はてなキーワード: ハイソとは
いや、それは分かってるって。
でも元増田の話だと
親との関係を良好にしておかないと、自分の子だけ声をかけられなかったりする
って話でしょ?
普通は
「XXちゃんと遊びたい」→親の承諾→どこの家に行く?行かせられる?
って話になる。
勿論送り迎えあり、遊び先の親監視ありだよ。それは当然。
でも、「親同士が決める」から、それによって「子供が誘われなくなる」はウソ。
「誘われても行けない」はあるだろうけど。
元増田の論理だったら、親同士が仲良くて子供を遊ばせてる図しか浮かばん。
そんなの3歳児以下の話でしょ。
(3歳にもなれば、好きな子嫌いな子出るから、そんなコントロール効かない)
親がお茶会…なんてのもおハイソな所は知らないけど、いちいち大人が入り浸ったら鬱陶しいし面倒な方が多いでしょ。
(勿論、家&監視役を提供しあったり、おやつ差し入れしたりは必要)
XX附属!とかはそうなのか?
そうじゃなきゃ、そんな付き合いしかできない親ばっかりじゃないはず。
てか、そんな有閑マダムばっかじゃないでしょ。
くだらないことから、……やはりくだらないことまで増田にいろいろ記事を書いてきたが、そうだ、苦手なジャンルの記事も書いてみよう、ということで、音楽の記事を軽く書く。
とは言え、私はほとんどアニソンしか聞かないので、さて何を書こうと思ったとき、前々から思っていた疑問である「駅前で演奏している生の音楽に(音楽のセンスのない私が)たまに異常にインパクトを受けるのはなぜか?」をちょっとだけ言及したい。
もちろん、音楽にはちゃんと音楽理論があるらしいので、的外れかも知れないが書いていきたい。
まず、やはり私がインパクトを受けるのは、「演奏が(ある程度)うまい奏者」だと思う。別の楽器から紡ぎ出される……別の場所から空気の振動として、自分の体それ自体にも伝わってくる音色やリズムがアセンブルされて一つの調和になってしまうという驚き、インパクトというのはあると思う。ヘッドホンやスピーカーでは、あまりその辺が分からない。もっとも、私の使っているオーディオがしょぼいから、という面は大いにあるだろうが、音響の良い映画館で音楽を聴いても、やはり、何か違うなあ、と思ってしまうのも確かだ。
それでもう一つ思ったのは、月並みだが、ライブかどうか、という面が大きいのではないかという点だ。
なぜ、ライブかどうかが重要かというと、観客の心の一部に「演奏者の失敗を期待している自分」という面があるからではないかとと思う。それを別に責めている訳ではなくて、スリルの裏返しでもある訳だから、それも含めて観客は楽しんでいるし、演奏者もそれも含めて楽しませようとしているのではないか。
だから、そういう意味……ストリートパフォーマーという意味で、大道芸人とミュージシャンは一緒くたにされるのだろうと思う。
そして、題名の件に話が移る訳だが、「良いコンサートは眠くなる」らしい。私もネットで見た発言なので、そうらしい、としか言えないが。おそらく高級なクラシックコンサートやハイソな現代音楽のようなコンサートの話をしていると思うので、ふーん。そうですか。おにぎりおいしいです。としか言えない面はあるが、何となく理由は想像できるような気がしてきた。
要するに、無茶苦茶設備が整ったホールで、マナーの良い観客の前で、一流の演奏者が演奏する訳だから、もはや「精密すぎて」もはや人間が演奏しているのか、機械が音を出しているのかよく分からない境地に達しているのではないだろうか。……いや、そう書くと語弊があるか。「安心感」が異常にありすぎるということだと思う。
だから、街の雑踏の中では、「それなりにうまい奏者がうまく弾ききれるか」という面で、スリルを感じた衆目の目を惹きつける、という様な意味では、なかなか良くできたシステムだと思うし、「良いコンサートは眠くなる」という話は、なかなか贅沢な時間の使い方で大変結構なことではないか、などと思う。
有名すぎて逆に見たことない映画を鑑賞してみようと思って
『サタデー・ナイト・フィーバー』を手に取ってみた。
見る前の印象としてはトラボルタが頭上を指さして
お世辞にも今から見たらカッコいいものとはいえず、
制作が77年って知るまでは「今見たらダサい」を強調したコメディだと勘違いしてた。
しかし、中身は意外なほどシリアスだ。
