はてなキーワード: 体験とは
・顔を洗う
を朝と夜2回する
これだけ。
オールインワンのクリームとは、化粧水、美容液、乳液なと全ての種類の液が入ってるやつだ
俺が使ってるのは「ルシード 薬用パーフェクトスキンクリームEX」だ。
https://www.lucido.jp/special/all-in-one/
アラフォーなのでこれを使ってる。
値段は1500円くらいで2ヶ月くらいもつ。
安くない?
これなら続けられるよ。
あとは洗顔料だけど、これは何でもいいと思う。
それより、朝と夜に洗顔料を使って洗うというのがハードル高いので、洗顔料はこだわらなくていいと思う(俺の考えだけど)。
もう一度結論を書く。
・顔を洗う
を朝と夜2回する
まず俺は顔を洗ったことがなかった。
顔を洗うという概念がなかった。
それでアラフォーになってから肌にシミそばかすご増え、やっと顔を洗うということを覚えた。
今までの分を取り返すために、1年続けたら、肌が良くなったし、シミも減った!
ニトリでLED付き鏡も買ったぞhttps://www.nitori-net.jp/ec/product/8100672s/
あと!!!
しかも肌に関しては、防御の方が大切!!
肌を極めるにはまず防御からだ。
だから、
・日焼け止めを塗ろう
・日傘をさそう
でも日焼け止めは大切。
薬局で売ってるニベアとかビオレUVとか、無印とかで売ってる1000円未満のやつでいいから!
みんな、一緒に60代になっても若々しくあろう!
そのために今やれることをやろう!!
あなたは映画を見に行った時、エンドロールを最後まできっちり見るひとだろうか?私は”当然”見るし、なんなら明転してからも謎の余韻に浸って、劇場を最後の方に出ることもある。
私が”当然”といったのは、題名にもある通り、映画のエンドロールで帰る人が理解できないからだ。エンドロールを見ずに帰る人たちは何をそこまで急いでるのだろうか?そんなに忙しいなら、そもそも映画を観に来る時間があること自体不思議だ。
映画館に来るということは、行きかえりの移動含めて、少なくとも2~3時間の余裕を抑えてるはずで、その中のたった5分や10分すら待てないほど忙しいとは、どういうことなんだろう。
その数分をねん出したいほど忙しいということは、そのあとのMTGの資料がまだできていないのだろうか。だとしたら優先順位のつけ方やばすぎだろ!
だいたいそんなに重要な用事をあとに控えて、映画の内容に集中できなくないか。絶対そわそわして楽しめないと思う。だからこそ私は、基本休日か仕事を片付けたあとのレイトショーしか見ないようにしてる。
エンドロールとは映画の感動をじっくりと噛みしめる時間で、映画制作に関わったクリエイターの人たちの努力や才能に敬意を表す瞬間という意味でも映画の重要な一部分だと語る人も多い。正直私はそこまで高尚な考えをもって座れてはいないけれど、それでもその5分を切り上げると切り上げないとでは映画体験の深まり方が違う気がする。
あとなによりマーベル映画に代表されるようにエンドロールの最後にちょっとしたサプライズや続編の予告が含まれていることもたまにあるから、どんな映画であっても「この映画にはないだろうな」と思いながらも、
ちょっと期待して待っているふしもある。あと最近映画料金の値上げも激しい中で、その5分にも値段発生してると考えるとなんか悔しいから消化して帰りたい。
もしかすると、彼らはただ「忙しいフリ」をしているだけなのだろうか。映画が終わった瞬間に席を立つことで、自分がいかにも重要な人物で、やることがたくさんあるというアピールをしているのかもしれない。
あとはお腹or膀胱が決壊寸前の人だろうか。まあこれは仕方がない。人間の尊厳とエンドロールを天秤にかけたら、私だってそうする。
でもエンドロールで帰る人の素振りをみると、大抵は別に急いでいる素振りもなく、さらには「もう映画終わってるからいいっすよね?」といわんばかりに、かがむことすらせず歩いている人すらいる。
臨界状態に至らないように肛門をあえて締め付けながら歩いている可能性もわずかに存在するが、もしそうだったならたぶん最後の30分くらいの内容頭に入ってないだろうしもっと早めに出るべきだと思う。
Yahoo知恵袋で私と同じような疑問をぶつけている質問を見つけた。そこにはこんな回答があった。※それぞれ別の人による回答
「あなた方は駅や電車内での、アナウンスの違いや電車の走行音に興味はあるか?ないだろう。ないのが普通だ。あるやつはマニアとかオタクだ。私もそこまで鉄道キチガイではない。乗るのが好きなだけだ。
あなた方は映画マニアであって、鉄道マニアではないから電車の走行音や道具などには興味がないが、エンドロールに価値を見いだすわけだ。だが興味のないやつにとっては、
なるほど。なんだかこの回答を呼んで妙に納得してしまった。映画を見に行っている人はみんな一律に熱量が高いわけではないのだ。
私は何をここまでイラついていたんだろうか。
あの子と付き合いたいなーって思ったらサイゼは行かないし奢るよね。
見栄を張るって言うと悪く聞こえるかもしれないけど、
その子のことを良く思ってるから少し背伸びして頑張ってよく見せたいって、自然な感情だと思うけどね。
フツーに恋愛含む人付き合いしてたら自然とそうなると思うけどなあ
婚活は別なのかな?
