はてなキーワード: なかにとは
従来の歴史学では、メソポタミア、エジプト、インダス、中国が世界の4大文明と言われ、日本は文明を中国から教わった後進地域と言われていました。しかし、この歴史観を近年の考古学が覆しつつあります。
我が国の縄文時代の始まりは、今から一万六千五百年前とされています。これは青森県の大平山元一(おおだいやまもといち)遺跡で、わが国最古の土器が発掘されたことによります。この終期はおよそ三千年ほど前で、そこから弥生時代が始まります。従って、縄文時代はおよそ一万四千年という途方もなく永い時代です。このことはキリスト歴の始まりからまだ西暦で二千年と少ししかたっていないことを考えれば途方もなく永い期間であったことが分かります。
あなたはご存知でしょうか。縄文人による世界最古の科学発明品を。この最古の科学発明品は、当時から2万年を経た現在でも最新・最先端の材料として使われています。この世界最古の科学発明品は「宇宙船」に貼りめぐらされています。また、2020年にはロシアで4000℃に耐えるこの「最古の科学発明品」が発表され、話題になりました。
ではその、縄文人が発明した「世界最古の科学発明品」であり、最新の宇宙船にも使われるものとは、「土器」、またの名を「セラミックス」です。「土器」と聞くと、「大したことがない」と感じるかもしれませんが。実は「土器」は人類の運命を2つの意味で大きく変えた代物です。
まず1つ目の理由ですが、
実は土器はただの「土の器」ではありません。本来は水に溶けてしまう粘土を、水に浸けても溶けない、そして耐火性を備える器に化学変化させているのです。土器、陶磁器、ガラス、耐火レンズは総じて「セラミックス」と呼ばれますが、この「セラミックス」こそ、人類が科学で得た最初の道具、材料です。つまり、人類が科学を応用したものこそ土器だったのです。
また、「土器(セラミックス)」はもう1つの意味で人類の運命を大きく変えました。それは、土器が世界最古の科学発明であると同時に、「食の料理革命」でもあったからです。というのも、土器が発明されるまでの古代人は、生で食す以外の食べ方は、焼く程度のものだったからです。
しかし、土器が生まれたことで、この状況は一変しました。土器は硬い食物を柔らかくする
「煮る」という調理を可能にしたからです。その結果、さまざまな味付けもできるようになり、人類の可食範囲を飛躍的に拡大したのです。そして土器が生まれた結果、縄文人は現代の私達よりも豊富な種類の食生活を送っていました。
その証拠に、縄文遺跡からはなんと陸上動物60種類、魚類70種類、貝類300種類が出土しています。例えば、縄文人はイノシシ、シカ、クジラ、ウニ、牡蠣、アワビ、ゼンマイ、ワラビ、栗など、色々な食材を食べ、季節の旬に応じて自然から恵みを食していました。
もし土器(セラミックス)が誕生していなければ、このような食生活は実現できず、人類の運命は大きく変わっていたでしょう。ちなみに、日本人が四季折々の旬のものをいただく文化があるのも、日本料理に「煮っころがし」や「肉じゃが」といった「煮る料理」が多いのも、縄文の名残だと言われているそうです。
このような、世界最古の科学発明品である土器(セミラックス)を生み出した縄文文明ですが、
実はこのような事実は、縄文文明が世界中から注目される理由のほんの一例に過ぎません。
縄文文明が世界から注目される本当の理由は世界最長の1万年以上もこの文明が続いたからです。ではその、縄文文明がなぜ一万年以上続いたのか。この謎を解く鍵は、世界中の遺跡で見つかるのに縄文遺跡でだけ見つからないもののなかにありました。
この事実を知った時、世界四大文明とは全く異なる縄文文明の姿が浮かび上がり、日本人のルーツが見えてきます。
では、世界中の遺跡で見つかるのに縄文遺跡でだけ見つからないものとは一体何でしょうか。
それは「対人用の武器」です。つまり、1万年以上も続いた縄文文明において「大規模な戦争が起こらなかった」ということです。今は、西暦が始まってからまだ2000年と少しです。1万年というと、この5倍ほどの時間があったのです。にもかかわらず、その間戦争が起こらなかったのです。
世界史を見ると、江戸時代の250年の平和ですら、他に類を見ないほど珍しい時代です。その250年を遥かに超える1万年以上も戦争が起こらなかったのですから、もはや縄文文明は人類史の奇跡でしょう。
だから縄文文明は1万年以上も続いたのですが、縄文文明が他の文明と異なるのは、単に「戦争が起こらなかっただけ」だけではありません。
縄文文明以外の他の文明は、メソポタミア文明にせよ、エジプト文明にせよ、インダス文明にせよ、黄河文明にせよ自然を破壊しています。
例えば、今のメソポタミアやエジプトは、昔は森林地帯でした。特にメソポタミアはレバノン杉だらけでした。しかし今、私たちがメソポタミアに持つイメージはどうでしょうか。砂漠、あるいは荒地
という印象ではないでしょうか。それは縄文文明以外の文明が、自然を管理、支配し、破壊してきたからです。しかし、縄文文明は自然と共生し生きていました。
四季折々の旬の恵みをいただく食生活をしていたのも、その証拠の1つです。 要するに、他の文明と縄文文明の生き方は全く異なるのです。
すなわち、文明の持続可能性と言う点から言っても、縄文文明は、自然との和、共同体の和をベースにした持続可能な文明だったわけで、対して、黄河文明、インダス文明、メソポタミア文明、エジプト文明、長江文明などの世界の古代文明は、畑作、牧畜による自然破壊で、持続不可能な文明だったということです。
しかし、この素晴らしい日本人のルーツを戦後はGHQに消され、今や忘れ去られようとしています。日本人を日本人たらしめていると言っても過言ではない、縄文文明を想い出しましょう。
おちんちんがおおきくなった後もおちんちんに刺激を与えつづけると白濁の液体が出ます。これを射精といいます。
射精によって出たその白濁の液体には精子くんが1億ぐらい含まれています。
精子くんはぴろぴろと動くちいさなちいさなオタマジャクシのようなものです。
精子くんがうんせほいせと前進し、膣の奥の卵管にいる卵子さんと出会い、ふたりが合体すると受精卵になります。
その受精卵が12日程かけてやがて子宮内膜にもぐりこみます。これを着床といいます。
しかしその大前提として精子くんと卵子さんが出会うためにはお互いがなるべく近い距離にいなければなりません。
そのためにはつまり膣のなかにおちんちんを入れて子宮口めがけて射精をおこなう必要があります。
なんだけど。
精子と卵子、受精卵、着床、妊娠、ここまでは教科書的に習った気がするけど。
膣の中におちんちんを入れなきゃいけないってのは習わなかった気がするんだよね。
そもそもおちんちんが膣の中に入るという概念が頭の中になかった。
本能的に知っていたわけでもないし…
