はてなキーワード: イラストレーターとは
anond:20080911161235やanond:20080911161803が書いてるように、仕事内容が多岐に渡っているから便宜的に「デザイナー兼イラストレーター」と名乗ってる感じ。
イラストを描いたり、キャラクターやグッズのデザインをしたり、Flashで動画や携帯コンテンツを作ったり、GIFアニメを作ったり、さらに漫画も描いたりもする。(あと同人もやってるw)
こんなんだから職業をなんて名乗っていいのかよく分からん。
ずっと異性と距離取って生活してて彼女いない歴も年齢と同じなのに、最近急に気になる人が出てきてその人と良い感じになりそうで戸惑ってる。
相手は今、お手伝いをしている会社経由で知り合ったイラストレーターをしているKさん! 取り引き相手なんだけど、会社の人に連れられて事務所に行ったのがキッカケ。会ったら「あ、キミが増田君なんだ」って何故か僕のことを聞いてたみたいでKさんは、化粧っ気がなくて髪もボサボサってわけじゃないけど伸ばしっぱなしって感じでファッションも地味で、垢抜けない文化系女子?って感じ。向こうは何故か最初っから僕のこと気に入ってくれてて、会社の人がトイレに席を立った時にメールアドレスの交換をした。初めて女性とメール交換するからドキドキした。しかも相手は年上の社会人! 最初は返信するのに何時間もかかっちゃった。優しくされるのが嬉しくって頑張った。でも、何で僕?
お互い映画好きだから映画の話で盛り上がってポニョが見たいって話になったから、勇気を出して「一緒に行こうよ」って言ったら難なくOK! やっぱり何でだろう。
そんで会ってから2週間で初デート。二人っきり! こっちは前とあんまり変わらない服装で行ったのに、Kさんは前と全然違って綺麗に化粧しててフリフリのドレスみたいなの着て髪飾りしてるし、「僕のために??」って舞い上がった。でも、何で??
その日はポニョ見る前に僕が行ってみたいって言ってた三越のジュンク堂行って二人で写真集見たりした後、Kさんオススメのハンバーグ屋に。メニュー見たらけっこう値段張ってビビっちゃったんだけど、何とKさんの奢りだって! 別にお金ないとか言ってないよ? Kさんの方が年上だから、僕が学生だからって言ってたけど……。映画代もKさんが出してくれた! 何でこんなにしてくれるんだろ……。映画見た後は感想とか話し合いながら、駅までの道を遠回りしながらフラフラ歩いた。手繋いだりしたかったけど怖かった。もしかしたらKさんとホテル……なんて考えたけど何もなかった。
そんで次のデートの誘いがもうKさんから来てる。新宿御苑、って庭園?に友達と行ったんだけど、閉園時間がすぐ来ちゃって全然見れなかったから、僕と一緒に詳しく見て回りたいんだって! 明後日行くことになってる。これってもう完全に僕に気があるよね? だって僕と二人で行きたいんだよ! 調べて見たら新宿御苑ってカップルがいちゃつくのに良い場所っぽい。Kさんは僕と手繋いだりチューしたりしたいんだよね?? その後はホテルに行って裸のKさんとパンパンパンパン……。
でも、何で僕なんだろう……?
