はてなキーワード: カルチャーショックとは
マジか…カルチャーショック…。
俺たぶん立たないよ…。面食いなのかな俺…。
彼女(客観的に言って)そんなに可愛くないんだけどな…。
アメリカにいた時は銀行カードに Visa 機能とか付いていてクレジットカード的に、というか実際は即時引き落としの月限度のない形で使えてたんだけど、日本でそういうのはどうやってやったらいいんだろうか?いちいち、現金をATMで引き落としとかめんどくさい。そういえば昔(日本にいた頃)はいつもやってたんだよなぁ。
クレジットカードは持っているけど、月限度額あるので、デビットカードを別に発行?でも日本のデビットカードってなんか微妙だったような気がしたんだけど、どうだったっけ。
んなことないよ。男が女に甘いのはどこでもみな一緒。女もそこを織り込んでるよ。
女性専用車両とか、日本の通勤電車の話をちゃんとしたら理解されると思うんだがな。
ただ女の戦闘意識が異様に高い。で、男のほうがうんざりしたりする。
さあ、そこで大和撫子の出番ですよ。
見た目おとなしそうで御しやすいだろうと思ってたら実は違ったってお笑い展開になるんだよ。
それより、欧米ではとひとくくりにするの、やめような。
フランス人、ナミビア人、ノルウェー人、ドミニカ人、カナダ人、コロンビア人、
アルゼンチン人、トルコ人、セルビア人、ロシア人、ブラジル人、
アメリカ人、オーストラリア人、イタリア人、スペイン人、オーストリア人、
彼女達と比較して日本人女性が不細工なのは外見以上に幼稚な中身。
たとえば外国人女性達にレディース割引や女性専用車両とかの話をすると
一様に不可解な反応を示す。
海外生活での一番のカルチャーショックはおそらく女性観の相違。
欧米では女が男に保護してもらうなどという文化はないので女も男に甘えていない。
権利だけは主張するくせに義務は積極的に怠るという態度を甘やかす、どころか強い女(笑)だとか賛美してきた結果が今の日本のビッチ蔓延状態。
いい年して、初めてジャニーズのファンクラブに入ったり、コンサートに行くようになった。
元々音楽好きで、色んなバンドのライブには通っていたけど、ジャニーズのコンサートというのは、それらとは全く別のものだった。
私はコンサートって「見る」(聞く)ものだと思ってたわけ。
でもジャニーズの場合、特に若いグループのファンがそうなんだけど、「見る」より「見てもらう」っていうのが大きな目的なんですわ。
そもそも大抵ステージの周りにぐるっと外周があったり、スタンド席の間をトロッコが通ったり、クレーンがあったりと、あの手この手でどんな席でも近くまで来てくれるのだ。
あの「うちわ」、あれは「あなたのファンがここにいますよ!」っていう目印で、ジャニタレは自分のうちわを持ってる子に、手を振ったり、投げキッスしたり、サインボールを投げたりする。
会場で売ってる公式うちわ(写真のやつ)は見えづらいので、そんなの持ってるのは初心者。
みんないかに「こっちを見てもらうか」に命をかけ、目立つうちわを手作りするのです。
そして最愛の彼に「見てもらう」からには、おしゃれにも気合いを入れまくる。
ジャニヲタ=地味なデブス、みたいなイメージあるかもしれないけど、みんなコンサートにはここ一番!という勝負服で、その日の為に美容院やエステやネイルサロンにも行き、メイクも念入りにし、と精一杯綺麗にしてくる。
とにかく、客の側が「こっちを見てもらう」「手を振ってもらう」事に全力を注ぐっていうのが、ものすごくカルチャーショックだった。
モーヲタのヲタ芸みたいなのとは、またちょっと違う気がするんだよね。
あれは「みんなで盛り上がる」みたいな感じだけど、ジャニヲタの場合は、完全に「彼と私だけの世界」(笑)
常に目当ての彼(「担当」と言う)を目で追ってるので、目の前に違うメンバーがいても完全無視(笑)
なのでジャニヲタは、同担(同じタレントを好きな同士)で一緒に入る事を嫌います。
なぜなら彼がこっちに手を振ってくれても、私になのか隣の子になのか、はっきりしないから!!(笑)
これも最初知った時はびっくりしたなー。
他にも色々あるけど、長くなったからこの辺で。
何かを訴える時いちいち実効性の有無を判断基準にしてちゃ何も言えないよ。
マジか…カルチャーショックだわ…。
俺が経営者だったら黙殺(というか無視)して終わらせるよ。
・中学校2年まで、母親に近親相姦(軽度)されていた。俺はノンケな男。