ディスコという場所から想起されるような「イケイケ」的な雰囲気も、
そういうシーンも一応はあるけど、全体的には薄い。
この映画に出てくる奴らは主人公も含めてみんな「地方でくすぶっている若者」だ。
あらすじは簡単に説明するとこう。
賃金も低く、神父になった兄貴とは違い、自分はクズだと思い込んでいる。
そんな鬱憤を晴らすかのように彼は週末になると
踊りの上手い彼はそこでは「キング」としてちやほやされる。
そして、そこのディスコ主催のダンスコンテストで優勝することを目標にし、
トラボルタの父親は仕事をクビになり、求職もせず毎日ぶらぶら。咎められると逆ギレ。
母親はすぐに兄と弟(トラボルタ)を比べ、嫌味ったらしい言葉を吐く。
トラボルタが家を飛び出ても外にいる仲間はみんなドロップアウトした落ちこぼれ達だ。
ダンスコンテストでトラボルタとパートナーを組むヒロインも同様。
トラボルタはディスコでたまたまヒロインと知り合い、パートナーになってくれと口説く。
このヒロインはトラボルタが住んでいる街とは川を挟んだ向かい側に居住している。
荒れているトラボルタの地区とは違い、治安のいいハイソなところだ。
しかも、彼女はホワイトカラーでいわゆる「ギョーカイ」と繋がる仕事をしている。
このヒロインが事あるごとに自分の仕事の自慢をしてきて本当にむかつく。
有名な人間と仕事することが自己実現だと思っている悲しい女だ。
はっきり言って見た目もそんなによくない。
二人は時間を合わせてダンスコンテストに向けて一緒に歩むことになる。
クソッタレな日常を送っているトラボルタの唯一のよりどころが「ダンス」だ。
この設定を読みとって、きっとこういう展開になるだろうと予想した。
困難を乗り越えてダンスコンテストで見事優勝するトラボルタたち。
みんなも自分の表現を見つけて、それに打ち込むことでつまんない日常を乗り切ろうぜ!
目標に向かって頑張る若者が麗しく描かれ、すかっと爽快なエンディング。
そんなものはこの映画にはなかった。悲しくやりきれない結末が待っている。
「うーん、たぶん今後も上手くいかないんじゃないだろうか」
そんなざらついた舌触りを残した結末だ。
ただし、鬱映画というほど暗くもないし、踊りのシーンはカッコいい。
特に中盤のパートナーに約束をすっぽかされ、トラボルタが一人で踊る場面がある。
周囲の客たちが一斉に彼に注目し、身体の動きを止め、トラボルタに見とれるのだが、
単なる演出にとどまらず、こっちにまで伝染するようなキレのある動きを見せてくれる。
そして、何よりもBGMとして使われるビージーズの楽曲がいい。
冒頭、ファッションを決めて街中を颯爽と歩くトラボルタ。重なる曲。
そして、その歌詞が「歩き方でわかるだろ? 女が夢中になる男さ」。
夢中になったのは女だけじゃなく、世界中でヒットしたこの映画。
単なるオシャレ映画じゃありませんでした。面白かったです。
どことかの問題じゃないんだよこういうのは。あるあるネタとしてすで陳腐なまでに普及され尽くした話なんだよ。
一回もそういう話聞いたことがない?マジで?それは地域とかの問題じゃなく日本語圏かどうかの問題と言ってもいいレベルだよ。
「夕方のスーパー」と言えば「弁当半額!」というレベルの話だよ。ハイソサイエティなスーパーでは半額なんかにしないのかも知れないが、それでも話には聞いたことあるだろう、しかもその時の感じはまるでそれが(半額が)当たり前という感じだったから、日本全体である共有感があるんだろう、という感覚を普通は得ているはず、って話だよ。例えるならね。
手短にいこう。俺は長編小説が読めない。
事情とはなにか。
第一に、俺は読むのが遅い。時間がない。小説は、長いというだけでハイソだ。俺はハイソじゃない。
第二に、俺は飽きやすい。「飽き」は意志の弱い人間に挫折を受け入れされるのに十分な言い訳になる。永久に。
第三に、無理をして読む動機がない。『白鯨』や『失われた時を求めて』以外にも魅力的な他の選択肢はある。
たとえば、以下にあげる50の選択肢が。あなたにとってはどうだろうか。
■海外編
「しあわせの理由」 グレッグ・イーガン★
「9マイルは遠すぎる」 ハリイ・ケメルマン★
「ライ麦畑でつかまえて」 J.D.サリンジャー
「ねじの回転」 ヘンリー・ジェイムズ
「長いお別れ」 レイモンド・チャンドラー
「地図にない町」 フィリップ・K・ディック★
