はてなキーワード: 直行とは
http://anond.hatelabo.jp/20090415074829
これの続きようなモノ。
大学を「学校に行けない病気」で退学した私は学校で学んだことを生かせる仕事を探していた。ただ、学んだ分野が環境化学というあまりメジャーじゃなく仕事も少なそうな分野だったので探すのにかなり苦労した。
それでも農薬を作っている会社の研究所に潜り込む事に成功した。
仕事は元々興味ある分野だったし、残業も殆ど無いような負荷も少ないもので学校で学んだ知識と新しく学んだ事でのびのびと仕事することができた。幸いなことに評価も良く順風満帆な日々を過ごすことができた。
しかし、半年ほどして異変が訪れる。
「学校に行けない病気」が再発したのだ。いや、増悪したとも言うべきだろうか。
当時、通勤は電車とバスを利用していたのだが、バスから降りられなくなったのだ。
降りるべき停留所が近づくと段々呼吸は速くなる。動悸もして息苦しく頭が真っ白になる。それは停留所に近づけば近づくほど強くなり、停留所を超えると段々収まり今度は自責の念が私を責め立てる。
「死ねゴミ死ねゴミ死ねゴミ死ねゴミ死ねゴミ死ねゴミ…(以下延々繰り返される)」
と云う言葉で頭の中が支配される。
始めのうちは先の停留所から引き返して遅刻、ということで処理はできていたのだけど、それも数が増えると話は少しややこしくなった。程なく上長から注意を受けた。怖いタイプの人ではなかったので大したことは言われなかったとは思うけど、それが自責の念を増長させた。
注意後は引き返すことすらできなくなり、途中の停留所で降りて、音のしない場所を必死になって探して勤務開始ぎりぎりくらいに休む旨の電話を携帯からした。なぜか解らないけど「音のしない場所」というのを必死になって探していたのを覚えている。
そんなのが一週間くらい続いて、また上長から注意を受けた。今度は上長の上長もやってきて注意を受けた。
いわゆる厳重注意に当たるものだと思う。同時に何か精神的に何か問題は無いか、とも聞かれ初めて精神科を受けることになる。
薬を飲むようになってからは少し落ち着き二ヶ月くらいは普通に出社できた。
このまま何事もなければ今頃私はその研究所で正社員として活躍していたかもしれない。
だけど現実はそんな風にはさせてくれなかった。
年が明けてすぐ再び「病気」は再発した。また一週間くらい行けなくなった。
二度目はなかった。
程なく無理矢理呼び出され、所長と上長の上長と上長の3人と面談となりその場で「今日付で自己都合で辞めてくれ」と言われた。
当たり前と言えば当たり前。でも当時の私には裏切られた思いでいっぱいだった。あんなに評価してくれて良くしてくれたのにあっさり辞めさせられるんだ…って。
「病気」とは別の形で頭が真っ白になりつつその場で辞表を書かされた。
その後、ふと思い立って辞めた大学に復学したけれどこんな状態じゃ学業もできるわけもなく、元々辞めた理由の「学校に行けない病」も再発し半年で再び辞めた。
入学金諸々200万をドブに捨てた。
大学復帰の道も閉ざされた私は仕事を探しては何とかどこかの会社に潜り込み
朝起きる→朝食食べる→着替えて外出る→電車乗る→漠然とした恐怖・不安→目的地駅で降りられない→どこかで降りて休みの連絡を入れる→休み多くなる→呼び出しの電話→クビ
と言うプロセスを面白いように繰り返していた。
そこに休養という文字はなかった。なぜなら家族が「病気」に対しての理解がなかったから。
父曰く「サボってるだけじゃないのか?」
とナチュラルに言うのだから休養なんてできるわけがなかった。
この辺で「社会は、会社は誰も私を救ってくれない。絶望した!」みたいなことを思うようになっていた。
派遣で潜り込んだ会社で宇都宮の世界の誰もが知っているメーカーの研究所に派遣された。
派遣先に上長が私をえらく気に入ってくれたらしく「5年以上の長いスパンで働いて欲しい」とまで言われ、場合によっては正社員雇用も…みたいなことまで言われた。
仕事は化学とはあまり関係のない分析評価の仕事だったけど、仮に在籍していた5流大学を新卒してでも入れなさそうなメーカーで正社員も夢じゃない…みたいな話だったので殆ど二つ返事でその仕事を受けた。
宇都宮はさすがに通勤できないので転居して一人暮らしをすることになった。
初めての一人暮らしは不安だったけど、恐怖の対象であった父や口うるさい母もいないのでむしろ好都合だったし、住環境も周辺環境も恵まれていたし、仕事場まで車で10分。車がないと不便な場所ではあったけど日用雑貨からPCパーツまで車で20分も走らない場所で揃えられたので今思っても最高の環境だった。
そんな中で最近(2009年現在)世に出た製品のさらに次の製品に向けての技術の研究という最先端中の最先端の仕事ができた。職場環境も居室が機械だらけで動作音がうるさい以外はまさに最高。言うことがなかった。
そんな最高の環境の中で多少の休みはあったけれど半年くらい仕事をすることができた。
しかし、そんな最高の環境の中でも異変は起きた。
トリガーはなんてことのない物だった。簡単に言うと部署間での私の取り合い。
私がいた居室は3つの部署が共有していた。
一つは私がいたところ、もう一つは私たちの一つ前、最近世に出た製品の技術関係を手がけていた部署。もう一つは良くわかんないけど別の事していた。
その最近世に出た製品の技術関係を手がけていた部署の係長が「ちょっと最近忙しいから一月くらい手伝ってくれないか?」と言ってきたのだ。今所属している部署の係長もOKしているみたいなことを言われたが、正直行きたくなかった。
と言うのもその係長が生理的に受け付けられないタイプでその部署もあまりいい空気ではなかったからだ。それでも「一ヶ月くらいなら」と、言うことで異動することに了承した。
そこで話が終わればもうちょっとそこでの仕事が長続きしたかもしれない。
いざ異動してみるとその係長から「ここに来たからにはもうずっとここにいてもらうからね♪」みたいなことをナチュラルに言われた。
話が違う!