・小5から高1入学まで、周りに日本人がいない英語圏に放り込まれてたこともあって、母親のいっていることは特に疑わずに信じていた。
・最初は摩擦がすごかった。カルチャーショックかと思ったけど、母親に都合よくゆがめられていた世界の解釈がおかしいということだったんだろう。
・母親によって作られた人格は母親のit、マリオネットにしかならないことがわかった。
母親を信仰する、母親による、母親のための、家庭内宗教。 そんな感じ。
・なにかがおかしいとはカルチャーショックとして捉えられてはいた。
・母親に育てられた人格は到底役に立たないばかりか、僕を原理主義的な行動原理に拘束する有害なものだととらえるようになった。
だから人格を作り直すことにした。 徹底的におかしいところを列挙して槍玉に挙げてもらうようにする。
たとえば高校では母親を騙して寮にはいった。「勉強したいから」という口実にした。
内心、母親原理教から抜け出すことは、勉強以上のプライオリティだった。
自分で、自分が再洗脳されるようにする。 毒をもって毒を制し、その上に健全な人格を作る。
旧人格を徹底的に潰す。 「殺す」といってもいい。
・・・・この計画は成功した。僕はもう、毒親のマリオネットではない。
・・・ただ、「毒親」が理由になっていることを認識すること、言語化してそれを捕らえることは一番難しい課題だった。
僕は母親が気に食わないであろうことをすることを本能的に恐れてる。 言語化しようとしても、怖くて怖くてたまらない。
だからいつも、別の口実をつくってきた。
旧人格を壊してる間のダメージは相当なものだった。 2年で、35キロやせた。
その間は勉強はまったくできなかった。 ・・・そのときは、自分の内面的な課題に向き合うのに精魂を使い切っていた。
外界に、他人に、向けるエネルギーは残っていなかった。
うつ病なのかと思った。 抑うつではあるけど、うつ病かははっきりしなかった。
ふとした理由で、「毒になる親」という本に出会った。 ありがとうはてな。
それまでは、もっともらしい理由を見つけないといけなかった。
母親に性的なあれこれや、盛大に釣られて手のひら返してもてあそばれたりしたことが、今の僕を苦しめているのだと立証するすべがない以上、それを口実にはできなかった。
「毒になる親」にはチェックリストがあった。 ほぼ全部YESになってしまって、うれしかった。
これで、僕が抱えてる問題を他人に知ってもらうことができる、と。
・・・・他人に知ってもらう。 信頼関係を築く。
この本を使えばできるかもしれない。 涙が出るほどうれしかった。
少なくとも、親との問題を言語化する糸口が見つかったように思えた。
この本曰く、「常に親の都合やニーズが子供のそれより優先する自己中心的な人間で、愛情というものが決定的に欠けている」ことは、欧米では虐待とみなされるらしい。 20年以上前から。
一方、日本では専門家ですらこの「毒親」に抵抗を示す人が少なくないらしい。 この本の訳者あとがきが正しければ、日本は虐待への認知にかけては後進国らしい。
・・・僕は喜怒哀楽の一部が欠けてる。
喜ぶこと、自分を表現すること、リラックスすること、素の自分を他人にさらすことがどうしてもできなかった。
「公私」の「私」がなかった。 ・・・マネはしてたけど。
・・・いつもいいようのない虚無感と、フラストレーションと、恐怖感に襲われていた。
それは家庭で、母親にも父親にも、怖がること、従うこと、イェスマンになること以外のことをしてこなかったからなのかもしれない。
・・・昨日初めて親しい友達に、「毒親」を中心とする僕の問題を打ち明けた。
・・・友達って、顔色を伺って普通を演じるだけの関係ではなかった。
・・・一般概念的にそうだと認識できていたけど、自分の身でそれが起こるなんて。
初めて、人間と話したような気分だった。
・・・・夜明けは来るだろうか。
・・・自分の子供には、「ふつう」になってほしい。 代々続いた虐待の連鎖は僕が断ち切る。
・・・・僕ができることをしっかり検証して、これから自分の人格を取り戻していこうと思う。
◆追記
この本のいっていることをいえば、「育てられ方が悪かったことに関しては、子供は一切責任を負わない。」
親のせいにできることもある。
それは、心のケアを怠ったことも含む。 虐待というのは、アザが残るような暴力に限らない。
ただし、「真実に向き合い、精神的に独立した人間になり、親が自分にしたことを他人にしないように身を律すること/健全な対人関係を築くこと」は自分でやれ、といってる。
