はてなキーワード: 偶像とは
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イギリスは17世紀中葉、つまりバロック音楽華やかなりし頃に、清教徒革命が起き、オリヴァー・クロムウェルは教会の賛美歌だけでなく、音楽自体を人間を堕落させる物として禁止してしまいました。偶像を破壊したり聖書の文言を一言一句そのまま解釈する原理主義で、いわば中国の「文化大革命」や1979年のイラン革命の時と同じ様な現象が起き、その後数十年にわたって音楽家は人前で演奏する事も歌うこともできなくなり、もちろん音楽を教えたり、習ったりすることもできなくなって、音楽家は旅芸人に至るまでほとんどいなくなってしまったのです。一世代以上にわたって、一つの文化、教養の受け継がれなくなってしまった国で、再び音楽が興隆するまでには長い時間が必要で、18世紀はじめにはドイツから作曲家のヘンデルを呼び寄せたりして音楽の復興を計りましたが、イギリスがドイツ、フランス、イタリアの音楽に追いつく事はついにできませんでした。
もともと、やつらの商売は作られた偶像を売ることなんだから、自分が作った偶像は維持するのが道理。
そこに金払わせているんだから、商品の管理とサポートはしっかりやらなきゃならん。
結婚報道だの、タバコ報道だのされれば、それは欠陥商品でリコール対象なんだよ。
それが一時期から、偶像ではなくて人を売るようになってきた。
バラエティなどでも等身大の人間として登場し赤裸々に実生活を語る。
アイドルが偶像でなくなったとき、今度は同じような偶像を声優事務所が作ったんだ。(※)
(三十路超えてあのキャラクターが、作ってなくてなんだというのか)
人として売りたいなら、偶像崇拝者に媚びるな。
俺もそんなことを言われているような気がする。
だから本当のことを言えば何を言っても信用していなかった。
信用していない俺はわざとべらべらしゃべっていたように思う。
俺は手札を見せてやったんだ。お前ら水面下で好きにやっていたんだろう的な。
でも俺はそれがどういう事か全く知らなかった。意味を知ったのも最近だった。
「あいつバカだよねー」って言い合う奴らよりも醜く浅ましいことをしていた。
つまるところ、誰も信用してなどいなかったのだ。
それなら話さなければいいんだろうなあと俺は思う。だが話さなければ知り合うことはなかった。
知り合うことがなければ俺がどういう事をしているのか気がつきもしなかっただろう。
最初から割切って憎まれ役であると自負し、わざとこのまま居直るのも悪くはないと思っている。
しかし反面それでは相も変わらず誰も信じていないことになる。
信じていないから俺は選んだ誰かとしかサシで話すつもりはない。それはいいのだろうか。
……まあ、そうなっても、ここまでは問題はない。問題はないが、そうする必要性のお話だ。
場の空気を壊す奴がたとえ俺であったとして村八分にあうのもまあしょうがないと思う。
つまりいじめる奴は全肯定。いじめたいならいじめやがれと思う。誰が空気を壊したかっていったら俺だろうかなあと思うことある。
ただもし俺じゃなくて誰かを村八分にして追い出した、ないし、勝手に出て行ったのならいなくなった人の話はしないようにする。
もし行う場合は俺は何があっても叩けない。叩くような要素が見あたらない。過去のいじめられ役と今のいじめられ役がどうなっているのかは分からない。
仮に罵ったところで、そのいじめられた人なんて、いじめた人にとっての過去の存在か偶像のような物。叩けど叩けど仮想敵を叩いているような物になる。
いずれにせよ俺は今も陰口がキライで言わないように自重している。反面、俺も言ってしまったり疑心暗鬼で罵ることも多い。
だから、別に言いたいのならば、言えばいい。ただ、もしあるグループでういちゃったときの存在に俺がなったのならば、そりゃ、俺が悪い。
