はてなキーワード: 社会主義とは
http://agora-web.jp/archives/1129611.html
http://agora-web.jp/archives/729502.html
幼稚園が私学助成という補助金で運営されていることは周知のことだし
一種の利用補助である。
結局《何から何まで補助金漬け》という実態はかわらない。
池田氏のいうような現行の幼稚園並みの「基準」を歯止めにされてしまったら
価格設定が恐ろしく不自由になってしまう。
《幼児の権利》を楯に高コストなものしか造れなくなるではないか。
そうなれば、価格はおのずと高止まりである。
畢竟利用できないという貧困層の苦情を前に
利用補助という税金投入を果てしなく続ける他なくなるだろう。
価格とクォリティを完全に自由にすれば需給調整力が働く。
たとえば今の保育所のような《基準》=クォリティレヴェルを
全ての親が望んでいるだろうか。
とにかく働きたい。子どもを安く預かってくれるならどこでもいい。
とにかく預かるだけ、というような保育所があってもよいはずだ。
その保育施設は市場から撤退するということになる。
このようにすれば税金はほとんどかからない。
「銃・病原菌・鉄」って本がある。
この分厚い本の答えを要約して言えばこうだ。
それはヨーロッパ人が他の人種に比べて優れていたからじゃない。
キリスト教的労働観が他の宗教に比べて優れていたからじゃない。
これにならって言えばこうだ。
単純にラッキーだった。そんだけ。
じゃあ日本は?
とりあえずアメリカに政治やら軍事やら難しいことはまかせておいた。
他の国が不安定な中で経済に邁進すれば日本だけ圧倒的成長できた。
終身雇用、公共事業、専業主婦。超安定。超ラッキー。確変状態。
73年のブレトン・ウッズ体制の崩壊で官僚・福祉システムが通用しなくなってきたのに
日本はなまじ上手く行ってたからこの超安定システムに乗っかり続けた。
中国は鄧小平が1978年に改革開放。1989年の天安門事件を経て南巡講話が1992年。
韓国は1987年に民主化。1997年のアジア通貨危機を経て新自由主義政策へ。
ベトナムは1976年に南北統一。1986年にドイモイで改革開放。
超安定システムが崩れてるのは20年の不況を経てようやく分かりはじめて
小泉新自由主義にいったり政権交代してみたり基地移転してみたりしようとした。
だけど次のビジョンが何なのか分からずに、さまよいまくってる。
というかまだ超安定システムがどっかにあるんじゃないかという幻想すらまだある。
ねーよ。
つーわけで、各自生き延びられるものは生き延びよ。
自由 リバタリアニズム 政治 多様性 社会主義 日本 考え パターナリズム
bradexさんが、ナチスの「25か条綱領」というのを紹介している。
ウィキペディア - 25か条綱領
http://ja.wikipedia.org/wiki/25%E3%82..
<25か条綱領(独: 25-Punkte-Programm)はナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党)の党綱領。1920年2月24日、ミュンヘンのビアホールホフブロイハウスで採択された>。
その25か条綱領には、次のようなものが含まれている。
・我々は、老齢保障制度の大幅な強化を要求する。
・我々は、健全な中産階級の育成とその維持、および大規模小売店の即時公有化、小規模経営者に対するその安価な賃貸、全小規模経営者に対して最大限考慮した国家・州または市町村に対する納品を要求する。
・我々は、我が国民の要求に適した土地改革、公益目的のための土地の無償収用を定める法の制定、地代徴収の禁止と土地投機の制限を要求する。
・我々は、公共の利益を害する活動に対する容赦ない闘争を要求する。高利貸し、闇商人等の民族に対する犯罪者は、宗派や人種にかかわらず全て容赦なく処罰される。
・我々の要求をすべて実行するために:国家の強力な中央権力の確立。中央議会の国家全体および組織一般に対する絶対的な権威。公布された国家の大綱的法規を連邦各州において実施するための階級・職業別の団体の形成。
これを大雑把に言い直せば、「大企業は儲けすぎだからもっと税金を取れ」「老人への保障をもっと手厚くしろ」「大きな店は潰して、小さな店だけにしろ」「不動産を貸したり転売して儲けることは許さない」「高金利の金貸しは許さない」といった話だから、いまの日本でもよく言われているような話である。
これがナチスの綱領であることを隠して、「このような政党があったら支持するか?」というアンケートをもし日本でやったら、支持する人はかなりいるのではないか。「立派な考えだ」「なかなかいいことを言っている」といった反応がおそらく続出すると思う。
ナチスについて少し調べればわかることだが、ヒトラーは「ただの極悪人」ではない。ユダヤ人への弾圧や虐殺などがひどいのは言うまでもないが、上記のように、政策の方向性としては「左翼的な正義」が基調である。いわゆる「悪人」というよりもむしろ、「使命感に燃えた善人」に近いといってもいい部分がある。
実際、ヒトラーは自分が「善」だと強く確信していたからこそ、権力を握ることで「悪」を撲滅しようとしたのだろう。そして、それに一定の説得力があったからこそ、支持を集めて、権力を得ることができたわけだ。