そして「適切にサポートし援助してくれる人を見つけること」。 こういうことが、この本の12章に書いてある。(青い表紙の文庫版のほうで確認)
日本にはおそらく、毒親によって潰されている人がたくさんいると思う。 僕の先輩はその典型だった。
日本は・・特に儒教の影響もあって、立場が強い人に対して矛先が向けられることがあまりない。
つまり、親に問題があるなんて言論は社会的に避けられやすい。
欠陥育児の非を「自己責任」という論説で子供に押し付けるのは、日本の限界なんだとおもう。
大切なのは、育児が子供に何を残したかだ。 親の意思、意図、愛情とはまったく関係なく、親は毒親たり得る。
有害な善意ほど恐ろしいものはないっていうしね。
子供側は、自分の潜在意識にたまってるかもしれないフラストレーションに向き合えばいいとおもう。 それはとても恐ろしくて、心が折れそうになることだけど。
まず、本人が親に立ち向かう決心をしなければいけない。
なんでもかんでも親のせいにしろというわけではない。
「育児」には良し悪しがある。 それによって責任の所在が左右される。
自己責任論で苦しんでる人は、一度自分と自分の過去に向き合ってみたらどうだろう。
この本を持ち上げすぎてる気はするけど、僕は問題を言語化する取っ掛かりを作るのに
http://www.amazon.co.jp/dp/4062565587
この本が役立った。 お勧めしておく。
◆追記その2
読みやすくなるようにちょっと補足いれてみた。
書籍について。
「不幸にする親」という姉妹本を読んでみた。 こちらの方がチェックリストが多いし、うまく整理されているように感じた。
http://www.amazon.co.jp/dp/4062144484
どんなものかを理解するには「毒になる親」がいいと思うけど、抱えている問題を言語化するツールにするにはこちらの方が便利だと思う。
みんな、健やかに生きれるようになったらいい。 そう思った。
◆後日談(随時追加する予定)
○毒親のいとおもしろし国語力測定 (前編)
http://anond.hatelabo.jp/20090118194006
コメントもらって元気が出たので文体が変わっています。
彼らの空気感がどうも自分のような古株のオタクにはよくなじめない。
もっと熱くなれよおおおと言っておいた。
古株でなくてもなじめません…… オタクですがオタクの友達がいません。
mixiなんかでつながろうとしても温度差にめげます。
レンタルビデオの会員証持って居ないオタクがいることがカルチャーショックでした。
好きなんだからガツガツする、つうのが通じません。
ガツガツするほど好きじゃないけど、でも好きなものがないとさみしいからそれが好き、レベルのひとばっかりです。
要するに「DVDは買わないけれど、グッズは買う」または「何も買わない」ひとたちです。
エヴァファンよりも、読んでるエヴァ関連インタビューが多かったりします。
「アンノ監督は同人受け狙ってエヴァ作った」なんて常識の範囲内だと思っていました。
富野監督好きな人とお話した際に、相手が『海のトリトン』『機動戦士ガンダム』すら観ていないこともありました。
ちなみに好きなのは『キングゲイナー』『ブレンパワード』だそうです。
チラ裏ごめん。
追記:ニホンゴテイセイしました。わかりづらくてごめんよ。
僕はMacユーザだ。最初に買ったのはスケルトンのiMac。FirewireとDVD-ROMがついているやつで、色はグリーンだった。OSはMacOS9.0.2。もう10年近く前の話だ。
僕がMacを買ったのは、ひとえに絵が描きたいからだった。正直Windowsにするかどうか、とても悩んだ。でもその頃買った色彩王国という色の塗り方をプロにインタビューした本では、CG塗りをしている人はMacを使っていた。だから僕もMacを買った。その頃は絵のプロになる気満々だったから、A3までプリントでき、カートリッジを交換すれば同じくA3までスキャンできるプリンターと、とても高かったけどPhotoshop 5.5J、そしてタブレットも一緒に買った。さすがにタブレットまではお金が回らなくて、Favoの一番安い奴になっちゃったけど。本を読んでPhotoshopでの絵の塗り方を勉強した。自分なりにいろいろいじって、デジタルトーンのかけ方を覚えたりもした。それで僕は満足していた。その頃に描いた絵は今もちゃんととってあってpixivにアップしてあったりする。
