はてなキーワード: 楽器とは
自分の彼女が元増田や自分と逆のパターンで、言葉を借りると創る事のできるタイプです。
何かを模写することは好きなんだけど、さっとイラスト書いたりはできないから、こんなん簡単だよ的な感じでさらさらっと書けるのが謎。
楽器も一緒。作曲とか無理。○○の歌みたいなのを簡単に作って笑いをとるのとかどうなってんだって感じです。
自分は音感もないので、いちいち楽譜見ないと分からないのもコンプレックス。
その代わり手本がある場合には、最終的には自分のほうが上手にできるということが救い…なのかな。
後料理も冷蔵庫の残った食材から適当に一品とかかなり苦手分野。
みじん切りやフライパン返しは自分のほうが上手ですが、そんなの見せ掛けだよね。
努力してもそう簡単に創る側に回れそうにないような気がしますが
これが才能ってやつなんでしょうか。
テルミンminiとかSX-150とかスライディングホイッスルとか、
リコーダーと10ホールズとクロマチックハーモニカなんかもある。
さて、どんな曲を演ろうか……ネタがない。
知らない曲は演れないが……なんか
これやったら面白いって曲はないものか。
おっさんホイホイしかないのか。
トラックバックもらったんで追記
http://anond.hatelabo.jp/20080824041507
「課題は自由です」「方法は自由です」
こんなんが自分は大の得意だった。
周囲の生徒が目標さえ決められずダラダラグズグズしている間、ウキウキしながら考え、実行してた。
残念ながら「時間は自由です」がないのが玉に瑕だったけど。
何を書いてもいい、画材も好きに選べる
どの本を選んで感想を書いてもいい。
…そう聞くだけで、考えるだけでワクワクしたものです。
勿論、評価されるのは教師が望んだ課題で、望んだ回答を書くような生徒だったけど、
別にそんなのどーでもよかった。
学級委員長やるような生徒ではなかったし。
(私たちの世代は学級委員長=先生の気に入るように要領良くやれる生徒だった)
授業だ勉強だといいつつ、実質好きな事を好きな方法でやりゃいんだから。
今思えば、あれは「社会に出るまでの人格形成」だったんだと思う。
先生に気に入るように模範的な方法を選べる人間。---キャリア組
自分で判断し、自分で上を目指せる人間。-----------技術畑
誰かに指示されなければ何もできない人間。---------電話番、お茶汲的事務。機嫌伺の営業。
花丸をもらえる=社会的に認められる人間は、上から順に容易い。
白を黒を言わない技術者は模範的な会社忠誠人間には適わないし、
ただ、これは「適材適所」であり、「誰かに指示されなければ何もできない」人間だって、社会には必要だ。
だから、先生は点数をつけちゃいけない。
評価や優劣はつけるべきだが、それを点数にしてはいけない。
自分もたった一度だけ、「読書感想文」に「X」をつけられた事があった。
赤字で「この作品の感想を書くべき部分はそこではありません」とあった。
「感想をかくべき部分」の「感想」なんて、他にゴマンと書く人間がいるじゃないか。
それを分かっていて、自分は形式ばった部分よりも、別の所に注目して感想を書いていた。
丁度、小学校の六年生だった。
私は
「音楽という、感性を試される授業をメインで受け持っているくせに、馬鹿だなぁ
感想に○も×もないって。テストじゃないっつーの。だから女はダメだな」
などと、思い切り偏見を持った。
別に音楽をやってるからって感性関係ないし、ましてや女性は無関係だ。
とはいえ、「読書感想文に×をつけるような教師」=「女性」という経験と記憶は消えない。
「なんで先生は自分は○になるように導いてくれないんだ。」
と、先生を恨む方に傾いたに違いない。
そして、そこからの人生はキャリア組か、「模範人間」か「指示される人間」あるいは、どちらにもなれなくて他者を恨むだけの人間になってたかもしれない。
小??中学年までは、教師という職業に、ものすごく大切な物が求められると思う。
そして、その評価をするのは、まともに自分の気持ちや意見をまとめられない子供だ。
勿論教師だけの問題じゃないけれど、
もっともっと、教師は、子供の自由性と自発性を高めるように行動できる人間になるべきだ。
少なくとも、幼年期や低学年の教師はテストの結果で決められる物ではない。
一時期から以前よりもそういう「自由や自発性」を重視する授業を取り入れることが多くなったけど、
まずは教師の意識改革が必要だよね。
多分彼らも
「どうやっていいのか、先生は教えてくれなかった。
どうやれば生徒やその親から○がもらえるのか?」
って思ってるに違いないから。
社会人からのバンドなら、なおのことネットでのメンバー募集がおすすめ。
大抵の人は経験者なので機材に関しての知識なども教えてくれるし、完全に趣味と割り切ってる人なら超優しい。
プロ志向は身の丈に合わない夢をいい年して追っかけてるようなのが殆どなのではっきり言って地雷。
あとは学生時代にバンドをやっていた友人なんかがいたら、そのツテを頼るのも一つの方法だ。
それと、バンドをやるなら人付き合いは嫌でもしなきゃならんので、一念発起して行動に移すことが大切だよ。
まあそうはいっても練習の時以外は滅多に顔を合わせるようなことはないと思うけど。