イラストレーションの分野に関してはそう思う。韓国イラストレーターのレベルの高さはすごい。
だけど、アニメ、ゲーム、漫画になると日本は他の国には全然追いつかれる様子が無い。はっきり言おう。何年経っても、他国のそういった作品は、日本に追いつけていない。近年の韓国の最新の漫画(マンファ)でさえ、日本の80年代で既にやりつくされた感が強いものしか出せない。絵面は良くてもストーリーが弱すぎる。抑圧された自分がイヤボーンの法則で解放、なんてネタは日本の雑誌じゃまず編集の段階で蹴られる。
何故日本の漫画のストーリーがすごいのかというと、日本ほど自由な発想の国は無いからだ。他国には、他国の素晴らしい文化があるが、日本ほどいろんなものを笑顔で受け入れてしまう国は無い。社会的に抑圧されてないし、ニートなんて存在さえも大量に生み出す。その自由な発想から描かれるから漫画は面白い。
抑圧された社会では、抑圧された社会に反発する漫画ばかりしか書けない。そう、かつての日本もそんな漫画であふれてた。中国も韓国も抑圧されているから、漫画にそれが現れる。実際イヤボーンをはじめ、抑圧ありきの漫画ばかりだ。
そういった意味では韓国も中国も、資本主義にならない限りは土台の部分さえも日本には絶対に並べない。
そして、韓国も中国も、資本主義になるのはまだまだずっと先で、更に資本主義がこなれるまでは更に先。俺らが生きてる間に成されるかどうか不明なぐらい先。
という事だ。
44歳の男性です。儲かっていない小さな会社を経営しいています。
妻は32歳、子供は一人で8歳の男の子です。妻のことは愛してますし家庭には特に不満もありません。けど、それだけでは飽きたらず家庭以外にも女性を求めてしまっています。最近、数が増えすぎて困ってきています。
今の「彼女」は
31歳主婦
33歳既婚看護師
この辺が月に一回ぐらい会っている相手です。可処分所得は月に20万円ぐらいで普通のサラリーマンより恵まれていると思うのですが一回のデートに3-4万ぐらい使うので正直金が持ちません。月に一回じゃなくてもっと会いたいとせがまれてますし。上記以外にも不定期で会っている相手が何人かいます。
彼女たちを騙しているつもりはないです。結婚していること、子供がいること、離婚するつもりもないことはちゃんと伝えてあります。妻以外にも複数いることは伏せてありますがw 相手によってはジレンマを感じつつ私と付き合っているようですね。
これだけ恵まれているにもかかわらず新しい相手を口説こうとしている自分がいます。今付き合っている彼女たちも愛おしいですしどうしたらいいのやら。病気でしょうか。病気ですよね。
横だけど…。
もしかして同人誌って、年に1冊とかしか出さないと思ってるのかな?
多いところだと(つーか知人のところ)1週間に1冊出すよ。
大体月に0.5から1冊くらい出すと思う。
例えば、印刷所の中でも最低ランク(仕上がりが悪い分安い)とこで見ても
http://www.pico-net.com/05_service.htm
B5を500部、100ページで出すと16万1200円。
(ちなみにこれページ数多いから相当安い計算)
で、そこから書籍用紙に本文替え、
表紙のカラー料金は別で4色分解だと売れないから蛍ピさしかえ(肌が明るくなる)5色で
500枚 63600円。
これに出来上がった分送料が1箱1500円で、これ8箱くらいになるのかな。1万2000円。
1冊で20万チョイかかる。
これはすっごい安い印刷所だからこの値段なのであって、
やっぱり自分で書いた絵はキレイに出力して欲しいから、
ちゃんとした印刷所(普通の印刷所よりも安い同人誌印刷専門だけど)にお願いすると
印刷代上がるんだよね。
で、それとは別にデータ処理用のパソコン、スキャナ、フォトショップ、イラストレーター、
トーンソフト、そういったものも買っているわけです。
文章屋だったらin Designも買っている。
同人誌だからショボイと思われてるかもだけど、ちゃんとプロ用ツール使ってるんだぜー。
ムダな出費だぜわはは。