でもMacに不満がないわけでもなかった。興味本位でプログラミングをやってみたいと思っていたけど、ネット環境もなく大型書店もない田舎住まいの僕にはMacでのプログラミング方法なんて分かんなかった。それに、爆弾がよく出たりとか、どこにファイルを置いたのかすぐ忘れてしまったりとか、そういうところでも不満があった。
そして、絵のプロを目指すとか思っていたのに、いろいろ思う所あって実家を離れ大学に進学した。学科はプログラミングが出来そうな情報系を選んだ。そして大学で、コンピュータ室の管理のアルバイトをすることになった。
そのアルバイトでは、大学で使っているUNIXシステムのユーザサポートと、その他の雑用をやった。雑用用にはWindowsXPだったか2000だったかのマシンを使わせてもらえることになった。そして驚いた。WindowsはMacよりも使いやすかったことに。
ユーザのホームがあってその下にマイドキュメントがあって、とどこにファイルを保存すればいいのか簡単に分かったし、それゆえ作ったファイルが行方不明になってしまうこともなかった。安定性も高かった。
ただ、プログラミングに関しては大学の授業とバイトの兼ね合いで、WindowsではなくUNIXを使ってやることになった。最初に覚えたのはCだ。UNIXの世界に触れたのも、僕にとっては非常に大きなカルチャーショックだった。それまでアイコンをクリックして何かが出てきて、といったGUIの世界しか体験したことのない僕にとって、コマンドを打ち込んであれこれやるというCUIの世界は、なんと言ったらいいんだろうか?効率性とかそういうものも当然感じたけれど、でもそれ以上にコンピュータの原点というか、よりコンピュータの弱いところというか、コンピュータに自分が降りていくというか、そんなことを感じた。変なことを書いたがとにかく、コマンドを使ってファイルを作って消して実行して、自分がどこに居るかということは見た目ではなく自分の頭の中で把握していなければならない、自分の他にもコンピュータのユーザが居る、まるでコンピュータの中のマンションに住んでいるような錯覚を覚える文化に、虜になったとまではいわないが非常に感銘を受けた。
さて、次に買うマシンはどうしよう?と思ったとき、僕はWindowsを買おうと思った。UNIXシステムは大学にあるし、Linuxを入れるにしてもまずはPCを買わなければならない。そう、このとき僕の中で2代目のマシンをMacにするという選択肢は綺麗に消えていた。しかし、そんな僕を変える出来事があった。MacOSXとの出会いだ。
バイト先ではどんな環境のユーザから問い合わせがあるか分からないから出来る限りいろんな環境を揃えなくてはならないという理由で、2台だけだったがMacも置いてあった。僕がMacユーザだと知った技官の方は、そのMacの管理を僕に一任した。そのMacに当時ですら古かったMacOSX10.0が入っていたのだ。
この最初のMacOSXは評判が悪かった。すぐ固まる、落ちる、今までのソフトが使えない、そんな悪評を僕はマックの雑誌で沢山目にしてきた。しかし実際にこのMacOSX10.0をみて、それらの評判がそう的外れなものではないということはすぐわかったが、MacOS9に比べると、Windowsのように自分のホームがあって基本的にファイルがそこに置かれるというところは改善点だと思った。だがそれ以上に僕を魅了したものがあった。ターミナルの存在だ。今までのようにGUIを使ってファイルを作ったり移動したりすることができる。しかもそれをUNIXのように(実際UNIXなのだが)CUIの世界から眺めることもできる。その逆もしかり。それにWindowsでは面倒なUNIXへのログインも、sshを使って簡単にできる。そんなことにとても感動した。そしていろいろ調べているうちに当時最新のMacOSX10.2だったらX11betaも使うことができると知って、技官の方や先生へ直談判した。技術的なことにどん欲な彼らはそれに非常に興味を示し、MacOSX10.2を買ってもらえた。僕は早速それらをインストールし、Mac上でUNIXサーバからEmacsの窓を引っ張ってきた。それだけのことであるが、それがたまらなく楽しかった。いつどこの研究室からどんな問い合わせが来るか分からないから、暇なときはMacを使って勉強しなさい、と言ってもらえ、僕はMacに夢中になった。日本語Texを入れたり、Mac上でCやJavaの勉強をしたりと、それはとても楽しい時間だった。そんな僕は次のマシンもMacにするぞ、と固く心に近い、そしてその通りまたMacを買った。友人達がコンピュータ室にこもってプログラミングの課題をこなしているとき、僕は早々に家に帰って自宅のMacからサーバにログインして課題をこなしたものだ。
