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2024-05-13

最も過大評価されている作家三島由紀夫

三島由紀夫日本代表する文豪憂国の士といわれるが、過大評価され過ぎだと思い、所感を書いておく。

駄作が多すぎる

三島由紀夫はかなり多作作家で、小説戯曲だけでおそらく200作を超える。

新潮社三島由紀夫全集バカデカサイズの全42巻からなり、通読した人間三島専門家くらいだろう…専門家すら怪しいが。

なぜならあまりにしょーもない作品が多すぎるから

三島由紀夫といえば金閣寺。少し落ちるものとしては仮面の告白潮騒美徳のよろめき鏡子の家憂国豊饒の海がある。

しかし他の95%の作品・・・

私は三島由紀夫が好きで、小説だけでなく戯曲を含めて結構読んでいる方だと自認しているが、若者がつまら観念を語るだけの作品、あまり紋切り型恋愛作品が多すぎて、読むのが時間無駄苦痛だ。

打率の低さは擁護しきれないほどである

三島由紀夫vs東大全共闘

2021年に『三島由紀夫vs東大全共闘』という映画が公開された。三島由紀夫 = 憂国の士という共通認識を前提とした筋書きのようだ。

しかし当時(1969年)の共通認識は「ややこしい人がクビを突っ込んだな」である

当時の三島由紀夫はボディービルディングに熱中したり、鍛えた裸を披露するために自分映画写真集作ってみたりと、脇道にそれる活動が多く、作家としての存在感が薄らいでいた。

それどころかいい年したおじさんなのにUFO超能力の探求にハマったり、ハタチそこそこの若者を誘って私兵部隊を結成したり(後に市ヶ谷駐屯地突入した楯の会である)と、お騒がせキャラクター確立していた。

まりUFO超能力に興味があり、自分映画写真集をつくり、若者を集めて軍事訓練を積ませている40過ぎのおじさんが、ソ連マルクス主義の嵐が吹きすさぶ東大に入って論戦しようというのであるいくらなんでもツッコミどころが多すぎるよ。

当時は同性愛天皇礼賛主義への偏見が強かったこともマイナスイメージ形成しており、三島由紀夫は"へんなおじさん"であった。

楯の会事件

散々語られていることだが計画性がなさすぎる。拡声器すら用意していなかったとは…。

社会思想を訴えることについて、本気度・想像力が足りない。

偉い人を人質にとって吠えれば自衛隊が動くと思ったのだろうか。組織とはそのような属人的ものではない。

ずさんな計画のわりに、割腹自殺の準備だけはキッチリしていたらしいが。

派手に割腹たかっただけでしょ。割と当たっていると思う。三島由紀夫エッセイ映像インタビューで度々語っているお気に入りエピソードに、終戦の日に夏の静かな日差しを見ていると自分は"生き残ってしまった、後に残されてしまった"という強い感覚を持ち、それ以来死に場所を探しているという話があり、その"死に場所"を選んだということなのだろう。

三島自己満足に付き合って死んだ若者たちが可愛そうだ…。

最後

三島由紀夫エッセイストとして優秀だとおもう。"高貴なる野蛮人たれ"という言葉を残した。上品で、教養があり、裕福な人間一見洗練されているようではあるが、実は個性がなく退屈で、柔順で、脆弱人間なのである種の誇り高き野蛮さを備えておくべきだという三島由紀夫の主張。この主張は私の人生の指針にもなってきた。

ただ文豪憂国の士というのは過大評価であり、観念に引きこもるあまり最期は周りに迷惑をかけて死んだへんてこ作家、くらいが妥当評価だと思う。

2024-05-12

詩とか俳句短歌について思うことメモ

もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事書類ばかりとなった昨今。

でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。

書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。

まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。

頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初感想だった。普通に文章だったからだ。

調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで

「韻」という言葉もその時初めて知った。

井上靖詩集を手に取ったのは、国語教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。

というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初詩集だった。

小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。

季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなもの短歌俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。