もっとも、ある人を叩かないと維持できないようなグループなんて俺はまっぴらご免。そんなグループならすぐに崩壊する。みんな、怖いだろうから。
萌えの根底には必ず擬人化で成り立っているんだ。擬人化というか理想化というものか。
この擬人化、理想化、いわゆる「胸キュン」にちかいものを起こさなければならない。妄想と呼ばれる物な。このときに発生した物が「萌え」だ。
かじり知識で済まないんだが「アニマ」および「アニムス」を勉強した方がいい。「アニマ」とは男性から見た理想の女性像であり、「アニムス」とは女性から見た男性像になる。理想のキャラクタを組み上げようとすれば分かるんだが「アニマ」および「アニムス」に近い形になる。たとえば、俺などこの文体もそうだが、しばしば俺は女性を演じたくなる。しかし、それを一カウンセラーの客観で捉えて貰った場合「アニムス」に似たものと評価を貰えた。つまり、俺の理想型は「俺の女性像=女性から見た男性像=腐女子の好きな男性キャラor気(我)の強い女性」になったと言うことだ。俺だったら「萌え」はバイセクシャル気味な感情であり、対象物もそういう物から引き出されやすい(ショタと執事大好きだもんな。無理に女性に歪めてるもんな/男優役のおんにゃのこにはぁはぁ)。
「アニマ」および「アニムス」というのは一種の理想型だ。たとえば男性が少女を率先して引っ張りしたい人は幼い子に萌えを抱きやすい。逆に男性自身が率先されたい場合の「アニマ」はお姉ちゃんという寸法。このどういう物なのかという部分がいわば属性なわけで、好みに近い。好みに近いのだが、こころの奥底で求めている何かがあるから造形が組み上がる。これをいわば「萌え」というわけだよ。かなり好い加減で的外れに近いんだろうが。
つまり、「萌え」っていうのは理想の異性に近いって事なんだ。これは別に知らなくても分からなくても発生する。何となく一目惚れで「いいな」と思った物によちよちよっていくと大量の男やら女やらが祭り上げて競争していることもしばしばだ。だが、これは偶像であり架空の産物であるから発生しやすい。リアルにももちろんいるんだが、この際、その話は置いておく。つまるところ何が言いたいのかと言えば、「萌え」とは理想のモデル化を起こすための原動力なんだ。恋愛感情でも性的感情でも良い。どちらとも当てはまるときもあれば片方の時もある。広義の場合はもっとアバウト。そのどちらでもないときにも使われる。猫が可愛い、犬が可愛い、なんかいやされる。それもまた「萌え」だ。
これを俗に私たちは「恋」といいまた「愛」というのだよ。
で、OK? 細かく考えたいようにみえたから好い加減な解説をしてみた。まあ、萌え要素がある人とか言われたら、理想に近い人でFAっす。
以下、『アイドルという人生(オルタブックス4)』のリリー・フランキー氏の文章より、引用。
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これは91年3月号の『BOMB!』誌上において、当時二十歳を迎えたばかりの酒井法子が語ったものである。
「アイドルが恋愛しちゃいけないとは思いませんけど、ファンの夢は壊れるでしょうね。ファンの方たちはアイドルを恋人のように思ってくれて、またアイドルって『それだけ』って気もするし……。(中略)古くさいようですが、私は結婚相手が初めての人のほうが自分の中でこう……一途な気持ちになれると思うんですね。『結婚するまで女性は処女を守るべき』という考えはとくにないですけど、一生、その男性と一緒にいるのなら、そのほうが幸福なんじゃないかなって気がします」
前述したように、その頃アイドルは永遠の処女という偶像を拒否し始めた時代だった。その風潮を察してか、のりピーは誰も聞きもしないのに自らを”処女”と公言したのだ。