最近(といっても少し昔から)、発達障害を理由に出来ないことは出来ないと言うべきとか、発達障害を言い訳にしてはならないとか、発達障害に対しての向き合い方は色んな論争を産んでいる(気がする)。私自身も悩んでいましたが、発達障害はご老人と同じように受け取るのが正解なんじゃないか?と思ったので、ここに残しておこうと思う。(もちろん私も発達障害で、かつ、文章を書くのが苦手なので、読みにくい文なのは申し訳ない。)
歳をとってくると記憶力が悪くなったり——いわゆる「ボケる」——、体力が落ちたり、怒りっぽくなったりするとよく言われますが、ご老人のなかにも、もう家族のことすら覚えられない人もいるのに対して、孫もひ孫も覚えているようなご老人もいるし、もう寝たきりで介護されながら生きているご老人もいるし、筋骨隆々で懸垂めっちゃできるお爺さんとかもいる。怒りっぽいお婆さんもいるし、穏やかなお婆さんもいる。
要するに人によるやんけ!ということだが、そう。そうなんよね。でも傾向として、記憶力が悪くなるとか、体力が落ちるというのは必ずある。
それで今思いついたのが、発達障害もこれと同様では?という事。発達障害の人のなかには凄い高難度な大学にいったりめちゃくちゃ成功してる人もいるけど、勉強がとんでもなく苦手な人とか言葉のキャッチボールが難しい人もいる。例示とか話を広げるのは本当に苦手なのでこんぐらいでまとめに入るのは勘弁してほしい
発達障害はマイノリティだから理解しにくいし、エコーチェンバーに陥って何でも障害のせいに思えてきたりするし、厳しい目で見られることも多いけど、発達障害って括りが老人って括りと概念的には同じようなものって考えたら、発達障害への向き合い方の指針にはなるのかな、と。そういう話でした
自分は社会経験も豊富ではない上、今まで小さい会社に勤めていただけだったから、こういった仕事は初めてだった。
で、新人たち。まぁ見事に挨拶もしない、返事もしない。こちらが問いかけても全く無反応。
一人だけ反応しようと素振りが見られるが、周りが静かすぎて合わせて沈黙する結果、全員が無反応。
自分たちが社外の人間だからだろうか、とも思っていたが、直属の上司にも全く同じ反応。
「連絡事項があります」と声をかけても、喋ることをやめない。
まぁ、社会経験のなさか……よく言われるZ世代の特徴か……?とは思いながら、そこは現状様子を見ている。
ちなみに、ここの社風はなかなかに古風なThe 体育会系だ。(研修プログラムの中に、走り込みや登山などがある)
そんな感じだからか、勝手な偏見で「こんなだりぃ事やってられっかよ!」みたいな、反発心があるかといえばそこは全然なかった。
とにかく自主性がない。いわれたことはきちんとやる。その代わり、いわれたこと以外は全くしない。
今回の学習方針が「自主性を育てる」だったのも相まって、割と研修者に決定権を委ねる、という事を多々行っているが、皆とにかく困惑する。
誰も動かない上に「いやそっちで決めろよ」という空気すら流れる。
そんな研修者たちの自主性のなさや熱量の低さと社風の古式ゆかしいシステムが、第三者から見ていてあまりにもアンマッチだった。
都会とは到底言えぬ場所に会社を構え、その周辺に引っ越しをさせる。ある人はアパートやマンションを借り、ある人は社宅へ居を構える。
居住地でさえ会社に縛られる。その他の様々なアクティブな雰囲気をまとった行事もあいまって、研修者の性質とのギャップを感じ、頭をひねった。
自分なら間違いなく息苦しさを覚えて、こうも変な風習に縛られるのなら、さっさと離脱してしまうだろうな、と考えた。
でもすぐに、こういうのって割と社会人として普通なんだろうな、と思った。
自分の社会経験の薄さもあいまって、判断に困るのだが、それでもある種自分に社会性がないのだな、と気付いた。
個人的にAIイラストは、ブログのアイキャッチやパワポの挿絵みたいな「フリー素材」として使う分にはありだと思うんだけど、SNSを見てると「AIアーティスト」を自称したり、#AIイラストみたいなハッシュタグを使ってイラストそのものを公開・拡散することを狙う人が結構いて、なかなかに辟易としている。
というか、ただでさえ賛否両論というか、絵描きクラスタからは反発の多いAIイラストなのに、それを作品としてまるで自分が描いたように謳う連中はどういう神経をしてるのだろう。
というかというか、自称AIアーティストとか#AIイラストとかのユーザーを見てみると、かなりの割合で関わり合いになりたくないような奴なんだが、なんかそういう人に魅力的な何かがあるのかね。
閉め切った会場に人を集め、日用品などをただ同然で配って雰囲気を盛り上げた後、冷静な判断ができなくなった来場者に高額な商品を契約させる手口です。この手口に遭い、商品を購入し続けた結果、老後のための貯蓄を取り崩したり、保険を解約する状況になるまで追い込まれたりしている例がみられます。
高齢者がこうした会場に出向く背景には、健康への不安、経済的不安、日常的な寂しさ等があるといわれています。SF商法の販売員は、来場者に思いやりのある発言や親切な態度で接し、面白い話をして楽しませるなど、高齢者の心理を巧みに利用して信頼関係を作るため、周囲や本人が被害に気付いても解決は簡単ではありません。なかには被害に遭ったことにすら気づいていない高齢者もいます。
国民生活センター : https://www.kokusen.go.jp/t_box/data/t_box-faq_qa2019_13.html
高齢者じゃなくても様々な不安や寂しさ等がある人は多いから同じ手口が機能するはず。
しかもキャバクラやホストはアルコールや恋愛感情のハックや推しの順位競争があるから冷静な判断を出来なくさせる効果は普通の催眠商法よりあるんじゃね?
この売上0の根拠は何?
以下の記事が正しいなら回復の見込みがないというのは違うのではないかと思う。
さらに中国は、内燃機関エンジンを使うハイブリッド車については「熱烈歓迎」なのである。
日本経済新聞などは「2035年をめどに新車販売のすべてを環境対応車にする方向で検討する」と報じており、これは正しい記述である。
重要なポイントは、中国汽車工程学会による今回の政策提言のなかには、ICE(Internal Combustion Engine=内燃機関エンジン)を「やめるべき」とは書かれていないことだ。
伝統能源車に占める混動車(正式には混合動力車、これはハイブリッド車=Hybrid Electric Vehicle、つまりHEVを指す)の比率を2025年に50%以上、2030年に75%以上、そして2035年には100%にしなければならないと提言した。
https://car.motor-fan.jp/article/10017032
EVはどう考えても補助金によってシェアを伸ばしてるだけので、補助金なくなったら結局ガソリン車かハイブリッド車に戻るんでは
欧州ではかつてBEVが市場を席巻していたスウェーデンやノルウェーで、昨年秋以降、相次いで補助金が撤廃された。ドイツでも予定を早めて昨年末までに補助金が打ち切りとなった。打ち切りは各国の苦しい財政状況が主要因で、補助金が打ち切りとなると即、販売が落ち込むというBEV販売の脆弱(ぜいじゃく)性が露呈された」(遠藤功治・SBI証券企業調査部長)と指摘