「ポップ1280」 ジム・トンプスン
「99999」 デイヴィッド ベニオフ★
「眼球譚」 ジョルジュ バタイユ
「虎よ、虎よ」 アルフレッド・ベスター
「無常の月」 ラリイ・ニーヴン★
■国内編
「葉桜の季節に君を想うということ」 歌野 晶午
「最悪」 奥田 英朗
「バイバイ、エンジェル」 笠井 潔
「姑獲鳥の夏」 京極 夏彦
「ハサミ男」 殊能 将之
「大いなる助走」 筒井康隆
「生首に聞いてみろ」 法月 綸太郎
「百億の昼と千億の夜」 光瀬 龍
「すべてがFになる」 森 博嗣
「瓶詰地獄」 夢野 久作
謝っておかなければならない。
好きな小説を上から50数えたら、こんなに★があったわけだ。
そういう奴もいる。
あんたは俺を哀れだと思うか。
あれだけハイソな家庭に生まれて潤沢な教育を受けたにも関わらず、大学が国内、ましてや東大ですらないという時点でかなり残念。
ヨーロッパの香りを漂わす裕福な家庭に生まれ、父は劇作家であり博報堂の取締役、母は映画女優という、生まれながらにして「ハイソ」な環境が周りにあった。
当然、御学友たちも文化的香り満載の本物のセレブが多かったに違いない。
小さい頃から本物を見続けてきた望夫は、それらに比べて自分の力がいかに劣っているのかを思い知らされてきただろう。
おそらく、例えば自分で文学的な文章を書いてみたこともあるだろう。
しかし、出来上がってみたものは今まで見てきた本物と比べていかにちっぽけなものだろうか。
下手にそう判断できるだけの客観性と教養があったがために、しだいにどんどん身動きがとれなくなっていった。
文学者の息子が理系に進むのは、偉大な父と同じフィールドに進むことから逃げるためだろう。
違う場所なら自分も人並みになれるのではないかと期待を持って。
他人の能力のすごさを嫉妬せずに理解できる、できるからこそ、同じ舞台にあがろうとしない、畏縮して上がれなくなってしまう。
無能の自分ができること、それは埋もれた天才を世に広めることだけ。
指したところで一流の棋士には、どうあがいたって彼らにはかなわないから、最初から指さない。
自分は優れた人間で無いことを自覚してるから、自意識を守るために勝負しない。
一流と戦って、負けることでも成長して、いつかは彼らの高みに近づこうという気力が無い。
一流のそばにいて、彼らは一流ですとアピールしてれば、彼らと勝負する事がないから、負ける事がない。
不良に「アツシさん、マジハンパねぇっす」といっている線の細いヤンキーのメンタリティー。
彼の不幸は、本が売れ、自分も勝負を挑まれる立場になってしまったこと。
「それなら、自分でなんとかしてみろよ」という批判に答えるためには、自分で何かをしないといけないが、自分で何かを作り出す事から逃げてきた人生。
やればできるかもしれないこともやらない、やっても一流の人にはかなわない。
「はてなブックマークはバカばっかだ」取締役という立場を離れないと言えない
逃げて逃げて逃げて。
ホワイトハウスの前で、
と少女漫画風の娘さんが言う。
俺としては、・・・これってどうなの?みたいな感覚だった。(そう思った人は俺以外にもいると思うんだけど)
なんか、アメリカにあこがれを抱いている40代の感覚だよな、というか。
問題は、映像のリアリティではないか。
ニコニコ動画などで、アマが作る映像の方が時代の生きている感覚、リアリティを感じる。
世界の中心は、ホワイトハウスでもアキバでもない。ここであり、そこだ。つまり、ネットだ。
時間の感覚が止まったプロは、思い出の中で生きる老人用の映像でも作ればよい。(と、暴言)
あー、でも、分からないな。
ハイソな(?)海外留学に憧れるコジャレた学校に通う娘さんの感覚って、こんな物なのかも知れないよね。
まー、単に俺は視聴対象に入っていなかっただけということだ。
取り溜めたプリキュアでも見るか。
取引先の付き合いで、カード作らされた。
付き合いの飲み会で皆の飲食代を立て替えた。
もちろん私は十万単位で現金持ち歩いてるようなハイソな人間ではないので
皆を待たせるのも悪いし仕方がないから、こっそり隠し持っていたカードの出番となりました。
いままで食わず嫌いというか、使わず嫌いだったんだけど、カードって便利ですね。
サインをさらさらっと書いてお会計をさらっとすませるあの感覚といったら!