勇気のいる発言だ。何言ってんのこの人? 同業者はそう思うかもしれない。ライターは涙でメモが取れなかったかもしれない。
私は思った。この人は自分のことではなく、全アイドルファンのために自らを人柱にしてこう告げたかったのだと。
”アイドル・イズ・ノット・デッド・なんだピー”
さすが、子供の頃から”いつまでも子供でいたい”と背が伸びないようにカルシウムを口にしなかった本物のアイドル・のりピーである。
私はこの発言を期にアイドルを純粋培養して評価することをやめた。いや、女性全体に対してそれを求めることをやめた。
この言葉だけで生きていける。いや、それは大げさだが、私がのりピーの言葉から学んだことはこうだ。
実際にのりピーがそうなのかはわからない。事実は誰にもわからないのだ。しかし、大切なのは真実だということ。彼女がこの時、こう言いたかったという真実を信じたい。
アイドルと私たちの間に必要なのはイマジネーションから導き出される真実だ。事実じゃない。そう思えば、アイドルが何を言おうと、何をしようと、どう変わっていこうとも平気なのだ。アイドルは死なない。
自分の好きなアイドルがどんなにか落ちぶれ果てて、燃えカスの人生をただ生きたとしても、あん時にあれだけ燃えていた自分がいた真実を誇りに思って、生きてゆくべきだ。
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今回の「事件」にからめて自分の文章を付け加えようと思ったけど、やめた。
98年1月に書かれたこの文章に真実はあるから。そこに何かを足したら不純物を加えてしまうことになってしまう。
ただ、文中の「同業者」とは山瀬まみを、「ライター」は若い頃のリリー氏を想像して読むと、より鮮明に場面が浮かぶのではないか。
手垢にまみれた言葉でもうしわけないんだけど、アイドル=偶像でありまして、アイドル=スーパースターではないのですね。
偶像に何を見るか。
そりゃ美男美女、天才、スーパースターを見る人もいるでしょうけど、
偶像に孫を見る人、子を見る人、兄姉妹弟を見る人もいるわけでして、代替家族を欲しがっている人てのもいるわけですよ。
家族に偉人がいることの悲劇てのがあるだろう、「しょうがないなぁ」だけど愛せるのがいい人たちという需要があるんだよ。
久米宏がニュースステーションやった時だって、久米がやんちゃなお兄さん、小宮悦子がしっかり者の妹、小林一喜が包容力ある父親という役割を担っていたって、昔のことだから知らないかな。
「好きな子」ではなくて「お気に入りの子」なのは同性だからで、
恋愛感情とかは全くなくて、ただ単に顔も性格もすごく好みのタイプだったってだけ。
背が低くて細くて色が白くて、鈴が鳴るような声(ってこういうことを言うんだ!と衝撃を受けた)で、
黒髪のショートヘアで、勉強がよくできて、誰にでも優しくて目を細くして笑う子。
小さな八重歯とそばかすがキュートで、視界に入ればそれだけで幸せになった。
あんな可愛い子、清らかな子はこの学校に一人しかいないと思っていた。
直接話してる時はなんか照れちゃって、好き避けっぽいこともした。
同性相手なのに。ちゃんと好きな人(※男)もいたのに。
そんなんだから、友達としては親しくならなかった。
私は彼女に心酔しすぎていて、気軽に付き合える気がしなかった。
私が近しかったのはむしろお互いにきついことを言い合ってバカ騒ぎができる友達で、
彼女の周りにいたのは彼女と同じように気性が穏やかな、お嬢さんタイプの子だった。
文化はまるきり違ったけど、だからこそ彼女は私の中で特別な女の子だった。
ある日、その子に彼氏ができたことを知った。
相手はなんと私が恋心を抱いていた先輩だった。
私は二重に失恋したような気分になって、ああでもお似合いかもなとも思った。
涙は出なかった。たぶん、先輩に憧れる気持ちより女の子への好意の方が強かったから。