今この文章も、当然Macで書いている。今はWeb開発系のバイトをしていて、その上でもMacはいい選択肢だと思っている。ペーペーの僕の遥か上を行く開発チーフ達もうちの会社の場合ほとんどMacだ。ApacheをはじめとしてWeb開発に必要なものはほとんどあらかじめインストールされているし、足りないものはMacPortを使ってすぐにインストールできる。ブラウザでの表示確認にはSafari、Firefoxをはじめとしたモダンブラウザが使えるし、Parallels Desktopを使えばWindowsもインストールでき、そのブラウザからMac側で動かしているWebアプリの表示確認をすることだって出来る(たいていはIEに失望することになるが)。
絵を描きたいというところから始まった僕のMac人生だけれど、Web屋もどきになった今でも重宝している。これからもよっぽどのことがない限り変えることはないだろう。非常に長く主観的な思い入ればっかりの文章を書き連ねてきたけど、これが僕がMacユーザを続けてるわけ。
http://anond.hatelabo.jp/20081016221223
「掃除の仕方が分からない」って言う気持ちよく分かる。
自分の場合は、掃除+片付けの方法が分からなかった。
(ちなみに他の家事はやろうと思ったらすぐできた)
親の教育だか自分の性格だか、片付けに縁遠く育ち、高校まで汚部屋。
はっきりいって、部屋をどう片付ければいいのか分からんかった。
今思えば、入れ物にまとめると言うことを知らなかったし、収納家具を買うとか、小物入れを買うとか、入れ物を増やすことにも頭が回ってなかったからだと思う。
そこからいきなり大物を欲しがって、親に拒否されるパターン。
で、大学生になって、学生の身ながら仕事に就いたこともあったりして1人暮らしすることにした。
今の部屋のままだと何をどうすればいいのか分からなかったから。
引っ越して初めて、自分で稼いだ金で収納家具を買って、失敗しつつ
絨毯はコロコロクリーナー? でも奥の粉末状のホコリ取れないよね?とか
フローリングは綿ボコリができるんだ!とか
いろんなカルチャーショック受けつつ、ちょっとづつ対処療法を憶えていった。
そのうち家具や部屋のレイアウトも、「掃除しやすいようにこうしよう」とか、
「この位置だとコンロに近くて油汚れが付くから、もっと遠くに置こう」とか
考えられるようになった。
「この部屋は掃除機をかけるから、床置きのものは全部可動式にすればいいんだな」とか。
多分自分には「自分で試行錯誤する」という経験が不足してたんだと思う。
学生の頃には、生ゴミを放っておくとウジが湧いたりハエが沸いたりするのを知らなかったけど
親が自動的に捨ててくれてたし。それで困ったことはなかった。
掃除のエキスパートである親が、こっちが困る前にやってくれちゃってた。
http://anond.hatelabo.jp/20081013211518
http://anond.hatelabo.jp/20081014152345
ファッションの話で大勢の人が反応してるけどなんか理解しがたい。
そんなにみんな服装の事で考えたり悩んだりしてたの?アイドルやモデルでもないのに?
だって別に街中や飲み会であった人とか学校や会社の同僚が誰がどんな服着てるかなんて興味無いし全然覚えて無いよ。
日頃の服装を気にしてる人がそんなに多くいるとは知らなかった。ちょっとカルチャーショック。
それで皆さんにお聞きしたいんですが、何故ファッションに気を使うんでしょうか。
異性の目を引いて「抱きたい」or「抱かれたい」と、思われたいからですか?
もしくは雑誌に載ってる服やブランド物を着てないと内心馬鹿にしたりされたりするものなんですか?
あと、「オタっぽい」っていうのは「ダサい」と同義ですか?だとすれば「ダサい」人を見たらどう思うんですか?
「近寄んな、こっち来んな、関わりたくない、あっち行け。シッシッ」って感じですか?それとも
「こいつキメぇwww性格や対人関係に問題有るヤツなんだろうな、彼(氏・女)いない歴=年齢だな。カワイソーにw」
とかって感じですか?