抗議した、猛烈に抗議した。その抗議は部長を引っ張り出す騒ぎになったが、その決定を覆すにはさらに上の役員を引っ張り出さないといけないらしく、覆すのは事実上不可能だった。
元いた部署で一番お世話になった主任は「あの人はそういう人なんだよ。」と自嘲的に言っていた。結局決定は覆らず、「なんか語弊があったけどこういう事だから頑張ってね♪」みたいな係長二人のサイン入り書面を差し出された私はその日早退した。
そして一週間休んだ。
「ちょっと精神科行こうか」
当時、すでに近所のメンタルクリニックで投薬治療を受けていたけど、それは会社には隠していたので通っている病院とは別の精神科になんとか行くことになった。
そこで「鬱状態」と診断された。
翌日、派遣元の支店長から「支店にちょっと来いやと」いう連絡を受け、宇都宮駅前の支店事務所に向かった。そこで支店長から言われたのは「派遣先から撤退する。お前会社辞めろ」と言う事実上の解雇通知だった。
は?
なんで?
確かに「病気」の事は隠していたけど、事情が事情だし…というかなんで休養とかそういうのもすっ飛ばして辞めろとかになる訳?
抗議した。そんなのおかしい、何で辞めなきゃいけないんだ?
猛烈な言い合いは4時間を超えた。
で、痺れを切らしたのか支店長はこう言った。
「精神障害者は使えないんだよ!!!」
あぁ…。
何かが崩れ落ちた気がした。
支店長がどういう意味でそういったのかは知らない。でも、その言葉はあまりにも無情で残酷で…世間の正論過ぎた。
程なく辞める旨を伝え、それから数日で宇都宮から実家へと帰還となった。
それから仕事を探しては数日でいけなくなってクビになると言うのを何年も繰り返した。
一番行くところまで逝ったところだと、静岡の某宇都宮で居たメーカーの同業他社で、そこはお世辞にもいい職場環境ではなく仕事をした時は2週間くらいで会社に行けなくなった。
で、また数日会社に行けなくなって派遣元から「これ以上休んだらクビにします」と言う最後通告の電話を受けた直後殆ど自動的にアルコールで抗うつ剤その他100錠近くを一気に飲み込んだ。
結果は…今ここに私が居るわけで未遂に終わった。
友人と家族は…多分許してくれたと思う。そう思いたい。
46万円。
退職金という名目だったけど、書面を見ると事実上の手切れ金だった。
「46万円やるからさっさとここから消え失せろ」
コンプライアンス事業部のえらい人が放った言葉は穏やかだったけど実質そんなものだった。
労基とかそんなの以前に服薬の影響で記憶も曖昧な状態でろくな判断能力もあるわけが無く46万円押しつけられて派遣元会社をクビになり、再び実家へと戻ってきた。
その後も会社は行ってはクビになるを何回も何回も繰り返していた。
「休養しろ」とか言われると思うけど、当時金銭的な問題で月に10万以上金を稼がなくてはならない状況で何が何でも仕事をしなければならなく、その上家族も多少の理解は得られたとはいえ病気に関してはまだ「怠けだ、甘えだ」と思っている節があるらしく家にいても正直休まらなかった。
そんな感じでこじれにこじれて今に至り、前述の「会社に行けない 」のエントリーに繋がるわけです。
ちなみにこの会社もクビになりました。
熱意はWebエントリーで落とされても社長に直訴の手紙を出すほどにあった。
技術も気がつけば新入りではずば抜けてあったらしく、赴任先事務所でも即戦力になるほどだった。
でも、会社に行けない、と言う社会人として当たり前のことができなくてクビになった。
結局何やっても、どんな事しても「会社に行けない病」をどうにかしない限り私は社会生活を送ることができないらしい。そもそも社会が私を受け入れてくれないようなのだ。
最近になって金銭的な面が法的にどうになるようになり、少し休養する時間ができるようになった。精神科に通院投薬治療は続いているし、障害者手帳も取得することができた(ただしあまり役に立ってない)
ただ、家庭経済面で休養、はできないらしく、父母からは「最低アルバイトはしろ」と言われてしまった。そんなわけで今アルバイトを探している。なるべく負荷の少ないコンビニとかそんな仕事をいくつか面接入れている。
三十路過ぎて大学中退、しかも職歴むちゃくちゃな私をどこが雇ってくれるだろうか?
しかもフリーターという身分。結婚以前に恋愛もできやしない。そして何より、この先這い上がるチャンスという物が事実上ゼロだという現実に直視しなければならない。
この状況で社会という物に希望を見いだすことができるだろうか?
正直今の私には無理だ…。
あとがき:
これほど反応があって驚いています。皆様、ありがとうございました。色々ありますが、この記事で伝えたかったのは、私のような、「コップ一杯のビールも飲めないタイプ3の下戸が存在する」という事実です。私がR25の記事を読んで最初に疑問に思ったのは、件の記事の著者が、タイプ3の下戸の存在を知らないのではないかと思ったからです。「いくら下戸といっても、コップ一杯のビールぐらい飲めるだろう」、と、そのように思っているのではないかと感じましたし、私の経験上、そう考えている上戸の方は大変多いと思います。
結局、タイプ3の下戸の存在を知らないと、どうしても「コップ一杯のビールぐらい飲めるだろうに、それすらしたくないのだろうか」、「仲間に加わりたくないのだろうか」というように感じてしまい、「自分勝手」とか「わがまま」とか「協調性がない」といった誤解を招きやすいのです。確かにタイプ3の下戸は5%しかいないので、たまたま、知り合いに一人もタイプ3の下戸が存在しないこともありえますので、普通の人が我々の存在について無知であることは致し方ない部分もあります。(本当は、中学・高校で1コマ時間を取って、我々の存在を教えてもらえるだけでよいのですが・・・)ただ、アルコールの専門家を自認する人には、我々の存在は知っていてしかるべきであると思います。件の記事の著者を私は存じ上げませんが、私には、「どうも、この人はタイプ3の下戸の存在を知らないのではないか」と感じられたので、この記事を書いたのがきっかけです。
イッキ飲みのような、大量にアルコールを飲ませるような行為は危険性が重視されて社会人の間では避けられるようになってきましたが、それの根底には、「誰でもイッキ飲みが出来るわけではない」ことが明らかであるという事実があります。ある事柄が、社会的に「皆がやるべきこと」として認められるためには、前提条件として、まず「誰でも可能な事柄」である必要があり、「イッキ飲み」は明らかにそれに該当しません。一方、同じアルコールでも、「最初の乾杯はビール」は、「誰でも(下戸でも)ビール一杯ぐらいは飲むことが可能」と思われてしまう節があります。
「最初の乾杯はビール」もだんだん行われなってきてはいますが、「下戸だって本当はビール一杯ぐらいのめるはずなのに、協調性がないからビール一杯すら飲まない」などと思われては仕方ありません。そうではなくて、「ビール一杯でも飲めない下戸が存在するのだよ」ということを、ちゃんと知ってもらう必要があると思い、この記事を書いた次第です。
追記1:「愚痴っている暇があれば工夫せよ」という意見を見かけたので、僕自身がどのような工夫をしているかを書きました。「迅速に乾杯したい」というニーズがあることはもちろん百も承知で、臨機応変に色々考えて「最初はビール」を断っています。
http://anond.hatelabo.jp/20090324213407
追記3:「愚痴っている暇があれば幹事をやれ」という意見を見かけたので、下戸が幹事をやるべきかどうかについて書きました。率直に言えば、下戸が幹事をやるべきかどうかは場合によると思います。
http://anond.hatelabo.jp/20090325095112