ちょっと自分のグレードが上がった感じで気持ちいいですわ。
すぐにお金を集めたからお財布も傷まないし、それどころか一時的にリッチです。
まー毎月少しずつ引き落とされるんだけどね。そんなん誤差でしょ。
絶対つくらない!って人やっぱりいると思うけど、
一回試してみるといいですよ。
http://anond.hatelabo.jp/20081112112152 で思い出した我が家のパンツ話。ツリーの本題とは無関係。
昔、実家にいた頃は家族全員でパンツ共用してた。正確には、自分と妹はほぼ自分のパンツのみはいてたけど、母は誰のパンツでもお構いなしにはいていた。自分や妹のスタイルも母のスタイルも両方普通だと思ってたから、母のような行為に難色を示す人が多いことを知った時にはかなり驚愕した。
確か高校の時に友達と列車内で雑談していて、私が「最近妹がパンツはかれることに怒っててさ」みたいな話題を出したんだと思う。その場にいた友達全員に「お母さんの行為はおかしい」と熱弁された上、インパクトがかなり強かったのか、後々にも「○○の家はパンツ共用するくらい仲いいもんね」(実際の仲は良い悪い通り越して壊滅的)と引っ張られることがちょくちょくあった。
なんにせよ嫁入り前に(おそらく)まっとうなパンツ観を知ることができてラッキーだった。
ここから違う軸。ぱんてしょん。
時が経って実際に嫁入って、それよりさらにハイソなパンツ観の持ち主と暮らすことになった。さすがにパンツや尻の形状が違うので、共用なんて発想自体ないけど、高校の時に聞いたよそさまのパンツ観よりさらにインディビジュアライズされたような感じを受けた。
相手のお風呂上りを狙ってパンツを用意する訳だけど、用意したトランクスを自分のパンツの上から短パン風にはいて、「おやびんあっためときやした」って言ったら、「やめなさい」って言われた。懐に入れてあっためておやびんした時は苦笑されただけなので、風呂上りにしゃきっと冷たいパンツをはくのが楽しみって訳でもないと思う。あと洗濯物たたむ時に、何とはなしにたたむ前のトランクスを頭にかぶって頭ゆらゆらさせながらたたんでたら、それも NG だったらしく、やめさせられた。
たとえ話仕込み。自分の心には「食べ物を粗末にしてはいけない」って感覚が理屈抜きで強めに備わってる。食糧問題とか命の尊厳とかにはあまり興味がないけど、自分が食べ物として認識するものを粗末にしているシーンなんかは生理的レベルで受け付けない。
しかも、その「粗末にする」というのも主観極まりなく、自分から見て「食べ物で遊んで、しかもその場でおいしくいただかない」状態だと気持ちがもじょもじょする。他のもじょもじょパターンもあるけど割愛。正当化して人に押し付けるには無理がある気持ちだから、基本的にそういう気持ちは表明しない。たとえ話仕込みおしまい。
多分夫にはそういうノリで「パンツを粗末にしてはいけない」って気持ちが備わってるんだと思う。自分のパンツに自分以外の人が足を通したり、ましてや頭にかぶったりするのは、理屈抜きで嫌なんだと思う。こちら側の言い分としては、自分のはいてるショーツとかは頭にかぶるとぴっちり密着するから嫌だけど、トランクスならゆるいからいいやーと思ってかぶったんだけれども、そういう問題以前のものだったんだと思う。
ぱんてしょん。
ぱんてしょん。
この話でもってよそんちやあらゆるご家庭なんかをどうこう言う気は全くありません。単にパンツ共用する家庭についての言及があって嬉しかったのと、そこがたまたま自分も言及できるシステムだったもんで気軽に便乗したという程度のダイアリーです。
店で隣に5,6人のおばあちゃんが集団で座ってでっかい声で話してた。
どうやら絵画教室にみんな通っているらしい。
それぞれ、「XXさんはお上手で」「XXさんは繊細で」「XXがお得意で」と、延々褒めあってる。
年のころはミナサマ70は超えている。
この年齢で絵なんて習ってんだからオハイソなんだろう。
褒めあい談義が若干ウザイと思いつつコーヒー飲んでいたら、講師の話になった。
「教え方が下手なのよね。褒めないから」
「XX先生は若いからいいわよ」
「私はXX先生の方が良かったわぁ」
…
70以上である。