ワカらないしあんま想像つかないので聞かせてください。
高校生になって初めて村から市に出て、学校私服だったから結構カルチャーショック受けて、丸井とかで服買うようになった。ポールスミスとかR.NEWBOLDとかタケオキクチとかPPFMとか。それまでライトオンしか服買うとこって無いもんだと思ってたから値段とかシルエットに衝撃受けたね。親が結構理解有る人で結構買ってくれたりした。当時は、まさに裏原全盛だったけど田舎だったからAPEとかネイバーとか買えなくて丸井一筋だった。たまに東京遊びに行った時にTシャツ買ってきたりして。段々、地元にも扱うショップ増えてきたけど、値段的に手が出なかった。あとW<とかbeauty:beastとかの奇抜ファッションに憧れつつも実際に着る勇気は無かった。アンダーカバーとか雑誌でしか知らなかったけど何かもう神がかってかっこよく見えた。でも何だかんだで親受けもいい丸井系で高校生時代は過ごした。
大学時代はもうめちゃくちゃ。
裏原方面に手を出す。GENERAL RESEARCHとかSOPH.とか。
↓
ルメール、ステファンシュナイダー、サンローランとか。あとjipijapaとかkatoとか。服ヲタと化してた。
↓
ファッションに疲れる。ハリウッドランチマーケット系列でしか買わなくなる。ビルケンとか。定番馬鹿になる。
↓
卒業。で、今。社会人2年目。またファッション熱が再燃している。
ギャルソンとか、あと意外と裏原残党(ソフとかノンネイティブとかvisvimとか)が面白く感じる。
ここまで書いて自分が今まで服に使った金額がヤバそうで絶望した。
一番カルチャーショックだったのは、一般人は自分の今持ってる服の種類、色、形の組み合わせを考えて新しい服を買っているという事。
そのへん、毎日の料理を作るための買い物に似てるかもしれないと思った。
冷蔵庫の中身を考えて、あれを使い切るための料理を作ろう、じゃあ追加でこれを買おう、これが余ったらまた別のそれを買えばあんな料理ができるし。
というループ。
今ある服に合う服を買う、買った服に合う服を買う、以下ループ。
ね、そうやって充実させていくと広がりが出るでしょう。
元増田の服の買い方は、とりあえず食べたい総菜を買うって感じかなあ。
上から下までまとめてコーディネートしてもらうのは、特定のメニューを作るために、その材料だけをどかっと買ってくるのに近いかも。
なんか脱オタファッションの話で盛り上がってるけど、私はファッション的一般人(とあえて書く)と話をしてみて自分がファッションに心の底から興味がないのをはっきり自覚した。
一番カルチャーショックだったのは、一般人は自分の今持ってる服の種類、色、形の組み合わせを考えて新しい服を買っているという事。
私はそういう事を本当に全く考えた事がなかった(欲しいと思った服をそのまま買ってた。そもそも欲しい服ってのがそんなにないのだけど…)ので、なんかもうその話を聞いただけで自分は完全にダメだと思った。
だって自分に似合う色とか色の組み合わせなんてわかんないし…。さらに形って…?
脳細胞の配列がファッションに気を配るようにできていないとしか思えない…。
「脱」とかいう問題ではない。無理。
先日、連れと、上野のフェルメールとデルフト派展みたいなものに行った。
特別展は平日だというのに、なかなかの混雑ぶりに驚いた。
中に入ると、OL風の二人が、絵の前で「この視線が」「へぇ」「なるほど、やっぱりドラマが」云々と鑑賞していたのを見てさらに驚いたが、こういったのは展覧会であちこちで見られたのにほとんどカルチャーショックといってよかった。
自分も連れも、普段から美術館系にはほとんど行かず、同じ上野なら二つの博物館か動物園に入り浸るが美術館に足を向けたことはない。加えて美術的な素養もほぼないに近い。今回来たのも、たまたまチケットをもらったからだった。