あと今はリアルで体験しなくてもネットでいろんな言説に触れられるから
ネットを捨てよ町へ出よう
小6からずっとオタクグループにいるオタク女なんだけど、処女時代のオタク体験に特有の楽しさというのはあって、その後彼氏できて二次元オタク趣味どころか全趣味エネルギーを喪失した時期があって、その後エネルギーが復活したという変遷があった。
最初の彼氏ができたときは、恋愛に夢中になってオタクをやめたというパターンではなく、幻滅と軽い鬱みたいになって何もかもが楽しめなくなってしまった。セックスが全く気持ちよくなかったのと、前から自分がブスである自覚はあったけど本当にブスの貧乳で無価値なんだなって思えて同人誌やグッズ類を一回全部処分したし、ライト乗り鉄みたいな感じでいろいろなところに一人で出かける趣味も失ってしまった。消費も生産もあのときは完全に止まった。「生産エネルギーが凄い童貞に生産を続けさせるために童貞のままでいさせろ!」みたいな声があるけど、それはこういう理由なのかもしれないなと今でも思う。夢が壊れて読めないし書けない状態になることはあるんだなと思う。私が生産をやめて困る人は別にいないけど、その人の創作に依存している読者が大勢いる商業作家であればそういう干渉も起きるもんなのかなと思う。作家の感性に不可逆な変化が起きてほしくないと思うわなと。
別れたら恋愛・性のコンテンツとは無関係なところから趣味が復活してきて、これはこれという感じで徐々にフィクションも楽しめるようになってきた。その後、別の人と付き合ってセックス気持ちいいのかよ…となり、急に実写映画など二次元以外のコンテンツも楽しく感じられるようになってインプットの幅が広がって(これが個人的に一番デカい体験だった)、創作も寡作だけどまたできるようになった。支部でのブクマ数みたいなところでいうと前より数字出せるようになった。もちろん評価よりも自分が仕事・生活と両立できて適切な距離感でやっていけることが一番なんだけど。交流や、オフラインでの活動がかなり時間も金も溶かすので、そこが無くなっただけで他にも時間が使えるようになる。時間は有限だけど密度みたいなものはある。コンテンツなのかコミュニケーションなのかというのはトレードオフじゃないんだ、生産と消費もトレードオフじゃないんだ、インプットをたくさんすると「個性」を失って他者からの評価が減じるわけでもないんだ、というのを思う。そんなに単純なものではない。あと思えば自分のことを個性的だと思い込んでたときの自分って個性的だったのではなく、オタクのテンプレートに準じていたただの痛いアニメイトJCの延長だったのでは?むしろ類型的だったのでは?とも思う。
オタクはセックスが下手みたいなレッテルも意味がないんだよね。元彼も現夫もオタクだし、両方瘦せ型の眼鏡だから、「見た目の特徴で見分けろ」みたいなことには意味がない。違いをいうなら元彼の友達は彼女がいない人ばかりで、現夫の友達は彼女がいる人が多くて、年を重ねるうちに既婚者になっていった。そういう傾向が、今思えばあるなというくらい。見た目はまじで両方瘦せ型の眼鏡でしかない。とくに高収入とかでもない…むしろ元彼のほうが職業領域としては高収入職のルートに行ったのではないかと思う。追いかけてないけど。
元彼との交際中はメンタルデバフがかかってて何も楽しめないという感じだったし、あれを「現実で恋愛しているからフィクションが不要になってた」という解釈だけはマジでできない…フィクションは大事だし、現実に劣る存在というふうには思わない。低カーストのブスである現実の自分から逃れるためのフィクションという位置づけではなくなってからのほうが、むしろ商業という責任の生じる形でコンテンツ生産を担っている人々への敬意や感謝を持つようになった。そして今の夫と交際開始したことがバフなのかというと、バフとちょっと違って、経験値が上がったような感じがした。小中学生の頃は現実と切り離すためのオタク消費・生産であって相互の影響はないと思いたかったし強固にそう思っていたけど、今思うのは、現実の経験が「どういうコンテンツを好むか」という好みの部分にかなり影響を与える。実際にやったセックスをそのまま創作で晒したり友達をモデルにして作品に出すような行いはしてないけど、コンテンツから良さを感じとる幅が広がって多様な小説や映画などから影響を受けるようになって、インプットするコンテンツの幅と量が激増したからアウトプットも変わったという感じがする。あと経験っていうのは現実の恋愛やセックスだけじゃなくて、ほかの対人関係や仕事などの影響も結構な割合としてある。学生のころ部活で後輩を指導するような役割から逃げ回っていて、職場で後輩ができてついに「先輩」役から逃げられなくなって、案の定うまくいかないとかの経験もかなり大きかったように思う。
自分のダメさを思い知るとかも含め、人生経験があったほうがコンテンツの消費も生産も楽しい。私の場合はだけど、生産において評価の数字も前より出るようになった。ただ、それは好きな時に好きなだけ趣味の創作をして無料で公開するという一番責任の発生しない形のものでしかなく、安定性が要求される商業とは違うもの。また、人と付き合うことで鬱状態みたいになると全部にデバフかかって何も楽しくなくなるから人間関係はリスクではある。人を求めた結果、ホストやりりちゃんにハマってめちゃくちゃというケースもあるんだろう。結局、何の単純化もできない。
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0001 以下、5ちゃんねるからVIPがお送りします 2024/05/16(木) 06:14:29.430
それをせずに一番実現可能性が低い「嫌なやつを追い出す」という手段を選ぶのはなぜ?
ID:T/wbZonD0(1/2)
0002 以下、5ちゃんねるからVIPがお送りします 2024/05/16(木) 06:14:54.128
ID:T/wbZonD0(2/2)
0003 以下、5ちゃんねるからVIPがお送りします 2024/05/16(木) 06:17:08.778
ID:+Ng9+LwiM
0004 以下、5ちゃんねるからVIPがお送りします 2024/05/16(木) 06:20:43.285
相模原集団ストーカー広域組織犯罪シンジケート構成員は他に逃げ場がないやつも多いからな
「ターゲットは出てけー!」とならざるを得なくなってる
ID:
0005 以下、5ちゃんねるからVIPがお送りします 2024/05/16(木) 06:22:12.612
殺した方早い
続きです。
しかし、結果的に言うとマンガ部も違った。こんな言い方が正しくないのは分かっているが、みな意識が高すぎるのだ。真面目にマンガに取り組もうとしている人たちばかりだった