まあ、XX先生がおいくつでお若いのかは存じ上げないので、
有閑マダムってのはいくつ歳くっても同じ生物なんだなぁ、と思っていたら
「XX先生は石膏の書き方教えてくれないのよね」
「こう、肌が滑らかなのにね」
「あら、私もよ。でもGacktって綺麗じゃない?そうなっちゃうわよねー」
「うちなんて孫に”おばあちゃんGacktのファンだから、Gackt書いてるのよ!”って言ってるわぁー」
おばあちゃん=氷川きよし、って脳しかなかった俺には、ますます白熱するGackt話に、一瞬頭まっしろだったわ。
しかしどんな石膏胸像デッサンしたらGacktになっちまったのか、とても聞きたかった。
人に「良い」と思われたことが無い。ほぼ確信している。少なくとも「良い」と思った旨がこちらに伝わる類のものを持っていない。多分可視化させてはいけない部分で秀でてる部分はあると思う。スケープゴートっぷりとか。可視化しかけたら、「そんなのが良くったって、ねえ」「そもそもそれって良い悪いじゃないし」みたいな感じでそつなく押し込められる。「良い」ものの埋蔵場所が自他共にタブーがらみである認識があるみたい。
審査・試験っぽいもので「及第点」を取ることはある。でも魅力とか誰かの琴線とかそういう方向の、人に直接作用するような「良さ」は今のところまだ発覚していない。少なくとも自分で言及できるような類のものは。
何かしらのご縁で「私たちいじめとかしませんから、ハイソですから」って色合いの集団に身を投じて過ごしていくとなると、潤滑剤としての褒め合いが必要になる。社交辞令とそこに毛がもじゃもじゃ生えた類のあれ。そういうとこに自分みたいなのが混じると、排斥されるんじゃないかと予測されるかもしれないけど、これまたぎっちょんちょん。如何にしてこの駄目なとこしか見当たらないターゲットを褒め上げるか、というテクニックの競い合いが白熱して、すごいことになったりする。そういう集団内ではそれはそれは空虚に褒められまくる。
そしてそのまま過ごしていると、主に褒められたい念を内に秘めてる人から「あんた褒められたくてそんなポジションにいるんでしょ」みたいな野次を明暗関係なく飛ばされる。内に秘めたる思いは空虚にすらビビッドな彩色を施すみたい。こちらとしては集団に引っ付く理由は別のところにあって、良くないことを無理やり良いように言われるのはしっくりこないどころか時としてたいそう気持ち悪いし、言った相手も閻魔様に舌抜かれる危険性を孕むし、そういう褒め褒められは集団内に平穏にとどまるためのやむを得ないリスクとしてしか捉えられない。隣の芝生ブルー。そしてその誤解もまたリスクとして積まれていく。
リスクが許容範囲を超えてあちこち蝕んできたら、集団から身を引いて心身修復タイムに突入する。野次を飛ばした人はこれ幸いと後釜にすわろうとするんだけど、いくらでも良いとこある人褒めたってテクニックは競えないからいまいち白熱しない。人に自律的な悪意を飛ばせる人って、どっか別のとこで良さ確立させ済みで足場のしっかりしてる人が多い。良い所を良いと言うだけで済む人は、あっさりシンプルイズベストになる。退いた人が何故あんなに褒められていたのかが分からない当人は不服かもしれないけど、それがさしあたり一番失礼の無い、美しい振る舞いだからしょうがない。その人の頭上なり股下なりを素通りしていく褒め言葉は、顔面にべちんとぶちかまされる貶し言葉とはまた違った切なさがある。感じさせずに済むならそれに越したことは無い切なさ。
蝕みがマックス状態の時はいつも思うんだけど、恵まれてなくてかつ恵まれてる。適当な枠組みで恵まれてる方をメタい方に割り当てて、自分と過去もしくは未来の集団の平安を保っている。この恵まれ方も埋蔵してる部分だから、掘り返したら徳川様の祟りが起こる。そんな共通認識がどこかにある。集団を離れてなお集団に属している。しかもかなりポジティヴなこころもちで。
その場所に一匹狼はいない。
ゲームヲタクが感情的なレスを始める前に、まずは客観的視点から。
そもそも「サブカルチャー」ってカテゴライズ自体、ある一つの価値観に過ぎず、
実際にフランスでは「サブカルチャー」とは呼ばれてないわけで。
そもそも、社会や文化を階層構造で捉える視点自体、特定の価値観に基づいた偏った物の見かたなわけで。