特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉ニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。


井上靖の詩のなかに

幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。

自分世界表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。

例えば、雪という詩がある。


 ―― 雪が降って来た。

 ―― 鉛筆の字が濃くなった。

 こういう二行の少年の詩を読んだことがある。

 十何年も昔のこと、『キリン』という童詩雑誌

 みつけた詩だ。雪が降って来ると、

 私はいつもこの詩のことを思い出す。

 ああ、いま、小学校教室という教室で、

 子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。

 この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。

 勤勉、真摯調和

 そんなものともどこかで関係を持っている。

井上靖詩集運河」より

中学生の私は、なるほどと思った。

詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉なかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。

鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。

井上靖の次に手に取った詩集もよく覚えている。

武者小路実篤だった。やぱり散文詩だった。

当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。

いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。


ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。

山頭火面白い普通俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。

定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌エントリーポイントとなって、

新聞の俳壇や短歌欄に時々目をやるようになった。

いわばお勝手からこっそり入門したような形だ。

しか俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。

いつしか手にしていたのは、興津要解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。

剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。

エロい川柳結構好きだった。今でいうサブカルチャーだ。

その後は巴毎晩組み敷かれ

木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代川柳妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい

一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。

俵万智サラダ記念日ベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。

例えば、こんな一首。

わが胸にリンチに死にし友らいて雪折れの枝叫び居るなり

あさま山荘事件を起こした連合赤軍幹部坂口弘収監中の東京拘置所から毎週のように短歌朝日歌壇投稿していた頃だ。

朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。

そして渡辺松男太田美和が常連投稿者として名を連ねていた。

風花って知っています

さよならも言わず別れた陸橋の上

渡辺松男太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇リアルにみていた人にしかからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱発酵すると詠んだりする太田美和。

生活で恋をしていた私は太田美和の言葉自分を重ね合わせた。


でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。

大学卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。

生活が一変した。

書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。

購読紙も朝日新聞から日経新聞に代わり、東洋経済となった。

世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。

山頭火武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接資格だ!という日々。

就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。

たまに思い出しては、現代短歌最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。

若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。


それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。

そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。

思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。

中年になっていいかげん自分限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。

ふと思い出すのが、最初に買った井上靖詩集

 ―― 雪が降って来た。

 ―― 鉛筆の字が濃くなった。

この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖感覚がとてもよくわかるようになった。


これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。

詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。

どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。

鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯子供の姿を思い浮かべる、という

文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワイン食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。

ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種ビンテージ気候土壌などさまざまな情報がある。

しかワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのとき話題、体調などに大きく左右される。

だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。

マリアージュという言葉があるように、ワイン一種調味料として機能するため、食べ合わせ重要だ。

またワインプロファイル情報あるかないかも味を左右する。

ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見ワインしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。

逆に偽の情報表現かに補完してしまえば、コンビニ販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。

ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的規律として表現することはできない。

詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。

井上靖が「小学校教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。

その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。

どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときメンタル、いわば偶然の力だと思う。

渡辺松男太田美和が並んで歌壇掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。

失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会

先ほど、卒業してから詩どころではなくなったと書いた。

そのとき自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。


ところで、先日、Yahoo芸能ニュースをみていたら、TBSプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人俳句先生から5点と酷評されたと報じていた。

お題は「文房具」で彼女が読んだのは

消しゴムが 白き水面に ボウフラを

というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。

ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人俳句酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組演出脚本としてはそれがオチなのだろう。

演出もさることながら、これは、他の出演者俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。

迎え梅雨 紙端に滲む 友の文字

虹の下 クレヨンの箱 踊り出す

天王山 黒ずむ袖に 薄暑光

薫風や 隣の君と 教科書

こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。

バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージ作品クオリティが補完されてしまうのだ。

しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。

消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月番組文房具からまだ気持ちフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。

ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。

それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。

いかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。

一方で白い水面(ノート隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。

ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。

と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ

ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。

また、どんくさいもの弱者がボウフラというノート上のより小さい存在視線フォーカスする、という手法小林一茶方法とも通じるところがある。

番組の評者は、この芸人俳句酷評したうえ、次のような添削をしたという。

しかすはボウフラみたい夏休み

夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。

しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組からね。

ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界一種ルッキズムだ。夏休みかいって勝手おめかしさせようとするんじゃねーよ。

そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつ動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語川柳で身につけたものだろうからゆりやん一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。

300円でおいしく飲めるワインもあれば、駄作でも楽しめる作品もある。そういうことだと思う。

2024-05-11

ネトフリ版TPぼん

期待してたのだが面白く無いぞ。

キャラの絵も動きも安っぽいし、話の展開も間延びしてるし。

無理して原作に寄せずに現代的なキャラとノリで再構成した方が良かったのでは。

にしてもこのアニメ大国日本がネトフリでアニメ作るとほぼ駄作になるのなんでなんだろうか。

2024-05-07

AI否定派ってなんで全部AIで完結させる前提なんだろ

人が見て調整するとか考えないの?

2024-04-17

anond:20240415174914

観る。1期以外は全部駄作だな……と思ってもそれでもキャラに罪はないので見続けてる。いつかまた面白い期も来るかもしれないし。

2024-04-16

anond:20240415174914

大体の駄作には耐えてきたけど「どうする家康」は苦痛すぎて無理だったわ

2024-04-10

富野監督の何が凄いと思ってるの?

追記:今さら反応があって驚いたけど

やっぱり評価してるのは大昔の功績なんだね

今も創作者として色々答えたり、創ったりしてるのに

最近作品評価に値しないんだね(そもそも興味なくて観てないのかな?)って感じ

現在クリエイターなのにね

 

 

そもそもガンダムSEEDの映画ガンダム史上一番でヒットしてるけど

50億いくかいかないかどうかくらいなんだよね

から始まったハイキューに追い越されてるし

近年のアニメ大ヒット状態においてはそこまでパッとしない

なんで誰もが聞いたことがあるロボットアニメガンダムの評判のいい映画がそんな程度なんだろう?

館数が原因とかでも同様の疑問があるなんでガンダムがそんな程度なんだろう?

劇場版ガンダムとか逆襲のシャア金曜ロードショーではやることなどありえないと思ってる横で

ジブリはまたこれかと思られるくらい何度も放送される

 

でもガンダムにはガンプラがあるからとこういう事言うと返ってくるんだ

実際その通りなんだと思うけど

富野監督ガンダムガンプラはパッとしないよね

最新作と言ってもかなり前だけどGのレコンギスタガンプラって

ほとんど見ない、なんなら∀ガンダム

何故かってアニメがヒットしなかったからだろう

TVアニメ映画も5つもあるけどヒットしなかった

そんなヒットしてなかったガンダムプラモよりそりゃあ他の作るよね

 

あれ?ガンダム人気の足手まとい?と思ったし

他のTVシリーズ夕方放送してたのにGのレコンギスタは深夜帯

映画の方も宣伝なんてほとんど見なかった

あれ?そもそもしろ冷遇されてるのか?

 

ともかくここ数十年ヒット作なんて作ってない監督

コメントだけ聞いてキャッキャ流石キャッキャと話題にしてどうするんだ

観たのか作品を?その上でヒットしない駄作自分で思ったのか?

なのに偉大な監督扱いしてるのか?なんなんだ?