追記4:追記2の「鍛えると強くなる」の原理について、自分も「正常な遺伝子が働き始める」っていうのは厳密にはおかしいと思っていたのですが、ちゃんと解説してくれた人がいたので、リンクを張っておきます。
http://anond.hatelabo.jp/20090325114537
追記5:「まずは東大に入れ。話はそれからだ。」というトラックバックを見つけましたが、僕は東大卒ですww英語Iで「優」取るために、The Universe of Englishを丸暗記するのは大変でしたよね。丸暗記しなくてもよく読んでいれば「良」は取れますが。東大は努力すれば入れますが、下戸は努力しても飲めるようにはなりません。
http://anond.hatelabo.jp/20090325212150
追記6: はてブより、「同性愛の例示がクソむかつく。私らのほうが日常的に異性愛を押し付けられて、逆なんてほぼありえないのに!本当に苦手だとしても、こうやって繰り返しホモフォビックな反応を分かり易い一例として使われるのは不快。」というご意見がありました。お気持ちお察しいたします。申し訳ありません。ただ、僕も、最初は、「クソむかついた」からこの記事を書いたので、記事の訂正はしません。結局、本質的な問題は、マジョリティとマイノリティの対立なんですよね。喫煙ではマジョリティが喫煙者から非喫煙者に変わったために、状況が変わっただけで、マイノリティが不遇な目に会うという点では同じだと思います。
下戸なんだよ。下戸って言うのはね、要するに、普通の人でいう二日酔いの症状が、酒を飲んだ瞬間に出るんだ。二日酔いになると、頭ガンガンして辛いだろう?あれが、ビール、コップ一杯飲んだだけで、出るんだよ。ジョッキじゃないぞ。200mlぐらいのコップだ。二杯飲むと、トイレ直行で吐くんだよ。俺、吐くのはやだし、周りの人間も、飲み会で俺のゲロみてもしょうがないだろう?だから、飲まないの。
http://r25.jp/b/honshi/a/ranking_review_details/id/1112009030214
藤原ヒロユキ:「ですから、お酒が苦手な人が、乾杯だけ飲酒に付き合う場合にも、ビールはとても適しています。」
いや、ビールが好きな奴の間で、あーだこーだ言ってもらう分には全然かまわん。なんっで、「お酒が苦手な人」が、乾杯だけ付き合わなくちゃいけないんだよ!下のように、酒以外のものに置き換えると、いかに異様な文章かわかるだろう?
・「タバコが苦手な人が、一服だけ喫煙に付き合う場合にも、この銘柄はとても適しています」
・「同性愛が苦手な人が、一回だけ同性愛に付き合う場合でも、キスはとても適しています」
アルコール中毒の人が医者に行くと、嫌酒薬っていう酒を飲むと気持ち悪くなる薬をもらうんだが、下戸の人間は、常に嫌酒薬を投与されているのと同じ体になっているんだ。日本人の5%は、遺伝的にこの体質。「苦手な人」ってね、「苦手」どころの話じゃないよ。吐くの。コップ2杯で。ゲロゲーロ。俺のゲロ見たくないでしょ?
まぁ、でも、俺は無理して飲んでも吐くぐらいですむからいいけどさ。アルコール中毒の人にお酒すすめちゃったらどうするの?それで、飲酒運転で事故起こしたり、家に酔って帰って家庭内暴力の引き金になったり、色々考えられるけど、あなた、責任取れるの?
不思議なことに、これがタバコだったら、「吸わない人に付き合いでタバコを勧めるなんて、相手が肺がんになったら責任取れない」という意見には、割と納得してもらえると思うんだよ。なんで、酒だとダメなのかなぁ。不思議だなぁ。付き合いでタバコ吸って肺がんになるのは、まだ自業自得の範疇と言えるかもだけど、付き合いで酒を飲んで酒癖で事故起こしたら、自業自得じゃすまないはずなのになぁ。
http://anond.hatelabo.jp/20090324221109
http://anond.hatelabo.jp/20090324225008
http://anond.hatelabo.jp/20090324224532
「酒が飲めるように努力しろ」「遺伝だから仕方ない」の、お決まりの議論が出ましたが、正確な知識を持っている人が少ないので、ここにまとめます。結論から言うと、日本人には「下戸遺伝子」と呼べるものが存在して、次の三種類のタイプが存在します。「酒豪遺伝子」は存在しません。「下戸遺伝子」の有無で決まります。
このうち、2のタイプの人は飲むとすぐに赤くなりますが、正常な遺伝子も持っているので、鍛えると正常な遺伝子が機能し始め、強くなります。一方、3のタイプの人は、下戸遺伝子しかもっていないので、鍛えても強くはなりません。僕自身は3のタイプで、父親が3のタイプ、母親が2のタイプです。
自分の経験で言うと、同じ「酒に弱い」でも、2のタイプと3のタイプの間には、大きな差があります。2のタイプは酒に弱いとはいえ、乾杯のビール1杯ぐらいなら難なく飲めるので、今回のような問題は避けられます。3のタイプは、本当に、ビール1杯~2杯で頭がガンガン、ゲロゲーロ、普通の人で言う「ひどい二日酔い」の症状が出ます。そして、3のタイプの人は、5%しかいないので、存在そのものが知られていません。特に、2のタイプの下戸の人の中には、「最初は弱かったけど鍛えたらのめるようになった」という経験を持つ人がいて、3のタイプの人も自分と同じだろうと思い込み、「お前も鍛えれば飲める」という発想に至ってしまうのです。
このように、下戸遺伝子は、簡単に言うと、どれぐらいお酒を飲むと二日酔いの症状が出るのかを決定するものです。下戸が「飲めない」のは、コップ1杯のビールで二日酔いになるからです。大変誤解が多いですが、下戸であるかどうかは急性アルコール中毒へのなりやすさとは関係ありません。急性アルコール中毒は、単純に、体重に対するアルコールが多すぎると起こります。下戸は、ちょっとのアルコールでも二日酔いの症状で気持ち悪くなるというだけで、下戸でも体重が重ければ急性アルコール中毒にはなりにくいです。
下戸遺伝子は、白人や黒人にはありません。2万年前に起こった突然変異が、モンゴル人・中国人・韓国人・日本人など、東アジアの人間を中心に広がったものです。実際、下戸遺伝子を持つ人がいるかどうかは、ある民族にアジア人との混血があるかどうかを調べるのにも使われています。
この下戸遺伝子の正体は、DNA中の、ALDH2という、酒を分解する時にできる毒(アセトアルデヒド)を分解する酵素の設計図が、一文字変わってしまい、酵素が壊れてしまったことによるものです。アルコールを分解する途中で、アセトアルデヒドという毒ができるのですが、このアセトアルデヒドは頭痛・吐き気といった中毒症状を引き起こします。これが、二日酔いです。下戸はアセトアルデヒドの分解速度が遅いために、どんどんアセトアルデヒドがたまって、すぐに中毒になります。
とにかく、下戸には3種類いて、本当にコップ1杯でも吐く3のタイプの人が5%存在する、と言うことだけでも覚えて頂けると幸いです。
参考文献
http://ja.wikipedia.org/wiki/アルデヒドデヒドロゲナーゼ
http://ja.wikipedia.org/wiki/モンゴロイド#.E4.B8.8B.E6.88.B8.E9.81.BA.E4.BC.9D.E5.AD.90
専門家の方へ:酵素が壊れるんじゃなくて、正確には、「四量体になって活性が失われる」んだ、とかその辺の科学的な細かい間違いは、僕も分かってます。ただ、「活性が失われる」とか普通の人に言っても、通じないので、「壊れる」と表現しました。「新モンゴロイド」という言葉も、硬くなりすぎると考え、あえて使いませんでした。
で、治ったの?