最近の社会学かじってる人ならまず「サブカルチャー」なんて言葉自体使おうとしないかもしれない。
残念ながらその叔父さんはちょっと無知だね??。
ゲーム開発者に限らず物づくりの関わってる人間は全般的に地位が低い。
「権利を主張せず、団結することも知らない、寡黙で孤独な職人の国」
だからな、日本は。
(例えばヨーロッパなんかでは歴史的に職人ギルドが社会的影響力持ってるわけで。それこそ有名なフリーメイソンとかね。)
ゲームファンも、ゲーム開発者もそれに対して怒ったりするんじゃなくて、
そういう物の見方をする人がいるって事実を受け入れた上で、
それでも日本にいたいなら、人一倍品格とか社交性とかに気を使って、
http://d.hatena.ne.jp/sean97/20080331/p2
http://d.hatena.ne.jp/rajendra/20080403/p2
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080405/1207333508
http://d.hatena.ne.jp/sean97/20080404/p1
自分のblogで書こうかと思ったけど、面倒だからここに書く。
『サポーター』とは何だ、という話。
この問題は、『サポーター』当人たちにとっては、宇都宮氏の言を借りれば『神学論』的問題である。
http://supporter2.jp/utsunomiya/column/column_main29.html
自分も『サポーター』の一人であるが、この問題が『神学論』であるという感覚は、ものすごく理解できる。
『サポーター』として、ハマればハマるほど、この問題を追及しすぎて、『サポーター』とは何かがよくわからなくなる。
『サポーター』と『ファン』との違いにも悩む。
もちろん、「偉い」とか「偉くない」とかいう話で悩んでいるのではない。
その点も神学的だ。
もう一つ。
>たとえチームに関わるものを何一つ持っていなくても、チケットを握りしめてスタジアムに駆け込み、試合が終了するその瞬間までチームのために祈りを捧げられるのなら、それは立派なサポーターだ。
という意見には自分は否定的だ。
自分は、例えスタジアムで直接応援していなくてもチームのポスターを店頭に貼ったりしてくれる『サポートショップ』の人は十分に『サポーター』の資格があると思うからだ。
そういう人たちも、文字通り『支援者』であるから。
また、『サポーター』を『経済学』的に議論するならば、自分は『サポーター』とは『消費者』ではなく、『出資者』であると定義した方が近いと思っている。
実際、『持株会』があるチームは多いと思うし、『後援会』が無いチームの方が少ないだろう。
『持株会』への加入有無に関わらず、『サポーター』自身の感覚は『消費者』よりは『出資者』の方に近いはずだ。
ところで、『持株会』の存在などをid:sean97氏はご存知なのだろうか。
もしかすると、そのことを認識していただくだけでこの議論は終わりなのかもしれないな、と思う。
『出資者』が文句を言うことには問題がないとid:sean97氏が考えられる可能性があるからだ。
ただ、『サポーター』が『出資者』とは微妙に違うな、と思うのは、『サポーター』は自分の直接的な利益よりも、チームと地域の発展を願っているという点。
お金に絡む話だけではなく、Jリーグ運営に携わるボランティアも多い。その人たちは試合中にはモギリなどをしていて試合を見られない。だが、立派な『サポーター』であると自分は思う。
『サポーター』はお金や労力や魂を差し出して、チームと地域の発展を願う『出資者』であるというところか。
#企業活動に例えれば、『スポンサー』よりも『メセナ』が一番近いだろう。
『社会学』的に言えば、『コミュニティ』活動の一環かもしれない。
そして『地域』と『チーム』と『サポーターである自分』は分離していないから、自分で自浄作用を働かせることに抵抗感が無いのは普通なのではないか。
『人間行動学』『心理学』などから考えれば、『人間とは、応援されたいし、応援したい生き物なのだ』ということなのだと思う。