https://www.worldtimes.co.jp/opinion/mediawatch/20240415-180559/
出会いが全くない。
日がな女の子のことばかりを考えながらも接触を持つことができないというのは全く酷なことだ。
そんな折、ライブチャットなるものが存在していることを最近知った。
普段なら絶対に試すことはないだろう。しかし今日の俺は飢えていた。
公園に行けばカップルばかりが目に入り、やるせない思いばかりが募る。
どのような形であれ若い女と話せるなら。
その子は若く、髪は茶髪で目は大きい。どことなく上戸彩に似ていた。
彼女はカラコンを入れているのか目は狐目のように赤みを帯びていて、目の中で白い半月を描いていた。
と女の子は開口一番、手を振るような口調でそう言った。
「こんにちは」と俺は冷静に答えた。
「おにいさん、テンション低いですね」と女の子はケタケタ笑って言う。
そうか。その時俺は気づいた。
向こうには俺の姿は見えないのだ。
情報の非対称性が著しいな、と思いながら俺は「ははは」と愛想笑いのように低い声で笑った。
「おにいさんは誰に似てる?」
俺はほんの僅か考え、「木村拓哉に似てるよ」と答えた。
「木村拓哉?ああ…そうなんだ。かっこいいんだね」と女の子は言った。
俺はどちらかといえば東浩紀に似ているが、どうせ彼女には分からない。
それに「かっこいい」と言われ、満更悪くない気分だった。
「普段もこういうの、よくやるの?」と言われ、俺はまごついた。
初心者であると告げる方が良いのか悪いのか、判別がつかなかったのだ。
一度冷静になろうとする間を与えず彼女は「ん~?」と覗き込むようにカメラに近づき、俺の返答を待つ。
「…初めて、かな」と俺は素直に答えることにした。
「そうなんだ!じゃあ、はじめてで私を選んでくれたってことでしょ?うれしい~」
それからライブチャットがどのようなものか、彼女から話を聞いた。
なんでも横柄な客も多いらしく、なかには「脱げ」と直接的に言ってくる輩も居たそうだ。
「まあ、普通じゃないかな」と俺は低い声で答えた。心は浮かれていたが。
時間はあっという間に過ぎていき、気付けば30分近く経とうとしていた。料金を見ると6千円ほどになりそうである。
あっ!となり、内心焦り始めた。割高なのは知っていたがここまでとは。
あまり高額になってはマズいと思い、「じゃあ、そろそろ…」と声をかけると「えーっ、もっとお話ししたいのに」と彼女は駄々っ子のように言う。
「おにいさんみたいな人、好きなのに」と言うので「ごめん」と俺は謝り、「じゃあ…仕方ないかぁ。また今度ね」と笑みを見せて手を振ってくれた。
俺もモニターに向けて手を振り、初めてのライブチャットはこうして終了した。
それからしばらくの間PCの前から一歩も動かず、まどろむように興奮していた。
それは単なる下心と呼べるような下種話なものではなく、俺といった存在を認められたことによる満足感だった。
思いのほかよかった。心がポカポカする。自分という存在を異性に受け入れてもらえた。
そのことが嬉しかったのだと思う。
もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事の書類ばかりとなった昨今。
でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。
書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。
生まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖の詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。
頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初の感想だった。普通に文章だったからだ。
調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで
「韻」という言葉もその時初めて知った。
井上靖の詩集を手に取ったのは、国語の教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。
というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初の詩集だった。
小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。
季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなものが短歌や俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。
特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平の短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉のニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。
幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。
自分の世界の表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。
例えば、雪という詩がある。
雪
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
こういう二行の少年の詩を読んだことがある。
みつけた詩だ。雪が降って来ると、
私はいつもこの詩のことを思い出す。
中学生の私は、なるほどと思った。
詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉のなかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。
鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。
当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。
いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。
ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。
山頭火は面白い。普通の俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。
定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌のエントリーポイントとなって、