「人は経験したことだけしか描けない」という信念のもと、学外活動にも熱心だった。いろいろな経験を積むことで、その経験が作品に、キャラクターに深みを与えるのだと。マンガが好きだからマンガしか読んでない奴には面白いマンガは描けない。そう断言してはばからない人たちだった
しかし俺はその考えには否定的だった。なぜならエロは自由だからだ。エロく感じるなら現実など無視して良い。腹ボコも子宮姦も感度3千倍もリットル単位の精液も、どれも現実にはありえない。だがありえないからこそエロいのだ。現実に縛られずに自由に描けるからエロマンガやエロ同人はエロいのだ
そして俺は漫画家になりたいのではない。エロの二次創作がしたいだけだったのだ。そのためだけに絵を練習してきたのだ。男などは描きたくはないが、竿役がいないと始まらないので仕方なく練習した。毎回毎回異空間に閉じ込める訳にも行かないから、背景も勉強して練習した。もちろん女体もしっかり練習した。だがしかし、精緻な設定も重厚なストーリーも人生経験もエロ同人には必要ないし、そもそも俺にそんなものを生み出せるはずもない。生み出そうという気持ちすらない。俺にとって重要なのは、読子やまほろさんをんほおさせること。それだけだからだ
とはいえ先輩方の絵は上手かったし、デッサンの勉強会なども定期的に行われていて、同期で入ってきた部員も何人かいたので、しばらくはこのままでいいかと思い、部に残ることにした。表向きは俺も漫画家志望だということにして
マンガ部では定期的に部誌を発行しており、部員は全員それに載せる作品を描くことが義務だった。作品を落とすことは一度目はセーフだが二度目はペナルティ(部員全員に食事を奢る、部誌の印刷代を出すなど)を課すという厳しいものだった。なので落とす人はほとんどいなかった。が、これに毎回苦戦していたのが俺だ
だってそうだろう。自分が一から考えたマンガなど、俺は一度も描いたことがない。ストーリーがあるマンガも描いたことがない。だが見様見真似でコマを割ることを覚えたりと、マンガの形式を少しづつ学べたのは良かったと今でも思う
そうして大学生活や部活動にも慣れ始めた頃、ついに俺は念願を実行に移すことにした。そう、エロ同人作家としてデビューすることだ
いきなりコミケはハードルが高すぎるし、何よりもサークルの当落があるので、本ができても落選では意味がない。だからまずは手近なイベントにしようと俺は考えた。ネタとしてはやはり、当時人気だった「おねがい☆ティーチャー」が鉄板だと俺は予想した。印刷所も手配し、同期にも手伝ってもらって原稿も描き上げた。この同期は真面目でエロマンガやエロ同人などには良い感情は無かったが、それでもマンガであることには変わりはないと割り切って手伝ってくれた。マンガとして成立しているかもきちんとチェックしてくれた。コマ運びや大ゴマの使い方など、エロ絵しか描けない俺の絵を「マンガ」にしてくれたといっても過言ではない。ただ、俺が本当にやりたかったのがまさにエロ同人だったと知っていたら手伝ってはくれなかっただろう。そういう意味では騙したみたいで、今でも時々申し訳無さを感じる
そうして出来上がった俺の初のエロ同人誌は、自画自賛だがなかなかのものだったと今でも思う。もちろん今から見れば何もかもが荒削りだし、絵だって素人にしてはまぁまぁ、というレベルだ。当時と今とでは要求されるレベルが違うが、それを勘案すれば「まぁまぁ」だった(今基準ならクソ認定されるかもしれない)
そして結論から言うと、俺のこの初エロ同人誌は完売した。ビビって100部しか刷らなかったのを後悔した。初めてのイベント参加で、初めての本なんか売れるわけがない。そうネットでは言われていたので、100部というのもかなりの冒険だったのだけど、当時は最低ロットが100部からだったので仕方なかった。今のオンデマンド方式なら部数は自在だから、30部ぐらいにしていたかもしれない。それはともかくとして
初めてのエロ同人が完売したという事実に俺は喜びに打ち震えた。たった100部とは言え、初めての参加で初めての本だ。それの「完売」の勲章は何物にも代えがたい。今までの努力が認められた気がした。エロ同人作家として価値を認めてもらった気がした。子供の頃からなりたかったエロ同人作家に、いちおう俺はなれたのだ
そこから俺はイベントごとにコンスタントに新刊を出すようになっていった。この頃にはとらのあなが最大勢力で、信長書店やメッセサンオーといった同人を扱うショップも多くなってきた。一方で長年お世話になっていたLLパレスは悲しいことに規模を縮小していったが、こういうショップが勃興することで、俺は部数をどんどんと伸ばしていった。イベントで売れ残っても、その在庫をショップが引き受けてくれるのだから、スペースの限界まで持ち込めるのだ。100部から始まった俺の本の印刷部数が4桁後半になるのもあっという間だった。実家から離れて一人暮らしを始めたのもこの頃だった
一方で同人活動にかまけて、学業どころか大学生活が破綻するようになった俺は留年の危機を迎えていた。おまけに世は就職氷河期真っ只中である。だが俺はまったく気にしていなかった。この頃の俺は1000万円以上の収入をエロ同人から得ていたからだ。就職も卒業もする意味も理由も俺にはまったくなかった。が、親に懇願されたのもあって、卒業だけは一応しておくかと思って追試でどうにかなった。大学側の温情も多分にあってのギリギリ卒業だった
親からは就職をどうするのかと何度も問い詰められた。いまの状況ではまともな就職など出来ない。だからしばらくフリーターをやると言うと、それなりに納得していたようだった。エロ同人作家もフリーターも似たようなものだ。だから俺はここで本当の「エロ同人作家」になった。大学生のお遊びではない、本物になったのだ
さて、無事に大学も卒業して「職業、エロ同人作家」となった俺は、変わらずに活動を続けていた。好きなアニメやゲームを見ては妄想と股間を膨らませて、いかにこのキャラをアヘアヘ言わせるかだけを考えていた。清楚なタイプならギャップ萌えでダブルピースも悪くない。ロリロリでもアリだ。ちょうどこの頃はメスガキ分からせという概念も生まれつつあって、それに乗った俺は絶好調だった。少なくとも表面上は
だが、当時は分からなかったが実は俺はほんのりとスランプを感じていた。マンガの技術は桁違いに向上したし、画力だってプロと比べても遜色ないほどに腕を上げた。しかしやってることや描いてる内容は最初のデビューの作品から何も変わっていない。いや変えられなかったからだ。技術レベルは上がっても、「中身」は小学生レベルなのだ。小学生の描くバカみたいなマンガをプロが清書してるだけのようなものなのだ。誰を描いても、何を描いても「うんこ! おしっこ! ギャハハ!」だ。そういうものを延々と再生産しているという事実に気がついた時、俺はゾッとした。結局のところ、俺はエロ同人「作家」としては何も進歩も進化もしてないのではないか。そう思った