俺も行ったことあるよ、心療内科。
上司に相談したら「心療内科行って診断書持ってきたら半年は休職にしてやる」
と言われてさ。
いやー、すごい世界だったね。待合所で診察待ちしてる時間が苦痛だった。
セルフ車掌とか目じゃない。奇声発しまくりのマジキチとかいっぱい。
壁に向かってお経唱えてたりとか。もうキチガイの巣窟。すくつ。
処方された薬も睡眠導入剤とか言うのだったけど、飲むとすぐ眠くなるけど寝起きが最悪。
こんなんに頼っちゃダメだ、と思ったので目標を立てて規則正しい生活に戻そうとしてみた。
まずは朝はラジオ体操をする。んで、ネット禁止。家でボーっとするなら図書館で読書。
夜は23時に寝る。飯もカップラーメン禁止でコンビニのサラダ中心。野菜嫌いだけど頑張った。
こんな感じで3ヶ月過ごしてたら、なんとか会社に戻れた。
まぁ、増田も頑張れよ。
自分のブログに書いても誰もたどり着かないので、ここにも書く。
その日のことは今も鮮明に覚えている。
その日は朝から「ちょっとおかしなこと」が立て続けに起こった。まず、3月上旬とはとても思えない暖かさだった。湿気があったので、生ぬるかったと言うほうが正確かもしれない。その生ぬるい気候を伝えようと、サンデージャポンが「靖国神社で桜が開花したこと」をトップでとりあげた。サンデージャポンのような(良い意味で)ふざけた番組が真面目なノリで桜の開花を伝えるなんて、それもなかなか奇妙に思えた。
それから、ジョギングおじさんがジョギングをしなかった。毎週日曜日の11時に僕のマンションの前をジョギングするおじさんがいて、そのおじさんがジョギングを休んだのを僕はそれまで見たことがなかった。僕はそのおじさんを「ジョギングおじさん」と呼んでいた。そのジョギングおじさんを見ると、僕はとてもほのぼのとした気持ちになれた。日曜の朝は、当時の僕にとって1週間で最ものんびりした時間だった。ジョギングおじさんは、その日曜日の朝の象徴だった。
しかし、その日はジョギングおじさんは来なかった。表へ出て、ジョギングおじさんを見ながらタバコに火をつけるのが当時の習慣になっていたんだけれど、その日は待てど暮らせどおじさんがこなかった。これは本当に驚きだった。このことを何人かの友人に話しても、僕の驚きの1%も驚いてもらえなくて、そのうち友人に話すのはやめてしまった。でもとにかく僕は驚いた。おじさん無しで火をつけたタバコを吸いながら、なんか調子が狂うな、と考えていた。
その後も、遅い朝食を食べようといつもの定食屋に行ったのに臨時休業だったり、花粉の季節なのに間違えて洗濯物を外に干してしまったり、なんだかいつまでたっても落ち着かない変な日だった。
そして、その日の夜、僕は彼女と19年ぶりの再会をした。
彼女はいちおう幼なじみで、僕の実家から200メートルくらい離れたところに住んでいた。なぜ「いちおう」かと言うと、それまで僕と彼女はほとんど口を聞いたことがなかったのだ。なにかの具合で僕と彼女の家のあいだに学区の境目があって、違う小学校に通っていた。親同士の仲が良いということも特になかった。そんなわけで、通りでたまたますれ違っても、ろくに挨拶もしなかった。大人になれば、「軽い会釈」という便利なものを覚えるが、当時の僕らはそんな便利なものは知らなくて、何も言わず、視線も交わさずにすれ違った。
そして、気づいたら彼女の家の表札は違う名字になっていて、僕は彼女が引っ越したんだと知った。
今さっき書いたばかりで申し訳ないが、その日、つまりはジョギングおじさんが来なかった日に19年ぶりの再会をしたというのは、ちょっと正確ではない。実は、その日からさかのぼること2週間前、僕は彼女が「サンマルク・カフェ」で働いているのをたまたま目にし、思わず声をかけたのだ。レジでお客さんの対応をしているときには全く気づかなかったのだが、ホールに出て、テーブルを黙々とふく顔を見てすぐに彼女だとわかった。
驚くべきことに彼女も僕を覚えていてくれた。僕が、「すいません」「あのー」「○○さんですよね」「以前、近所に住んでいた・・・」などと喋っているときには不思議そうに首をかしげていたのだが、僕が名刺を取り出そうとして黙った瞬間、「あ!」と素っ頓狂な声を上げて、名刺を出すまでもなく僕の名前を呼んでくれた。そしてお互いが笑顔で通り一遍の挨拶をし、改めて僕は会社のメールアドレスが書かれた名刺を渡した。
正確にはそれが19年ぶりの再会だったというわけだ。まあ、特に意味もないことを数分間話しただけだけど。
サンマルク・カフェの帰り道、当時と違って通り一遍の挨拶ができるようになったということと、当時から1ミリも変わっていない彼女の姿形を交互に考えたり思い浮かべたりして、「なんだかなあ」という気持ちになった。そう。彼女は1ミリも変わっていなかったのだ。信じてもらえないと思うが、僕にはそう感じられたのだ。
3日後に彼女からメールがきた。とても礼儀正しい、感じの良いメールだった。何度かメールをやりとりしたあと自由が丘でイタリア料理を食べる約束をした。
僕は10分早く自由が丘駅に着いて、交番の前にある喫煙所でタバコを吸いながら彼女を待った。もう6時過ぎで、徐々に薄暗くなってきていた。まわりの人たちは過ぎ行く日曜日を慈しむようにとても穏やかに会話していた。でも、彼らはよその星の住人のように、どこかよそよそしく見えた。小学校のときに通っていた教会で牧師さんに見せてもらった天国の絵(それはそれは平和な絵だった)と、メトロポリタン美術館で見たダリの絵を足して2で割ったような不思議な光景だった。