2024-04-05

天才とは災いであ

その増田文章は散文的であり、詩のようでもあった。

その増田文章はあまりに乱雑で、優雅で、情緒にあふれ、まるで熟語ことわざのように、ある言葉の並びがそれによって別の意味になるよう自然に仕向けられていた。

その増田文章日本語で書かれていながら他の言語と呼べる可能性を秘めていた。

増田はこの増田を目にして一読すると、非常に苛々した。

胃はムカムカし始め、目は充血し、その増田のことを少しでも思えば気分が重くなり今にも憎み出すほどだった。

増田怒髪天になりながらも心の底では気が付いてた。

自分では決してこの文章を書くことはできないだろう。

増田無自覚を装いながら激しくいきり立った。

そして「くだらない」とその文章を一蹴する。駄作だ。ブクマだって0じゃないか

こんな文章の何処がいい?腐ってるよ。糞文。駄文ブクマが0なのがその証明だ。

増田は気を落ち着かせようと俗な投稿に目を向けた。雑多にブクマを集めている注目エントリに目を向ける。

そこに書かれていることは日常のことであり、自分自分のままで共感することも説教することも出来た。

そして同情することもでき、自分にも書ける内容であることに気づくと増田はこの増田のことを好きになった。

そしてブクマをつける。ブクマは周りからも集っていき、その増田はどんどんブクマを集めて注目される。

自分の目に狂いはなかったのだなと増田自分のことのようにブクマが増えていくのを喜んだ。

ブクマがたくさん集まった増田は内容が平易で、世間的で、同情やら共感などの感情を呼び易く、説教用の隙間を開けてある。

そして、ブクマが0のその増田の内容はまさに耽美的で、素晴らしく、言葉から作られたのではなくそ文章のものから言葉が作られているような響きがあった。

文盲はその素晴らしさに気付けず、目利きはそれに対して激しい憤りと憎しみを持って出迎え、誰の手からブクマがつくようなことは決して起きない。

今日もまた皆が理解することが出来る調和の取れた増田が壇上に上がり、歓声と共にブクマを集め続ける。

それは決して悪いことではない。世の理とはそのようなものだ。

あなたは惑わされず、増田投稿を続ける。

自分の思いの丈を綴る。迎合するものを書こうとしないのではない、それは呼吸なのだ

あなた生命をそのまま文字に描き起こす。

あなたはそうして増田投稿をする。

その増田ブクマは0で、それが1になることは決してない。

しかし忘れないでほしい。

あなた増田は、そういった類の増田かもしれないのだということを。

2024-04-04

厄介オタク代表例と言えば、アニオタ、ゲーオタ、鉄オタ、ドルオタみたいな感じだけど、暦オタも大概鬱陶しいと思う

時代劇ものとか読んでるっ言ったら、あれは時代考証がーとか、本当の〇〇はーとかみたいなことを聞いてもないのに早口で語り出す

そんなん知っとるわボケ、知ったうえで創作として楽しんでんじゃって言っても、

歴史的事実を知ってればそんな駄作を楽しめるはずがない、楽しいと思えるのは歴史メクラだからって断言するし

あー、思い出したらむかついてきた

歴史書の角で頭打って死んでたりしないか

2024-04-01

anond:20240401163251

それは言えてる

ロボットアニメなのはただの皮被りだったな…

剥いたら駄作だった…

2024-03-28

森とか二階って田中角栄の悪いところだけ真似した小物だったなという印象

小技は上手いんだろうけど国益に繋げられない駄作

2024-03-21

ファイナルファンタジー16の評価音楽が一体となるべき

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/chumatsu/n/nf7465e239c20

このnoteエントリー自体個人の感想なので特段言及するつもりはないんだけど、久々にはてブFF16の話題が上がってたので思わず書きたくなった。

ちなみに私自身はFFシリーズと同い年、11と14も含めてすべてプレイ済み。

さすがにスクエニの大作ということもあり、発売前後メディアによるレビューもにぎわった。

FF16がリリースされて1年近く経ち、ユーザー評価も一通り出た感はある。

駄作ではないがゲームとしてみると面白味にかける』

ストーリーが浅い』

一理無いとも言えない。

が、私としてはほとんどのレビュー評価において欠けている要素があると感じる。

それはサウンドトラックに関する言及であるFF16は音楽ありき。

とても良いなんてレベルではなく、FF16は音楽がセットとなって評価されてこそ初めてトータルの評価ができると思っている。

思うに、音楽言及されずに評価されるFF16なんてオペラなのに音楽について語られないも同然。

個人的にはFF16の評価のうち3割は音楽が占めているといってもいいくらい。

ゲームにおける音楽空気雰囲気表現する手段としていまだに最重要要素と思っている。

グラフィックス技術の発達によって視覚情報情報量がかなり増えたが、

ゲームにおいてディスプレイを超えてプレイヤーが存在している現実空間に直接干渉してくる要素は、いまだに音楽だけなのです。

まぁ私は長いこと音楽をやっているので、平均よりは音楽過大評価しているかもしれない。

でも、もともとFFコンポーザー植松伸夫時代から、ほかのゲーム比較しても音楽評価されてきたことを考えると

音楽重要性は高いと思いませんか?(デベロッパーにとっても重大事だったと思う)

FF16におけるゲームとの一体感や没入感、プレイ体験への寄与度は桁違いで

今でも名曲が多いとされている植松伸夫時代ハードウェア限界もあった)を超えて、ゲーム音楽の一つの到達点だとさえ感じている。

FFユーザーって音楽好きな人多いですよね?