楽器が弾けないならスクールに通うのもいいけど、結局のところ楽器の上達は楽器に触った時間と比例する。
普段から練習をかかさないことが一番大事。
保育園からのアンケートに記載されていた、「5才クラスの鼓笛隊演奏」に対する保護者の意見
(カッコ内)は勝手に挿入。
…これは「正しい」とか「間違い」とかいうことじゃなくて、「好み」の問題
音楽を聴いていても聞き所は人によって違う。
たとえば自分と周りの人間は
(自分=楽器はかじったくらい。子どもの頃ピアノ、兄弟=ギター超うまい、友人=元吹奏楽。一時自分と一緒にお遊びバンドをやってた。、相方=楽器とか全然。音楽も普段聴かない)
というスペックなんだけど、考えてみるとこんな感じみたい。
自分「リズム>声調>歌詞>メロディ」的。 得意:ポップス、ロック 苦手:クラシック系
兄弟「ギターの技巧>音色>バンドの調和>メロディ」的? 得意:ギター系全般クラシックも 苦手:ヒップホップ
不思議というべきか、当然というべきか。
で、読むものについても似たような意見の相違はあるわけで、有名どころでは芥川龍之介と谷崎潤一郎が真っ向からやりあった「小説の筋論争」(参考:「文芸的なあまりに文芸的な」wikiペディア)なんかがある。簡単に言えば
谷「筋がなくて小説と言えるかぁ!」
という話。下の増田を読んでつらつらとそんなことを思い出したりした夏の朝。
ネタにマジレスになってしまうが、最速技は吹奏楽をやっている/やっていた友人のツテを使うと簡単に見つかる。
世の中、結構な数の吹奏楽経験者がゴロゴロ転がっている(特に女性)ので、そのあたりに聞けばなんとでもなる。
ツテが見つからなかったら、
といった流れでおk。
ガチサークルみたいなとこも多いけど、まったり系も多いので、そのあたりは空気を読むこと。
たぶんガチ系だと付いて行けないと思うし、そもそも入れてくれないと思うけど。
平均年齢もバラバラなので、要注意。
もちろん増田には若いところが良いのだろうが、上手くヨイショすれば、平均年齢高めのところでも姉御肌の姐さんが友達や後輩を紹介してくれたり、さらに高いとこだと世話焼きバアさんが見合い相手を紹介してくれるかもしれないw
まあ、どのくらいの数のちょいケルオタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、
「オタではまったくないんだが、しかしちょいケルの童貞臭さを肯定的に黙認してくれて、
その上で全く知らないちょいケルの世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」
ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、アニメのことを紹介するために
見せるべき10本を選んでみたいのだけれど。
(要は「the most relaxing feel」「iamge」の正反対版だな。彼女にアニメを布教するのではなく
相互のコミュニケーションの入口として)
あくまで「入口」なので、時間的に過大な負担を伴うイベント、「芸能山城組ケチャまつり」「Sound Horizon Live Tour - 領土拡大遠征」などの参加は避けたい。
あと、いくらちょいケル的に基礎といっても古びを感じすぎるものは避けたい。
ちょいケル好きが『JVC WORLD SOUNDS』もちょいケルだ!と言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。
そういう感じ。
彼女の設定は
ちょいケル知識はいわゆる「テレビまんがから流れてくる劇伴」を除けば、菅野よう子程度は聞いている
サブカル度も低いが、頭はけっこう良い
という条件で。
まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「Enya以前」を濃縮しきっていて、「Enya以後」を決定づけたという点では
ただ、ここで「Enyaの姉がClannadというアイリッシュ・トラッドグループに参加して……」と言ってしまうと、「エロゲーオタ超キモイ!」と彼女との関係が崩れるかも。
この多重録音過多な作品について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の癒しポイントを彼女に
伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力(ニューエイジ臭くなりがちなちょいケル暗黒部をできるだけスルーするという意味合いにおいて)」の試験としてはいいタスクだろうと思う。
アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうなヒーリングミュージック(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの
という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには
一番よさそうな素材なんじゃないのかな。
「ちょいケルオタとしてはこの二つは“音楽”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。