彼女は5分後にやってきた。着いたらメールか電話をしてくるだろうなと思って携帯を握りしめていたが、彼女はスタスタと歩いて僕のところまでやってきて、「お待たせしました」と軽く会釈をした。僕も「いえいえ」と言って、会釈を返した。
お店に直行するには少し早い時間だったので、僕と彼女は少し遠回りをして店に向かった。最初少しぎこちなかった会話も、ABCマートを右に曲がるころにはそのぎこちない感じはどこかに行ってしまっていた。予約していたお店に入り、通された席に座ることにはむしろとてもくつろいでいた。彼女とはとても話しが合ったのだ。僕と彼女は性格も、それまでの人生も全然共通点が無かったが、彼女の話すことはとても面白くかんじたし、僕の話すことも彼女はとても面白がってくれた。
でも、朝からの奇妙な感覚は依然として続いていた。そして、彼女との会話がはずめばはずむほど、奇妙な感覚はより強くなった。なぜだ?僕は彼女と話しながら一瞬考えてみた。でも、よくわからなかったし、彼女と話すことはとても楽しいことだったので、難しいことを考えるのはやめた。
(2)に続く
【作者より】
すいません、力尽きました。続きを書いたら、この記事にリンクを貼ります。。。このくらいだと長さもちょうどよいかなと。。。(言い訳)
分割して投稿するの、良くないですかね?あんまり長いのを投稿するより、分割したほうがいいかなと。
まずいときは叱ってください。もうしません。
仕事とプライベートの飲み会が重なり、仕事の方で梅酒をグラス半分くらい飲み、途中退席して電車に乗ったところからだんだんやばくなってくる。もう一つの飲み会に着いた頃にはもう食べ物も入らない状態。30分くらいで申し訳なかったけど、こちらも途中退席。
何度も吐きそうになりながら家について、そのまま布団に直行。一晩寝たら何もなかったように直ってた。金曜日は朝から少し頭痛があったけど風邪とかじゃなかったわけだ。
疲れがたまっていたからかもしれないけど、梅酒グラス半分くらいでこれだよ。お酒が人並みに飲める人には全く信じられないと思うけど、おいらにはこれが現実。
おいらも飲み会で一人ソフトドリンク頼むのは心苦しいけど、とにかく体がついてこないんだよ。頼むから「別に強制しないよ」といいつつ「なんだよそれ」って顔しないでくれ。
それは出会いだ。
もちろん自分もリア充な大学生活をエンジョイしたかった。けどキャンパス内では取り残された。
大学生のコミュニティは後はもう「バイト」しかない。そう思った。
もちろん金の面でもバイトは必要ではあるので、実際に中型のスーパーでバイトをしている日々であるが……
ある程度でかいスーパーだと、パートやバイトがそれこそ自分の都合に合わせてシフトを組むことができて
自分の場合は午後7時。 学生としては遅いほう、第二グループである。
もちろん出会いも求めて来たので、自然と同じシフト始まりの女性が気になってくるわけだがどうしても話しかけることができなかった。
だが女子学生バイトのグループを見ても比較的大人しい人が多い、DQNっぽい人はいない。というのが察知できたので思い切って話しかけてみた。
意外に話せた!
大学内では全然異性となんて……な感じな俺だが、「同じ学生同士」ではない環境ではなんとかなりそうだった。
そんな環境が続いて連絡先とかも聞いて舞い上がっていたが、事態を動かすことが起こった。
年齢は自分と変わらない学生らしいが完全に絵に描いたスイーツだった。別にそこまで毛嫌いする必要はない、がこのスイーツが入ってきてから
それは「彼女達自身もスイーツ化していった」こと。これには驚いた。
自分みたいな人間が女のコの連絡先を聞けたのは、相手も比較的大人しい性格の女性(読書が趣味なんですとかそういう話題を共有したり…を想像してた)だったからなのに、彼女達のキャラが完全に変わった。
バイト達が会話できる空間は「休憩所」で、そこで自分も制服に着替えた後なんとか女子学生バイトと話してたけど、スイーツが入ってからは
「○○大の××君がどうのこうの」に代表されるような会話をやたらとするようになった。スイーツの恋愛武勇伝とかも多かった。
だから休憩所では居場所が無くなって小さくなってた。だんだんと男漁りの話も俺(根暗な、あちらさんの眼中に入らない冴えない男)に対する牽制のように思えてくる日々。
というかこれみよがしに強調して話してあるかぎり被害妄想じゃない。
これを機にほとんどの会話をする機会がなくなった。もちろん自分と同じ立場の男子学生もね。
元々の女子グループが自分の事嫌いで今のこの状態なのもしかして?とも思ったけどこれ全てが芝居とかじゃないしなあ。
以前は他の男バイトも混じって他愛もなく喋ってたし。
なんというか女の同調って怖いなと思った。
http://anond.hatelabo.jp/20081228014905 の続きです。
<インタビュー>
シェーンヘル(以下シ):どうしてカンパニー松尾と称するようになったのですか?
松尾(以下松):中学時代にさかのぼるんですが、自分の「会社」を始めたんです。社員はぼくひとり、ジュースや手作り弁当をクラスメイトや友人に売ってました。毎朝、20個の弁当をかかえて登校したものです。で、みんなが僕をカンパニーと呼ぶようになったと。これがぼくのペンネームになり、映像のキャリアを通して使ってます。
シ:まず最初に、ハメ撮りの歴史について少々語ってもらえますか?