しかし俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。
いつしか手にしていたのは、興津要の解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。
剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代の言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。
その後は巴毎晩組み敷かれ
木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代の川柳で妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい。
一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。
俵万智のサラダ記念日がベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。
例えば、こんな一首。
あさま山荘事件を起こした連合赤軍の幹部、坂口弘が収監中の東京拘置所から毎週のように短歌を朝日歌壇に投稿していた頃だ。
朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌の表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。
風花って知っていますか
渡辺松男と太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇をリアルにみていた人にしかわからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱が発酵すると詠んだりする太田美和。
実生活で恋をしていた私は太田美和の言葉に自分を重ね合わせた。
でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。
大学を卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。
生活が一変した。
書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。
世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。
山頭火も武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接と資格だ!という日々。
就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。
たまに思い出しては、現代短歌の最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。
若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。
それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。
そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。
思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分が死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。
中年になっていいかげん自分の限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖の感覚がとてもよくわかるようになった。
これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。
詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。
どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。
鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯な子供の姿を思い浮かべる、という
文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワインと食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。
ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種やビンテージ、気候土壌などさまざまな情報がある。
しかしワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのときの話題、体調などに大きく左右される。
水だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。
マリアージュという言葉があるように、ワインは一種の調味料として機能するため、食べ合わせは重要だ。
ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見のワインでしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。
逆に偽の情報を表現豊かに補完してしまえば、コンビニで販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。
ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的な規律として表現することはできない。
詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。
井上靖が「小学校の教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき、井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。
その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。
どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときのメンタル、いわば偶然の力だと思う。
渡辺松男と太田美和が並んで歌壇に掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。
失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会。