ある種のちょいケルオタが持ってる自然への憧憬と、エリック・ムーケとミシェル・サンチェーズのオタ的なサンプリングへのこだわりを
彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにもDeep Forestな
の二要素をはじめとして、オタ好きのする要素を音楽にちりばめているのが、紹介してみたい理由。
たぶんこれを見た彼女は「Hallucinogenだよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。
この系譜の作品がその後続いていないこと、このアルバムに収録されていた「Divine Moments Of Truth」がFlash作品となって大人気になったこと、
アメリカなら亜流が大量に発生して、それが日本に輸入されてもおかしくはなさそうなのに、
ちょいケル界隈でこういうのがつくられないこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。
「やっぱりちょいケルはアニメによく収録されているよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「地球少女アルジュナ」
でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この作品にかける原の思いが好きだから。
ガムラン使いてーと言ってAKIRAで先につかわれくそー!と思ってもアルバムに収録されている「逃走」で使っちゃうっていう所が、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、
その「捨てる」ということへの諦めきれなさがいかにもオタ的だなあと思えてしまうから。
クゥの長さを俺自身は冗長とは思わないし、もう削れないだろうとは思うけれど、一方でこれが
宮崎アニメの久石譲だったらきっちり自分の音楽の枠内にしあげてしまうだろうとも思う。
なのに、若草恵に頭下げて東南アジアの楽器を取り入れた劇伴を作らせてしまう、というあたり、どうしても
「自分の物語を形作ってきたものが捨てられないオタク」としては、たとえ原がそういうキャラでなかったとしても、
親近感を禁じ得ない。作品自体の高評価と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。
今のちょいケル若年層で生のそのままのブルガリアン・ヴォイスを見たことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。
菅野よう子よりも前の段階で、ちょいケルの哲学とか女性ヴォイス技法とかはこの作品で頂点に達していたとも言えて、
こういうクオリティの作品が民俗音楽として大昔にかかっていたんだよ、というのは、
別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなくちょいケル好きとしては不思議に誇らしいし、
いわゆる「Zone of the Enders Beyond the Bounds - Theme from Anubis」でしかブルガリアン・ヴォイスを知らない彼女には見せてあげたいなと思う。
KOKIAの「声」あるいは「歌詞づくり」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。
「終わらない祭を毎日生きる」的な感覚がちょいケルオタには共通してあるのかなということを感じていて、
だからこそテイルズ オブ イノセンスの主題歌はKOKIAや姫神以外ではあり得なかったとも思う。
「祝祭化した日常を生きる」というちょいケルオタの感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「ちょいケルオタの気分」の
源はKOKIAなどの女性ヴォイスにあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、
単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。彼女がカネダーテツオーと騒ぎ出すか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういうむき出しのエスニックミュージックをこういうかたちでアニメ劇伴音楽化して、それが非オタに受け入れられるか
ナカマーハシルーを誘発するか、というのを見てみたい。
サンホラとかルルティアくせーハルヒのキャラソンとかあればゲラゲラ笑いながら聞きてーなぁ。
「駄目だこの増田は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。
こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。
みなさん、何気ない私の日記にたくさん優しいコメントありがとうございます。
とてもたくさんの人に読んでいただいているのにびっくりして、
「誇りを持てるようする」と書いた仕事にも午後からは気合が入りました!
