はてなキーワード: 存在とは
わかる
同人イベントに行く、映画を観に行く、店舗限定コラボグッズを買いに行く、サイン会に行く、原画展を見に行くとかどうしても外に出る必要がある時
周りが綺麗でコミュ力高そうな人ばかりだと私みたいな旧世代の底辺オタクは何となく居心地が悪いし
レポ漫画で「ほんとこのジャンル美人ばっかり!」とか言われると私の存在が認知されたら平均値を下げて迷惑になるから仲良くしちゃいけないんだなってなる
妻の義両親と親戚が、美男美女で高学歴で豊かな生活をしている。
俺の側はアル中の父親を筆頭に全員終わっている。収入の差なんて10分の1では収まらないかもしれない。
実家が太くて優しい両親に囲まれて、小学校から塾に通って、欲しいものは全部買ってもらえて、中学から当たり前に私立に入って大企業や医者になる。
すごいよな、親の怒号か静寂しか存在しない家庭で、一年に5冊本を買ってもらえれば良い方だった俺には到底わからない世界だよ。
お金のかからないラジオだけを楽しみに、やることなさすぎてチラシの裏にたくさん絵を描いていたのがいつの間にか手に職になって、親の暴力から逃げるために田舎を飛び出して自立した自分とは何一つ重なるところがない。
妻のことは好きだけど、義両親や親戚に歓迎されているという実感はひとつもない。そんな人たちと同じテーブルを囲まなくちゃいけないのが、いまわりと辛い。
中に集中席、という括りがあり、基本的にここは会話や会議参加などは避けるという運用になってる
会議の時には席を離れ、通話オッケーな場所に移動する必要がある
考えてみれば作業に集中してる人の邪魔にならないように、って当たり前だと思うんだけど
コロナ前の平机を一面に規則正しく並べた形状のオフィスでは、そういう配慮って皆無だった気がする
喋ったもん勝ち
おしゃべりするのが良いみたいな空気さえあった
どんなにくだらないプライベートの垂れ流しであっても、うるさいから静かに と言える表立ってのルールが存在しなかった
恐ろしいことだ
まあ、空気読まずに自身のプライベートの愚痴を周囲中に聞こえる声量で1時間平気で垂れ流していた人は、契約が切れたのか見かけなくなった
その人はプロジェクト初期メンバーとしてけっこうなポジションだったのに
再契約も多い現場で以降声がかからないのだから、迷惑していた人は多いんだろう
まあお喋りだけが原因ではないと思うけど
フェミ女性法曹は、本人はフェミニズムの存在に救われて、男が下手クソな家事調停員(同情演技)などで食えるとしても
平成30年6月26日に、稲泉健一は殺害されたし、それを支持する理由も、頭の中に存在しているが、悔しいから必死で頭の中から削除している。誰がそうかといったときに、
前田晴生 井上修二 盛伸社の横に座り込んでいた、水上周に似た、AIで働いてる糞 延岡のたかとし 石村智 武智舞子 永谷正男 とか
Z世代で顕著な思想、それは「何者かになりたい」という半ば強迫的な考えだ。
彼ら彼女らは生まれてからネット上で有名なYouTuberであったりインフルエンサーであったり
テレビ上の芸能人とは一味違う、「親近感を感じるのに、キラキラしている存在」にごく自然に触れている。
自分と年齢や環境は変わりないのに、楽しそうな刺激的な生活がひしひしと伝わってくる。
こういった点から、もしかしたら自分も「特別な」人間になれるのでは?と考える。
中には健全な学生生活、社会生活を手放してでもデジタルタトゥーを残してしまう若者がいるのは
思慮が浅いというよりは何者かになれるという、平凡な現実の中では大きすぎる名誉と快楽を追ってしての行動なのだろう。
普通の幸せであったり、日々の地味だが積み上げていく努力が軽視され(いわゆる近所のおじさん、おばさんが「つまらない」とされ)
上川外相の発言「うまずして何が女性か」だけど、メディアの取り上げ方がヘンだという、当たり前のことを、
生みの苦しみという比喩として昔から成立している表現を、まさしくそのような用法で発言しているにもかかわらず、マスコミは一体なんなんだ。
候補の当選によって新たな知事を誕生させたいとの思いがあったとみられるが、出産を願ってもできない人への配慮に欠けるとの指摘が出る可能性がある。
とても気になったのは「XXへのへの配慮に欠けるとの指摘が出る可能性」という表現。
こうして、「出産を願ってもできない人」というグループを示唆することで、それらが何かしら傷つきやすいメンタルを持っているという、配慮を要する人々としてイメージを固定してゆくのがとても気になる。
実際には、出産を願ってもできない人々というのは多様だ。みんないろんな事情があるんだよ。
単に適齢期を過ぎているだけとか、仕事と両立したいなどの理由で機会を逸している、とか、あるいはそもそもパートナーに出会えないなど、
要するに、ないものねだりをしている場合だってある。経済的な問題で躓いているひともいるはずだ。
じゃあ、逆に「出産を願ってもできない人」というカテゴリーにはそういう社会経済的弱者は入りませんよ、というのかね?