確かに飾られた絵画は(素人目で)きれいでうまかったけれども、じゃあ他の画家とどう違うから今も名声をその保っているのかと聞かれたら、まったく答えられなかっただろう。正直、オランダの画家ならレンブラントとフェルメールの区別がつかない自分には、フェルメールとデルフト派の区別もまったくつかない。
ほとんど作品の横についている解説を頼りに、這う這うの体で二時間かけて見終わった。
二時間もいたわけだから、まったくつまらなかったというわけではないが、時間をかけた割りに、心から楽しめたというものでもない。帰ってきて、何が、フェルメールにしろ他のデルフト派にしろ、すごかったのかはわからずじまいであった。
先のOLのように、こういったものを鑑賞する、そしてそれを楽しむ能力を持っている人間というのは、ある種尊敬に値すると思う。こういうのは、先天的にもらえるものなのか、はたまた後天的に取得できるのか、そもそも学校か何かで習ってなんとかなるものなのかどうか。
グループで行ったときは、お互いの頼んだものをつまめばよろしいじゃないですか。また、それを前提として「グループとして」注文するものじゃありませんか。
ところがですよ。潔癖なのかなんなのか、自分で頼んだものは自分だけで食べようとする人がいるんですね。抱え込んじゃってさ。取らねえよ、別に。オマエだけ好き勝手やれよ、もう。
ほかは同意するけどこれはお前……ダメだ。ダメダメだ。(一応これにはこの先があるけど、この人は既にこの「自分で頼んだものは自分だけで食べようとする人」って時点で批判しているので)
逆に自分は、こういう奴腹立つんだよ。グループでいったからって、勝手に「みんなでつまんで食べるよねー」って前提作ってる奴。(勝手じゃなくても、事前に提案されても反対したい←けど大抵なし崩しに同意させられる。同意しないとKY扱い)やだよそんなの。色々食べたいなら自分が色々頼めよ。強制的に「みんなでつまんで食べあいっこ」の輪に入れられるのが腹立つ。自分は、それが食べたくて頼んでるんだよ、お前らが頼んでるものなんて別に食べたくねえ。自分はマグロのカルパッチョが大好きなんだけど、頼むとそれを勝手に「うまそう、一口くれ」とかいって食べてく奴がいる。ほんっとこれ腹立つのね。そんで怒ると「いや俺のも食べていいからさ」とかいうけどお前の頼んでるものなんて別に食いたくねえんだよ、補償になってねえんだよそれは。
あのなあ、自分すっげえ好きなんだよ?カルパッチョ。注文してからめっちゃwktkしてんのよ?もうドレッシングの一液も残したくねぇ、ってくらいの勢いなんよ?しかも店のカルパッチョなんて、少量で高価なのばっかでさ。ちょっと取られただけで大ダメージなんだよ。そういう意気込みでこっちは頼んでるのに、勝手に「たべあいっこでいいじゃん!」の輪に入れられ、食べられてしまう苛立ち。そしてそれを断ると、「けち臭い」というレッテルを貼られるこの苛立ち。けちくさいのはそっちだろうが。カルパッチョ食べたきゃ新たに金払って食べりゃいいんだよ。金けちってんのはそっちだろ。
お前はこっちのものが食べたいからいいかもしれないけど、こっちは別に食べたくないんだよ!
「お互い様☆」とか思ってるかもしれないけど全っ然お互いさまじゃねえ!こっちは食べたくないんだから!
食べたいなら頼めよ、カルパッチョ。なんで自分のをとるわけ?っていうと「だってちょっとだけ食べたいから…」て答えがかえってくると思うが(そうじゃないなら頼めばいいんだからな)、しらねえよそんなお前のわがままなんか!なんで自分がそんなお前の身勝手なわがままにこたえてやらなきゃなんねーんだっての。
「みんなでつまんで食べる」とか、本当やめてほしい。お前らの頼んだものなんて必ずしもこっちが食べたくなるようなものじゃないんだから、同じ物量食べるなら、自分が自分の好みで選んだ美味しい食べ物を食べていたいんだよ!