(と言っても、残念ながら今日も営業の実績はありませんでしたが…w
ちなみに、「好きだった人」とは付き合っていた訳ではなく、私の片想いでした。
告白してきっぱり断られた後も、クラスメイトとして飲み会したりしていました。
色々腹を割って話せるいい関係だったと自分では思っています。
最後に会ったのは3年くらい前なので、「昔」って言うのは言いすぎですね><
やり場のない感情のはけ口に増田を選んだのは、mixiだと本人や共通の友人にばれてしまうし、自分のはてダだと誰の目にも触れる事がないと思ったからです><
とりあえず少しでも充実した生活を送れるようにと、
我ながらポジティブかつアクティブな自分にちょっと驚いてます。
このやる気がいつまで続くやら…
みなさんのコメント、本当に心強いし嬉しかったです。
誰でも音楽を聴いたりカラオケで歌ったりする時代なのに、結構根拠のない迷信が信じられていることにびっくりする。
クラシック好きのはずの猫猫先生がこんなことを書いててびっくりした。
戦争中から戦後にかけての日本を扱った映画やドラマやドキュメンタリーで、戦争が終るとバカの一つ覚えのように「リンゴの唄」が流れる。説明がつくと「明るい唄が人々を勇気づけ」と言うのだが、あの歌は短調だし別に明るくないだろう
この手の誤解は猫猫先生だけでなく結構はびこってるみたいなので、ネタにさせていただく。
短調の曲が暗いなんて、そんなことは嘘だ。たとえば「東京音頭」は最初から最後まで短調だが、あんな脳天気な歌も他にないだろう。一方で、"Yesterday" だとか「海ゆかば」は長調だが、これを明るい曲だという奴はどこにもいないだろう。
そもそも、長調が明るくて短調が暗いなんて、そんな紋切り型が通用するほど音楽が単純なものなわけないじゃないですか。モーツァルトの曲なんて長調が圧倒的に多いですが、モーツァルトは脳天気な作曲家ですか?猫猫先生。
ついでにもう一つ。俺は絶対音感を持っている。全盛期には基準音(チューニングの時に合わせる音)の違いが 1Hz 単位でわかったこともある。で、それをいうとやたらとうらやましがられる。特殊な才能の持ち主だと思われてるみたい。
実際は全然違うんだよなあ。俺は確かに子供の頃からピアノを習っていたが、正直なところ腕前はDQN音大生に毛の生えた程度(本職は音楽関係ではない)で、進んで人様にお聴かせできるレベルではない。だのに、そのことを説明しても「ご謙遜を」としか言ってもらえない。
違うんだっての。絶対音感なんてのは単に「音の高さを覚えている」というだけのことで、普段から楽器に触ってればたいていは嫌でも身に付くんだって。確かに、大音楽家でも絶対音感のない人もいるんだけど、逆に言えば、これは音楽性と絶対音感が関係がないことの証拠でもある。
それなのに、変な親たちは「情操教育」として「絶対音感」を身につけさせようとしてる。ほんとに意味がわからん。音当てクイズなんかに熟達したって、音楽に熟達できるわけじゃないのに。
豊かさ = ゆとり だよ。
年収が増えたところで、生活が変わらなければ豊かにはならねえよ。
多忙なサラリーマン生活をしている限り、いくら働いても永久に豊かになれない。
今は会社を辞めて派遣PGなんだけど、残業ない職場紹介してもらったよ。
社内システムの開発なので納期も無い。
派遣会社の営業はソフトウェア会社の営業みたいに嘘つきじゃないからな。
残業無しって言ったら本当に無い。不満なら遠慮なしに断れる。
時間と精神に余裕ができたので学問、スポーツ、美術、音楽と色んなことを始めた。
なんだか滅茶苦茶充実してる。生きているのが楽しいぜ。
俺は金で買えないモノが欲しかったらしい。
金だの車だの何だのといった所有物では満たされなかった。
俺にとっての幸せとは、学問を究めるとか、体を鍛えたり、楽器の練習したり、絵を描いたり、
プログラミングの知識を深めたりすることだったんだな。
ゆとりは大人にこそ必要だね。
これは実際に見たり聞いたりした話じゃなく、僕がよく巡回しているとあるサイトで見かけた記事に書かれていた事だ。
簡潔にいうと
マクドナルドのCMで篳篥を吹いていた人を見て、サイト主は親父さん(サイト主によると雅楽の権威、らしい)に「あんなに軽快に吹けるの?」と質問すると「あんなに軽快に吹けるものではない。」と親父さんに言われる。