もちろん、ナチスの政策だから全部間違っているということにはならないし、ナチスの政策にも正しいものはあるかもしれない。重要なのは、ナチスの政策が正しいか間違っているかというよりも、「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方そのものが危険だ、ということなのだ。
正誤・善悪によらず、何かを他人に「強制」するという考え方にこそ、全体主義やファシズムへの萌芽がある。何かを他人に「強制」してもいいと考えている人は、自らの無謬性(誤りがないこと)をまったく疑っていない。自らの正しさを確信すること自体は問題ないのだが、それを「他者に強制する」ことから問題が生じる。
自由主義やリバタリアニズムがこの「強制」を嫌うのは、何が正しいのか、何が善なのかということに関して、唯一の絶対的な基準があるということを疑っているからだ。自由主義者やリバタリアンは、つねに異なる意見、異なる価値観を共存させ、多様性を認めることで、社会は発展するし、また社会は安定する、と考える。
自由主義者が政府より市場を好むのも、政府は「強制」するものであり、市場は「自由」な取引で成り立つものだからだ。
私の見たところ、日本というのは「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方がわりと強い国だと思う。そういう考え方の人は、たいてい「悪人」ではなく、むしろ「善人」だったりする。「いい人」なわけだ。しかし、他人に「強制」すべきでないということや、異なる考え方をあえて共存させる「多様性」の重要性については、あまり理解されていないように感じる。
菅首相なども、「善人」なんだけど、「強制」することが問題だとわかっていない人の典型である。左翼的な考えの持ち主はわりとこのパターンが多くて、弱者を思いやる「善人」なんだけど、「強制」することでどういう問題が生じるかがわかっていない、と感じられる場合が多い。こういう人は、弱者を思いやるのはいいのだが、その一方で、金持ちや経営者を「悪」だと決めつけてしまいがちだ。
「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方は、まさに「パターナリズム」である。それは、親が子供に対しておこなう場合であれば許されるだろうが、社会のなかで他者に対して「強制」をおこなうことは許されない。しかし、この「強制」が唯一、合法的に許されているのが政府である。
よって、政府は「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方の危険性や副作用をよく理解して、どうしても「強制」を行使しなければならない場合にのみ、きわめて慎重に行使すべきなのだが、日本政府はそれをあまり理解しているようには見えない。最近また大店法の話が出てきたりしているのを見ても、「これは善なのだから、他人に強制してもいい」ということを、むしろ無邪気に信じているかのようだ(特に民主党は、以前からこの傾向が目につく)。その規制が経済をブチ壊すことを理解できないのだろう。それも経済産業相が、である。
民間人は「ゲームプレイヤー」であり、政府は「ゲームデザイナー」である。企業や民間人は、政府のような「強制」力を一切持っていないのだから、社会問題になるような「構造」問題に対しては、企業や民間人には責任が生じようがない。これは「システム」の問題なのであり、よって責任があるのはもっぱら、「強制」力によって制度設計をおこなった政府である。それなのに、民間の企業を「ワルモノ」扱いして、その行動をさらに規制すれば問題が解決すると考えているのだから、まるで逆だ。セーフティネットは必要だが、市場を規制してもセーフティネットにはならない。
http://mojix.org/2010/10/11/national-socialist-program
関連エントリ:
http://mojix.org/2010/01/23/libertarianism_kimo
どんなに素晴らしい価値観であっても、価値観の「強制」には反対する
http://mojix.org/2009/08/01/kachikan_kyousei
地獄への道は善意で敷き詰められている(The road to hell is paved with good intentions)
国家社会主義ドイツ労働者党が誤訳であるというのは、アカデミックな世界ではもはや当たり前となっていますが、
未だに浸透してないことがよく分かりました。ナチスドイツ=民族社会主義が常識となるのはいつの日でしょうか。
用語の話以外のことに、うかつに触れるのはあまり好ましくない(正直、眠い目をこすりながらエントリをざっと読んだだけです)ですが、
印象とすると、大陸ヨーロッパ型の社会的市場経済、国家社会経済、民族社会主義、アングロサクソン型自由主義経済
の4つがごっちゃとなって語られているようですね。
混乱を生むのは仕方がないような気もしますが、教養レベルとして認知されて欲しいものです。
結局、大陸ヨーロッパについての教育がほとんどないのが問題の発端なんでしょうね。ナチスドイツの誤訳は、日本語のセンスの問題ですが。
とかいってる人は日本の公務員が少ないという現実を知ってるんだろうか?