松:ハメ撮りスタイルの作品は、80年代初期からありました。ハメ撮りということば自体が使われるようになったのは、88年か89年だと思います。昔はAVの小さな一角を占めるだけでしたが、それから大きくなりました。
松:はい、そうです。働きだしたのが1988年、22才の時です。
シ:そのとき、V&Rプランニングはすでに大きな会社だったのですか?
松:いや、とても小さかったです。ぼくは4人目の社員で、会社自体もまだ2年目でした。
松:はい、そうです。
シ:V&Rは最初からドキュメンタリースタイルのAVに力をいれていたのですか?
松:はい。安達はテレビ出身で海外映像の輸入エージェントとして働いていました。モンティ・パイソンとかそうですね。でも彼はおもに死体ものとかのキワモノにもっぱら興味があったようです。それが彼の嗜好だったんですね。
彼は撮影については知りませんでした。自分で会社を始めて、自分でこうあるべきだと思うやり方で彼はドキュメンタリーを作ったのです。会社自体はキワモノですが、安達は非常に真剣な作品を作ろうとしました。
シ:V&Rの意味は?
松:ビジュアルアンドリテイルです。バイオレンスアンドレイプじゃないですよ、皆さんの思うところとは違って(笑)。
シ:V&Rでは最初は助手、そして1989年に自分の作品を制作し始めます。最初の作品はどんなでした?すでにハメ撮りでしたか?
松:いえ、ハメ撮りは1991年からです。その前はドラマ仕立てでした。
シ:後期の林由美香があなたをハメ撮りに導いたという記事を読んだのですが…
松:いや、直接ではないです。林由美香とは1989年からやってました。正直にいうと、ぼくは彼女が好きだったのです。一緒にパリ・ロンドンに旅行して、ビデオを撮ったこともあります。僕の作品である、「硬式ペナス(1990年)」は彼女への愛を宣言したものです。その作品で、彼女はスターになりました(原注:林はその後すぐに松尾と別れ、他の出演作品の監督と関係を深めることになる)。彼女との作品では、自分で男優はしませんでした。でもそれは非常に不自然に思えました。彼女のおかげで、ハメ撮りが一番自然な撮影方法だと感じられるようになったのです。つまり、そのやり方だといい作品をじかに作れるし、ハメ撮りだと女の子に近づく、彼女自身がオープンになれる、本当の気持ちを見せられるといったことや僕自身の女の子に対する気持ちを表現できるのがあります。僕にとって重要なのは、女の子と緊密な関係をきずく、女の子が好ましく思えるってことです。でなきゃ、いい作品は作れません。
松:ええ。彼女は素人としてこの仕事を始めました。彼女のデビュー作はぼくが撮りました。1991年のことで、ハメ撮りが僕の撮り方の主流になってました。「私を女優にして下さい」ですね。次のシリーズものが「熟れたボイン」です。ぼくの作品で素人から有名女優になった最初の女の子です(原注:松尾自身もこの共同作業により今日知られるようになった有名監督になった)。
シ:V&Rで活躍する一方、マンガ「職業・AV監督」の原作も手がけられています。
松:はい、これ実話です。井浦秀夫が絵をかいてます。1997年から98年の作品で、全5巻で秋田書店から出ています。ぼくの仕事、ぼくの作品に関わる女の子たち、V&Rの人々、安達かおる…まあそのころのこと、すべてですね。
松:中堅どころといった感じです。AV市場では大きな会社はいっぱいあります。でもV&Rはその中には入らないですね。大会社のビデオはあんまり興味ないです。その点、小さいところの方がいい作品をだすかな。V&Rは間違いなく、変態を極めた会社のひとつです。
シ:V&Rが制作した「ジャンク」シリーズにも関わってますよね?こうしたデス・ドキュメンタリーは南米で撮影されたものですか?
(原注:「ジャンク」の原題は「faces of death」。もともとコナン・ド・シレールが1979年から90年にかけて制作した4本のアメリカ作品。V&Rが引き継ぎ、ジャンクのタイトルでデス・ドキュメンタリーを制作し続けた。同様のケースはドイツでも見られる)
(訳注: http://www5b.biglobe.ne.jp/~madison/worst/mondo/junk.html が興味深い)"
松:1989年頃のものですね。V&RはAVだけでなく、デスビデオを海外で撮影してました。カメラマンのイシカワ・タケシが両性具有者にただならぬ関心を抱いていたのです。そのためにブラジルのタブロイド新聞と連絡をとっていて、ブラジルに詳しくなりました。向こうが言うには「デスビデオを撮るならブラジルにこなきゃ」と。で、安達、イシカワ、そしてぼくがブラジルに行って、2週間ほど彼らと行動を共にしました。
新聞のカメラマンは、警察無線を傍受していて、事件が起こるや、すぐに現場に直行しました。ブラジルの警察は動きが遅く、たいていカメラマンが先に到着しました。日本だと死の現場はいつも警察が人目につかないよう隠しますが、ブラジルだとそんなことはないです。ぜんぶオープンですね。
松:両方です。何もかも。殺人はとても多かったです。撮影には何の支障もきたしませんでした。愉快なもんじゃないけど、ぼくができるのはそれしかなかったし、使命感みたいなものも…たぶん、ふつうはそういうのって撮れないと思うんですよ。たまたま機会にめぐまれて、現場に行ったと。でもぼくはだんぜん、AVがいいです。デスビデオとセックスビデオには共通点があります。どちらもひどく当たり前のことで人間の根源にかかわるのに誰もが隠そうとする。ぼくらは封を開けて、それが見えるようにしてるんです。
シ:ジャンクはシリーズものです。どのエピソードを担当しましたか?
松:6番です。
シ:どこで撮影しましたか?
松:リオデジャネイロです。リオはぼくの好きな街ですけど、別に死体を撮ったからってわけじゃないです。リオは美しいところで、ほんとうに輝かしいものから暗い側面まで、すべてがあります。丘の上のキリスト像からファベーラと呼ばれるスラム、美しい町並み、そして白い砂浜まで。美しい娘からギャング、ホームレス、麻薬の売人、そして殺人犯。すべてがそこにあって、生きている、街に存在するのです。パワフルな場所です。美しく、そして同時に恐ろしくもあります。一回しか行きませんでしたが、今でも魅力的です。
シ:リオでハメ撮りは?