悪徳で儲けているところもいっぱいあるけど、
私はオタクなので「ええ?それは過敏じゃ…」と思ってしまったが
先日ちょっと考えさせられた出来事があった。
彼はデスクトップ画像をローゼンメイデンのレースびらびら美少女にしていたり
地獄少女にしている。(ちなみに別のオタクの指摘によるとローゼンメイデンの方は
オリジナル絵ではなくどこかの同人イラストレーターの描いたものらしい)
勿論職場ですから一応配慮はしているみたいで、露出はまったくない。
上記2種の作品を知らない人のために解説しておくとレースの方は手首まである長袖長丈ドレスだし、
ところがその彼のPC壁紙をみて、職場の女性上司(40既婚)がこう耳打ちしてきた。
「ねえあの人…職場のパソコンになんだかえっちな絵を飾っているわよね…。私びっくりしちゃった」
ええええええ、あれエッチですかあああ? 私もびっくりした。
「私にはさほどえっちには見えませんが…」と一応フォローしておいたものの
ああいうオタクっぽい絵=エッチなものというのが認識として刷り込まれているようだ。
まぁ、絵のことは詳しくないので自分のブログに書かずにこういうところで書くんだが。
ニコニコの「描いてみる」なんかを見てて思ったんだが。
平面的というか、いわゆる漫画的な絵に陰影を付ける手法が現代日本の大衆芸術の主流なんだなーと。
それがそもそもどこから来ているかと言えば、アニメの影響、特に手塚アニメが動きの少ないアニメに立体感を持たせようとしたところから来ているんだろう。初期のディズニーアニメのバンビや白雪姫にはキャラクターに陰影を付けていなかった。
まぁ、そのアニメに影響されて一枚絵でもアニメ的な平面なキャラクターに不必要なほど影をつけていく現代のアマイラストレーター達が出来てしまったのだろう。
そもそも平面的な絵を書いておいて立体感を持たせようという考えに、私としては馬鹿馬鹿しさも感じるのだが、そこはまあおいておくとして。
確かに陰影法を用いると立体感のあるようなリアリティの有る感じの絵ができあがる。
その代わりに暗い部分を作ってしまうことにより、全体的に暗めの色を使わなくては色のバランスがとれなくなり淡い色や濃い色が主として使われ、明るい色が使われなくなる。全体的に落ち着いた色に纏まる。まぁ、単純に言えば色彩が乏しくなってしまうってことだ。
9/18現在放送されているモノノ怪と言うアニメを見れば分かるが、キャラクターに陰影を付けない代わりに豊かな色彩で圧倒される。
そもそも日本の絵画が影を使わず豊かな色彩で描かれている物だから、それに合わせたのだろうが、だからこそ現代のアニメから浮き上がって豊かな色彩が与える芸術性を再確認できる。
天野喜孝氏の絵も影を使わず様々な色彩で描かれている。独特な画風も特徴ではあるが、私にはあの色彩の妙に魅了される。
対して現代のイラストは線が描き出す物体の形が主であり、色は従的な存在でしかないように思われる。
魅せるための色ではなく、線+αとしての色。
まぁ、エンターテイメントに芸術を求めるのは愚かしいことだが、大枠が変わってないことを感じ始めると狭い範囲での絵の個性を競われても飽き飽きしてくる。
もうそろそろ、漫画やアニメに新風をもたらす動きが出てきてもおかしくないのではないか。
途中で何が言いたいのか分かんなくなってきた。
増子さんはいつも机の上にタオルを置いている。
増美さんは今日も昼寝してる。
狭い教室
窓の外を見るたびに青々と広がる空が見える
出席簿には生徒が書いたたわいもない落書き
これだけ書けたら将来イラストレーターくらいにはなれるわ
教科書を開いて考える
今日は何ページからだっけ
昨日なにか宿題だしたっけ
手帳を取り出し確認、確認、、、っと
ただ教科書をめくるだけの毎日
でかかったあくびを噛みしめ
態度の悪い子を叱れば、恐い目つきで睨み返され
居眠りしてる子に呼びかければ、シカトされる
この仕事、向いてないのかも。
そんなことばかりもいってられない
でもあの子の様子が変
なんか、下ばっかり見てる
家庭で何かあったのかな
それとも恋愛?
もしかしていじめ!?