学生の頃、マンガ部の真面目な先輩たちが真面目にマンガを描いていたのを見て、意識が高くて違うなぁと思った。俺にはそんなものは不要だと考えた。エロ同人に必要なのは、一にも二にも画力とエロスだけだ。そう信じていたが、そうではなかった、エロとはそんな単純なものではない。…俺はそんな風に段々と思うようになっていった。エロスとは人間の真実を浮かび上がらせる深奥なる営みの一部なのだ、と。今頃になって先輩たちの「人は経験したことだけしか描けない」という言葉が俺の心をえぐるようになっていった
しかるに今のこの俺はどうだ。実際のセックスなど知らずに、小中学生の妄想をただ絵で表現しているだけの、エロスも人間も描いていないただ手先が器用なだけのバカなのではないか。小手先でエロい絵を描いてるからある程度評価されてるだけで、「作家」としての評価は下の下なのではないか
俺は「漫画家」になりたかった訳では無い。ただエロ同人作家でありさえすれば良かった。だがエロ同人作家であろうとするなら、同時に「漫画家」的な資質も要求されるのだということを、俺はようやく思い知った。エロいからというだけで、設定など無視してキャラにアヘ顔ダブルピースをさせるなど、そもそも作品を理解していないから出来ることだ。果たしてそれは二次エロとして正しいのか。エロ同人作家としてあるべき姿なのか。そんなことを突きつけられた気がした
今から思えばそれは事実だった。だが当時の俺に、その事実を受け入れ、飲み込む度量はなかった。なまじ売れていたからこそ、自分が真のエロ同人作家ではないという事実が受け入れられなかった。あれほど憧れたエロ同人作家として成功したというのが、すべて幻だった、勘違いだったなど受け入れられるはずがない
だから俺は、「本当のセックス」を知るためにまず風俗に行くことにした。実際のセックスを体験すれば、それが何らかの形でマンガにフィードバックできると考えたからだ。そのフィードバックを得られれば、俺は一つ上のエロ同人が描けるようになる。そう信じた。マンガ部の先輩たちが言っていた「人は経験したことだけしか描けない」という言葉に、今更のように俺はすがった
だが、「実際のセックス」は俺の求めたフィードバックもインスピレーションも、何も与えてはくれなかった。実際のセックスはさほど刺激的でもなく、快感という点でも右手に大きく劣るという有り様だった。しかし一つだけ大きな学びがあった。「セックスはいうほど気持ちよくはないが、しかし女の子とイチャイチャするのはたまらなく心地良い」のだ
話は少し前後するが、俺は外面が良いというのは何度も書いた。芸能人レベルのイケメンとまでは言わないが、雰囲気イケメンぐらいではあった。身長だって175センチあって、武道で鍛えてはいたので細マッチョだったから小中高と女子には受けは良かった。告白されたことも何度かある
でも俺はそれらを断った。なぜか? それは真実を知ることで幻想が壊れることが怖かったからだ。そして己の欲望をありのままにぶつければドン引きされるのが分かっていたからだ
俺とて子宮姦など現実にはできないことは知っているし、そんな長大なナニも持ち合わせてはいない。感度3千倍なら脱法ドラッグあたりなら何とかなるかもしれないが、それとてリスキーが過ぎる。なにより俺には妹がいると最初に書いたが、そのせいで「現実の女」に対する期待値などゼロだった。「人語を一応は解する邪悪な獣」である妹が俺の中では現実の若い女性のモデルケースだったので、そんなのの類似品と「お付き合い」など出来るはずがないし、したくもなかった。故に俺はセックスへの憧れ、期待を持ちつつも実行には至らなかった。現実の女子などは鬼神のごとく敬して遠ざけるのが最良なのだ
とはいえ性欲は人並み以上にあったので、ヤりたい気持ちは常にあった。ヤれそうなタイミングもあった。しかしエロ同人的な世界観を内面化している自分が、常識的なセックスで満足するとは思えなかったから踏みとどまれた
話を戻すと、いざ実際に現実の女子と致すと、なるほど予想の通りにさほど気持ちよくはなかった。全くの想像以下だった。しかし、事前事後に快感とは別の多幸感のごときが押し寄せてきたのだ。これは予想外、想定外だった。幸せホルモンがドバドバと脳内に分泌されている。セックスとは竿の快楽だと考えていた自分にとっては、これは盤外戦のような感覚だった
だがこの感覚をマンガにフィードバックはできない。竿役のおじさんや触手が多幸感を感じたというのをどう表現しどうエロに昇華できるというのか。悩み、迷走した結果、俺は今まで通りの路線で続けることにした
ところでこの頃、自身の迷走もあって売上はよくて現状維持、ネタによっては大きく落ちることもあった。かつて数千部を誇った発行部数も在庫として積まれるようになっていった。そして何度も言って恐縮だが、俺は外面はまぁまぁいい。高校生の頃からの習慣で、イベントには常にピシッとした装いで参加していた。それは落ち目になったこの時でも変わらなかった
後にどこかで聞いた話だが、腐女子などもイベント参加のために気合の入れた服や装いを用意するらしい。大事な同人イベントや敬愛するサークルのスペースに訪問するのに、勝負服を着ないでいつ着るのか、という文化があるらしい。俺の装いへのこだわりもそれに近い、と感じた。俺はエロ同人誌が好きだった。それが頒布されるイベントも好きだ。それへの、そこへの敬意として正装をする。それらに対して恥ずかしくない格好をする。もちろん自分なりの、ではあるけれど、それが「礼儀」なのだと俺は思う
そして迷走してはいたものの、まだある程度の売上があったこの頃、この俺のファンだと名乗る女性がサークルスペースに現れた
まだ続きます。。。
「サイゼリヤに行ったら会話が続かない」
圧倒的にここに尽きる。
初デートなんてお互い超絶緊張してるんだから会話するのも一苦労な訳よ。仕事の話や趣味の話をしても「へぇー……」で終わりがちじゃん。盛り上げるなんて簡単には出来ないじゃん。
だからこそ、普段は行かないようなちょっと良い店を選んで食ったこともないような料理を一緒に食べれば「なんだろうこれ?」とか「あ、美味しい!」とか「これ好き!」とか「うーん……」とか、『共通の話題→料理』状態にできるじゃん。食べてる料理の話題ってパーソナリティを明かす必要が少なくて、でも実感が伴った体験を共有出来るから初対面同士でも会話が盛り上がる空気をめちゃくちゃ作りやすいのよ。
それをさ、え、何サイゼリヤ?大体みんな行ったことあるし、どの料理も馴染みのある味してるよね。つまり料理を食べて盛り上がるキッカケは猛烈に作りづらい。初デートでサイゼリヤ選ぶ人ってそんなに自分の会話スキルに自信あるの?