体や心の障害に起因して、ある意味、病理的な意味で、出産ができない人を指すのだと定義したりしてしまう?
そうすると、今度はむしろ、健常ならできるはずのことができない人々は悔しいと思っているに違いない、かわいそうだから、産むとかそんな言葉に触れさせないよう配慮が必要っていう、潜在意識がますます透けてくる。
でも心身の問題で出産できないというのを、自分にはいかんとしもしがたい宿命的なものして捉えた場合、
それって社会経済的な理由で出産できない場合と実際のところ、地続きだと思える。
例えば、親の介護など家庭の事情で適齢期を逃した人がいたとするよね。それってその人にとっては、自分の意思で選んだわけではなく、自分にはどうにもできなかった、そういう運命だったという意味では、病理的に出産できないという宿命とさほど変わらないようにも思うんだよね。
「出産を願ってもできない人」
産みの苦しみとかいう表現を嫌がるような、そういう配慮を要するグループがあたかも存在するかのように、それを空気のように記事するマスコミのほうが怖い。
障害者や病人ができなそうなことを比喩的にでも表現するのは彼らを傷つける行為だとする空気をまん延させることは、「そういうカテゴリーの人たちを可哀そうだと思うべきだ」とする社会規範を空気として押し付けてくることだ。
そこでは、知らず知らずに、どこまでが可哀そうなグループで、どこまでが身から出たさびとみなすグループなのかの選別が空気として形成される。
実際には、よくよく考えると、どこからどこまでが配慮を要する、などと到底割り切れるものではない。
そして、病理的な意味で出産ができない人に限定して、「出産を願ってもできない人」というイメージを作り上げるなら、それは差別的ですらある。
「出産を願ってもできない人」なんていうふわっとしたイメージは、そもそもそんなに必要かね?
これは、戦時中の、「兵隊さんご苦労さん」っていって兵隊を敬わせて銃後の守りを頑張らせようとするのと近い話で、マスコミは世間の空気をつくることができるのだから気を付けてもらいたい。
平成24年3月20日 これ(行政行為)は悪質で嘘で存在していない。 テクニックだ、 検事止める
平成26年7月盛夏 延岡市沖田町で200円であると言うこと。
平成27年8月 立花孝志によるNHK恫喝動画公開 「お前らぺちやないか!」
令和4年2月14日 キーポイントのおぺちと顔合わせ マイトピア徳丸に住めるかどうか
考えたこともなかったけど言われてみると死の恐怖が和らぐ気がする。
死の恐怖っていっても身体的な痛みへの不安とか夢が実現できない無念さとか色々あると思うけど、自分が死んでも宇宙が存在し続ける虚しさみたいなものもある気がする。
自分は宇宙の中心じゃなくてあくまでモブの一人ってことを受け入れさせられるような、尊厳が傷つけられる感覚。
この部分は宇宙も死ぬってことにしてしまえば、自分が死んだ後も宇宙は存在し続けたとしても、あくまで有限の時間って思えば早いか遅いかの問題だけで皆んな平等。
そもそも自分が死んでも宇宙は存在し続けるっていう前提が証明できないし、論理が破綻しているかもしれないけど、うっすらと納得感はある。
まさかとは思いますが、この「弱男」とは、あなたの想像上の存在にすぎないのではないでしょうか。 もしそうだとすれば、あなた自身が統合失調症であることにほぼ間違いないと思います。
このこと、ずっと誰かに話したかったけど誰にも話せず、匿名のここを使います。
私は今20代半ばの女です。
当時は「それ」を性的な感覚とは思わなかったが、大人になってから「多分あれが自分の性の目覚めだったな」と思う出来事を、男女問わず、小中学生の頃に多くの人が体験しているのではないでしょうか。
私の場合、それが所謂「ギエピー」つまり穴久保先生が描かれているポケモンの漫画だったという話です。
私の家には、兄がいたこともあってコロコロコミックや少年漫画が多くあり、私も幼少期楽しく読んでおりました。
恐らく、小学5年生くらいのことだった気がします、単行本1巻を読んでいた時のことです。
今漫画が手元にないので記憶を辿りながら書いておりますが、恐らく1巻の中で最後に載っている話に、レッドやピッピ達が、急に荒れた天気の雨宿りのために、ちょうど近くにあった不気味なお屋敷に立ち寄ります。(ググったところ、第7話っぽいです)
そこにはブルーという名前の少年が住んでおり、とても暗い性格で、ブルー関係のもので部屋が埋め尽くされています。(その中にブルーレット置くだけがあったのだけはなぜか鮮明に覚えています。)
そして、不気味なお屋敷のイメージ通り、そこでレッドやピッピ達はゴースなど、ゴーストタイプのポケモン達と戦うことになります。
