので、「ドカ食い気絶」に関する雑な言葉が踊りがちな昨今、自分の知る限りの知識をこのタイミングでまとめておく。
間違っていること、曖昧な部分あるかも知れないが、それは本職の医クラさんがはてブにもいるので頑張って補足していただきたい。
そもそも我々素人が勘違いしがちなところとして、「血糖値が何故上がるのか」についてのメカニズムそのものがある。
食後血糖値というものは30分もせずに上がり始めるものだが、食後30分ではほとんどの食べ物がまだ胃の中。胃は胃酸によって食べ物を「消化」する器官であって、消化されたものを「吸収」するところではない。
じゃあ血糖はどこからくるのかというと、主に体内に貯蔵されたグリコーゲンである。人間(動物)は即席エネルギー源として常に肝臓や筋肉にグリコーゲンを貯蔵しているが、食事を取るとそれがいらなくなるので血液を介して脂肪細胞に届けて貯蔵するのである。
食事で摂取した糖質量そのものと血糖値の上下には直接的な関係がない(間接的にはある)ということをまず抑えておきたい。
いくらか指摘がありますが、この「直接的な関係」という言葉に込めたニュアンスは、基本的には(↓の一文目)だと思っていただきたい。増田はあくまで論文レベルの校正を行えるものではないので、言い回しの細かい部分への訂正はこれっきりとします。ある程度は読み手責任で「等」等を補ってださい。
専門家からの明確な指摘があったわけではないが、この下りは正確さに疑問があるため次のように修正する。血糖値の上昇には多数の要因があり、↓の補足にあるようにGI値などはあくまで目安でしかないため、経口摂取した糖質量に比例して血糖値が上がるような単純な関係ではない。
というわけで、血糖値スパイクとは、単に大量の糖質を取ったから大量の血糖が流れるというような話ではない。
大量の糖質を取っても、食事直後に流れるのは肝臓に貯蔵されたグリコーゲンだし、また健康的な膵臓をしていれば、消化吸収された糖も適切にコントロールされる。
では何故血糖値スパイクが起こるのかというと、それは主に「インスリン」の働きが悪いからである。
インスリンは、先ほど言った「肝臓に蓄えた糖を血糖として放出し、脂肪細胞に蓄える」というはたらきに関するホルモンである。インスリンがはたらくことによって、血糖は脂肪へと変換されて蓄えられていく。
つまり逆に言えば、インスリンの働きが悪いと血糖を脂肪に変換する回路がうまく動かないということである。
結果として、血糖値が下がらずに血糖値スパイクが起こる。表面的に言えば、インスリンは血糖値を下げる働きをするものなのだ。
「血糖値スパイク」に関する大きな間違いのひとつが、「高血糖で眠くなる/気絶する」という話である。
これは完全に間違いで、高血糖は体組織にさまざまなダメージを与えるが、それによって眠気とか(気絶のような)短期的な意識障害は起こさない。
よく言う「食後の眠気」は、一般的には「低血糖」で起こるものである。
これまで述べたように、食後すぐに肝臓に蓄えられた糖が血中に放出され、「血糖」となる。その血糖は「インスリン」により脂肪へと変換を促されることによって脂肪細胞に貯蔵されなおす。この過程で血中の糖質量が変化するのが「血糖値の上げ下げ」である。
この血糖値の上げ下げの結果、「血糖値スパイクの後には急激な低血糖も起こす」というのが、「食後に眠くなる」メカニズムである。
(特に難しい部分のようなので追記。「インスリンの働きが弱まることで、それを補うように分泌が過剰になる(そのせいでまた働きが弱まる)」という「インスリン抵抗」の負の循環によってこういう乱高下が起こりやすくなる。完全な糖尿病になってしまうと、インスリンの機能が失われるので自然には血糖値が下がらなくなります。)
以上のことからわかるように、「血糖値スパイク」も「食後の眠気」も、本来「ドカ食い」という一時的な行為そのものとは関係がなく、そういう不健康な生活によってインスリンの働きが弱ることで起こる複合的な現象なのである。
よって「ドカ食い気絶」なる、昨今既成事実化されようとしている現象は、厳密に言えば存在しない。
医学的にも定義されてないし、そもそも「食後に眠くなる」要因については上で述べた低血糖以外にも他の機序によって説明されることもある。
胃腸に血液が集中することによる疲れだとか、自律神経に関する問題だとか。
もちろん無理な大食い、不摂生な生活が身体に悪いことは言うまでもないのだが、ある種の非科学的な迷信と言えるところまで話が膨らんでしまうとそれは良いことではない。
ドカ食い気絶なる概念の既成事実化によって、逆に妙な(実在しない)健康不安を煽りはしないかと、増田は危機感を覚えるものである。
最近の短歌に関する増田の記事とそれへの反応で気がついたのは、多くの人は歌人が共有する短歌に関する暗黙の考え方を知らないということだ。
短歌詠みの間には短歌に関する決まりごとや規範が暗黙のうちに共有されており、それを念頭に置いて歌を詠んだり、鑑賞したりする。私はこれを「短歌のテーゼ」と勝手に呼んでいる。