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5193a.html
お上頼みな人が多くて社会主義のはずなのに、「公務員減らせ」と公約するほうが人気取れて人口当たり先進国最低水準のままというのはあり得ないと思わないんだろうか?
むしろ日本人の多くはお上を嫌いすぎてるから他の先進国ではありふれたレベルの公的介入すら社会主義とみなされ、「お上頼みはけしからん」と批判されてるというほうが実態に近いんじゃなかろうか。アメリカで健康保険が社会主義けしからんとバッシングされてるみたいに。
日本と中国が、尖閣諸島周辺海域で軍事的衝突を起こした場合、米軍が介入するのかどうかを、中国は知りたがっている。そして、アメリカの意向を聞き出すだけではなく、介入しないという言質を引き出そうと、躍起になっている。
竹島や東シナ海の地下資源の時には役に立たなかった番犬が、本当に役に立つのかどうか、これでわかるであろう。
アメリカでは内政だけの民主党が政権を取り、日本の政治は民意を汲めない政権が続いて迷走するという状況が出ているが、グローバリゼーション後の世界をどうするかについて、特に、太らせた中国をどのように料理するかについて、アメリカの意向がぼやけてきている。
このような場合に備えて、日本は十分な軍備を持つべきであるのだが、軍隊が戦争を起こすと思い込んでいるナイーブなサヨクが沢山いて、妨害している。
少なくとも、国境を接する他国の軍事力増強と同じ比率での軍備増強をしないと、野心を持たせてしまい、戦争以外に後始末がつけられなくなるという歴史を学んでいないのであろう。
中国は、不動産バブルを引き締める為に融資規制をはじめているが、既に作られてしまった投機用不動産は、値崩れさせないと、庶民が買えるようにはならない。人民の所得を引き上げると、人件費の上昇から輸出製品のコストが上昇し、競争力が無くなる。製品を値上げしたくとも、新製品・新技術による需要の掘り起こしが行われていない以上、値下げは出来ても値上げは出来ない。
人民元のレートを低く固定しなければならないのは、自国の産業が山塞品ばかりのコピー業であるという自覚のあらわれであるが、そこから抜け出す為の行動を、行わなかったし、行えなかった。知的財産権の尊重を働きかけても、山塞品を作るしかない中国産業を潰す為の謀略であると捉え、山塞商売を続け、人民元のレートを低く据え置いた。通貨高は産業を破壊するのでレートは低く保持するべきというのは、産業を過保護にするという事に繋がる。
過保護な状態に最適化されてしまった産業は、為替レートという外的要因ではなく、労働者の賃金の上昇という内的要因によって、破綻する。この破綻を避けるには、技術革新が無い状態を正しいと受け入れなければならず、人民の必要量だけを生産し、公定価格で売買が行われるという計画経済を実現しなければならなくなる。人口の増加すらも、計画通りでなければならないという統制国家が、この変革の最終到達点である。
この最終到達点においては、一定の人口という枠がある為に、民族毎に人口が割り当てられ、自分を支持する部族・民族を優遇する為に、他の部族・民族の人口割り当てを削るという行為が、"政治"になる。税をかけて予算を分捕るように、出生規制をかけて人口枠を取り合うのである。
社会主義や共産主義は、その理念を突き詰めていくと、人道的に許されない思想となってしまう。思想の自由はあるが、このような欠陥思想から未だに離脱できない精神的に未熟な国家が、核を保有し、日本の領土を狙っているというのは、いかんともしがたい現実なのである。