実際に最新のAIを体験してみて、そのポテンシャルに驚かされました。このAI技術がどのように私たちの日常を変えていくのかについて、少しシェアしたいと思います。
まず、家庭での使い方ですが、スマートホームデバイスと連携することで、まるで映画のような生活が実現しています。例えば、音声アシスタントが朝のルーチンを完全にサポートしてくれるんです。目覚ましのセットからカーテンの開閉、さらにはその日の天気やニュースの読み上げまで、まさにパーソナルアシスタントそのもの。
また、仕事においても生産性が飛躍的に向上しました。ドキュメントの整理やメールの自動返信、さらには会議の議事録作成まで、このAIが驚くほど正確かつ迅速にこなしてくれます。特に、会議中の発言をリアルタイムで文字起こししてくれる機能には感動しました。
そして、エンターテイメントの分野でも大活躍。AIが個々の趣味や好みに合わせて映画や音楽を推薦してくれるので、もう選ぶ手間が省けます。さらに、AIが生成するコンテンツ(アートや音楽)も、クリエイティブな刺激を受けることができます。
このように、最新のAI技術は私たちの生活のあらゆる側面に革命をもたらしています。皆さんは最近、どのようなテクノロジーに驚かされましたか?ぜひ教えてください!
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4o凄い。まず文章量が凄い。長い小説書いてと指示して、ブツ切れにならず大量の文章が出力されることに感動。
今はリリースしたばかりのせいか露骨な表現の指示でも聞いてくれる。
しかし調子にのってどんどん細かくプレイを指示していくとお断りされてしまった。
今日の分の4o無料お試しトークンはすぐに使い切ってしまい、明日まで待ちきれず別のGoogleアカウントで新規登録して試す始末。
ハゲていない限り、人間は頭頂部から足の指先まで全身に毛が生えているわけだが、その中でも個人的に特に不快な毛は何か?と問われたら俺は即答でケツ毛と答える。
やたら太くてゴワゴワしてるくせに見えない場所に生えてて引っ掛かると痛いし、何より排便の時に極めて不快な思いをする。この不快な気持ちを感じる人が1人でも減るように、ホモサピエンスはケツ毛の毛根を消滅させる方向でぜひ進化して頂きたいものだが俺が生きてるうちにはどうしようもないのでこの前思い切って全部抜いてみた。
まず驚いたことに想像の3倍くらい抜くのが痛かった。ケツ毛に限らず抜け毛には根本に白い半透明の塊がくっついていることがあるが、ケツ毛の場合はそれの大きさが尋常ではない。通常の3倍くらいの太さ・長さを備えているのだ。それだけケツの皮膚深くに奴等は鎮座していることの証拠だろう、そりゃ抜く時めちゃくちゃ痛いわけだ。
で、ケツ穴の痛みに耐えながら就寝して起きてウンコしたら驚くなかれ、大便が今までにない勢いで華麗にアナルから発射されたではないか。
久々に味わった快便の喜びに激しく動揺しながら気持ちの良い朝日と共にコーヒーと朝食を摂り、久々のオフライン出勤に向けて気合いの屁をこくと、これも先の大便に呼応するかのようなキレの良いフレッシュな屁をかますことができた。
ケツ毛が無いだけでこれだけクオリティ・オブ・ライフが向上するものなのかと感動しながらいつもの通勤路を颯爽と歩き、最寄り駅のエスカレーターに足軽にステップ・インすると前にはロングヘアーのオフィスカジュアルな服装の女性がおり、腰のくびれから臀部に至る美しい曲線を描いたデカ尻が視界に入ってきた。
そのデカ尻をまじまじと見ているとふと一つの考えが頭に浮かんだ。世の女性はこの快適な肛門体験を何の苦労もなく毎日得ることができるのか、なんと羨ましいことか、と。
そして、この素晴らしい1日の始まりもケツ毛が再生するにつれ失われてゆくのだろうと考えると少し憂鬱な気持ちになり、他の表情筋の死んだサラリーマン達と共に朝の通勤電車の中に私は埋もれていく。
そして徐にスマホを取り出し、Apple musicを起動する。電車の不快な騒音を流行りの音楽とノイズキャンセリングでかき消しながらブラウザに文字を入力する。
「ケツ毛 脱毛 値段」
ほほう、時々耳にするVIOラインというのは正にこの不快な毛が集中しているエリアのことだったのか。スマホは正しく使えばいつも新しい知識を提供し、私を賢くしてくれる。人類文明と科学の進化に感謝しながら検索を続ける。こんな不快な付属物を抹消するためだけにそこそこの費用がかかるのは実に不愉快だが、別に払えない金額ではないということもわかる。だが気になるのは脱毛は痛いという経験者の心の叫びだ。
昨日の人力強制脱毛も相当痛かったが、この痛みを金を払って受けなきゃいけないと思うとなんとも気が進まない。しかし、ケツ毛がない事による爽快感はとても忘れられるものではない。
飲み屋でビール片手に、後輩に語りかける感じで話すよ。今日は、AIがどれだけプログラマーに影響を与えてるか、特にChatGPTについて話そうと思うんだ。
まず、ChatGPTってのはすごいよ。俺たちが昔必死に学んだことを、秒で答えちゃうんだから。でも、だからって俺たちプログラマーが完全に不要になるわけじゃないんだ。実際、ChatGPTが得意なのは単純で定型的なタスクなんだよ。例えば、基本的なデータ処理スクリプトとか、テンプレートベースのコード生成、単純なデバッグやエラーハンドリング、そしてドキュメント作成なんかはChatGPTに任せられる。
じゃあ、俺たちプログラマーの役割はどうなるかって?もっと高度な問題解決とか創造性が求められるようになるんだよ。複雑なシステムの設計や高度なアルゴリズムの開発は、やっぱり人間の得意分野だ。ChatGPTにはまだそこまでの理解力や創造性はないからね。
でも、これまでインターンやジュニアプログラマーがやってきた基本的な作業がChatGPTに取って代わられると、彼らが経験を積む場所がなくなるんじゃないかって心配もあるよな。これにはどう対処すればいいか?