そのときに自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。
ところで、先日、Yahooの芸能ニュースをみていたら、TBSのプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人が俳句の先生から5点と酷評されたと報じていた。
消しゴムが 白き水面に ボウフラを
というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味を説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。
ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人の俳句が酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組の演出・脚本としてはそれがオチなのだろう。
演出もさることながら、これは、他の出演者の俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。
虹の下 クレヨンの箱 踊り出す
天王山 黒ずむ袖に 薄暑光
薫風や 隣の君と 教科書を
こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。
バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージで作品のクオリティが補完されてしまうのだ。
しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校の児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。
消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月の番組で文房具だからまだ気持ちはフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。
ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。
それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。
いいかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。
一方で白い水面(ノートの隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。
ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。
と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ。
ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。
また、どんくさいもの、弱者がボウフラというノート上のより小さい存在に視線をフォーカスする、という手法は小林一茶の方法とも通じるところがある。
番組の評者は、この芸人の俳句を酷評したうえ、次のような添削をしたという。
夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。
しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組だからね。
ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界は一種のルッキズムだ。夏休みとかいって勝手におめかしさせようとするんじゃねーよ。
そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつの動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語や川柳で身につけたものだろうから、ゆりやんの一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。
○ご飯
朝:なし。昼:納豆たまごかけごはん。豚汁。夜:餃子、もやし、にんじん、しいたけの鍋。ネギたまごおじや。間食:カラムーチョ。アイス。
○調子
むきゅーはややー。おしごとは、おやすー。
○BUSTAFELLOWS
文化放送エクステンドから発売された乙女ゲームで、駆け出し記者にして時間を巻き戻す能力を持ったテウタを主人公に、悪を成すことを厭わない男性たちと恋愛していくクライムサスペンス。
キャチコピーの「あざやかな悪に染まれ」の通り、なかなかに悪い奴らが揃っている。
乙女ゲームではあるが恋愛の要素は薄めで、クライムサスペンスらしい犯罪のエピソードの掘り下げが色濃い。
アメリカを舞台にしているため、不法移民という社会的なテーマへの切り込みもある。
共通ルートとして四つの事件、その後男性キャラ五人それぞれの個別事件が五つ、最後に全てを包括した事件が二つとかなりのボリュームがある構成になっていた。
しかし、構成に対して文量に物足りなさを非常に感じる惜しい作品だった。
プレイ時間も20時間ほどしっかりあるにも関わらず、全体的にストーリーが駆け足で、もっとじっくり楽しみたかった。
特に主人公のテウタが持つ時間を巻き戻す能力は、巻き戻すだけでなく、巻き戻すと自分以外の他人にその時間の間憑依することができる複合的な能力。
連続使用は何回までなのか、戻る時間に規則性はあるのか、憑依する相手はどうやって選ばれるのか、その間テウタ本人はどうなっているのかなど、何がどこまで出来るのかの段取りを整理するくだりが少ない。
さらにこの憑依する相手がランダムな都合上、時間巻き戻しを使う場合も念入りに段取り立ててから使うべきなんだけど、そこも緊急的に使うばかりで作戦を練らない。
時間に関する特殊な能力を扱うフィクションならではの、仕掛けじみたパートも少なく、ヒロインと男性キャラの絆を示すために都合よく使われる部分ばかりなのは、段取り好きとしては残念。
悪を成すことを厭わない男性キャラたちの”悪“の部分も、同様に段取りの部分がおざなり。
悪徳弁護士のリンボであれば法の穴を突くような仕掛けを期待したくなるが、昔弁護した知り合い、検事が姉、実家が金持ちなど、身内の力を借りる場面が多いのは物足りない。
殺し屋を殺す殺し屋のシュウ、美容整形外科医で変装の達人のヘルベチカ、天才ハッカーのスケアクロウ、法医学者のモズと、他の4人の仲間たちも同様に、段取りを整理するくだりが非常に少なく、文量の不足を感じた。
(あと“実は配信サイトで動画を配信していました”は仕掛けとかトリックではないと思う)
ストーリーの駆け足感は先に進めば進むほど加速していき、最後の所謂トゥルールートじみた二篇は、あらすじ感が非常に強い。