松:いや、まったく。アメリカやヨーロッパでは何本か撮りましたが、ほんとうにしたいようにはできませんでした。もちろん、言葉が大きな理由です。ハメ撮りの現場に通訳は連れて行けませんから(笑)。でも言葉の違いより文化の違いの方が大きかったと思います。ハメ撮りでは、女の子の内側に行ってみたいのです。何を考え、どう生活し、夢、そして現実はどうなのかと。生命の中に隠されている汚れた、感情的なものを取り出したい。外国でできるのはセックスを撮ることだけ。それじゃ十分じゃないし、ぼくは満足できない。セックスシーンを撮るだけなら、俳優を呼んで女の子とやらせればいい。ぼくなんてお呼びじゃないです。ハメ撮りだったら、なぜ彼女はこれしてあれするのか、動機、考え、そうしたことを詳しく理解できます。ぼくは女の子の個性を描写したい。欧米の娘とだと、ちょっと無理です。セックスが好きかもしれない、オープンかもしれない、でも日本の娘たちとのようには近づけない。ほんとうの性格がわからない。つまり、ぼくは彼女たちとビデオを撮れない、ってことです。
シ:他のアジア諸国だと?
松:アメリカやヨーロッパはポルノに関して長い歴史があります。スクリーンにセックスが映しだされることについてオープンです。でもアジアはかなり遅れています。厳しい規範があり、ポルノ産業において多くを語ることが難しいです。日本はずっと先を行ってますね。
シ:V&Rにはいつまでいましたか?
松:2004年までです。それからハマジム、現在の会社を仲間と始めました。
松:浜田写真事務所、略してハマジムです。みんなそう言うし、領収書も短い名前の方が便利です。今ではもっと短くなって、「HMJM」です。もともとカメラマンの浜田さんが由来です。彼はぼくらのなかで最年長、みんな尊敬しています。彼がボスです。
シ:現在、何人が働いていますか?
松:7人です。
松:たとえば、「広瀬舞、海老原しのぶ」(2004年)、あ、ふたりの女優の名前から題名つけたんですけど(訳注:ハメドリズム01?)、200万円前後ですね、DVDジャケ込みで。「アテネマラトン」(2004年)はオリンピックのときにギリシャで撮影しました。300万円ほどでした。基本的には一本、200から300万円です。
シ:「オークション01」「オークション02」(2004年)のような純ハメ撮り作品だと、旅費がばかにならないと思いますが?全国を旅して撮りましたね。
松:実際、そっちの方が安いんです。スタジオ撮影は高い。スタジオ代だけでも100万かかります。それだけあれば、ほんといろんなところに行けますからね。
シ:基本的に、彼女たちの住んでいる町、実際の生活環境で会ってますね?
松:ええ、基本的にそうしたくて。
シ:あなたは常に、親密で個人的な彼女たちの肖像を切り取っています。彼女たちの本当のやり方をつかんでます。ビデオの中で彼女たちは、ビデオ出演の動機も含めて大いに語っています。ところで、彼女たちが作品に出演する動機、これはどうお考えですか?
松:女の子それぞれというのはもちろんですが、お金が主な理由だと思います。でもハメ撮り一編に登場しても大した金にはなりません。一回会うのが5万円、つまり彼女たちがぼくに電話するのは他の理由があるにちがいない。好奇心だったり、非日常に惹かれたり、もしくは日常のストレスから抜け出したかったのかも。そして単純にセックスに興味があったというのもあります。でもほとんどの場合、彼女たちはほんとうにくつろいで、作品に出ることを楽しんでいます。ところで、あなたはドイツ人だとおっしゃられましたよね。笑い話なんですけど、実際にAVをドイツで撮ろうとしたことがあったんです。2年前に女の子ひとり連れてベルリンに行きました。ぼくのプランは、アウトバーンを時速300キロで飛ばしながら女の子にしゃぶらせるというものでした。日本は速度制限が厳しいというのもあってこの計画には非常に興奮しました。これは全男子の夢だぞ、車をかっ飛ばしながらセックスをするなんて。女の子はいるし、おしゃぶりしてくれると。ポルシェを借りてアウトバーンに出ました。最初の誤算は300キロ出なかったことです。260キロくらいまででした。で、女の子が車酔いしちゃったんです。なんにもできませんでした。ドライブだけで終わりました。
シ:でも撮ったんですよね?
松:ええ、全部収めました。衛星放送向けAVの一編になりました。
シ:これからの予定は?
松:ぼくはAVが好きで、今やっていることをこれからも続けたい。テレビや映画には興味がないし、AVを作りたい。大会社に所属したくもないし、ハマジムを大会社にする気もない。ビジネスのことは考えたくない。ただ自分の好きなことをやっていたいです。
それ、母ちゃん、ノロウイルスじゃね?
俺、去年の冬にかかったけど、ちょうどそんな感じだった。
本当に突然、数分の間に、ものすごい吐き気が襲ってきて、トイレ直行してゲーゲー吐くの。
「風邪かな?」と思って薬を飲むんだけど、薬も吐いちゃうの。「水分取らなきゃ」って思って水分取ると、水も吐いちゃうの。
でも、翌日になったら全く問題なく治った。ほとんどの場合、数日以内に治るらしいよ。
病院でも、数日間、水分補給できないのだけが問題らしくて、吐き気もらって「この薬効いている間は吐き気しないから、水分取りなさい」って言われて終わり。
それから4年位経って、このままじゃラチがあかないと言うことで、
心臓弁膜症手術をした
先週の土曜日、昼間にいきなり倒れてた
「なんかモノの上げ下ろしをした際にふらっと来た」
と言ってた、ただしきりに
「こないだ新しく貰った薬があわない気がする」
と言ってたので、
「じゃあ週明け(火曜日がその医者の担当らしい)に医者にそう言ってきたら?」
と言ってすました
日曜の夜、俺が外から帰ってきた時、父親と顔合わした
父親は家の奥に歩いてきながら、
「なんか…変だ」
とか言ってた、
そのちょっとしたあと、いきなりドタッって多分ブッ倒れただろう音がしたので、
そこに行ってみたら、思った通り父親が倒れてた
息はしてるけど、呼びかけても反応無いし、躰が弛緩して息がいびき状になってたので、
「もしかして脳の血管でも切れた?昨日はその前兆?」と思い、
すぐに119番した
正直119番にはこれまで何度も呼んでて気が引けたんだけど、
土曜の倒れた時と違って意識無い感じ(目も半開きで全く反応無いし)だったし、
とにかくやばそうと思ってかけた
んで救急隊の人がすぐ来て担架に乗せてった
救急車が出てこうかという時、
向かいの家のおばさんが出てきたので、しばらく話をしてた
しかし、結構話してるのに、全然救急車が出てかない
「なんかあったんすか?」
とか聞こうかなと思ったけど、邪魔しちゃ悪いかと思って待ってたら、
3〓5分位(実際はもっとあったかも)してから走ってった
「ICUだから切るね」と言われた
つかICU直行はこの6年間にすでに4〓5回目なんで、別段何ともなく思った
3時間位して母親が帰ってきて(ここら辺のこともすでに何度も経験した)
「なんとか意識戻ったよ」と言ってたので、
その日は寝た
「大分元気になって、私が19:30になったから帰るね、って言ったのにベラベラ喋ってきてた、
昨日救急車の中では心肺停止してたのに、ずいぶん元気になったもんだね。」
…それで昨日中々救急車出てかなかったのかよ
…なに?また死んでたの?