そのうち、交換日記としてるだとか、待ち合わせして一緒に帰ってるだとか、
そんな話を間接的に聞いて、なんて爽やかな二人なんだろうと感じるようになった。
仲良くなった同級生を好きになって、先輩への恋はどうでもよくなった。
ただ、彼女を目で追うことは止めなかった。
私が泣いたのは、その一年後だった。
ある夏の日、登下校の道で彼女の後姿を見かけた。
その真っ白いブラウスの背中から黒い下着が透けているのを見て、
私は唐突に悲しくなった。いや、寂しいの方が正しいかもしれない。
少なくとも私の中の彼女は、白か水色かピンク色の下着を付けて、
それが透けないようにキャミソールかベストを着ているはずだった。
そんなのはただの願望、妄想でしかなかった。
私は一人で泣いた。
私はその時処女だったけど、性への興味はそれなりにあったし、
彼氏のいる友達もいたから、セックスが汚らわしいものだとは思っていなかった。
黒い下着を付けてるからって、経験済みだと断定することもできないのもわかってる。
ただ、私にとって彼女は聖域だった。
少女時代を象徴するような存在だった。
白いワンピースを着て花畑に立っているべき女の子だと自分勝手に思っていた。
偶像化もいいとこだ。彼女は生身の人間で、恋するティーンエイジャーだった。
それでも私はまだあの子のことを忘れられない。
二人でプリクラ撮ろうよと言われてどきまぎしたこととか、
○○ちゃんって面白いねと言われて嬉しくて舞い上がったこととか、
教室の窓から見下ろした横顔とか、小さく振ってくれたさよならの手とか。
そういうものを思い出すと、やっぱり彼女はたまらなくきれいだったと思う。
違う大学に行ったから、彼女が今どこで何をしてるかはわからない。
でも同窓会がある時は、今度こそ正面から話しかけてみたい。
私も多少は大人になった。
彼女はどんな大人になっているんだろう。
アイドルについては、んー、グラビアアイドルなんかはまあ好きだけどw、
ここでは関係ないので除外する。
歌って踊ってバラエティやドラマ出て、みたいないわゆるアイドルについてだけど、
うん、たしかに俺はテレビを見ないので、アイドルは詳しくない。
知らないのに語ってみたわけだが、不快に思ったのなら謝る。申し訳ない。
で、申し訳ないついでに、さらに知らないのに語ってしまう。
ミクについては、「アイドル」としても捉えられるんじゃないかと思うんだ。
単純に割り切っていえば、もちろんただのソフトウェアだ。「楽器」だ。絵だ。
でも、「初音ミク」というブランドとして、キャラクターとして、完全に一人歩きしている。
誤解を恐れず言えば、今、同じ楽曲を中川翔子と初音ミクがそれぞれ同時に出せば、
初音ミクの方が売れるだろう。
それはさすがにない、というかもしれないが、少なくともいい勝負にはなると思う。
それは何故か。
初音ミクが、「楽器」としてではなく、アイドルとしての商品価値を持っているからだ。
http://www.crypton.co.jp/mp/pages/prod/vocaloid/cv01.jsp
最初から「アイドル」として明記してある。
初音ミクは当初、どちらかというと、「ボーカロイド」という「新しいソフト」、
もう一歩進んで「バーチャル・シンガー」として認識されていたかも知れないが、
当初から「アイドル」として設定されているのだ。
多少歌が下手でも、そのタレント性、スター性、かわいらしさで許される「アイドル」。
ただここにきてsupercellの躍進で一気にメジャーに殴り込みをかけ、圧勝して見せた
(もちろんlivetuneの活躍もあったが、今センター街を見てみれば、supercellの凄さが分かる)。
「歌って踊れるカワイイ女の子」ではなく、偶像としての、「時代」としての「アイドル」だ。
初音ミクの登場以来、何が起こったか。