おっと、なんだか心臓がばくばくと音を立てはじめたぞ
、、、なんて言ってられない
後で話を聞くべきなのかな
でも、下手に刺激してやっかいなことになっても嫌だな
、、、とくに誰も彼女を見てないしなあ
逆に彼女は必死でだれかを見ないようにしてるみたい
え、なんでそんなこと分かるのかって?
勘よ、勘。
かわいいな・・・・・・。
人形とか興味ないのだけど何んかほしくなったぞ。
でも、どう考えても
http://www.shinada.net/fumofumo/frontDesk.html
http://www.shinada.net/dictionary/fumofumo/fumimg/story/discovery1.jpg
このイラストレーター2ch育ちだね。
ごめん、推定少女はあえて外した。
タイトルだけだとどっちかといえば引くほうに入るけど、
作者名とイラストレーター名を知るとすごく惹かれるから。
元の増田じゃないけども
20年前のラノベで中心的に活躍してたと思われるイラストレーターをあげてみる
天野喜孝http://www.so-net.ne.jp/amano/
いのまたむつみhttp://www.artjeuness.net/artist/inomata/index.php
末弥純http://www.artjeuness.net/artist/suemi/
加藤洋之+後藤啓介http://www.fuki.sakura.ne.jp/~burabura/index.html
出渕裕http://www.artjeuness.net/artist/izubuchi/index.php
山田章博http://www1.odn.ne.jp/yamada-kirakuya/
草彅琢仁http://www.kusanagist.com/
米田仁士http://members.jcom.home.ne.jp/zarathustra/
美木本晴彦
当時の「漫画の絵がついた魔法が出てくるゲームっぽい小説」って、このへんの人たちを頻繁に目にした記憶がある
あとちょっと遅れて中村博文とか弘司とか
あまりの反響に腰をすえて色々なご意見にお答えしなければと思いつつ、議論の焦点がぼやけているためにアニメやらイラストやら消費形態やらいろんなものの系譜を頭の中で整理していたらとてもじゃないけどすぐ書ける様な話でなくなってしまったので、脊髄反射で思ったことだけ書き記しておきます。
本文のクオリティは保証しないので、君はこのエントリを読んでもいいし、読まなくてもいい。
さて、元エントリ「なぜ作画の評価は割れるのか?」では、あえて“脚本・演出”の評価と“作画”の評価を切り離しています。これは、最近みられる“作画崩壊”に対するネット上のアニメファンの反応における問題点を明確にしたかったからです。
『グレンラガン』#4は脚本がダメだったから叩かれているのに、小林作画を擁護しているのは検討違い。本当にグレン観てるの?という批判については、上記の理由より「いやそんなこと申されましても…」としかいえません。
ちなみに、今回シナリオにも小林治の手が入っていますが、自分としては小林演出と、氏の描く女子の可愛い表情、仕草は大好物ですので、ふつうに楽しめてしまいました。
ゆえに「ふつうのアニメファンには見向きもされない」と『BECK』を評された増田様におかれましては、「じゃあふつうのアニメファンって何を観てるんだ?!」と激しく抗議申し上げたい。
冗談はさておき『グレンラガン』#4はあくまで元エントリを書くことになったキッカケに過ぎず、各人にとってそれが面白かったかどうかは、今回述べたかったことではありません。
「作画崩壊祭り」に限らず、「トレス祭り」「パクリ祭り」など、ネットでの炎上事例は枚挙に暇がありませんが、本来、非難されるべきでないものまで含めて祭りの対象となっている様に思われるケースが多々みられます。
祭りに参加している人には「わざと叩いてる」荒らしもいますが、中には、ブログのエントリやまとめサイトに煽られて、かなり真剣に批判的な書き込みをしている人がいる様に思います。
例として適切かどうかわかりませんが、『涼宮ハルヒの憂鬱』における「晴レ晴レユカイ」の振り付けはトレスである(パクリである)というエントリが一部で話題になったことがあります。このダンスについては、京アニの山本寛がアイドルユニットBerryz工房の大ファンであり、作画スタッフは絵コンテとともにPVを幾度となく見せられたというエピソードが公開されていて、“盗用”ではなく“オマージュ”と見るのが正しい受け取りかただと思うのですが、このエピソードを知らなかったとしても、ハルヒのEDとベリ工のPVから同じ動きのカットをならべて「トレスだ!」「パクリだ!」と言うのは、ちょっと違うんじゃないのといいたくなるわけです。
教養主義や世代論でこの問題を解決したいとは思いませんが、クリエイターや著作権に対する無知・無理解、あるいはリテラシの欠如が、こういった祭りを加速する要因のひとつだととらえると、元エントリのような教科書的にジジむさい説教も書かずにはいられないのです。
実際のところ、自分もアニメーターブーム直撃世代ではなく、その後のキャラクターデザイナー、イラストレーターが注目される時期に、アニメにはまっているので、キャラ萌え、ビジュアル重視という傾向にむしろ拍車をかける様な消費形態をとってきました。ゆえに、作画やアニメーターに関する知識においては半可通であるという負い目もあって、あえて増田で書いているわけですよ。出来ることならばタイムリープして自分に説教したい!