まず、教育の場を再定義する必要がある。メンター制度を強化して、シニアプログラマーが直接ジュニアを指導するのがいいだろう。リアルなプロジェクトに参加させて、実際の問題解決を体験させるんだ。ChatGPTはサポートツールとして使えばいい。例えば、基礎的な質問にはChatGPTが答えて、シニアはより複雑な問題や高度な質問に対応する。
次に、ソフトスキルの育成も重要だ。チームでのコミュニケーション能力やコラボレーションスキルを磨く機会を増やすんだ。ペアプログラミングやコードレビューを通じて、実際に協力して問題を解決する力をつけることが大切だ。
それに加えて、高度な技術トレーニングも必要だ。オンラインコースや社内ワークショップを活用して、最新技術を学ぶ機会を提供するんだ。ジュニアプログラマーが自分で学び続ける意欲を持つようにサポートするんだよ。
シニアプログラマーやメンターには、新しいスキルセットが求められるようになる。技術的な専門知識はもちろん、教育能力やフィードバックの提供方法、対話スキル、プロジェクト管理能力、そしてモチベーションを高める力が必要になるんだ。俺たち自身も常に学び続け、適応し続ける必要がある。
だから、ChatGPTが登場したからといってプログラマーが不要になるわけじゃない。むしろ、俺たちの役割はさらに重要になる。AIと共存し、お互いの強みを活かしながら、より高度なスキルを身につけていく必要があるんだよ。
未来のプログラミングの姿は、AIと人間が協力し合うことで成り立つ。新しい技術を学び続け、常に自己研鑽を怠らずにいれば、どんな時代でも必要とされるプログラマーでいられるはずだ。AIをうまく活用しながら、俺たちの強みを最大限に発揮していこうぜ。
2024年5月11日(土)と5月12日(日)に、東海オンエアのりょうくんが新しくオープンしたケーキ屋さん「La Maison du R(ラ メゾン デュ アール)」へ行ったので記録します。
この記事は、りょうくんやお店、その他全てを批判する目的はありません。
(どこにこの文章を出すか悩んで結局匿名ダイアリーにアップしてしまうので批判感満載だけどそんなことはない!)
15時40分頃到着。テイクアウト待機列が2組ほど、イートイン待機列が5、6組ほど。20分ほど待ったところでスタッフの方が出てきて、
ことが案内される。最初から掲示されていれば並ばなかったのになぁと言いながら退店。
※スタッフの方が出てくる直前に売り切れたのでは、という意見もあるかと思うが、それにしても残りの商品数はかなり少ない状態だったのだろうから、状況の事前共有は出来たと思う。
※ちなみに在庫状況を知って列を抜けたのは当方のみだった。オタクにとって、イートインで店内に入れること自体に価値がある時期だからなぁ。
私は明日再チャレンジすることができるスケジュールだったので明日に期待して退店。
10時30分頃到着。前日の来店時にイートイン、テイクアウトで列が異なることを知っていたが、道路を挟んで向かいの歩道の列は1列しかなかったので最後尾に並ぶ。
途中でテイクアウト希望の人は列が違うことを警備員の方に案内される。この時点で歩道側列の2組目になる。店前に並ぶテイクアウト希望者と合わせても、10組+α程度だったと記憶している。
が、結果としてケーキを購入し店を後にしたのが13時20分。テイクアウトでも約3時間滞在したことになる。
今後お店を利用される方に強くお伝えしたいのは、【イートインは時間がかかるだろうから、せめてテイクアウトだけでもして帰ろう】はやめておいたほうがいい、ということ。
一般的なケーキ屋であれば、テイクアウトするために10組程度を待つ必要があったとしても、1時間もかからないのではと思う。それがオープン前に待機した30分を除いても、2時間30分かかっている。
イートインは前のお客さんが食べ終わるまで案内されないと分かっているので長期戦になる覚悟で並ぶと思うが、
テイクアウトはさっと買えるイメージで並ぶ方も多いのでは無いだろうか。そのイメージは捨てて、覚悟を持って並ぶことを勧める。
列に並んでいる間お店を見ていて、なぜこんなに時間がかかるのか、個人的に気になった点を以下に挙げる。
※あくまでも「個人的に気になった点」である。以下のような点が気になった時点で私はこの店の客層ではないのだろうと重々理解している。
オープン間際で情報が少ないこと、聖地巡りの1スポットとして訪れたい方が多くいるだろうこと(=次の予定に追われた状態で訪問する方も少なくないだろうこと)をふまえ、参考材料になればとの思いで記録しておく。
これ読んでる人に東海オンエアのオタクいるのかな。まぁ岡崎付近の民もぜひ参考にしてください。
の3名しかいないように見受けられた
同じように商品を選んでレジで会計してもらうことになる。(イートイン客は会計を済ませてから2階の席へ上がっていく)
(オープンのタイミングでも、変わらずイートイン・テイクアウト合わせて数組ずつの案内だったので、一般的に想像されるような「オープンと同時にイートイン客が席数分まとめて案内される」ことはない。
オープン後長い間イートイン席がガラガラ、列は大行列、という状態だった)
時間をかけた人がいればいるほど後の人の案内がダイレクトに遅れることになる(順々に店内に入ることができれば、悩んでいる人を抜いて会計列に並べるが、そういうことは出来ない)
(テイクアウト客は、イートイン客の合間に挟まれる形で案内されるというイメージがあっていると思う。
オープン直後も順々に席を埋めていく間に先の客が出ていくので次のイートイン客が案内される。イートインが埋まっている隙にテイクアウトフィーバー!はほぼ起きない)
仕組みを変えたり、そこまでせずとも混雑時は注文の取り方を工夫したり、今の状況を改善する方法はいくつもあるように思う。
けれど、このお店では【店内での体験をリッチで良いものにすること】に完全に比重を置いているのだろうと考えると、
混雑していない店内、1組ずつ丁寧な接客、洗練されたスタッフ、と、現状何も問題がないということなのだろう。
「店外の待機時間」はあくまでも客側の自由ということかな、と。待ってるのは客、そう言われるとそうでしかない。
私はテイクアウトを完全に舐めてかかったので、案内される頃には疲れ果ててしまっていた。
後の予定をずらしたこともあり、店内をゆったり見る暇も無かった(完全に見通し不足の私の責任です。)。
そんな事にならないよう、「La Maison du R(ラ メゾン デュ アール)」訪問と合わせて他の予定を組みたい方はぜひ、この投稿を参考にしていただければと思う。
まぁオタク同士で行けば並んでる間も楽しいし無問題。ファミリーで、とかは要注意。
(あえて書かせていただくと、子連れの方、妊婦の方へはもう少し落ち着いてからお店に行くことをおすすめする。待機列は立ちっぱなしで座るところもないため。)
最後に、味。
美味しすぎた。★5。(ちなみにバスク、ショコショコ、ブロンド食べました。衝撃的だったのはブロンド、また食べたいのはショコショコ。全部本当に美味しかった)
もう二度と行かないように書き散らす。
「リアル脱出ゲーム」と書けるのはここだけだ。
大筋は特定の部屋に閉じ込められ、謎を解かないと脱出できないというもの。
様々な状況やコラボ物などもあり最近は聞いたことのある人も多いんじゃないか。
自分は月に一回以上行く、いわゆる「謎クラ」だった。
成功率は5.6割ほど。コンテンツ全体を通して、成功できるのは参加者の
体感3割ほどなので、慣れもあるがそこそこ成功している方だとは思う。
難しいコンテンツの回を成功した時のあの感覚は、本当に良いものだと
思うので行ったことの無い方はぜひ味わってほしい。
そして、最近は全く謎解きを楽しめないどころか、行くのが怖い。
今も新作の告知を見るたび、行きたい気持ちと、
気持ちが湧いてくる。いや本当に行きたいけど嫌なんだよ。
自分でもなにいってんだこいつって思うけど聞いてほしい。
その際、ゲームによっては1チームの最大人数が決められている。
2人でチケットを買えば、現地で知らない誰かとランダムに組み合わされる。
中々社会人で予定を毎回合わせて行けるものでもない。中毒者以外は。
よって、自分はだいたいがソロ、もしくは妻と2人での参加になる。
まず現地のランダム組み合わせによってはそこで詰む。
聞かれるのだ。毎回悩む質問を。
「リアル脱出ゲームのご参加は何回目ですか?」と。
正直に答えれば、両手両足の指なんてものじゃないのだ。
でもそれを言ったとたん、【初心者と組まされるリスクが高まる】。
タスクが増えるのだ。たまったもんじゃない。成功率も普通に下がる。
一回の金額だって決して安くは無いのだ。映画2本分位するんだぞ?