からこそ、ゲーム音楽コンサートは数あれどこんなユーザー参加型イベントが成立するなんてFFくらいじゃん。

https://www.jp.square-enix.com/music/sem/page/brabraff/portal/

音楽ゲーム評価につながらない勢も多いとは思うんだけど、

ことFF16はやっぱりサウンドトラックをおまけとしてはとらえたくないんだよな。

FFシリーズ特に重要ととらえられているグラフィックスと同等に音楽も素晴らしい。

まりありがとう祖堅正慶、そして石川大樹、今村貴文。

2024-03-18

映画エンドロール確認するべきところ

声優俳優

アニメ場合特に声優陣をよく見てると

「え、あの声ってこの人だったの?」

っていうのがよくある

別に声優じゃなくて普通俳優とかお笑い芸人とかが出てきたりして面白い

あと、「この犬の声はこの声優だったんか」みたいなのも見つけられる

俳優についても

「途中ででてきたあの人、格好良かった・可愛かったな」

という人の名前をチェックできる

ちなみに「特別出演」は「この人は脇役で出てるけど俳優としてのクラスは主演だから脇役なんかで使える人じゃないからな!」という意味

友情出演」は「この人、この作品が凄い好きらしくてノーギャラで出てくれました。マジ感謝」の意味

主題歌挿入歌音楽担当

主題歌挿入歌歌手作詞作曲あたりをチェックする

「これもAyase/Vaundy/米津が作ったんかよ」

みたいな発見がある

あと映画の出来は音楽に左右されるところが大きいので

良かった映画音楽系を誰がやったかチェックするとよい

協力自治体確認

聖地巡礼のためにどこの自治体が協力していたか確認する

わざわざ行かなくても、出張旅行たまたま行ったとき

「そういやあの映画舞台ってこの辺だったな」

と思い出して、軽く聖地巡礼できる

監督がどこまでやったか確認

総監督」としてしか名前が出てこない場合は「名前貸しただけで何もやってません」に等しい

監督名前がどのくらい出てくるかで映画としてどこまで関与していたかが分かる

良作・駄作のどちらであってもこの辺をしっかり確認して

今後の映画のハズレ回避に使える

ハリウッド映画場合

俳優だけ確認したらあとは特に見るところが無いのでさっさと出て良い

anond:20240317222158

2024-03-15

最近なんでもかんでも原作至上主義流行ってるけどさ

「アーヤと魔女」見てそれは間違いだと思ったわ

いやまあ自分原作者意見一定程度尊重されるべきだとは思ってるけどさ

原作通りに作って打ち切りみたいなとんでもない駄作を作るくらいなら、ちゃんと手を入れて曲がりなりにも完成したものを客に出すべきだわ

2024-03-13

anond:20240313100650

10分見て"面白くないな"と感じるアニメ自分には向いていない

駄作かどうかはその基準だけでは分からないが、少なくとも向いていないことだけは確実

切り替えていけ

2024-03-12

anond:20240312175603

正直今回オススメされて初めて見たけど、音楽戦闘シーンが良いだけの駄作って感じにしか思えなかった・・・

ガノタ的には感動の名作扱いなのかなぁアレ。

俺はなんとなくで劇場版とかからざっくばらんに見てるからよくわからんかったわ。