雇用の流動化が必要だというと、「人々の不安が増す」とか「モチベーションが下がって生産性が落ちる」いった批判がよくある。たしかに会社という繭にくるんで、すべての人をやさしく守ることができれば理想だろう。戦後の一時期には、それが実現したと錯覚された時代もあった。しかし残念ながら、もはやそういうユートピアは失われたのだ。
今われわれが直面しているのは、福沢諭吉以来の「個の自立」という問題である。『福翁自伝』などを読むと、100年以上前の本なのに不思議に単純明快でわかりやすい。本書は、その「新しさ」をハイエクなどオーストリア学派のリバタリアンに重ねて解釈したものだ(絶版)。
ハイエクは福沢の死んだ年に生まれたので、福沢が影響を受けるはずはないが、両者には共通点がある。それは若いとき、ヒュームやミルなどの古典的自由主義の影響を強く受けたことだ。そしてハイエクにとって社会主義との闘いが個人の自由への信頼を生んだように、福沢の場合も「門閥制度は親の敵」という儒教的秩序との闘いが生涯のテーマだった。
福沢以来、丸山眞男や大塚久雄に至るまで、個の自立は日本の知識人の見果てぬ夢だった。しかし今われわれの見ているのは、福沢が生涯をかけて闘った封建的秩序が自壊し、ゾンビ化した状態である。そこに出てきたのは自立した個人ではなく、帰属する集団を失って自殺する失業者と、家族にも見捨てられた「消えた老人」だ。雇用が流動化すると、こうしたストレスはさらに増えるだろう。
本書も指摘するように、福沢のいう「情愛」を排除して論理のみによって人々が結びつく社会は、彼のような強靱な知性の持ち主でなければ耐えられない。テイラーのような北米の人々が近代に築き上げた人工的コミュニティが崩壊して個人主義が強まることを危惧するのとは逆に、日本では近代以前から継承してきた「強い中間集団」が有効性を失う一方、人々は北米型の「強い個人」にはなれないのだ。
しかし福沢以外の道はあるのだろうか。北一輝は個人主義を超克する国家社会主義を提唱し、日本浪漫派は近代的自我を否定して「近代の超克」の道をさぐったが、それは破滅への道だった。戦後の日本的コーポラティズムの意外な成功は、欧米的な個人主義を経なくても繁栄できる「東アジアモデル」を示したように見えたが、それも幻想だった。
いま日本の陥っている袋小路を脱却する道は、おそらく福沢のいう「独立自尊」しかないだろう。われわれは市場経済によって得た富を捨てることができないからだ。そして組織を守ることによって個人を守るのではなく、古い組織を淘汰して社会によって個人を守るシステムに変えるしかない。福沢は、今なお新しいのである。
ここで言及されている各分野とその用語には著しい知識の欠如、誤認等があるでご注意ください。
一般的に書籍は有料であり、貨幣を対価として支払わなければ入手することはできない。
しかし巷には図書館というものが存在し、ほとんどの書籍を無料で一定の期間手に入れることが可能である。
つまり情報をタダで入手することができるというわけだ。
弱者のための社会インフラとしてこのようになっているのだが、根底にあるのは情報は無料であるべきということだ。
それを裏付けるようにインターネットでは多くのものが無料、ロハである。
電子出版など情報を売って対価を得ようとする向きもこのほどはあるようだが、由々しきことである。
ここでいう工業製品とは何かしらの資源を使って造られたもののことであり、資源とは人類にとって限り有る地球資源のことだ。
故に精神活動を原料としいくらでも生産可能な書籍などとは違い無闇やたらと資源を大量使用されては困るのだ。
そこでそういうった粗製濫造を防ぐために導入させた制度が貨幣経済である。
貨幣をバロメーターとすることにで人々の人気が高く必要とされている製品とそうではない不人気、不必要な製品を区別できるようになったのだ。