そんなこんなで、誰かを突き放したり、権威ぶったりするのではなく、消費する中で自分が獲得した視点とか面白ポイントを、Web2.0的に共有したり継承したりできればいいのになと思って頑張って書いてみたのをご理解いただけると増田うれしい。
あと、anond:20070424113453の増田さんはおそらくバランスのとれたアニメの観かたをできている人だと思います。「あー、おいしかった」というアニメの観かたの中には、知識の有無は関係なく「アニメーターの凄い仕事」に対する感動が含まれているハズだと思います。「作画崩壊祭り」の輪の中にいる人たちの言動が、あまりにも極端に「絵の美麗さ」と「キャラクターの一貫性」を非難の根拠としていることから、元エントリも極端な反論になっているので、実際バランスをもっている人にとっては、そんなことないよと反論されるものだと承知しています。
「さすが京アニ」を「さすが京アニ」にとどめず、ちゃんと理解することが、理想的な状況につながる突破点だと考えているのですが、それを記すには膨大なリソースが必要となるので、いつかまたどこかでやりたいなと思ってます。あるいは某アルファブロガーとか某アニメライターとかがやってくれないかと思います!!たりきほんがーん!!
キャラクターの一貫性に対する寛容・不寛容については、同人におけるキャラクター消費の盛況から、実際は若いファンほど寛容であるという意見があったのですが、公式キャラクターグッズのひとつとしてのアニメ、DVDという観点からより強力に一貫性が求められる傾向にあるという理解です。この議論につっこんで「データベース概念」や「キャラとキャラクター」という話を始めると、「批評うざい」といわれるので、あまり掘り下げることはしません。というかこれ以上、泥沼に足を突っ込みたくありません!