大体こいつさ、「とらねえよ別に」っていってるけど嘘つけ!「グループとして注文してお互いつまみあうもんじゃないですか」って言ってるんだから最初から他人のつまむ気満々ってことだろうが!守らなかったら、つまんでくるってことだろうが!そりゃ守るわ。守らせてるのは誰だっての。「つまむもんだよねー」とか勝手に他人の食事まで己の者としている奴のせいだろうが。
こういう奴って本当他人の事考えてないのな。「自分がつまんでたのしいと思うんだから他人もそうにちがいない」っていう考え。
こういう奴にくらべたら、調味料クラッシャーとか、他の店と比較するとか、(そりゃよくはないが)たいしたことじゃない。だって、どれも「ただ言ってるだけ」「相手の食べ物が破壊されるだけ」なんだから。「勝手につまみあいに参加させられる」のが一番重大な被害。自分の食べ物他人に食われるんだから、これほど直接的な被害ってないだろうよ。
あーあ、カルパッチョの恨みが再発して長文になっちまった。ああ腹減った。
ブックマーク見て思ったんだけど、「カルパッチョ代だけ後で払えば」とか「一人で食べれば」とか、なんでそんな皆当たり前のように「みんなでつつきあうのがありき」で話すんだ?自分にとっちゃ、「みんなでつまむ」なんてのは誰かにとってのマイルールってくらいの感覚なんだが(だから、そんなマイルールをハナっから押し付けてきて、従わない方が変!とか言ってる様にドン引きするんだが)、お前らにとってはもしかしてうんこをした後手を洗うくらいに当たり前!な常識なのか?だとしたら物凄いカルチャーショックを感じる。
実際、大勢で集まったから、当然のように分け合うよね、なんてあんまり周りの環境じゃ無いんだよなー。大抵多人数で食事するときは各自好きなもんとって食べて談笑するのが普通。(だからこそ、上のような例が今でも腹立つんだが。しかも大抵カルパッチョは最初の方にでてくるから腹減った奴の餌食になる。おめーはハンバーガーでも食ってろ!!)誰かが「分け合う?」っていっても「いやでも皆好きなもん食べたいっしょー」「食べる量も人によって違うから、単にワリカンにするとアレだしなー」って言うのが普通の環境なんだよな。分け合って食べるっていうとアメリカ人のバーベキューか、子供のパジャマパーティーみたいな印象しかない。
でも、「大勢といったらつまみあうのが常識」と「個々人で注文し食べるのが常識」がぶつかりあったその時は、後者を優先すべきじゃないか?なぜなら後者なら我慢する人がいなくてすむから。その分、つまみあうのが大好きな人の、つまみあう分の楽しさは減るかもしれんが、だからといって好きなものを頼んで食べる以上「普通より下」にはならんだろ。一人の時など、普通の時は誰だってそうやって食べるんだから。でも、前者にすると、つまみ合うのが好きな人は普通以上に楽しくなるが、その分それが嫌な人は食べたくもないものを元を取るために食べ、自分の食べ物はとられ、そしてワリカンを払うなどという我慢をさせられなきゃならん。「普通以下」の気分にさせられてしまう。つまみ合う人たちの「楽しさ」のために、一部の人が「我慢」させられなきゃいかん。それは理不尽な話だろ。多人数で食事する以上、多人数がなるべく同じくらいの気持ちでいられるようにすべきだ。誰かがめっぽう楽しいが、誰かは嫌がっている、なんて状態を作りだすのは、楽しんでいる人たちのエゴだろう。嫌な人たちを土台にして、自分達だけ楽しんでるだけだ。
(てか、「じゃあ一人で食べれば」って意味わかんねーんだよな。え、多人数の食事の意味って「つまみ合う」ところにしかないの?っていう。そんなしょっぱい目的でしかないの?多人数の食事って。
たとえばフランス料理や懐石なんか、いくらなんでも誰だってわけあっては食べないだろうが、だからといって恋人同士のデートでのフランス料理が無意味ってなるか?「じゃあ一人で食べれば」ってなるか?ならんだろ。個々で食べてても「一人で食べればいいじゃん」なんて出てこないだろ。誰かと食事をするいいところって、わけあって食べると色々食べれてお得とかそんなセコい点じゃなくて、幸せな時間を共有するとか話したりするとかそういうところにあると自分は思うんでね、「じゃあ一人で食べれば」って言う人の意味が全然理解できねーわ。多人数の食事ってそんな程度のもんだっけ?)
《私の中学では同和教育をしている。前の学校では、ひとかけらもこんな教育を受けたことがなかった》
東京から大阪に移り、2度目の引っ越し先となった大阪市東淀川区での生活は、橋下自身が「僕の人格を作ってくれたところ」と振り返っているように、濃密な時間だった。中でも中学校で学んだ人権教育は、思春期の橋下にとって「カルチャーショック」とも言える出来事だったようだ。
かねてより疑問に思ってたんやが、同和問題に関して西と東とではだいぶ温度差があるんでないかと。。
関東以北、とりわけ東北地方においては同和問題は存在しない・・・たぶん
自分が不勉強なだけかもしれへんけど、学校の授業でも習った記憶がない
はじめてこの言葉を耳にしたとき、綜合警備かなんかと思ったくらいやもん(汗)
あまりにも貧しすぎて東北全体がそもそも同和地区みたいなもんやったからやろか
それとも、やはり同じ日本とはいえ蝦夷と倭との違いみたいなもんがあるとか
ほんまのとこはどないなんすかねえ・・・