こうして誰もが欲しがるような素晴らしい製品には資源がより多く消費され、
誰も欲しがることのない欠陥製品には無駄な資源が極力投入されないというように限り有る資源が有効活用されるようになった。
現在のところ資源の完璧なリサイクル方法は見つかっておらず際限なく使用していればいずれ枯渇する危険があるからだ。
この貨幣経済の成り立ちについては世界各地でそれぞれ別個に起こったものなのだが、
これはどのような人類社会にあっても無限には存在しない資源をどのように民意を反映しつつ利用していくかを模索し突き詰めた結果であると考えられる。
このように、貨幣を使用するというのは資源の活用方法についての投票行為なのである。
人と人とが接触することによって無限に生まれる情報やそれを記録する活動に対しては、それらがいくら大量に
生産されたとしても材料となる素材がほぼ無限に存在しているため一向に構わず、貨幣による投票を必要としない、つまり無料であるべきなのだ。
現代の市場では書籍に対して価格が設定されているが、これは紙資源の分配、活用使途への投票であり、中身の情報はタダである。
これはインターネットに記載された情報のほとんどや市井の会話を盗み聞きしてもそこに支払い義務が発生しないことからも容易に理解できるであろう。
他方、スポーツ選手のギャラや弁護士への相談費用、インストラクターへの代金など
明らかに地球資源の活用とはなんの関係性も見出せないような事柄にも貨幣は使用されている、これはなぜだろうか。
現代の政治では多くの民主主義を謳う国家で議会制が導入されている、これは国の意思決定について直接国民が判断を下すのではなく、
国民の投票によって信任を得た一部の人間がいわば代理で国家を運営する制度である。
同様に、経済活動についても現代ではそのほとんどが直接の投票ではなく、自らの票を能力の高い人物、組織に付託し権利を移譲する間接的な投票行為が多くを占めている。
先程のギャラや相談費用などは全てこれに該当するというわけだ。
こうしたように人類社会のなかで相対的に影響力が大きく能力が担保されている人物が多くの投票権を得ることでシステムの信頼性が向上しているといえる。
人ひとりの平等を貫き有用な社会活動を通しての投票権利移譲を認めなかった社会主義では資源の運用指針が実際の需要とは大きく違ったものとなり失敗してしまった。
この社会主義の破綻を見てもわかると思うが発達した貨幣経済では貨幣の役割は限り有る資源の使い道を決めるだけに留まらず人類全体の意思決定にまで及んでいる。
これは統一された価値基準である貨幣が本来可視化の難しい相対的な人間の意志や欲望をうまく数値化し社会的評価などをも内包せしめた複雑な投票活動を可能にしたからである。
人間の意思を矢印に見立てるとそれまでおのおのバラバラの方向を指していたように見えた矢印が
貨幣という媒体を得たことによって大まかにではあるが、複数個の矢印により構成されたグループの指す向きや全体の指し示している方向が見えるようになったのだ。
毎度ながらこれなんだが・・・
(http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51731420.html)
資本主義の対義語ってば社会主義なんだろうけど、実は最大の阻害要因は民主主義なんじゃないかと思うようになってきた。
資本主義というシステムの最大の欠点はひとり勝ちを誘発しやすいこと、これはdankogaiさんが簡単なプログラムを組んで説明してくれてる
(ストレートランドに学ぶ格差の本質:http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51479111.html)