最後にひとつだけ、ガイナックスというスタジオは、少なからずその出自を“オタク”に持つ、あるいは持っていると思われることで、アニメオタクから支持されてきたはずなのに、なぜ今回のような事件を起こしてしまったのかが、残念に思えてなりません。
もっとも、エヴァの時点で庵野秀明がいろんなことを言っちゃってますが、そのフラストレーションのアウトプットとしてそれ相応の作品ができてくることで、むしろ根源的な部分で切っても切れないオタク性みたいなものを炙りだしていたので、自分としてはほほえましく思いました。
しかしながら、ガイナックスの内部スタッフがキモオタ氏ねというコメントを(意図的ではないにしろ)発表してしまい、そこに赤井孝美が乗っかってるというのは正直どうよと。いつからそんな風になっちゃったの!と。オタク目線をわすれないガイナックスというのはもはや幻想なのかもしれないと感慨にふける14の夜(嘘)でした。
http://anond.hatelabo.jp/20070422234719
んー。もっとすごく単純な話で、「絵がキレイ」で「よく動く」作画が一番評価されやすいんじゃないのかなぁ。
だから当然、絵のキレイさが無ければその分だけ評価が下がるというのは、これまた極々単純な話。
しかしながら、現在の「萌えブーム」の中核をなすギャルゲー、ラノベ世代の若いアニメファンにとって、アニメ映像のクオリティの基準は“絵の美麗さ”“キャラクターの一貫性”にあることが多い。これは、ギャルゲーやライトノベルがアニメーションとは異なり、原画家、イラストレーターといった、比較的少人数のスタッフによって描かれることから、絵柄のブレが発生しないメディアであるということも、大きな要因であると思われる。
また、メディアミックスを通じて、複数のメディアで横断的に作品、キャラクターを消費することが普通になっているため、キャラクターの一貫性を維持するということは、ファン活動そのものを維持することに直結する。ゆえに、いちばんわかりやすい、ビジュアルとしてのキャラクターの一貫性が強く求められているのではないか。
グレンラガン4話やアクエリオン19話(だったよね?)の作画の評価割れの件について言えば、そんな複雑な分析は恐らく必要ない。「上手いものは上手い」「下手なものは下手」ただそれだけです。いや、下手と言っても、比較的に…という話ですが。
もちろん、ヘタウマ絵なんて妙なカテゴリもあるくらいで、”下手さ”があるからこそ表現できるものというのはあるのだろう。個性だとか、アート的な何かだとか。ただ、その部分に評価の重点を置きすぎて、下手である事をスルーしてしまうと、それが原因で評価割れが起こってしまうのではないかと思います。
最近では、アニメーターブームの中核を担っていたような人々が、監督クラスになって作品を作っているので、こういった遊びが復活するのも不思議ではなく、動く絵を愛するアニメファンとしては、どうか表面的なキャラ絵だけではなく、広い意味でのアニメをみる楽しさ、アニメの気持ちよさを知ってもらいたいなあと思って、このような駄文を長々と書き綴ってしまいました。
「○○産の△△は□□地方特有の××で育成されただけあって芳醇な…」
それは確かに高度な楽しみ方なのかもしれないけれど、別にそんな事が言いたいわけじゃない。僕らは、ただ単に感じたいだけなんです。
「あー、おいしかった」
って。
ひとつは、絵の美麗さ。
ひとつは、動きのよさ。
「絵の美麗さ」とは、いうまでもなく一枚一枚の絵の美しさ。本来は、レイアウトなども含めて絵としての完成度が測られるべきだが、最近では、キャラクターが可愛く描けているかどうかに重きがおかれる傾向がある。
しかしながら、アニメは構造上、多くの人間によって描かれるため、描き手の能力や個性によって絵柄がブレることになる。そのため、作画監督という役職を置くことで、1話単位での絵柄の(できるかぎりの)統一を図っているのが実態。
場合によっては、さらに“総作画監督”という全話にわたって絵柄を管理する役職を設けることもある。
「動きのよさ」とは、動画=動く絵としての心地よさ。細かい表情や、仕草、あるいは派手なアクションなど。この動かし方やタイミングはアニメーターとしての技術力が最も現れる部分であり、個性がはっきりと出ることになる。“動き”は、キャラの演技や画面演出の幅の広さにつながる重要なポイントとなる。