ニコ動でのボーカロイド旋風、はちゅねの登場、ねんどろいどやfigmaの爆発的ヒット、痛車コラボ、
星雲賞受賞、グッドデザイン賞を受賞、「桜ノ雨」旋風、そして、supercell。
もちろん「人間」ではないし、「アニメキャラ」ともいえないので、
単純に比べられないが、社会現象としての「初音ミク」は発売2年が過ぎようとしても、まだ続いている。
ブームではない、まったく新しい現象。
今までも声優がアニメキャラ名義でCDを出して売れる、てのはいくらでもあったが、
当然ファン自体が作った曲ではない。
たとえファンが勝手にイメージソングを作ったとしても、声優が歌うわけではない。
その意味で、「アイドル」のために歌を作って、その「アイドル」に歌わせることが可能な初音ミクの存在は、
音楽の教科書か(「桜ノ雨」は載りかねない)、社会科の教科書かわからないけど、
日本だけでなく世界中のクリエイターを刺激して、もっと面白い革命を起こしてくれると思っている。
ビートルズが音楽のアイドル=偶像だったように、初音ミクは21世紀のネット界のビートルズになる。
さすがにこれは言い過ぎか。
キャラクターとして年齢、体格と得意なキー・テンポ・ジャンル以外特に性格設定などが存在していないはずのボーカロイド。
挙句ロイツマMADのパロディから派生した「ミクの持ち物=ネギ」がクリプトン側も認めているのか半ば公式化し、ユーザ側からは新ボーカロイドが発表されるたび持ち物論争(笑)が持ちあがる。
ソフトシンセ=楽器としてのボーカロイドはともかく、性格付けした上で偶像化するような風潮は理解に苦しむところはあるし、巡音ルカの発売前にさんざ持ち物論争していたのは「まだデモ曲すら発表されてないのに…」と半ば呆れ気味に眺めていたけれども。
最終的にボカロと肉声、どっちが絶対的に優れてるとは言い切れないかな。
過剰な持ち上げ方には疑問があるけど。
そして性格設定やら持ち物論争なんてのは、擬人化萌えに近いものを感じる。
(個人的には過度の人間味を持たせない、過度に神格化?されていないほうが、持ち味を生かすという面で好ましくはある。)
肉声には肉声の良さがある。
(機械的に正確すぎずぶれのある方が心地よく感じることも多い。)
だからカヴァー曲に関して「人間よりも上手い!」「原曲よりいい!」という(ある種の狂信者的な)意見は原曲が好きな側から見てかなりガッカリするんだよなあ。
恋愛的な意味でこの人が好き!って気持ちをもう忘れちゃったんじゃあないかと思う。
ふられたけど何年にもわたってずっと「すき」な人がいる。距離をおかれてしまって偶像化した結果ではなくて、断続的に遊んだり仕事したりと仲が続いている状態での「すき」だ。けれども一部の周囲は「それは依存だ」と言う。私自身もそうなんじゃないかと思うところがある。
しかしながら、依存心の起こらない「すき」てあるんだろか。セットというか、付随して起きてしまうもんなんじゃないか?
依存したいてだけじゃあもちろんなくて、他にもいっぱいの気持ちが起きる。彼を幸せにしたい。笑っていてほしい。望むことなんでもしてあげたい。同じものを見たい。いちばん綺麗なものを見せたい。気にかけてほしい。他の人と同じに扱わないでほしい。とか。とか。
彼を「すき」でいながらにして、私からのアプローチで別の人と付き合った。その人に対しては、燃え上がるような気持ちを抱いたことはなくて、ただ、この人が私以外と付き合ったらむかつくなあとか、縁側で茶を飲めたらいいなあとか、そんな感じだった。別れたけど。
この本好きとか、あの映画好きとか言うと、前者の彼はよく「なんで?」と訊いてくる。それに対して「好きは好きでそれ以上因数分解できないの!」とキレたのは私だ。言葉は全能と見せかけてわりと無力だ。けども、今、すきって感覚を忘れたから、言葉で知りたい。
あー支離滅裂だ。寝よう。
>一般人とか見るようになるんじゃないかな?