だが、親父さんは次の一言で
「こいつはもうこういう事でしか拾えてもらえないんだよ。」
と、言ったらしい。
彼は雅楽器と現代楽器のコラボレートで話題になり、映画やテレビCMに楽曲を提供したり、音楽や歴史やバラエティー等のテレビ番組や、更に大河ドラマの篤姫にも出演。
これを読んで思ったこと。
という風に分かれるのだけれど、正直どっちも違うんだよなあとその度に思う。
作品の質が、メインカルチャーだからよいとかサブカルチャーだから悪い、あるいはその逆だとかいうけれど、そもそもそれって関係のあることなのかどうか、と、クラヲタ(クラシックオタク)の俺としては思ってしまう。
音楽の世界でよく持ち出されるのが、音楽家なんて昔は貴族の召使いで、オペラなんて町人の娯楽じゃないかという話。確かに、モーツァルトのオペラの粗筋は昼ドラやらハリポタ並みだし、ベートーヴェンの交響曲はチンドン屋節、そしてシューベルトの歌だってオーストリア民謡だ。そしてそれを根拠に、「難解なだけの音楽は音楽ではない、だからクラシックはもう文化として死んでいる」なんていうことを言う人も、世間レベルではまだまだいる。
だけれども、クラヲタの俺に言わせれば、彼らの良さは別に素材の俗っぽさが原因ではない。あの時代には、高尚な素材を使って下らない音楽を書いた奴も沢山いたが、低俗な素材を使って下らない音楽を書いた奴も同様に沢山いたのだ。
要するに、素材が高尚だの低俗だの、あるいは作品が難解だの明解だの、それらのことが作品の質とは必然的には関係しないということだ。
それだけのことがわかっていない奴が20世紀にはまだ力を持っていて、たとえば大指揮者のバーンスタインという人はミュージカルの作曲家でもあったのだけど、彼の代表作「ウェストサイド物語」なんかは最も成功した現代音楽作品でありながら、コアなクラシックファン、特に現代音楽ファンからは軽視されたりもしていた。
だが、そんなことはもはや昔の話だ。たとえばビートルズの作品の質の高さは誰の目にも明らかで、クラシック以外から音楽の傑作が生まれないことは明白に事実に反していることは誰もが認めている。その結果、現代ではジャズピアニストがクラシックを弾いたり、あるいは民族楽器奏者がオーケストラと競演したり、クラシックの声楽家がロックのスタンダードナンバーをアレンジして歌ったりということが、部分的にではあれ、普通に行われている。そんなことをしたからといってファンから見放されるなんてことはあり得まい。
そういう目で見ると、文学やらその他の世界で言われている話ってのは今更に思えてならない。純文学が漫画やゲームやケータイ小説より優越していたり、あるいは劣っていたりしなきゃいけない理由なんてどこかにあるのか?誰が見ても手塚漫画は平均的な芥川賞作品より圧倒的に作品のレベルが高いし、逆にエロゲーの凡作は村上春樹作品に人気でも質でも及ばないというのが、世の大半が一致する見解だろう(個人的には村上もエロゲーも大嫌いだから客観的な判断はできない、すまぬ)。
カルチャーのメインとかサブってのは単にメディアだけの問題だろう。使っている楽器とか雑誌とかが違うことが、作品の質に必ず影響すると考えるのは根拠がないことじゃないのか。この手の議論を聞くと「理系の人間は哲学がわかってないからだめだ」とか「文系の人間は熱力学の第二法則も理解していない」みたいな低俗な論争を思い出してげんなりしてしまうのですよ。
追記 題名が誤解を招くと思ったので修正しました。
はてブを見てると、ブログでは著作権法に関して、やれ私的録音録画補償金が何だとか、やれ貸与権や公貸権が何だとか、やれ引用だ盗用だとか、かまびすしいけど、そもそも著作権系ブロガーは、著作権法を知ってるのだろか。
ということで、著作権法についての五択問題です。
〔12〕著作者人格権に関し、次のうち、最も適切なものは、どれか。
1法人甲の従業員乙が職務上作成した資料であり、かつ、甲の著作名義で公表されたものであっても、当該資料の著作者人格権は、常に乙に帰属し、甲がこれを取得することはない。
2甲が書いた小説を、翻訳家をめざす学生乙が翻訳し、その翻訳物に原著作者として甲の氏名を表示しないことは、乙がその翻訳物を自己の家族である丙以外には見せなかったとしても、甲の氏名表示権を侵害する。