かつて、80年代後半のアニメーターブームにおいては、様々な作品中でアニメーターが見せる個性的な“動き”にファンが注目し、スターアニメーターと呼ばれるアニメーターが何人も誕生した。
その時代に詳しくない人にも解りやすい例としては、金田伊功の「金田エフェクト」(オーラや稲光、またはその残像などが、画面内で激しく動き回る効果)や、板野一郎の「板野サーカス」(ミサイルや戦闘機が、縦横無尽に追いかけっこをするように動く、メカアニメの定番表現。納豆ミサイルとも)がある。
ちなみに、上記のような“動き”の表現は、アニメーター達の間で模倣、継承され、さらに新しい表現を生んできた。スタジオ内の師弟関係によって、動きだけでなく、絵柄も継承されることがあった。アニメーター単位ではなく、スタジオ単位で担当作品を認識するケースも見られる。
作画監督というシステムも、過去においては縛りの厳しいものではなく、作画監督ごとの個性が大きくでている作品も少なくない。『美少女戦士セーラームーン』はキャラ絵の可愛さに重きを置いているイメージがあるが、実際には作画監督の個性が強くでていた作品の代表例といえる。
アニメーターの個性を楽しむ、という面では、過去には『機甲戦記ドラグナー』において大張正巳による(設定とは異なった)有機的なラインで描かれるメカをそのまま登場させるオープニング(特別に本編に登場した回もある)や、『天空戦記シュラト』での菊池通隆による作画監督回(本来のキャラデザは奥田万つ里だが、当時『超音戦士ボーグマン』で人気が集中した菊池が特別に起用された)など、作画の個性がファンサービスとされたこともあった。
最近でも、『創聖のアクエリオン』におけるうつのみや理、『ギガンティック・フォーミュラ』での薮野浩二(本編)と門之園恵美(原案・ED)といったアニメーターの個性を全面に出した演出、遊びが見られるが、若いアニメファンから「作画崩壊」と揶揄され、拒絶されるケースが多くおもわれる。『天元突破グレンラガン』#4も、キャラクターの感情をさりげない動きで巧みに表現する小林治(『BECK』監督)の個性が全面に出ていることで、過去3話と比較するファンに拒絶されている。
ちなみに、「作画崩壊」というのは本来、制作工程の管理ミスなどにより「動かない」「絵がヘタ」「色がついてない」等の“未完成”状態のアニメが放映、上映されてしまうことを指していた。1989年の『天空戦記シュラト』アスラ神軍編に始まり、1998年「ヤシガニ」の語源となった『ロスト・ユニバース』、1999年に未完成のまま劇場公開され波紋を呼んだ『ガンドレス』と、過去数度にわたり「作画崩壊」は発生している。アニメバブルによる製作本数の増加、海外発注の増加によるクオリティコントロールの困難など、様々な理由があるが、最近では海外スタジオとの作業ノウハウも蓄積されているので、トラブルになるケースは減少したが、国内の動画スタッフ空洞化という新たな問題も抱えている。
上記のような理由から、アニメーターブームを経験している様なファン(30代??)はアニメーターの個性に対して寛容、あるいは好意的な態度をとることが多い。
しかしながら、現在の「萌えブーム」の中核をなすギャルゲー、ラノベ世代の若いアニメファンにとって、アニメ映像のクオリティの基準は“絵の美麗さ”“キャラクターの一貫性”にあることが多い。これは、ギャルゲーやライトノベルがアニメーションとは異なり、原画家、イラストレーターといった、比較的少人数のスタッフによって描かれることから、絵柄のブレが発生しないメディアであるということも、大きな要因であると思われる。
また、メディアミックスを通じて、複数のメディアで横断的に作品、キャラクターを消費することが普通になっているため、キャラクターの一貫性を維持するということは、ファン活動そのものを維持することに直結する。ゆえに、いちばんわかりやすい、ビジュアルとしてのキャラクターの一貫性が強く求められているのではないか。
このことは、『ぱにぽにだっしゅ!』では好評だった新房昭之が、そのままのスタイルで手がけた『ネギま?!』が原作ファンからブーイングをくらうことになったケースにも見て取れる。