そして、『応援』にはいろいろあって、単に「頑張れ」と励ますことだけではなく、「しっかりしろ」という場合もあるということなのだと思う。
『サポーター』って何だ、という話は、ここではこれで終わり。
これもサポーター界という狭い範囲でしか知られていない話だが、川崎フロンターレサポーターは、この議論の元になったような行動を自チームに対して取らないという特徴がある。
それどころか、惨敗したチームに対してブーイングをすることすら、ほとんどない。
その理由は様々だと思う。
「そんな労力があるなら、選手を応援する」というのが一番ポピュラーな理由か。
ただ、サポーター一人ひとりではなく、川崎フロンターレの応援団の意図は、それ以外にもう一つしっかりあると勝手に思っている。
(断っておくが、私は応援団の一員ではない。)
「ブーイング」から「抗議行動」までは、あっという間。
だから、「ブーイング」から自粛するように「仕向けて」いる。
なぜなら、こういう外野がうるさいから。
サポートも応援も知らない人が、ニュース一つを見て、「うわー、サポーターって何様? 嫌な人種。」と思い、サッカーに対しても嫌悪感を露にする。
露にする、と言ったところで、その人たちはスタジアムに足を運ぶことなど滅多にないのだから、説得のしようもなければ、理解を得ることもありえない。
今までこうして長々と書いてきたことも、おそらくはid:sean97氏には、まったく響かないだろう。
だが、観客動員を増やして、チームをさらに発展させるためには、少しずつ「外野」であった人々を「内野」に引き込まないといけない。
だから、外野がうるさく思わないように、そういう行動を取らない、というのが川崎の応援団の選んだ道なんだと思う。
中には、サポーターというものに暴走族的感覚を求めている人もいるだろう。
だが、人口密集地の、意外にも「ハイソ」な人が多い川崎で、暴走族的ノリを導入するのは、あまり頭がいいとは言えない。
しかも、Jリーグの中では後発のチームだから、暴走族的ノリや悪ノリは近隣のチームに取られてしまった後だった。
そこで、選んだのが、「ブーイングすらしない」というスタイル。
たまに川崎フロンターレのホームスタジアムである等々力に足を運ぶような人は、サポーターのブーイングすらしないスタイルに好感を覚える人が多い。
少なくとも私の周りはそうだ。
今では、そういう安全なイメージのある等々力に、家族連れが溢れている。
(これも狭い世界でしか知られていない話だが、等々力の観客動員の増加とその中の子供の多さは、動員数の伸びの鈍化と観客の高齢化とに悩むJリーグの中では異質なことなのです。)
つまり、それぞれのチームのカラーの一つに『抗議スタイル』も含まれているのだ。
私は川崎サポーターなので、川崎の話を出したが、おそらくは各チームの各応援団にはそれぞれの考えがある。
ただ流されて暴徒化してしまうようなチームは、日本にはまだ無いだろう。
#id:sean97氏に一つだけ認識してもらいたいのは、日本のスタジアムは世界で一番安全なスタジアムであるということ。
最初のエントリーを書いて、次のエントリーを書く間に、それは調べて欲しかった。
ヨーロッパなど、チームへの抗議も含めて、毎週刑事事件だらけだ。
今回の浦和サポーターの行動は、それはそれで話題作りになっていて、「ああ、浦和っぽいな」という話にしか過ぎないとも言えるのだ。狭い世界では。
その抗議行動の後にやっと勝利した時の、サポーターと選手の歓喜の輪も含めて。
私がこのエントリーを書こうと思った理由の一つは、id:rajendra氏が「アビスパ福岡サポーター」だから。
議論の元である「浦和レッズサポーター」や、もしくは例えば「ベガルタ仙台サポーター」あたりだったとしても、こうして書いただろう。
id:rajendra氏には申し訳ないが、「そういうチームカラーのサポーター」がアツい意見を書いてもな……と。
「そういうチームカラーじゃないサポーター」が「ま、そういうのもアリじゃね。いろんな意味でさ」ということを書く意義がそこそこあると考えたのだ。
それが頭がいいことかどうかは別にしても。