じゃあ勝ち組にとってこの独占のスピードを阻害するものはなにかというと、
大きくいうと「国家」というシステムだと言えると思う。「国家」の中でも実は「民主主義」国家が一番厄介だ
なぜなら「国家」は資産の量に関係なく国政に対する影響が行使でき、資産が少ない者も数を揃えるだけでその合計の資産より政治への影響を行使することができるから。
なので言いたいだろう。「応分負担をするなら、資産に応じて選挙権を拡大しろ」と
当然、これは民主主義的プロセスを通じて以外は達成を成し得ないので、達成することはないのである。
つまり、民主主義国家では彼らは思うように力を行使できないのである。
経済的なものが国家を超え始めて、「生活市場」と「投資市場」が分離し始めるに於いては「生活市場」から「投資市場」へ資金が移動してしまう。これは資本主義のシステムとしては当然の帰結である。
「生活市場」のみに生きるものとしてこれを止めるために出来る最大のことは「国家」に対して「民主主義的」に政治的影響力を行使することである。
(まあ「投資市場」も根っこは「生活市場」に依拠してるので「生活市場」がおっちんだら自動的に死ぬんだけど)
それがこの人の見てる「保護主義を取って国境を超えた企業活動を妨害しようとする悪魔の如き政治家」なんだろうなーって思ってみたりした。
どっちかというと、全体管理の社会主義って感じがしないでもない。
仕事がある、職がない、じゃあそこで働けないヤツはクズって言う発想は、東側の発想な気はするな。
求職者は居るけど、そいつに働かせたくない経営者と
どこの視点でモノ言うかでずいぶん違うけど、経済学者みたいに数字でしか話せないと微妙だな。
せめて確率的に基準率がどうのとかって話をして欲しいところだが。
ある日の放課後、私は友人と一緒に駅まで徒歩で向かっていた。
近くなる学校祭の話や、気になる異性の話など、会話が尽きることは無かった。
そんな時、私は道端に100円玉を見つけ、それを拾い上げようとした。
「やったー!100円みっけ!」
私は大切に持ち帰ろうとした(すみません見逃してください)。
けれど友人はこう言った。
ここで私は思ったのである。平等って何、と。
一旦リセットし、新たに運で決めることが平等だと友人は主張したが、
私は違うと思った。見つけた人にとっては、平等じゃないだろう。
けれど私はそこまで100円に執着心は無いし、
お巡りさんにお世話になるのも嫌なので、100円は友人に渡した。
家に帰っても気になったので、パソコンで調べてみた。
【差別なく、みなひとしなみである・こと(さま)。】
とされている。差別なくみなひとしなみ???
私が100円を拾ったことが友人には差別だったのか?
それなら私は、100円を拾ったのにもう一度リセットっしようとすることに差別を感じる。
・・・うん、何か違う気がしなくもないけれど。
でも何か、小骨が引っ掛かる違和感がある。
○例えば、男女について考えるとしたら?
女性(の一部)は「男女平等!女性は社会的弱者!」と訴えている。
これって平等なのか?弱いからその分よい待遇をすることが、平等なのか?
そもそも女性がすべて社会的弱者ではないし、寧ろ男性より強い女性だっている。
平等を訴えるなら、生理休暇などの女性特有の制度も取り払うべきではないか。
映画の割引なんかも失くしてしまえばいいのでは。
○例えば、障がい者について考えるとしたら?
「障がい者にもっと理解を」と訴える人々がいるが、
そう訴える時点で、彼らは平等視していないのではないだろうか。
某テレビ番組で障がい者の方々が必死に何かを頑張っている姿が映し出される。
果たしてその光景を見ている視聴者は、一生懸命頑張る彼らを自分と平等だと思っているのだろうか。
○例えば、職業について考えるとしたら?