私の性の目覚めとなったのは、次のシーンです。
ゴーストタイプのポケモン達は、エスパーを使ってピッピ達を操り、洗脳状態にします。
ピッピの目は正気を失い虚ろになり、ゴーストタイプのポケモンが「自分を攻撃しろ」と指示すると、「はいッピ」と言ってピッピは自分の頬を殴ります。
「正気に戻れ!」と声をかけるレッドに対しても攻撃をしようとしたりするなど、完全にゴーストタイプのポケモンの言いなりになっています。
信じられないかもしれませんが、ここなのです。
このシーンを初めて読んだ小学5年生の私は、なんだか胸がドキドキし、体がムズムズし、同時にフワフワ気持ち良い心地になりました。
なんだかイケないことをしている気分になり、リビングのソファから、漫画を持ったままトイレに移動し、該当のシーンのみを何回も何回も繰り返し読んでいました。
決して性的なシーンではないはずなのですが、「味方だった人が、敵に洗脳され、言いなりになり、味方である自分のことすら分からなくなり、攻撃してくる」というシチュエーションに興奮したのだと思います。
このシーンを読みながら自分の体を触ったりすることは一切なかったのですが、今思うと絶対に確実にあれが私の性の目覚めでした。
エロ漫画などでも「洗脳」というジャンルは存在しているかと思いますが、なんせ私が好きなのは、上記のような「味方が洗脳される」シチュエーションのため、エロ漫画等の洗脳は、それほど刺さらなかったりします。(人の性癖って複雑で難しいですね。)
多分自分より他人が洗脳されているのが好きなので、恋人が洗脳されるような、NTRの方が近しいかもしれません。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
誰かに話したくて話せなかった、私の性の目覚めの話でした。
ちなみに、同じ小学校高学年の時期に、ドラゴンボールも大好きで、よくTSUTAYAとかでドラゴンボールの映画?OVA?か何かもよく親に借りてもらって見ていたのですが、
その中でも上記ギエピーと同じような興奮を感じたシーンがあったと記憶しているのですが、いくらネットをググっても特定できず、何年も探しています。
リゾート地みたいなところで、悟空やその仲間たちがトランプとかしながらワイワイ遊んでいるのですが、敵が襲来し、多くの仲間が洗脳され、悟空達を攻撃してくる、というシーンがあった気がするのです…。
もしかすると性の目覚め直後に見た夢かもしれず、そんなものは存在していない可能性があるのですが、もし知っている方がいたら教えていただけますと幸いです!
まず反出生主義には、アンチ「出生主義」と、「アンチ出生」主義の2つがある。
そして日本語の「主義」という言葉自体に大まかに「国家や地域の運営方針」「個人もしくは集団の主張・思想」の2つがある。
の2つが存在するわけだ。
そしてこの2つも別に「子供を沢山増やすと国家がたち行かないぞ(一人っ子政策)」 「人間が存在していることが間違っている(ある主の原罪思想)」の2つだけという訳じゃない。
特に主張や思想は多岐に渡り「人生で得られる幸福を不幸が上回ってるから産まれてこない方がマシ」 「セックスはキモいからこんなことをするぐらいな滅んだほうがマシ」 「親ガチャ時代ガチャといった理不尽を子供が許容できる事前承認も得てないのに生命を作るな」 など個々人ごとの多様な考えが展開されている。
そしてこれがアンチ「出生主義」になると出生主義自体をどういうものとして捉えるのかについての議論が始まり更に状況は混沌とする。
なぜなら「出生主義」自体が上にあげた「アンチ出生」主義の様々なパターンを持っていうえに、それに対してアンチテーゼや対立政策を投げかける理由もそれぞれで違うからだ。
つまり、「A」を批判するために「B」を持ち出すという状況における、「A」「B」の中身がそれぞれいくらでも存在しており組み合わせ無限大状態なのだ。
「反出生主義」と一口に言ったときに、それが何を意味しているのかを整理しなければ全く別のものについて皆で議論することになるわけだ。
こんなのは「田中ってヤバいよな」といきなり語りだして、どの「田中」を指しているのかを誰も確かめることなく延々語り合うようなものだ。
話す内になんとなく「あれ?俺の考えてる田中と違うんじゃね?」と違和感を覚え、確かめてみたら結局全員が違う「田中」について愚痴や擁護をしあっていたという虚無空間が誕生する未来は確定事項とさえ言える。
マジで、何度でも言うが、「反出生主義について語りだすときに、その反出生主義の内訳を最初にちゃんと定義しないやつは相手にする価値のない馬鹿と断じてしまって問題ない」が現状だ。
たとえば少女漫画とかで作者が実は男だって言われて驚くのは小学生ぐらいじゃん?