あらかじめ言っておくと、このテーゼは必ず守らなくてはならないルールではない。むしろ現代短歌はどうやってテーゼに沿わずして魅力のある短歌を生み出すかを試行錯誤している節がある。
だが、どんな流派であっても優れた歌人はこのテーゼを意識し、従うか対抗するかのスタンスを明確にして歌を詠んでいる。そして、そのスタンスがある程度共通している歌人同士が同じ結社の中で作歌や鑑賞をすることで歌風を確立させて行くのである。
であるから、反例となる名歌はいくらでも挙げられるであろうが、反例があることはテーゼが存在しないことを意味しない。
以下、私はこれが短歌のテーゼだと思うものを挙げてみる。これらは私が歌会での経験や短歌関連の書物を通じて知ったことをベースにした持論であり、歌壇において認められた学説などではないということは断っておく。これらが短歌のテーゼを網羅したものとも考えていない。もしこれも短歌のテーゼなのではないかと思うものがあれば、教えてほしい。
また、この記事を書くにあたって各テーゼに従っている歌と、対抗する歌(=アンチ・テーゼ)を例示しようとしたが的確な歌を全部に配置できないので諦めた。こうした歌の事例もぜひ提案してもらえると嬉しい。(この記事が果たして読まれるのか?という疑念はあるのだが……)
ちなみにこれから挙げるテーゼに対して確信犯的にすべて逸脱しているのが穂村弘である。穂村弘は歌人の中でも一般的に知名度が高く、フォロワーも多いのだが、実のところ短歌のテーゼ的には極めて特異な位置付けにある存在だ。ただし、それは戦後の短歌運動の流れを意識的に継承した、れっきとした文学的試みである。
短歌は本来は歌であり、5・7・5・7・7の韻律を守り、音読したときに美しい調べとなるよう詠むことを求める。句割りや句またがりを多用したり、日本語として音読が困難な言葉を入れてはならない。
歌会などで短歌の詠み合いなどをすると、時々「この歌は"作ってる"ね」と評されることがある。短歌の描写にリアリティが無かったり、やけにドラマティックであるなど、現実には起こったことでない内容であると判断された時にこう言われる。このテーゼにおいては、どれだけ平凡ではあっても日常に実際に起こったことの方がドラマティックな虚構よりも価値があるのである。
"作る"という先ほどの言葉の中には、作為的に言葉を操り、上手く作ろうとする気持ちを戒めるニュアンスも含まれている。日々優れた短歌を鑑賞し、心のうちに誦じて日常を過ごす中で、するっと生まれてくるものを精製するのが本来の短歌なのである。こうした体験なしに、ただ物珍しい言葉をいたずらに組み合わせて面白がられる歌を作ろうとする姿勢は望ましくない。
短歌は日常生活に即した芸術である。その生活感覚は、身体から得られるものであって、生活に根ざしていない社会政治的な話題や、テレビで見たことなど身体を伴わない経験を取り上げるのは望ましくない。
短歌は、風景の描写と心情の表現がセットとなるように構成すべきである。風景はただの現実ではなく、それに対峙する詠み手の心情を象徴するものとして描写されなければならない。
ただものごとを説明するだけの短歌はただごとうたであり、本来の短歌ではない。短歌には詠み手の情念が表現されなければならない。
短歌は日本語を支える伝統文化である。王朝時代以来の和歌の歴史を学び、古典の優れた歌に触れながら、そのような伝統に連なることを意識して歌を詠むべきである。和歌や過去の名歌を鑑賞し、日本文化を象徴するような風流な事物を題材として歌を詠め。
追記:
ちなみに私自身は1・4・5・6に賛同し、2・3はややや否定的であり、7は積極的に否定するスタンスである。7とどう決別するかは、戦後短歌の大きな課題でもあったという認識である。
応募資格の経験になるproject managerって、どれくらいの扱い?
目標は英語で情報を得て意思疎通できるようになること。日本語報道だけでは不安だから。翻訳すればいいだけだけどね。
どうやって勉強しようと思いながらYouTubeでBBC見たりしたけど、とりあえず今は英語字幕つけてPeppa Pig見てる。聞き取れないところも字を見れば分かるから便利。まだ細かいニュアンスまでは理解できないけど8割はわかるという感じ。ペッパに慣れたら次はディズニーピクサー作品。英会話練習はAI相手にちょっとずつしようかな。まだ言いたいことがパッと英語で浮かんでこないからイライラする。
小学生を育ててるのでかなり酷い災害(あるいは戦争)が起きて外国に避難する可能性もゼロじゃないと思うんだよね。ウクライナの人が日本に来たように。まあそのメンバーに運良く選ばれるより国内で犠牲になる可能性のほうがはるかに高いけど。今後フィリピンに出稼ぎに行く可能性もゼロじゃないし。Peppa Pigも英語で見ると結構楽しい。英語には英語のユーモアがあるよね。