起きた事象を点で捉えれば、感動する場面や、泣ける場面も多いのかもしれないが、それらを噛み締め咀嚼するパートの少なさと、そこに至るまでの段取りの不足は、ちょっと僕にはハッキリと合わなかった。
どうすれば無くなるんだろうね
私が置換されてた頃は女性専用車両なんてなかったから毎日痴漢され放題だった
手の甲で当てるくらいなら「はいはい、またですか」で済むんだけど
高校生の頃は下着のなかに思いっきり手を入れられて、アソコを手で撫でられた
5月9日にフィギュアスケートの宇野昌磨選手が現役引退を表明した。ミラノ五輪前での活躍も期待されていただけに、世界中の関係者から引退を惜しむ声が出ている。
彼は冬季五輪二大会で3つのメダルを獲得、世界選手権2連覇を果たすなど輝かしい戦績を誇るレジェンドだ。わずか900ℊの極小未熟児で生まれながらもスポーツの分野で世界一の座を勝ち取るまでに成長した彼は、小さく生まれた子を育てる親の間では希望の星でもある。
これだけの戦績を残した選手だから、メディアは彼の引退特集を組む。その中で一緒に大会に出ていて表彰台にも上った羽生結弦選手(当時)の映像や写真が入って来るのは当然だろう。しかし、一部のメディアは「平昌五輪表彰式後、宇野昌磨選手の頭をグリグリする羽生結弦選手」の写真や映像を繰り返し入れてくるのだ。
当時も不快だったあのシーンを繰り返し見せられるこっちは胸糞だし、何より宇野選手に対して失礼極まりない。平昌五輪で彼らが笑顔で表彰台に乗っている写真でいいじゃないか。アレを微笑ましいor美しい光景だと今も本当に思っているとしたら、メディア関係者の感覚は異常だ。時代遅れも甚だしい。
今年3月、岐阜の町長が「頭ポンポン」をセクハラ&パワハラだと問題視されて辞職に追い込まれたのを忘れたのか?「頭ポンポンされるなんて嫌だ」 「褒めるのに頭を触る必要なんかない、不快だ」という一般の声があれほど大きく取り上げられてまだ2か月しか経ってないのに。
https://news.ntv.co.jp/category/society/e2ce0c7b4d0c4eb0af2cc1ec56780187
平昌五輪の当時からもあの「頭グリグリ」をどうかと思ってる人はかなりいた。「グリグリ」という表現に私の悪意があると感じるなら、「わしゃわしゃ」「ナデナデ」などという表現に読み替えてもらってもいい。
年上が年下の頭を「ナデナデ」していいのはせいぜい小学生ぐらいまでだろう。それも二人の関係性に濃い師弟関係や血縁関係、性愛や友情がある場合、相互の関係性によっては許されるかな?というレベル。親ですら思春期以降の息子の頭はそうそう撫でたりしない。頭を撫でる行為は上下関係を明らかにする意味があり、本人のプライドを傷つけかねない行為だからだ。
宇野昌磨選手は童顔だが当時既に20歳の成人男子だ。1位を取った先輩が2位の成人男子の頭を触ってグリグリするのは「俺の方が上だ」と見せつけるマウンティング行為にしか見えず、当時からかなり不快だった。
なのに当時の日本メディアはあれを「微笑ましい名場面」として何度も使った。頭おかしいのかと思った。
しかもああいうめでたい場でああいうことをされるとその場の雰囲気を壊さしづらい。しかも先輩&連覇の優勝者という強い立場を持つ人からされたら、公の場では笑って対応せざるを得ないだろう。セクハラ&パワハラと同じ。その場では笑顔で返してたからOK!というようなもんじゃない。仮に宇野選手本人があれを受け入れていたと仮定しても、ああいう行為を見せられるのは他人でも不快だ。
あの時は日本全体が日本人選手が金&銀ダブル表彰台の喜びに浸っていたためか「仲良くて微笑ましいシーン」と受け取った視聴者が多かったようだが、当時から若い男性陣のなかには「何アレ?」と不快感を口に出す人が結構な数いた。
フィギュアスケートファンなら知っていることだが、この二人の年齢差だと子供時代に競技会での接点はほとんど無かった。会えば話をするような関係性ぐらいはあったが決して親しいと呼べるような間柄ではなかった。
当時の宇野選手はまだ一般人にはあまり名前を知られていなかったが、演技構成の難度からいって金メダル候補だった。専門家の間では、高難度ジャンプを複数入れる伸び盛りの若手(宇野選手&ネイサン・チェン選手ら)とジャンプ難易度では一段劣るが熟練の技術&経験を持つベテラン(羽生結弦選手、フェルナンデス選手ら)の争いと見られていた。
平昌五輪では羽生選手もフリーでミスがあり(転倒じゃなくジャンプの「抜け」だからわかりにくいが)、1転倒はしたが演技構成の難易度で上回る宇野選手とは実力が拮抗していた。ジャッジの匙加減次第では宇野選手が優勝することもありえた。その直後の頭グリグリだ。
宇野昌磨選手ファンの反応を探ってみたが、あの写真が使われていることを嫌がっている人が多く、喜んでいる人は少なかった。自衛策として「羽生のコメントや彼との不快な映像が入っていたかどうか」をファン同士で確認してから引退報道の放送録画を見るーという人も複数見かけた。
羽生結弦は「昔も今も自分が一番」で他選手たちへのマウンティング行為を繰り返してきた。一般人は「常識的な発言部分を編集したもの」しか目にしていないが、試合や記者会見の様子を現地やナマ配信で全て見てきているフィギュアスケートファンは彼が過去にどれだけ傲岸不遜な発言を繰り返してきたかを知っている。
彼が全日本選手権を3年連続で欠場し、その間3連覇を続けていた宇野選手と直接対決した全日本選手権。宇野選手が優勝して4連覇した直後に「全日本王者って大変だよ!? 」 「(俺に勝ったからって)燃え尽きちゃいけないよ」と話しかけてきたような輩である。それも、テレビカメラがいる前でしか話しかけない。
羽生結弦は他人を褒めたことがほとんどない。めずらしく褒めても、その直後に自分の方が上or同等であるという主旨の発言を付け加えて台無しにする。ちなみに彼は北京五輪でメダルを獲った日本人選手たちについてコメントを求められた時すら祝福のことばを一度も口にしていない。彼の過去の胸糞発言や行動について書き始めるとキリがなくなるのでこのへんで自重しておく。
とにかく、今の時代にあんなパワハラ写真&映像をしつこく使うメディア関係者の神経はどうかしている。今言いたいのはそれだけ。
今まで恋愛を全くしてこなかった(できなかった)ので、初めての経験が多い。
いいな、素敵だな、と思った相手には全く相手にされず、担当の職員さんが勧めてきた相手にアプローチするとすんなり顔合わせできたりする。
正直、全員好みではない。容姿、姿勢、声、喋り方、といいと思うところが一つもない。
おそらく向こうもそう思っているだろう。
お前に見合う人間はこういう奴らだぞ。と言われている気がして最初は結構辛かった。
今はもう慣れたが、それは自分は相当な恋愛弱者なんだなという自覚と弁えを知ったので前向きに慣れているのかは分からない。
街を歩いていたり、TVの結婚のニュースを見たりすると、ああこんな綺麗な人と結婚(交際)できるのが羨ましい。
喧嘩とまではいかなくとも小さな衝突で、見た目が好みじゃあないとなかなかにキツい。
この人と5年10年一緒に過ごせるのか?