3甲が書いた小説について、出版社乙が、その小説がより売れるようにタイトルの一部を勝手に変更して出版する行為は、当該タイトルが著作物性を有しない場合であっても、甲の同一性保持権を侵害する。
4甲が乙に対して、絵画が完成したならばそれを公表することについて承諾していた場合、その絵画を甲が完成する前に、乙がその絵画を無断で公表しても、甲の公表権を侵害しない。
5甲と乙との共同著作物について、丙がこれを翻案することは、丙が乙から同意を得ていたときには、甲の同一性保持権を侵害しない。
〔19〕著作権に関し、次のうち、最も適切なものは、どれか。
1絵画の著作者は、絵画の所有者が絵画を転売して利益を得た場合には、補償金の支払を求めることができる。
2私的録音録画補償金の支払がなされていないCD-R(コンパクト・ディスク・レコーダブル)に、家庭内で、著作権で保護されている音楽を音楽CDから複製すると、個人として楽しむ目的であっても、著作権を侵害したことになる。
3画学生が、絵画の勉強のために美術館で現代作家の絵画を模写した場合、その模写をデジタル写真撮影してウェブで公開しても、当該現代作家の絵画の著作権を侵害することにはならない。
4正規に購入したコンピュータ・プログラムの欠陥を勝手に修正しても、当該プログラムの著作権を侵害したことにはならない。
5改変自由な条件でインターネットを経由して広く無償で配布されている、いわゆるオープンソースのコンピュータ・プログラムは、著作権で保護されていない。
〔34〕著作権の存続期間に関し、次のうち、最も不適切なものは、どれか。
1映画の著作物の著作権の存続期間は、当該映画の著作物が創作後70年以内に公表された場合には、公表後70年である。
2出版社が、その発行する雑誌において、その社員であるカメラマンが撮影した写真の著作物を、出版社の著作名義で公表した場合、当該著作物の著作権の存続期間は公表後50年である。
3匿名で小説を出版した銀行員が、その出版の後50年以内に、本名を著作者名として当該小説を出版し直した場合、その小説の著作権の存続期間は、著作者である銀行員の死後50年である。
4映画の著作物の著作権の存続期間満了後であっても、当該映画の原作小説の著作権の存続期間が満了していない場合、当該映画のDVDを製作するためには、原作小説の著作権者の許諾を得る必要がある。
5出版社が、雑誌にその著作名義で連載していた、その創業者の伝記を、未完のまま休載し、5年後に連載を再開して完成させた場合において、休載前の部分についての著作権の存続期間は、休載前の最後の回の公表後50年であり、連載再開後の部分についての著作権の存続期間は、最終回の公表後50年である。
〔54〕著作権に関し、次のうち、最も適切なものは、どれか。
1工作機械が著作物とならない以上、工作機械の設計図も著作権では保護されない。
2ある県の県庁が作成した県民への広報用のパンフレットは、著作権で保護されることはない。
3裁判において証拠として提出するために他人の論文を複写することは、その論文に関する著作権の侵害となる。
〔58〕著作隣接権に関し、次のうち、最も適切なものは、どれか。
1オーケストラのコンサートにおいて、楽器の演奏を行った者は、それぞれ実演家として著作隣接権を有するが、楽器の演奏を行っていない指揮者は、著作隣接権を有しない。
2放送事業者は、その放送を録画した複製物を貸与する権利を有する。
3サッカーチームの運営会社が、テレビで生放送されている試合を直接受信して、大型スクリーンを用いてスタジアムでサポーターに鑑賞させても、その放送番組が著作物の要件を満たさない場合には、放送事業者の著作隣接権を侵害しない。
4実演家は、音楽CDに録音されている自身の演奏が放送された場合には、当該音楽CDの録音に対して許諾を与えていたとしても、二次的使用料を受ける権利を有する。
5レコード製作者の権利がレコード会社と実演家とで共有されている場合、レコード会社は、その実演家の同意を得ることなく、自己の持分を譲渡することができる。
http://www.jpo.go.jp/torikumi/benrishi/benrishi2/h20benrisi_tan.htm