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2009-04-23

社会絶望しているとかの話

http://anond.hatelabo.jp/20090415074829

これの続きようなモノ。

私は「会社」というモノに絶望をしていた。

絶望の始まりは多分初めて社会人になって入った会社だろうか。

初めて入った会社ハローワークで見つけた契約社員だった。

大学を「学校に行けない病気」で退学した私は学校で学んだことを生かせる仕事を探していた。ただ、学んだ分野が環境化学というあまりメジャーじゃなく仕事も少なそうな分野だったので探すのにかなり苦労した。

それでも農薬を作っている会社研究所に潜り込む事に成功した。

仕事は元々興味ある分野だったし、残業も殆ど無いような負荷も少ないもので学校で学んだ知識と新しく学んだ事でのびのびと仕事することができた。幸いなことに評価も良く順風満帆な日々を過ごすことができた。


しかし、半年ほどして異変が訪れる。

学校に行けない病気」が再発したのだ。いや、増悪したとも言うべきだろうか。

当時、通勤電車バスを利用していたのだが、バスから降りられなくなったのだ。

降りるべき停留所が近づくと段々呼吸は速くなる。動悸もして息苦しく頭が真っ白になる。それは停留所に近づけば近づくほど強くなり、停留所を超えると段々収まり今度は自責の念が私を責め立てる。

死ねゴミ死ねゴミ死ねゴミ死ねゴミ死ねゴミ死ねゴミ…(以下延々繰り返される)」

と云う言葉で頭の中が支配される。

始めのうちは先の停留所から引き返して遅刻、ということで処理はできていたのだけど、それも数が増えると話は少しややこしくなった。程なく上長から注意を受けた。怖いタイプの人ではなかったので大したことは言われなかったとは思うけど、それが自責の念を増長させた。

注意後は引き返すことすらできなくなり、途中の停留所で降りて、音のしない場所を必死になって探して勤務開始ぎりぎりくらいに休む旨の電話携帯からした。なぜか解らないけど「音のしない場所」というのを必死になって探していたのを覚えている。

そんなのが一週間くらい続いて、また上長から注意を受けた。今度は上長上長もやってきて注意を受けた。

いわゆる厳重注意に当たるものだと思う。同時に何か精神的に何か問題は無いか、とも聞かれ初めて精神科を受けることになる。

診断は「鬱病」で抗不安薬を処方された。

薬を飲むようになってからは少し落ち着き二ヶ月くらいは普通に出社できた。

このまま何事もなければ今頃私はその研究所正社員として活躍していたかもしれない。

だけど現実はそんな風にはさせてくれなかった。

年が明けてすぐ再び「病気」は再発した。また一週間くらい行けなくなった。

二度目はなかった。

程なく無理矢理呼び出され、所長と上長上長上長の3人と面談となりその場で「今日付で自己都合で辞めてくれ」と言われた。

当たり前と言えば当たり前。でも当時の私には裏切られた思いでいっぱいだった。あんなに評価してくれて良くしてくれたのにあっさり辞めさせられるんだ…って。

病気」とは別の形で頭が真っ白になりつつその場で辞表を書かされた。

その後、ふと思い立って辞めた大学に復学したけれどこんな状態じゃ学業もできるわけもなく、元々辞めた理由の「学校に行けない病」も再発し半年で再び辞めた。

入学金諸々200万をドブに捨てた。

大学復帰の道も閉ざされた私は仕事を探しては何とかどこかの会社に潜り込み

朝起きる→朝食食べる→着替えて外出る→電車乗る→漠然とした恐怖・不安目的地駅で降りられない→どこかで降りて休みの連絡を入れる→休み多くなる→呼び出しの電話→クビ

と言うプロセスを面白いように繰り返していた。

そこに休養という文字はなかった。なぜなら家族が「病気」に対しての理解がなかったから。

父曰く「サボってるだけじゃないのか?」

ナチュラルに言うのだから休養なんてできるわけがなかった。

この辺で「社会は、会社は誰も私を救ってくれない。絶望した!」みたいなことを思うようになっていた。

で、その絶望が決定的になったのが次の仕事先だった。

派遣で潜り込んだ会社宇都宮世界の誰もが知っているメーカー研究所派遣された。

派遣先上長が私をえらく気に入ってくれたらしく「5年以上の長いスパンで働いて欲しい」とまで言われ、場合によっては正社員雇用も…みたいなことまで言われた。

仕事化学とはあまり関係のない分析評価の仕事だったけど、仮に在籍していた5流大学新卒してでも入れなさそうなメーカー正社員も夢じゃない…みたいな話だったので殆ど二つ返事でその仕事を受けた。

宇都宮はさすがに通勤できないので転居して一人暮らしをすることになった。

初めての一人暮らし不安だったけど、恐怖の対象であった父や口うるさい母もいないのでむしろ好都合だったし、住環境も周辺環境も恵まれていたし、仕事場まで車で10分。車がないと不便な場所ではあったけど日用雑貨からPCパーツまで車で20分も走らない場所で揃えられたので今思っても最高の環境だった。

そんな中で最近(2009年現在)世に出た製品のさらに次の製品に向けての技術研究という最先端中の最先端仕事ができた。職場環境も居室が機械だらけで動作音がうるさい以外はまさに最高。言うことがなかった。

そんな最高の環境の中で多少の休みはあったけれど半年くらい仕事をすることができた。

しかし、そんな最高の環境の中でも異変は起きた。

トリガーはなんてことのない物だった。簡単に言うと部署間での私の取り合い。

私がいた居室は3つの部署が共有していた。

一つは私がいたところ、もう一つは私たちの一つ前、最近世に出た製品技術関係を手がけていた部署。もう一つは良くわかんないけど別の事していた。

その最近世に出た製品技術関係を手がけていた部署の係長が「ちょっと最近忙しいから一月くらい手伝ってくれないか?」と言ってきたのだ。今所属している部署の係長もOKしているみたいなことを言われたが、正直行きたくなかった。

と言うのもその係長生理的に受け付けられないタイプでその部署もあまりいい空気ではなかったからだ。それでも「一ヶ月くらいなら」と、言うことで異動することに了承した。

そこで話が終わればもうちょっとそこでの仕事が長続きしたかもしれない。

いざ異動してみるとその係長から「ここに来たからにはもうずっとここにいてもらうからね♪」みたいなことをナチュラルに言われた。

話が違う!