大人になれない時もある。
見た目さえ良ければいいというわけではないけれど、パートナーが綺麗な人ってすごいなあ。
本当に羨ましい。
一昨年から、バキ童チャンネルのぐんぴぃさんのことを好きになっていって、気付いたらユニコーンになっていた。
昔はただのネタキャラとしか見てなかったけど、いま思えば、その頃が自分にとっては一番幸せな時期だったかもしれない。
最近は、ぐんぴぃさんが将来彼女をつくって、童貞卒業することを考えると胸が苦しくなる。
もうワンチャンの可能性もないくらい、彼は手の届かない存在になってしまったんだなと思ってガチで落ち込んでる。
もともとワンチャンなんかあるわけないんだけど、それでも勝手に落ち込んでしまう。
ライブとか行くと、わたしより全然可愛いファンの子が普通にいて、軽く嫉妬するやら悔しいやらで自己嫌悪にも陥ってる。
よくよく考えると、ぐんぴぃさんってもう童貞じゃなくなってても全然おかしくないんだよね。
キャラとして求められることをやっているだけで、裏で可愛い彼女とイチャイチャしてても全然おかしくないっていう。
あくまでも仮定の話だし、考えてもしょうがないことなんだけど、どうしても脳裏にチラついて離れなくなってる。
まさか自分がそんな典型的なユニコーン思考に陥るとは想像もしてなかった。
もちろん、ぐんぴぃさんが幸せになることは何よりも嬉しいことだし、童貞のままでいてほしいというのが単なるワガママなのも分かってる。
でもいつかそうなってしまったら、今のわたしには受け止めきれる自信がない。
ぐんぴぃさんが「バキバキ童貞」でなくなるのと同時に、わたしの繊細な部分は完全に破壊される気がする。
できることならその時は、自分が新たな性癖に目覚めてくれることを祈っている。
あと最近知った新兎わいっていうVTuberの子のコメント欄で、自分みたいな人をいっぱい見つけて共感性羞恥に見舞われた。
そのVTuberの子も、ぐんぴぃさんみたいに誰とも付き合ったことないのを持ちネタにしていることもあって、
なかにはわたしがバキ童チャンネルに書き込んだやつのコピペかと思うようなコメントを付けている人もいた。
表面的には推しをネタキャラっぽく扱っているんだけど、内心ではガチ恋してるのが丸わかりだった。
それが自分の姿を見せつけられてるみたいでしんどかった。
なんか最近ずっと鬱っぽい気持ちが続いてるし些細なことで落ち込むことも増えたしでどうしようもなくなってる。
あんなに笑えたぐんぴぃさんの動画もまともに見れなくなってる。
ああーーもうどうすりゃいいんだーー
ゼミでやらされながら短歌も俳句も自分にゃ無理だな!!!となった者だけれど,大事なことは古今和歌集仮名序が既に全部言ってるんだなあ……と思う今日この頃。
やまとうた(漢詩ではない、和歌)は人の心を種として,万のことのは(葉)とぞなれりける。
(やまと歌は、人の心の動きを元にして、様々な言葉になったものである)
世の中にある人事業しげき(繁き・繁樹)ものなれば,心におもふ事を,見るもの聞くものにつけてい言ひだせるなり。
(世のなかにある人は、事象が沢山あるので、心に思うことを、見るもの・聞こえるものに託して言葉に表しているのだ)
ざっくりと言えば,少なくとも心情を情景に託すことが出来ていないか,それが(なるべく初見で)読者に伝わらない句は駄目っぽい。
広々とした店内を歩いていると端の一角が何やら騒がしく、向かってみるとそこはペットショップだった。私はそこで一匹の黒猫と目が合い、愛くるしいその大きな瞳に瞬く間に魅了されていた。しかし値段はかわいくない。それでも買えない額じゃない。次の給料が出たらあの黒猫を引き取ろう。そう決心すると一時の別れを惜しみながらも黒猫に声をかけ、そして何度も振り返りながら店を出た。
私はがむしゃらに働いた。働くことは好きではないし、これといって趣味はなかった。その癖、稼いだお金は使わなければと強迫観念に苛まれ、これまでブランド品やら心踊らない小旅行に繰り出し、写真を撮っては満足したふりをしていたのかもしれない。そろそろ全てが馬鹿らしく思い始めたれ矢先のことだったのだ。私が、あの子と出合ったのは。
心の底からこれほどまで本当に「欲しい!」と思えたのは初めてのことかもしれない。そうだ。私はあの子を引き取るために働いているのだ。そう思うと仕事にも熱が入り、労働はこれまでにないほど充実して感じられた。
毎日があっという間に過ぎていき、次の給料日まであと少し!となれば思いは日に日に集っていった。そうだ!家に迎えるにあたり、準備をしておこう。そう決めた私はネットで必要なものを調べ、猫用トイレ、ご飯とお水用の容器、ノミ避けの首輪、猫用の遊び道具、キャットタワー、爪研ぎ用のタワー等を購入し、家のなかに設置した。あとはあの黒猫ちゃんを迎えるだけだった。
待ちに待った給料日になると私は仕事帰り、すぐさま例のホームセンターへ向かった。前日は興奮してよく眠れず、店内に入ると早足で角のペットショップに向かい、黒猫ちゃんを探した。