初心者と組ませた割引くらいしてもバチは当たらないレベルの苦行になる。
これが行きたくなくなった理由の一つめ。コンテンツの敷居が低くなった結果、
お前が一人で解けばいいってものでもないんです。本当に。
謎解きの手も足りなけりゃ、謎を一人で抱えれば不満の種にもなる。
それでもまだ頭の良い初心者の方と当たれば救われる。
最大6人参加のゲームに、2人でそのまま放り込まれる事もあるのだ。
手が足りない! 頭も足りない! 時間も当然に足りない。
どうしようもないのだ。失敗した言い訳が出来たと思うしかない。
そして二つ目。
初心者と組まされるのが嫌、という話にも繋がってくるのだが、
成功を目指すあまり、謎解きの体験自体を純粋に楽しむことができなくなってしまった。
今回は失敗しないだろうか、ヒントはどこだ、同行者のレベルは…
そんなことばかり気にするようになってしまった。
今回の謎は何かな?と純粋に楽しんでいた、リアル脱出ゲームに行き始めた
頃が懐かしい。
そして何より成功して感じるものが、上に書いたような独特の感覚よりも
「安堵」なのだ。ああ失敗しなくてよかった、この公演は検索して
成功者が多かったし難易度も低かったし…云々。もう全然精神は脱出出来てない。
こっちだって、たまたま組んだ初心者に楽しんでほしくない訳ではないのだ。出来るなら脱出成功して、楽しい思い出を持ち帰ってほしい。また来て
だいたいの公演では、始まる前に席に案内されると、同行者同士の自己紹介が
始まる。そこで「経験者です」と自己紹介し、失敗した時のあの情けなさ。
たまたま組んだ方、グループで来た同行者を問わない。誰に対しても感じる
あの罪悪感こそ、成功至上主義へ押し上げた原因であり、あれを味わいたく
こんな無能感を金を払って味わう必要がどこにある?という話である。
3つ目。多分何処にでもある、リアル脱出ゲームに限ったものではない話。
無能感、と書いた続きにもなる。「本物」の話だ。
やばいのは初心者だけではない。稀に組む、「本物の熟練者」だ。
彼らは快刀乱麻を断つ勢いで謎を解き、余裕があれば取り組んでね、という
なんだこいつら…(ドン引き)
成功は勿論する。何なら制限時間に余裕もあり、一度きりの最終提出を
余裕をもって見直せるのだ。
成功としてカウントできない成功回なのだ。なぜかって働いてないから。
上の失敗と同様だ。比較して無能感を味わい、心は全く満足せずに帰路につく。
書いてて思ったけど本当にめんどくせぇなこいつ…
以上、長くなってしまったが、自分がリアル脱出ゲームを楽しめなくなった
もともとお酒が飲めない自分はソフトドリンクで粘っていたが,会話の内容がしんどすぎて2次会にはいかなかった。
飲み会に来ていた女性が,「友人から聞いた,その友人の友達や恋人のやばいエピソード」ばかり話していた。
聞いている間ずっと,「なんでこいつは,そんなやばい奴に脳のリソースを割けるんだろう」という感想が頭の中をずっと駆け巡っていた。
友人,同僚や上司,先生,親兄弟など,どうしても付き合わなければならない人間はいる。そんな人の愚痴が出るのは理解できる。
自分だって同僚との人間関係がうまくいかなくて親や友人に愚痴を聞いてもらったことがあるから,愚痴を言うのはわかる。
しかし,「友達から聞いた愚痴」をぶちまける意味が分からない。ぶちまけた時点で愚痴から悪口に代わっている。だいいち面白いと思って話しているのだろうか?
仮に自分が愚痴を聞いたとして,それをこういう風には他人に話せない。やばい奴のことを考えて,その話をしている時間が無駄すぎる。
やばい奴のことを考えている時間,代わりにすごい奴とかいい奴のことを考えたほうがよくないか?