抗議した、猛烈に抗議した。その抗議は部長を引っ張り出す騒ぎになったが、その決定を覆すにはさらに上の役員を引っ張り出さないといけないらしく、覆すのは事実上不可能だった。

元いた部署で一番お世話になった主任は「あの人はそういう人なんだよ。」と自嘲的に言っていた。結局決定は覆らず、「なんか語弊があったけどこういう事だから頑張ってね♪」みたいな係長二人のサイン入り書面を差し出された私はその日早退した。

そして一週間休んだ。

一週間して今度は派遣元支店長がやってきた。

「ちょっと精神科行こうか」

みたいなノリで支店長同行で精神科に行かされることになった。

当時、すでに近所のメンタルクリニックで投薬治療を受けていたけど、それは会社には隠していたので通っている病院とは別の精神科になんとか行くことになった。

そこで「鬱状態」と診断された。

翌日、派遣元支店長から「支店にちょっと来いやと」いう連絡を受け、宇都宮駅前の支店事務所に向かった。そこで支店長から言われたのは「派遣先から撤退する。お前会社辞めろ」と言う事実上解雇通知だった。

は?

なんで?

確かに「病気」の事は隠していたけど、事情事情だし…というかなんで休養とかそういうのもすっ飛ばして辞めろとかになる訳?

抗議した。そんなのおかしい、何で辞めなきゃいけないんだ?

猛烈な言い合いは4時間を超えた。

で、痺れを切らしたのか支店長はこう言った。

精神障害者は使えないんだよ!!!」

あぁ…。

何かが崩れ落ちた気がした。

支店長がどういう意味でそういったのかは知らない。でも、その言葉はあまりにも無情で残酷で…世間の正論過ぎた。

会社とか社会絶望をした瞬間だった。

程なく辞める旨を伝え、それから数日で宇都宮から実家へと帰還となった。

あの言葉絶望は私の病を大いに増悪させた。

それから仕事を探しては数日でいけなくなってクビになると言うのを何年も繰り返した。

一番行くところまで逝ったところだと、静岡の某宇都宮で居たメーカー同業他社で、そこはお世辞にもいい職場環境ではなく仕事をした時は2週間くらいで会社に行けなくなった。

で、また数日会社に行けなくなって派遣元から「これ以上休んだらクビにします」と言う最後通告の電話を受けた直後殆ど自動的にアルコール抗うつ剤その他100錠近くを一気に飲み込んだ。

服薬自殺人生の幕を閉じようとしてしまった。

結果は…今ここに私が居るわけで未遂に終わった。

友人や家族派遣元会社に多大なる迷惑をかけた。

友人と家族は…多分許してくれたと思う。そう思いたい。

でも、派遣元会社は違った。

46万円。

退職金という名目だったけど、書面を見ると事実上の手切れ金だった。

「46万円やるからさっさとここから消え失せろ」

コンプライアンス事業部のえらい人が放った言葉は穏やかだったけど実質そんなものだった。

労基とかそんなの以前に服薬の影響で記憶曖昧な状態でろくな判断能力もあるわけが無く46万円押しつけられて派遣元会社をクビになり、再び実家へと戻ってきた。

心底会社という物に絶望した瞬間だった。

その後も会社は行ってはクビになるを何回も何回も繰り返していた。

「休養しろ」とか言われると思うけど、当時金銭的な問題で月に10万以上金を稼がなくてはならない状況で何が何でも仕事をしなければならなく、その上家族も多少の理解は得られたとはいえ病気に関してはまだ「怠けだ、甘えだ」と思っている節があるらしく家にいても正直休まらなかった。

そんな感じでこじれにこじれて今に至り、前述の「会社に行けない 」のエントリーに繋がるわけです。

ちなみにこの会社もクビになりました。

仕事内容は化学とは関係ないけど、趣味を実益にできる物だった

熱意はWebエントリーで落とされても社長に直訴の手紙を出すほどにあった。

技術も気がつけば新入りではずば抜けてあったらしく、赴任先事務所でも即戦力になるほどだった。

でも、会社に行けない、と言う社会人として当たり前のことができなくてクビになった。

結局何やっても、どんな事しても「会社に行けない病」をどうにかしない限り私は社会生活を送ることができないらしい。そもそも社会が私を受け入れてくれないようなのだ。

最近になって金銭的な面が法的にどうになるようになり、少し休養する時間ができるようになった。精神科に通院投薬治療は続いているし、障害者手帳も取得することができた(ただしあまり役に立ってない)

ただ、家庭経済面で休養、はできないらしく、父母からは「最低アルバイトはしろ」と言われてしまった。そんなわけで今アルバイトを探している。なるべく負荷の少ないコンビニとかそんな仕事をいくつか面接入れている。

三十路過ぎて大学中退、しかも職歴むちゃくちゃな私をどこが雇ってくれるだろうか?

しかもフリーターという身分。結婚以前に恋愛もできやしない。そして何より、この先這い上がるチャンスという物が事実上ゼロだという現実直視しなければならない。

この状況で社会という物に希望を見いだすことができるだろうか?

正直今の私には無理だ…。

 
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