俳優好きの生態はよく知らないけど。
アイドル、声優好きは、継続して応援するか別の人に切り替えるだけかと。
一般人を見ないのって、元々順序が逆のケースが一般的だと思う。
だからもう偶像にはまった人は、自分から進んで一般人を見るなんて事は…相手に興味を持たれるくらいしかありえなーい。
(まー、興味を持たれることがまずありえないだろうけどw)
中には、ヲタ仲間の中にいる異性に興味を持つ人もいるようだけど。そんな所にいる異性が異端だし。
第一、ヲタクでその信仰対象と恋愛関係になれるかも?って思っている人なんているの?w
ファンにはいるのかなぁ?いるとしたら、間抜けだ。(ヲタの間にいても間抜けだ)
数日前、あるラーメン屋の前に長蛇の列を見た。
寒空の下、肩を震わせ足踏みしてまで列をなす彼らのエネルギーはいったいどこからやってくるのか不思議だった。
寒さに苦しむ顔をしていながら、彼らの表情からはあきらかに喜びが感じられる。
まるで矛盾している彼らに、冷たい滝にうたれる僧侶の姿が重なった。
修行中の僧侶はさぞや苦しんでいるかと思いきや、実はこのうえない喜びを感じているらしいという話を聞いたからだ。
ラーメンは好きだけど、はっきりいって有名ラーメン屋のラーメンの味がほかとくらべて別格に美味しいとは正直感じられない。
有名ラーメン屋は際だって舌の肥えた人を相手に味をチューニングしていて、それは一般人には及びもつかない領域だ。
有名ラーメン屋の前に列をなす人々は、メディアが偶像として演出した有名ラーメン屋の信者になったんだろう。
彼らが列をなしているのはラーメンの味を楽しむためではなく、ラーメン屋の中で宗教的体験をするためだったんだ。
宗教というと批判的な態度かと取られそうだけど、そうではない。
純度の高い宗教的な体験を味わうためには、高い集中力が必要に違いない。
俺が宗教的体験に没入できなかったり、有名ラーメン屋の列の一部になれないのは集中力が足りないからだ。
有名ラーメン屋にならぶ彼らを見たとき、一瞬ばかにしてしまった。
彼女たちのような気持ちにはならないけど、なんとなく理解はできるなあ。
彼女たちが好きになり応援していたのは、「役者」や「歌手」としての彼ではなく、
あくまで「疑似恋人(正確には恋人には至らない)」としての偶像の彼なんだと思う。
(普通の感覚の人はその時点で「ハア?芸能人は芸能人でしょ」と理解不能。
ショックを受けても折り合いを付けられる元増田のようなファンは、彼女たちよりもそういう偶像への固執が薄い)
だから
の理由は、「関係は変わらないけど、彼という偶像は変わったから」。
彼の恋人や子どもという存在は「疑似恋人」としての偶像を壊すことになり、結果彼女たちは彼のファンではいられなくなる。
そして好きだった分、その気持ちを「裏切った」彼と、彼を奪った(と捉えてしまう)恋人や子どもなどが憎らしくなる。
なぜそれが「裏切り」になるのかというと、やっぱり彼女たちは無意識のうちに恋愛感覚でファンをやってるから。
彼女たちの応援や購入行動は、好きな人に貢ぐのに近いと思う。
一般人相手に置き換えると
『好意のアピールとして好きな人にプレゼントをし続けて、相手はニコニコ受け取ってくれていたのに、実は恋人がいた。
その気がないのに期待を持たせたり、私の好意を知っていて恋人を作った彼も、彼を奪っていった女も憎らしい。』
…という感じ?
芸能人と一般人は当然違うはずなんだけど、恋愛に近い感覚でファンやってるからそう思っちゃうんだろうね。
とまあ夜更かしのまわらない頭で想像してみた
そういう人なら、「衣装デザインと肌の色が変わったマンガのヒロインを見て描かれていない設定を考え出し、裏切られた!と怒って単行本をズタズタにして作者の実家に送りつける男性読者」の気持ちが理解できるんでしょうか。
『かんなぎ』ナギ様の非処女騒動で傷ついたのは誰なの?-きなこ餅コミック
アイドルの恋愛発覚・結婚発表後の騒動ではこれらの暴言は定番なんでしょう。しかし、怖い。
3次元騒動で危惧するのは「罵倒されている本人の目に暴言が触れる可能性がある」ことです。憎悪がアイドル本人でなく、恋人や子供に向けられていることも。
宮野真守の件は驚きました。好意的なコメントしか見てなかったので。
憎悪が本人以外のところに向けられるのはこわいなー。宮野氏とお相手にはある程度リスクの覚悟はあったろうけど、子供に死ねとか……お前ら人間じゃねえ!