じゃあそれは本当に平等なのだろうか。
・・・と考えていくうちに、私の頭は混乱した。
男女という性別が無ければ平等は成立するのか。
私は平等であることが必ずしも良いことだとは思わない。
同じ金額を受け取るから平等だとか、
そういうのは違うと思う。
その中で自分なりの幸せを見つけて行くべきではないかと思ったりする。
ただ、「差別」と「区別」は明確にしなければならないと思った。
差別とは、取り扱いに差をつけること。特に、他よりも不当に低く取り扱うこと。
区別とは、あるものと他のものとが違っていると判断して分けること。
私は区別することは正しいと思うが、差別することは正しいと思わない。
その理由は何となく頭にあるけれど、文章にできないので保留。
そうして考えること数十分間、
私はやっぱり100円は自分のものだと考え、
友人に連絡したのだが、
100円はすでに友人の胃袋の中だった\(^o^)/
以上に書いたことは私なりの考えであり、
私の平等に対する考え方は、間違っているのかもしれない。
間違っていたらご教授お願いします。
いささか語弊はありますが、差別を問題にするのがリベラル、格差を問題をするのがソーシャルといえば分かりますか。
赤木さんはリベラルじゃ自分が救われないと気づいたので、実はソーシャルにシフトしたにもかかわらず、それを脱「サヨク」と自己認識してしまったのですよ。
そこに、反戦平和という特殊日本的サヨク思想が絡まるから話がますますややこしくなる。
ごりごりのソーシャル左翼にとっては、戦争は社会主義への最短コースですから本来大変歓迎なのです。
その意味でも、赤木さんが「希望は戦争」というのはソーシャルの王道なのですよ。
ところが、戦後日本的反戦平和いのちのリベサヨさんにとっては、「希望は戦争」というソーシャルな発言が一番けしからんという倒錯した反応になってしまうんですね。これも、話をこんがらからせる一つの要因です。
夫婦のつながりをセーフティネットにするのは(イスラムの一夫多妻制、カトリックの離婚禁止)は世界の風潮から難しいよね。
ネパールとかバングラディッシュとかって30代くらいまで家事手伝いが許されるじゃん。
家事労働を労働にするなら10代から労働力として扱われるともみられるけど、社会に見放されても家族、主として親に守られる。
その代わり親の老後の面倒がセットでついてくるけど。
中韓もそれに似てるけども。
でも、そういう制度って晩婚化、早く言えば女性の社会進出で崩壊しちゃうんだよね。
ってことで親子のつながりをセーフティネットにするのもむーりー。
女性の社会進出、というより、人は人生の主人公になれるなんて幻想が悪い気もするけど、たぶん個として生きる方向に生活スタイルは進化してるんじゃないかと思う。
たぶん文明の発展と連動してる。どうしようもなく強い流れ。
止められない。
ってことは、社会が守るしかない。
でも、それを資本主義の世の中でどうやってやるんだろう。
その前提からしてあなたの主観だし多数派ですら無い。何故か貴方の脳内では自明な普遍的事実って事になってるみたいだけど、俺には社会主義信奉者の戯言にしか見えない。
失敗したら大勢死ぬどころか国自体が消滅するリスクがあるような大実験にホイホイ賛成は出来ん。増田で言葉遊びする程度ならなんぼでも付き合ってやるけど。
→ 未来永劫経済が成長しつづけると考えるような人間の脳味噌はお花畑というしかない。
まともな人間なら、どこかで頭打ちになると考える。
元増田は社会主義的で空想的な思考実験をしたいんだと思う。それに対して資本主義的な現行法制度に基づいて前提を否定する返事をしても噛み合わない。
べつに、やりたいんだったら、株主から株を買い取って、非公開な会社になればよい。実際にいくつかの企業はそうやっているわけだし。
「いつまでも「あの頃のお礼」を払いつづける必要ってあるのかなぁ。」って疑問に対して株を買えってのは返事になってないよ。それは「あの頃のお礼」をまとめてしているだけだから。
株を売っておいて、買い戻さずに無効にすることは流石にできないでしょ?
(すべての権力をソビエトに集中させちゃえばできるんじゃね?ってのはともかく)
できたらどうなるか、という話を元増田はしたいんだと思うよ。できるかどうかじゃなくて。
ちなみに、「株を売っておいて」の「売った」主体とか「買戻す」主体は誰を想定してるんだろ。
創業者が持株を市場で売ったって話なら、創業者が売ったかどうかは無効にできるかどうかとは関係ないわな。だって別に創業者が株を無効にするわけじゃないし。むしろ、創業者はまだ持ってる株を無効化される側で、他の株主と立場は同じ。
会社が新株を発行したって話なら「株を売った」という表現は不自然だな。資本取引だし。しかも、株を無効化しても会社は得も損もしないし、株を「無効化する主体」も会社じゃないだろうから、「会社が株を発行しておきながら、無効にはできない」ってのは理屈になってない。しかも、会社が全株を株主から買戻すことはそれこそ現行法上不可能だし。
銀行から借りたり、社債を発行したりして、借金経営すればいいんじゃね?株式が上場してなきゃ、金が借りられないなんて理屈はない。
それは、資本の集中が起きないほどの再分配を行う国家を資本主義国家と呼んでいいかどうかという問題じゃね?