なんで中学生ぐらいになると誰も驚かなくなるのかっていえば、男が作者だけど面白い少女漫画をいくつも知っていく内に作者の性別なんてどうでもいいってことを理解できるようになるから。
でも女の場合は「おいおい女なんかに出来るのかよ(笑)」と言われてしまう分野があちこちに存在する。
そこから逆転できるかどうかは個人の資質次第だけど、そこから逆転できずに脱落している人が経験則としてそこそこいるから「やっぱ女はな・・・」という知見が界隈に浸透していく。
「一部に優秀な女性もいる」っていうのは事実だけど、やっぱ平均として女よりも男の方が優秀なんだろうなと思うわけよ。
だって「男に出来るのかな?」なんて言われる業界なんてほとんどないじゃん。
「仕事ができるのは分かるけど、男性保育士が女児のオムツを変えるのはキモいから許せません。女の保育士が男児のオムツを変えるのはセーフです」と不当な差別を受けることはあっても。
やっぱね、どうしても性別としての平均点において男は優秀で女は微妙なんですよ。
暗記勉強とか家事みたいな簡単なことだったら男と同じように出来ても、ちょっと複雑なこと、それこそ車の運転程度のことをやらせるだけでも男女の絶望的な差が顔を見せてくるんだよね。
でも仕方ないと思う。
無能な男は簡単には恋人も作れないし、結婚して子供を持つのも難しいから、遺伝子レベルで優秀な男が残りやすい。
でも女の場合は能力が低くても顔がまともならずっと簡単に結婚できる。
もしも男の染色体がYYで、女がXXだったら、この淘汰はもっとずっと大きなものになっただろうね。
男も半分だけXYだから結果として、顔がいいだけで子供が作れた無能な女の遺伝子が半分入ってしまったことで、男女の差はそこまで大きくないんだと思うわけよ。
トレーダーを仕事にしていると、個々人がそれぞれのロジックで相場に挑むことになる。
同じ相場に対して、ある人は勝ち、ある人は負ける。
同じフロアで同時に勝ち負けが確定し、利益を上げたものが勝者、失ったものが敗者。数字の前に言い訳はできない。
そんな風景を目にしてゼロサムゲームに挑んでいると、ある種の因果応報、運というものが存在していて、ツキを掴むか、逃すかというのがリアルな感覚として存在するようになる。
信心深くなり、勝った時に行っていた行動をルーティンとして毎日行ったり、勝った時には同僚に酒を奢ったりするようになる。運を呼び寄せるために。
githubでなにか作ったものをアップロードするのは、自分向きではないことに気がついた。
私が仕事で作っているようなwebアプリケーションというのは、誰でも使える一般性の高いものではなく、もっと特定のビジネスに依存した特殊なものである。
だから一般的な誰でも使えるようなものを作るというのにはあまり慣れていないのだ。
なにか作る場合はkaggleのほうが遊び場として向いていると思っている。
kaggleで「コンペ」に参加するつもりはないし、あれはBERTが出現したぐらいからは、少なくともNLP(自然言語処理)界隈は不毛な場となってしまった。
指標があれば不毛なハックがある。それが現実というものである。
それに業務で実用レベルで使えるモデルというのは、もっと運用のしやすいシンプルなモデルである。
モンスターアンサンブルで精度がSOTAでーすピロローン!なんてことには興味がないが、コンペはそれを目指している。
ではなぜkaggleが良いかと言うと、データセットが転がっていて、notebookも簡単に作成できるからである。
「このデータをこうやって使うとこういうツールが作れる」「このデータをこうやって分析するとこういう知見が得られる」というのは、「web開発用のMVCフレームワークを作ります」よりも具体性がある。
そして特定のデータに対するモデリングをするために論文を調べるようなことになった場合は、勉強にもなる。
私は昔、自然言語処理のブログを書いていたが、実験したことのコードを載せるタイプの記事が多かった。
ところが自称データサイエンティストや自称NLPエンジニアがツイッター上で「ゴミのようなブログを書くな」と言っていて、自分が言われている気がして怖くなったのでブログを閉鎖した。
そういう「政治おじさん」との接触を最大限減らすには、ブログというフォーマットではダメだと思うわけである。
私のマグカップには"Talk is cheap, show me the code."と書かれている。
これはリーナストーバルズの名言だが、政治おじさんが近寄らない場所というのは、具体的なコードが存在する場所であると言えよう。