「かんなぎ」騒動も驚きましたが、宮野さんの結婚についての騒動にもそうでした。
私と友人は彼のファンでしたが、友人がこの発表後発狂するかの如く怒り、グッズやCDを売り飛ばしました。(壊さないだけマシ?)
私としては好きな人が幸せになるなんてとても良い事なのに、ショックを受ける友人達が分りませんでした。それを伝えると偽善者呼ばわりされたので縁切りましたが……
はぁ?宮野厨を批判する書き込みがあったけど 意 味 不 明 。
好きな人が幸せになったら喜べ・・・とか正義厨の意見の押し付けウザイ。
奥様や子供が旦那の業を受け継ぐのは当たり前。
「アイドルグループHATENAのマスダくん(仮)が結婚しました」。
ショック、とか寂しい、とかまでは理解できます。というか実際ショック受けました、正直寂しかったです。
ファン数人で「集団失恋パーティー(笑)」とかしたさ。ケーキ買ってきて酒飲みつつPV観ながら「あーちくしょうマスダ、人のものでもいい男だよなぁ!」とかクダ巻いてました。どう見ても負け犬女の集団です本当にありがとうございました。
出てくる罵詈雑言は「幸せになっちまえバーカ!」「嫁さん泣かすなばーかばーか!」とかそんなんですよ。
彼が未婚だからって別にコンサートで「アリーナ○ブロック○列めの…そう、赤い服のキミ。ぼくとつきあって下さい!」とか言われるなんてありえない(まゆたんかよ!)、結婚したからってとたんに歌が下手になるわけじゃない。
「彼(偶像)」と「自分(一消費者)」の関係が変わるわけじゃないのになんで「ファン辞める」なんだろう。
「プライベートの増田某」が結婚によって充足とか安定とかして、「HATENAのマスダくん」の歌に深みがでるのならファンとしてこれほどウマーなことはないじゃないか。これぞまさにwin-winの関係。
仮に自分がマスダくんの嫁になれたとしても(絶対ないからこその例え話)、今度は自分がそういうちょっと愛情表現の行き過ぎたファンの標的になるってことじゃないか。怖いよ。マスダくんが理想の王子様でも、増田某がいい夫だとは限らないし。
顔も知らない赤の他人たちに、生涯の伴侶をけちょんけちょんに言われることを自分への応援だと思って(まあ一応応援といえなくもないですが歪みすぎだよね)「うれしい!俺もっとがんばる!君たちがいやならあんな嫁とは今すぐ別れるよ!!」とか言うような人だったらそのほうが嫌だw
子供をたたくのは問題外。
「憎い女の子供」なんだろうけど、「彼の子」じゃないか。ひどいこと言うなよ。
(観てないだけであるのかもしれない。ないといいな)
「スタッフ、ここ見てるんでしょう?リリースが落ちついた今になって発表するなんて卑怯」
mixiのファンコミュニティなんて仕事としてチェックしてないと思うし見てたとしてもそこから意見くみ上げるスタッフなんていないでしょ。
卑怯って何?「マスダくんが結婚してるって知ってたら新曲なんか買わなかったのに!」ってことかな。ご祝儀払わされた気がして嫌なんでしょうか。新曲聴く機会を自分で手放すのはもったいないと思うんだけどな。
「嫁は評判悪いらしいですよwwwww」
それって「マスダくんは女の趣味が悪いんですwwwww」ってことだよね。マスダくんに対する悪口だよね。そんな楽しそうに言うことか?