今回『グレンラガン』がブーイングの対象になっているガイナックスは、本質的にはアニメーターの個性や動かす技術による部分が大きいスタジオであるので(決して、エヴァとパチンコでお金を稼ぐのが本質ではない、と思いたい)、今回のように作画監督、原画の個性が顕著に現れることは、意外ではない。
最近では、アニメーターブームの中核を担っていたような人々が、監督クラスになって作品を作っているので、こういった遊びが復活するのも不思議ではなく、動く絵を愛するアニメファンとしては、どうか表面的なキャラ絵だけではなく、広い意味でのアニメをみる楽しさ、アニメの気持ちよさを知ってもらいたいなあと思って、このような駄文を長々と書き綴ってしまいました。
決して、俺達はお前達とちがって芸術が解る眼を持っているんだぜ!と言っているわけではないんです。ほんとに。
どっかの技術雑誌の囲み記事かもしれない。長いからカナリはしょった。
2割の労働力が全生産量の8割を担っているとか聞くことがある。
その2割の労働力と8割の生産量に注目した場合、同じ法則を適用すれば、0.4割の労働で6.4割の生産を担っていることになる。さらには0.08割で5.12割の生産を担えるという計算だ。パーセンテージに直せば、全労働力の0.8%分で全生産量の51.2%分を引き受けていることになる。
個人的な実感としては、「企業内の社員」と「利益のつながり」を数値的に把握することは大掛かりすぎて難しいけれど、「自分のスキル(およびそれを身に着ける過程の手間)」と「自分がしている仕事の量」に注目すると、意外にしっくりきてしまう。
自分が持っているスキルセットを考えたときに、毎日繰り返し使っている能力(たとえばコミュニケーション能力)をどのように身に着けたかに思いをめぐらしていると、実は苦労して身に着けたスキルは、(少なくとも直接的には)実際の生産につながっているとは限らない。たとえば大学の受験をしたころ(遠い目)に苦労して身に着けた物理の計算など全く使うことはないし、新入社員のころ研修で毎日残業しながらしつこつ教えられ身につけた一般的なスキル、そんな能力自体を直接的に活用して仕事をこなしている人というのが多数派かというと、それが少々、あやしく感じられる。
PCのアプリケーションなどもいい例かもしれない。イラストレーターという高機能なソフトウェアがあったとして、ふだん自分が使っている機能は全体の何パーセントだろうか?おそらく1%にも満たない部分でほとんどの仕事は済んでしまう。非常に細かい環境設定であるとか、画像の補正機能なんていうのは、それこそロングテール部であって、その機能を必要とする作業にとってはとても価値が大きいけれど、ふつうの大雑把な画像作成には不要なわけだ。
Windowsのペイントは、イラストレーターと機能を比べたら、1%くらいの機能しかないかもしれない。しかし、
ふたつの比較を見比べてみても、違いとしては前者の方が大きいだろう。スキルや能力を3段階考えて、レベル1:全くできない・レベル2:少しだけできる・レベル3:何でもできる、とした場合、レベル1とレベル2の差は、レベル2とレベル3の差とは比較にならないほど大きい。
分業によってプロフェッショナル化が進んだ社会だということで、自分の中のプロフェッショナル的な部分は大切にして伸ばしていくことが当然好ましいだろう。けれど、ゲーテの時代から叫ばれていた、「自分のスペシャリティは、オールマイティに能力をつける過程の中で見出すべきだ」という教育の理念を、最近の社会や個人は忘れがちだ。
自分がやりたいことを突き詰めるのはよいことだろうけれど、自分が専門を持っていて狭く深いスキルを持っているということと、自分がさまざまな方向に興味をめぐらして浅く広いスキルを持っているということ、この二つは全く矛盾しない。社会にフレッシュな新人があふれているこの季節、いろんなことを試してみるという方向性のメンタリティを、斜に構える前に身につけてもらえたらなぁ、などと、いちコラムニストが考えているのは、これは大きなおせっかいであろうか。
長かった、やめときゃよかった。。。
あとエピソードが長かったから省略したせいで誤解あたえちゃまずいんだが、筆者はコミュニケーション能力はスグ身について広範に利用できる「1%」側のスキルだと考えてるみたいだ。その点は私も賛同するが、ハテナ内のウケは悪そうだなw