2024-03-11

ゴジラ-1』はよかったけど山崎貴アカデミー賞受賞はモヤモヤする

いや、作品はよかったよ

シン・ゴジラよりもこっちの方が外国人には評判いいのもわかる

でも、その良さって、今までの山崎貴作品の良かったところを寄せ集めたものなんだよね

ALWAYS』の昭和の町並み、『永遠の0』の戦争描写、『アルキメデス大戦』の海洋描写って感じでさ

で、はっきり言っちゃうとこれらは駄作なんだよね

積み上がった駄作のなかで、唯一良かったところを寄せ集めたのが『ゴジラ-1』なわけ

ゴジラ-1』のためにたくさんの駄作が作られて、たくさんの原作台無しにされたわけ

そういう作り方ってどうなの?って思わない?

お前らどう思う?

2024-03-07

BWのリメイク成功しても失敗しても、DPの地縛霊は成仏できません

成功→じゃあなんでDPはあんバグだらけ手抜き移植をしたんだ?ベタ移植しかできない外注任せにしたんだ?

赤緑金銀RSとBWは名作リメイクになったのに、DPだけアレだよな?DPだけ汚されたままだよな?返せよ俺の青春、俺の少年時代の思い出を

失敗→また思い出を破壊したな?名作を壊したな?愛のないリメイク駄作にしたな?

今後リメイクの期待は一切できないな?お前たちへの信用はもう無いぞ、許さないからな

どう転んでも、DPの亡霊は成仏不能です。

地縛霊、怨霊になりました。ポケモンからダークギャザリングジャンル変更されました。

あなたたちのせいです。

2024-03-05

anond:20240305145320

洋ドラは何でも見る、とかい人間に、「お前にはこれが合うだろう」とかい意識で勧めることは一周回って悪手だと俺は思う。 

そいつには、見る目が十分にあるからだ。

良い作品を良いといい、駄作駄作といい、not for meなだけならそれは駄作区別するだろう。

 

からなんつーか、シンプルに評判がいいやつ、ランキングが上のやつを見せればいいよ。

 

2000~2024で、覇権、と呼ばれる状態になったことあるやつだな。

タイバニグレンラガン推しの子、人退、ガンダムUC、このすば、青ブタ、などなど。

2024-03-04

熱意ファンは要らない

ゲームとか漫画とかアニメとか意見書いてて思うんだけど、あれ?俺だけ他のファン達と空気違くね?みたいな違和感を感じてしまった。

俺はここがダメでこうした方が良いって改善案を具体的にキッチリ書いてるんだけど他のファンは「ゲーム遊んだよ。面白かった~」みたいな軽~いノリ。

本当にファッション感覚ファンが欲しいだけで本気で作品の事を考えてる熱意ファンなんか邪魔必要無いんだろうな。

ごめんね。おじさんゲーム会社で働いてたプロからさ、駄作が世に出てるのが許せなくてついつい改善案出しちゃうんだわ。本気出しちゃってゴメンネ。

2024-02-28

インディーズは有料の方が駄作多い

フリゲーって言うか無料コンテンツ、まじで地獄しかない。タダで提供してるのにコメント欄やけに偉そうだし。

スチームに出てるツクールゲームとか絵と音が良いだけのフリゲー以下の駄作マジで多いもんな。

あと女、クソゲーなのにイケメン出てくるだけでコメント欄でキャーキャー騒ぐな。キモいんだよ。

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