自分はそう思っていたが場は盛り上がっていたので,おそらくこれが正解のコミュニケーションなんだろうな。
人づきあいが苦手で,友達は少ないし恋人もできたことはない自分の感覚はおそらく異質で,それがなんとなく悔しかった。
追記:
いろいろな反応をいただいてびっくりした。
お前も悪口をここで言っているじゃないか→その通りです。愚痴のつもりで吐き出したかったけど,これじゃ悪口ですね。申し訳ない。
お前の人づきあいが希薄で内容に共感できないから面白くない→確かに自分が共感できる趣味とかの話題は楽しく聞けるので,自分に足りてないのは人づきあいとそれに伴う不快な出来事なのでしょうね。
女は年齢次第だけど男は個体差がすべてだから本当に残酷すぎて可哀想になる
若い時にいい思いをしておばさんになったらモテなくなるみたいな共通体験がなくて、福山雅治や吉沢亮なのかチー牛なのかという個体差がすべてで男同士は徹底的に体験が分断されてる
チー牛は「性的価値100だった女が加齢で性的価値20になってざまあw」みたいな話題が好きだけどお前の価値は生涯通じて0なんよ
福山雅治や吉沢亮の価値は女性タレントのようには加齢で下がらないということに喜んでいるけど、ああいう男の価値は1000だから生涯通じて勝ち続けて、お前の価値は0かマイナスなんよ
最近の東京の5ちゃんねるでは、驚愕ばやりだが、数学の定理は、真実に対する深い愛情と研究とにおいて、驚愕的な体験によって、定理自体は、 出版されたときに驚愕されるので
その後は陳腐化すると書いていた。 だから、定理と言うものはそんなに大したものではないのだと思った。何で人間が定理を発見するのかは分からない。私が工場にいたときはただ
常識だから突然紙に書いたということで、当たり前のように発見した気がする。それに来して、技術上の驚愕的というのは、要するに、昔みつかっていた論法やものが、そこに突然出て来るという
内容のもので、だいぶんに難しいと思った。散々に問題を適切に追い詰めていって、出て来るべきところに激甚な方法によって出すというようなことではないかと思う。哲学ではそれを美しい技術
10年以上前、半ば無理やりに友人に池袋のキャバクラに連れて行かれたことがある。その時私の横についた女性は母子家庭の長女で弟が高校生という身の上だった。私が予備校講師だと聴いてその弟を大学に行かせたいけどどうしたらいいかというガチ相談になった。私もガチで弟さんの話を聴いてしまった。
結局私は自分の事はほぼ話さず、彼女の弟さんのこと、お母さんについての思い、将来自分は池袋等で終わらず銀座でトップをとりたいという将来の夢について語る彼女の話をじっくり聴き、それを肯定したり励ましたりすることに徹してしまった。これは職業病なのだろうか。
そのお店は時間ごとにぐるぐる女性がローテションするシステムで、次に来た子は大学になじめず体験入店で来ているということだった。また私はほとんど自分の事はしゃべらず地方から来たその子の東京になじめない話をじっくり聴くことに集中してしまった。自分も地方出身者だったからすぐ共感できた。
その二人の持ち時間が終わった時点で私の入店時間が終わり友人を置いて先に店を出た。二人の悩みや人生を真剣に聴いてしまって心理的に疲弊してしまったからだ。もうこれ以上はきつかった。面白かったのは二人ともローテションで移動する時「え?もう終わり?延長できない?」と言ってたこと。
延長はお客である私が求める事であって、接客者である彼女たちが要求する事は出来なかった。それでピンと来た。ああ、そうか。彼女たちはこの店で稼いで別の店で私ではないイケメン君達に話を聴いてもらってるんだ、と。だからつい「延長できない?」などという客の立場の言葉が出たのだ。
性的な欲求ももちろんだけど、むしろそれ以上に男女ともみんな「話を聴いて欲しい」「真剣に自分を見て欲しい」という切実な思いがあるのではないか。そういう風に思うようになった。そういう体験をして、キャバクラ等のお店がより一層苦手になった。行けばつい真剣に聴いてしまい疲弊してしまうから。
「私の話を聴いて分かって欲しい」という承認欲求と、単純な性的な欲求を、区別できる人と出来ない人が恐らくいる。それが出来ない人が男女ともおり、その発現の仕方で暴力的なストーカーや路上売春などの犯罪に走って推しに貢ぐ人になったりするのかもしれない。
https://twitter.com/HirMiura/status/1789307253000147002
この人、これを書いただけなのに「そんなのキャバ嬢の「若い女性の相談に乗ってあげてる気分になりたくてたまらないおじさん」に対する常套手段に決まってるじゃないか。何勘違いしてるんだよ。自分が相談に乗ってやって喜ばれてとるとでも思ってるのか」って叩かれていてかわいそう。本人悪意もないし、性的な欲求もないし、自省的だし、キャバ嬢が本当にそういう意図だったかどうかもわからないし、そもそもこの人はこれでキャバにのめり込むどころか嫌になってるのに、よってたかってここまで決めつけて蔑む必要があるのか。
こんなことで叩いてたらそれこそ世の中の男性はみな、キャバ嬢であろうがなかろうが、この女性は一見自分に相談してるように見えるけど何か意図があって自分の「相談に乗ってもらいたい欲」を刺激しようとして演技してるだけだからまともに取り合わないようにしよう、って思うだけになるのでは。
といっても、職場にいる従業員がカスハラ野郎ばっかという意味だけど(客にもカスハラ野郎多かったけど)。
ちなみにその職場はもう無い(俺がやめた直後に潰れた)。
興味深いのは、3人ともお互いを「カスハラ野郎だ」と認識し裏で悪口言うくせに自分のことはカスハラ野郎と思っていないことだ。
あと、カスハラ体験以外の「武勇伝」も多かった。「恋人と遊びに行くためにクレカのキャッシングを目一杯借りてリボを返せなくなった」とか「前の職場で出入りの業者にキックバックを要求」とか「若い頃は男のおごりで毎日ただ酒ただ飯」とか(これはもちろんケースAの人ね)。
俺はこの3人にこの手の「武勇伝」を聞かされるたびに「そうですかー…」と相づちを打って否定も肯定もしないようにしていた。
そんなのばっかの職場だったので、業務上の問題も多くカスハラじゃない普通のクレームも多かった。
仕事自体はぬるかったけど(クレームが多い以外)、教育困難校みたいな職場環境が嫌になり転職。慰留もなく簡単に退職できたのは、上の3人が俺の悪口を社長に言っていたから。
その後何回か転職はしたけど、そんな職場は後にも先にもそこだけだった。転職してしばらくして潰れたと聞いたときは「そりゃそうだ」としか思わんかった。
友人たちは家族を持って子供を産んでるか、バリバリ働いて輝かしい経歴を築いているが、自分はボロイワンルームでASMRを聴いて久し振りにときめくという体験をしている。仕事はしてるが見た目は非常に汚くて小太りで冴えない。ネットの弱者男性対女みたいなのからも外れているしょうもない人生を送ってる。
女向けのASMRなんてあるんだね。もう結婚とか無理だし、いかに迷惑をかけずに死ぬかを考えていて、(会社の定年になったら死のうかなあとか)恋愛とかも全くやる気がなく過ごしていたんだけど、YouTube流し見していたら好みの声のASMR流れて、本当に数年ぶりにときめきみたいなのを考えていたんだけど、でも他の人はリアルな人間と関係を築いているし、この音声の対象年齢ももっと若い人たちだし、マジで生きてる意味ないなってなっちゃった。東京でボロボロの服を着て髪がボサボサのやべーアラフォー独身女は生きる資格はない。少なくとも自分にはない。
もう早く死にたいね。