集中を遅らせるだけなら「回避」ではなく「先送り」だろ。
永続性のある先送りならどうだろう。
前にこのように書いたとおり、
そもそも資本主義は指摘の通りの特徴を持つからこそ、
運用にあたっては様々な再分配のための仕組みが導入されるのではないか。
税による再分配は当然のこと、あとは独禁法とか。他は思いつかんが、とにかくたくさんあるだろ。
原理的に集中が起きるとしても、システムを破たんさせてしまうような集中には至らないよう、
先送りするための仕組みを導入するのが「○○主義」の運用においては必須だろう。
攻撃的サッカーといってもディフェンスはちゃんとするように。
そういった運用面を無視して主義の特徴だけで議論すると、
あれ、もしかすると共産主義は主義の特徴だけで議論すると将来性があるのかな。
個人的には共産主義は嫌いではないのだが、どうも運用面の現実性が無い気がするんだよ。
そこの泥臭い所を無視してロジックを固めても、どうも信ぴょう性に欠けるというかなんというか。
いや、武力によるちゃぶ台返しが起こらない限り、資本主義を掲げる国家が勝つかもしれないが、そこに含まれる大多数の人間は社会主義国家の人間より幸福にはなれないだろうということ。
そう、資本主義国家は基本的に競争したら強いよね。そして世界は有限なリソースの奪い合いをしているわけだよね。
国家内で競争を取り除いたところで、国家間では競争を強いられるという状況において、社会主義はどう戦うのか。
国家間で負けても国家内では幸福度が保たれる、というのであればいいのだけど、そんなことは可能なのか。
資本主義国家に生きる身としてはなかなかそれを現実的な話として聞けないんだよなぁ。
社会主義ってのは、外部の国が別の主義を採用して世界的には競争が強いられる状況においても、
ちゃんと成立するように設計されているものなんでしょうか。
資本主義の問題は、つまるところ勝者が次の勝負で圧倒的に有利なポジションを得ることになってしまうせいで、ゲームが煮詰まることなんだよな。
そう、結局はゲームデザインなわけですよ。
んで時間経過とともにゲームデザインは更新されなくちゃいけないんですよ。人も状況も変わるから。
F1のレギュレーションもそうだし、サッカーのオフサイドとかバックパス禁止とかもそうだし。
そのとき重要なのはF1らしさ、サッカーらしさを失わずに、ゲームを成立させるデザインですよね。
話を戻すと、理念として持つのは「資本主義らしさ」なのか「社会主義らしさ」なのか、と。
それで、その理念が持つ「らしさ」を失わずにゲームを成立させるデザインが必要になってくる。
それをここでは「運用」と言ったわけだけど。
俺としては「資本の(ゲームを破たんさせるほどの)集中が起きないような再分配を行う」のは、
資本主義らしさを失う運用ではないと考えているんですね。で、あなたは違うと。
そもそもご指摘のように「資本主義」という言葉が持つ意味がお互いにずれているわけですよね。
まぁあんまり詳しくないンど得、俺の方がなんか勘違いしているのかもしれない。
つまるところ資本主義とか社会主義とか借り物の言葉で議論するから悪いわけで、
自分が理想とする理念は何か、そのために必要な運用は何か、を語るべきなんですよね。
Wikipediaで「資本主義」を調べて驚いた。こんなに違うんかいな。専門家が見れば同じに見えるのかな。
「資本が利潤や剰余価値を生む社会システム」をそのまま回せば、
「生産手段が少数の資本家に集中し、一方で自分の労働力を売るしか生活手段がない多数の労働者が存在する生産様式」
になるのかもしれず、それだと将来的に破たんするというのはわかる。気がする。
それに対して、「生産手段が少数の資本家に集中し~生産様式」となることが問題であるならば、
「資本が利潤や剰余価値を生む社会システム」を維持するための運用として、そうならないルールを設ける、というのが俺の解釈だったりする。
「それは資本主義じゃないよ」と言われるかもしれないが、
資本主義を「資本が利潤や剰余価値を生む社会システム」くらいの定義としているので、
これも資本主義だと思ってしまっていたりする。
しかしこういう風に話を整理すると、日本が一番成功した社会主義国家という説明は正しいのかも。
かつての日本は資本主義的な運用はしたけど、社会主義的な理念を持っていたような気がする。
# まぁ詳しいことは良く知らないんだけどねー。