つかそれどこの誰のどういう評判だよ。芸能人の奥さんが誰でどういう人かなんて、芸能人同士とかじゃなきゃ知りようがないし進んで知ろうとも思わないよ。
好きな人が幸せになったんだから祝福しろ、しないのはおかしいとは言わない。
でも、ファンなのにその人の不幸を願う気持ちを理解するのは難しいです。
http://anond.hatelabo.jp/20081212153904 を見て。
元増田です。私ももっと違う路線にw
確かに「男性アイドル」(ジャニーズ)は女子のあらぬ妄想の対象になりえますね。
上手くいえないのですが、男性と比べて女性はオーガズムを感じるのはそう頻繁ではありませんし、容易でもないと思います。
つまり、性処理というのは相対的にニーズが低く、もっと妄想・精神面の充足を求める傾向があると思います。
性産業に関しては、ネットや同人誌の発達によって女性はまったく別の進化を遂げているように感じます。
おそらくイケメンが主体のAVがでたとして、女性が手に取る確率は低いと思います。
確かに「男性アイドル」=「ジャニーズ」のような図式ですと、なぜか男性ファンは少ないように思われますが、
しかし、中田英寿・イチロー・矢沢永吉・B'zなど「男性(にとっての)アイドル(=偶像)」は存在すると思います。
少女マンガでは「満月を探して」などが芸能人を目指すようなものだと思いますが、
そもそもセーラームーンなどの少女マンガの主人公全般は「アイドル」としての役割を担っていると思います。
彼女たちはシンデレラストーリーをたどり、最終的には憧れの男の子を得るという、女の子の「憧れ」を一心に引き受けてるのでしょうね。
二次元と三次元の優劣を議論し、吹き上がっている人々を時々見かけるが、これはいかがなものか。
古来より「我思う、ゆえに二次あり」という言葉もあるように、思考する事によって二次の良さが成立しているとも言える。また、三次は三次でそれはそれはめくるめくように気持ちよかったりもする。大事な事は、二次元であろうと、三次元であろうとどうやって自分の脳を刺激し脳に快感をもたらす物質を発生させる事が出来るかという事である。そのポイントさえ抑えていれば、四次元であろうが五次元であろうが構わない。
『いかにして自分の脳を快感に導けるか』という事を命題として考察した場合、「三次はファンタジーが足りない」「二次は得られる情報が限られている」などと、二次元派、三次元派の双方が揚げ足取りのように罵りあっていても、不毛でしかない。それぞれの派閥は、それぞれの派閥にあった形で、確固たる快感へのプロセスを持っていて、それが自分の脳を最も興奮させうるのである。相手に自分の派閥の素晴らしさを伝えようと頭ごなしに罵倒しても、それは相手の態度を硬化させるだけだ。相手の派閥の偶像を罵って貶める行為はさらに愚劣であると言える。
ならば、どうすれば良いのか。その答えはシンプルで明確だ。自分がいかにして二次元なり三次元で脳を快感に導いているかという事を訥々と語れば良いのである。まさに太陽と北風作戦だ。北風のように相手を罵倒しても相手は何も聞き入れはしない。「二次の素晴らしさはね、まずはここからこういう感じで入って行くんだよ。ここでこのキャラがこういうシチュエーションでこんな感じになっちゃったら、果たしてどうかな?」と自分の快感を導くノウハウを語ってみるのである。相手が「むう。それは!」とでも言おうものならもうほとんど陥落しかかっている。二次元派の布教活動はめでたく成就するわけである。立場が変わって三次元派が二次元派を説得する場合も同様である。
相手をこのように説得できるようになれば、それまで2chや増田で『二次厨』と疎まれてきた方も、たちどころに『二次の導師(グル)』とあがめられる事、請け合いである。三次元派の場合も同様である。
ただ、いかんせん向き不向きという物がある。いかに太陽と北風作戦を実行しようとしても、説得すべき相手の脳内が、すでに完成されたダイヤモンドのようにピュアな二次元脳であったりすれば、三次元派の説得工作は徒労に終わる場合も多分にして存在する。もう三次元のいかなる刺激でも、一ナノグラムの脳内快楽物質が分泌されないのだ。これは訓練や教育でどうなるものでもない。もちろん議論などおこなっても無駄中の無駄である。触れてはいけない世界というのも世の中にはあるものだ。これは、アマゾンの奥地に残る最後の秘境のように、そっとしておこうね。
二次元派、三次元派はそれぞれ説得が行えそうな人々に対し、有意義な説得を行うべきである。説得に応じる人が増えれば、その派閥のコンテンツは繁栄していくのである。