「2〓3分死んでた気がする」
…3回目じゃなかったっけ?死ぬの
「やー、救急隊の人さすがだよね」
というか、ショックでその事(救急車内で心肺停止を)日曜帰ってきた時に俺に言い忘れたんだろうけど、もっと早く言えよ
あと、やっぱり新しく貰った薬が不整脈とかを逆に引き起こしてたらしい、
医者が「合わなかったねー」とか言ってたそうだ
しかし、俺がドタッって音に気付かず、救急車呼ぶのが30分でも遅れてたら、
父親死んでたんだろうな〓、変な所で悪運が強いな、と思った
関西在住です。
年末に東京の有明埠頭に行く予定なんですが、新幹線だとつまらないので、ぐるりと本州半分回って行こうと考えています。
で、時刻表をみると大阪駅から新潟駅まで急行「きたぐに」に乗ると都合がよさそう(ほかに青森まで直行する「日本海」という特急もあるそうなんですが、これは出発時刻が夕方の5時47分なので、間に合いません)なんですが、これが新潟駅に到着するのが朝の8時30分。一方、新潟駅から秋田駅へ向かう特急「いなほ」1号が新潟駅を出るのが8時33分となっていて、果たして乗り換えできるのかどうか気になります。
在来線どうしの乗り換えだから、そんなに時間がかかることはないと思うんですが、もし「きたぐに」が数分延着したときに連絡をとってくれるのかどうか心配です。
○嘘も方便の証明(1年生5月)
・野球部に入部。
・一ヶ月目にして体力作りのためのランニングが嫌になり退部することを決意。
・しかし、辞めたいとは言えない気弱な性格なため、病弱という裏設定を用意する。
・裏設定暴露→保健室直行→運動は無理→しょうがない退部だなの流れを期待。
・決行→ランニング中突然倒れる。
・胸を押さえながら「せ、先輩、心臓が痛いです」激しく叫ぶ。
・残念ながら右胸を押さえていた。
・もともと手の大きいH氏。
・入学当時からバスケットボールも片手でつかめる。
・それなのに夏休み明けには右手だけより大きくなっていることが判明。
・両手をあわせてみても明らかに右手だけ大きい。
・なんで?どうして?という皆の問いに、うへへーと笑いながら答えない。
・一週間ほどして抜き打ちの持ち物検査。
○さわらぬ神にたたりなしの証明(2年生)
・一年の時、頭がいびつ→「おむすび」「おにぎり」というあだ名がつき定着。
・H氏「やーめーろよーw」
・にぎやかな昼食時間。
・H氏のおにぎり、具材が鮭。
・その後の変遷「鮭」→「樺太」→「北方領土」定着せず→「(鮭)トバ」→「鳥羽一郎」まで超進化。
・「なぜか自分のことを馬鹿にされたと勘違い(兄弟(船歌)エロ」?無理がないか?)
○立つ鳥跡を濁さずの証明(3年生3月)
・スーパーの近くに実家があり、外見が汚く小さいと一部にギャグ化されていた。
・実際、僕の通学路の途中にあったのでよく目にはしていた。ギャグでなく本当に汚かった。
・卒業式から数日、僕がスーパーに買い物に行く途中、H氏の家がなくなっていることに気付く。
・H氏家の跡地には車が停まっていた。駐車場になっているようだった。
・よくよく考えてみると、このH氏跡地の駐車場には乗用車2台しか止められないようだ。
→H氏家族構成、父、母、兄、H氏、妹。
→家族入らなくね?
そんな学友は今何をしているのでせうか。
風俗嬢に恋をした(http://anond.hatelabo.jp/20080828014541)の元増田です。
やっぱり顔は大したことない。
でも可愛い。
改めて自分の気持ちを実感させられた。
でもそんな気持ちをいきなり伝えてしまって変な空気になったら最悪なので普通に接っしてみた。
行った店はソープなわけなんだが、彼女は風呂に行くどころかいきなりベッドに直行。
あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
『ソープに行ったのに風呂にも入らずにいつの間にか彼女の中に入ってた』
な… 何を言ってるのか わからねーと思うがおれも何をされたのかわからなかった
頭がどうにかなりそうだった…
超スピードだとか催眠術だとかそんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…
でもそれが彼女の部屋に遊びに行ったような気分になってすごい楽しかった。
これが彼女の演出だとしたら、とんでもない策士だ。
ますます好きになってしまったじゃないか。
もう次回告白するしかないな・・・
どうでもいい話だけど。
それは違うだろ……
このまま行けばその友人はきっとニート直行だろうけど、それを端から注意する権利は、親友ならあるだろう。友達なら微妙だけど。
元増田は、人は人を変える事は難しいという事を知って欲しい。このようにもっと深く関われ、という無責任な事を言うヤツもいるが、それで殺されかけたり、一緒に駄目になったりする可能性は高いよ。彼女が変わるって可能性が一番低い。
実は俺の場合、奥さんがそんな感じだった。時にはぶつかり合い、時には殴りあった。包丁で刺されかけた。DVだ、と拒否反応を起こすバカもいるだろうが、ガキは言葉で言って判らないから青年過ぎてもガキなのだ。言葉で言って判る人間が、元増田の発言にあるような行動をする、と真顔で言うならそれこそ病院に行った方がいい。
俺のストレスの上にストレスを重ねたような生活により、今では奥さんはかなり常識的に変化した。「あの頃のままだったと思ったらゾっとする」と感謝してもらってる。
ちなみに彼女の周りも非常識な連中ばかりで、mixi日記では俺と喧嘩した日記を書いたら彼女を肯定する記事ばかり。
殴るのが安易とか言ってるヤツは、他人の人生を変えた経験なんぞ無いんだ。