時かけアニメ版映画の主人公真琴の着ていたのが紺ミニスカート+白ポロシャツ裾だし+紺ハイソックスだったんですが、上映始まってしばらく時代設定がわからんかったんです。
靴が気になった。ローファーだとちと微妙だが、スニーカーならありかと。でも私が女子高生だったのは5年前のことなのでもう古いか。
当時は、膝下スカート(紺プリーツ限定。チェック柄でこれしてる人間を見たことない)+オーバーサイズのカーデに、ルーズ+スニーカーか、黒タイツ+ローファー(踵は踏む)を合わせるスカート膝下連合と、膝上スカートにハイソ+ローファーのスカート膝上連合が二大派閥だった。ミニ+ルーズ+ローファーはちょっと姿を消しかけていたような記憶。
個人的には長いスカートに黒タイツ+スニーカーが好きだった(見るのも着るのも)。でもオーバーサイズが某お嬢学校発祥とは知らなかった。どっちかというと、お嬢な子はミニスカ(チェック柄)+ハイソ+ローファーだったので意外だ。
ちなみに神戸の話。
滋賀県が全国で最もスカート丈が短いという話を聞いたのだけど、これは今でもそうなんだろうか。去年旅行で行った時の体感では、確かに短い子が多いなあ、という印象だったけど(そもそも兵庫県がながすぎかもだが)。
真琴の制服姿ってたぶん普遍性があるというか、5年後10年後にみてもそんなに古くさく見えないと思います。
でもぜんぜん「今」じゃない。
「今」は地域性のほうが時代よりも大きい差なので、普遍的な「今」の制服、というのは難しいんじゃないかなーと思った。個人的な感覚でいうなら、アクティブな子という設定(見てないので知らん/しかし広告から受けるイメージは活動的)なら、紺ミニスカ+ポロシャツ裾だし+ハイソ、という組み合わせは結構合ってるんじゃないかと思う。足元どうだったっけ…
コミケ3日目が終了した後の空港のレストランで、モデルか芸能人かというぐらい美人の女性2人連れの隣に座った。エビちゃんスタイルとでも言ったらいいんだろうか。お世辞にも僕らが大好きな黒髪ストレートの清楚ロリ系ではないが、世間一般に見て、かなり勝ち組であろうと想像出来るお姉さんだった。あまりにハイクオリティすぎて、どうせ実家は金持ちで彼氏はIT青年実業家か医者なんだろ?ハイハイビッチ乙とかそういうことを考えていた。こっちはTシャツに潮吹いてるキモオタ童貞3人組。俺らのようなアニメ・エロゲフヒヒとかやってる人間は一生、こういう女性とは縁がないのだろうと。
ところがだ。ところが、そのお姉さんたちの会話を盗み聞いて、耳を疑ったね。いや、一瞬脳が拒否した。
「地球へ…今すごいいいところなんだよ!」
「子安さんが受の役してるの珍しいよね」
「それは○ちゃんがそう思ってるだけでしょw」
腐女子かよ。
「△ちゃんの台車って何箱くらい載る?」
「今度の表紙、全面に箔かけたいんだよね」
しかも描く方かよ。
そしてしばらく濃い話を続けた後、なんか石いっぱいついてるアクセサリーを煌かせながら、お姉さんたちの会話は外見通りのハイソな恋愛話に移行した。
これにはシャレじゃなく絶望した。鬱になった。何故かと言うとこのお姉さんたちもアニメ・ホモフヒヒとかやってる人間なんである。話の内容を聞くかぎり、しゃべってることは俺らとたいして変わらないのである。なのにこの勝ち組オーラ。
気付いてしまった。俺はオタクだからモテないんだと思っていた。アニメ・エロゲが好きだから、世の中の女には理解されないんだと。俺らのようなオタクが女と付き合うことがあるとすれば、きっと相手は重度の腐女子でキモ外見の女子と同病相哀れんでなんとかなるぐらいがせいぜいだろうと。でもそうじゃない、俺が童貞なのはオタクだからではなく俺がキモイからだ。例え重度のオタクであってもちゃんと一般人と恋愛を成立させている人が存在するというこの事実。考えてみれば氏賀Y太にだって嫁がいるのだ。
そんな感じで絶望したまま家に帰って、戦利品で気持ちを盛り上げようと開いた本の後書きで、そのブログの変態くささから、最高級にモテないオタだろうと思っていた作者がオタじゃない一般女性と結婚したという文面を見た時の俺の気持ちを誰か察してくれ。
なにをいってやがるんだか。まあお説はもっともなんだけど。比べるもんじゃないでしょ。両方覚えて、適所で使え。
(書いてるうちに他人とかぶった…)