…いない。見間違えかと思った。しかし記憶の限りではここのスペースにいたはずだ。しかし今は見知らぬ猫がいた。私は他も隈無く探した。それでも見つからず、とうとう店員に尋ねると「ああ、その子なら先日」私はそこで聞くのをやめて店員から離れ、すぐに店を出た。車に乗ると項垂れ、喘ぐように叫び、ハンドルを何度か殴った。それからゆっくり家まで帰り、なかに入ると真新しいキャットタワーが出迎えた。全く使われていない容器も、爪研ぎタワーも、燃えるごみにしまいながら私は耳を澄ませた。
家のなかは途方もなく静かだった。
ネット右翼がデモに飛び出しヘイトスピーチを繰り返し始めた数年前、それは一部のおかしい奴らが始めたことだと思われた。その背景が語られるときも、彼らは教養がなく、貧乏で、可哀想な存在だからヘイトスピーチに走るのだと語られるばかりだった。
しかし、排外主義の全面化こそ、今世界が直面している問題だというのは疑いようのないことだろう。各地でポピュリズムの嵐が吹き荒れ、移民排除の声が吹き上がっている。ネット右翼的な行動は「一部」ではまったくなかったのだ。それは世界的な運動の胎動であった。
その象徴であるトランプ大統領の誕生は、忘れてはいけないのがその直前をバラク・オバマというリベラルの希望が8年間も統治した結果であるということだ。トランプ大統領を生んだ人々は、同時にオバマ大統領も生んでいたのだ。その現実を直視しなければいけない。
この排外主義の嵐はナショナリストだけに留まらない。あらゆる主義主張のなかにウイルスのように蝕んでいると言っていいだろう。リベラルはリベラル以外を排除し、フェミニストはフェミニスト以外を排除する。もっと言ってしまおう。アニメ好きはそうじゃないものを排除するし、読書家はそうじゃないものを排除する。政治信条だけではなく、ありとあらゆる趣味嗜好で排外主義が忍び込んでいるのだ。
そして、このような排外主義を加速させているのがツイッターを始めとする共感の数値化とエコー・チェンバーにほかならない。さらにその下地には新自由主義の全面化がある。
資本主義は多様性を殺し、人々を排外主義に走らせる。今、起こっているのは武力を伴わない内戦であり、第三次世界大戦はすでに起こっているのだ。そして、恐ろしいのはこの戦争に誰が勝利しようと、誰も幸せにならないことだ。
「神は語った!」これはたしかにすばらしい文句だ。しかし、神はだれに語ったのか。
「人間に語ったのだ。」ではなぜ、わたしにはなにも聞こえなかったのか。
「神はそのことばをあなたにつたえることをほかの人々にゆだねたのだ。」なるほど、神が語ったことをわたしに知らせにくるのは人間なのか。
そのために神にはよけい手間がかかりはしなかったろうし、わたしは誘惑からまもられたにちがいないのに。
「神はその使いの者の使命を明らかにすることによってあなたを誘惑からまもっているのだ。」どうやって明らかにするのか。
「チー牛は自分では優しいと思っているが実際は優しくない」「むしろ性格が悪い」「挨拶するだけでストーカーになる」「逆恨みで刺殺してくる犯罪予備軍」
こういうチー牛への暴言はほぼ全ての女性が共通した認識として持っていて、増田でもX(Twitter)でも頻りに放言されて多くの共感を得ているよな。
これら発言のうちどの程度が実際にチー牛に接してのものなのかは知らんけど、それでも実際遭遇した個体がそうだったからってチー牛全体を叩くのはやめよう、という風潮にはならないのが不思議でならない。
ブスに避けられた男が「ブスほど性的被害に敏感だよなw自意識過剰ですよw」みたいなことを言うと、それが実際の経験を基にしているかいなかに関わらず、男女ともに批判されてめちゃくちゃ叩かれる。
女は暴言を吐かれると狂ったように騒ぎ出すのに、チー牛を標的に暴言を吐くのには全くためらいがない。自浄作用がないと感じる。チー牛は一方的に殴られ続けていろ、サンドバッグになれというのが女性の一般的思想なんだろう。
そもそも、Adoの音楽、プレゼンテーションに無理はないのか、という問題です。
まず、曲。大ヒットした「唱」をひとつとっても、一曲の中でいくつもの急展開があり、そこに多くの楽器、効果音が使われ、細かなフレーズが入り組んでいる。ヘッドフォンで聴いたとしても、一度で全てを追いきれないほどの情報量がある楽曲です。
これを大きな会場、しかも屋外で再現することを考えると、かなり厳しいと言わざるを得ません。
そこで、やむを得ない音質の乏しさを補うために、ステージの演出やAdo自身のレア感が重要になってくるわけですが、ここで新たな問題が出てきます。顔や姿を出さず、シルエットだけのキャラクターに、どれだけ没入できるかという問題です。
たとえば、テイラー・スウィフトやビヨンセのライブを観に行って、最高級の音質を楽しみたいという人は稀でしょう。(なかにはうるさ型のマニアもいるかもしれませんが)やはり、彼女たちが発するオーラを体感したい、観客にそう感じさせるのがアーティストでありスターなのですね。
https://news.yahoo.co.jp/articles/c0adbf265d08ee3192799af71d93dd6db67c2ac7?page=2
彼氏でも顔出しNG、なのーん?