はてなキーワード: ε-δ論法とは
基本的には前項の内容に関する指摘・修正等はトラックバックでしていただいた通りです。
少しマイルドな形でトラックバックを利用させていただき、また元の疑問に対して再提示しましょう。
・代数的な意味での「無限大」、極限で用いる「無限大」、複素関数の意味での「無限大」は異なる。
→無限大、という言葉は様々な定義、文脈上で発生する一概念であり、ひとまとめに語ることはできない。
→ 様々な観点でとらえらることができるが、∞は四則演算可能な数とは考えないのが無難。
四則演算可能とする立場でも、通常の四則演算則は成立しないことが分かっているため、
高校の間では考えないのが良い。
高校の間でこの表現に触れるのは微分だけであり、そこなら触れなくても大丈夫。
どうしても触れたい場合は、解析で用いるε-δ論法の軽い解説をするのが良いです。
・不定形の極限について
不定形の極限という表現そのものが(便利ではあるが)危険なので、使用しない。
→代数としての無限大と、極限値としての無限大との混同の怖れがあるため。
(受験期にこれを混同することがそれほど問題とは思えないのですが、とはいえ生徒の今後の混乱を招く可能性もあります。)
次のような表現、説明とする。
ここまで書いて、
がナゼ無限大にならないことがあるかを説明するには、
数列同士の差が完備性を持っていることについて=コーシー数列についての説明をしないといけないことに気付きまして。
この3つの条件について、「数学が苦手な生徒に」「分かりやすく」説明するプランを何か考えないといけないですね。
・暫定として
数列Anと数列Bnの差を取る時、nがある一定以上の値とする。以降、δAn>δBnならば、An-Bnは常にその差分だけ増加していく。
ずっとδA =δBn ならば、差は0。
(*:1値の取り方によってはアウト。差分数列がコーシー数列である場合。)
数列Anで数列Bnを割る時、nがある一定以上の値とする。その商Cnが無限大に発散するならば、
An/Bnは無限大に発散する。
(*:2値の取り方によってはアウト。数列がコーシー数列である場合。)
また暇があったら考えます。
これ、工学部応用数学科で一番出来の悪い生徒だった自分でも分かるような間違いだらけで腹が立ってきた…塾の先生ってこんな誤解を招く説明しか出来ない人しかいないの?
これだったら、「ε-δ論法で調べてね」とか、「この本のここを読んでね」って言った方が、よっぽど正確だし、学生の後世のためになる。
塾でもよく訊かれるので解説を。
無限(+∞)というのは、「私達が理解できないくらい大きい数」ということを表す記号です。
∞は「数」なの?「(という)こと」なの?どっちなの?はっきりしてよ。で、「私達の理解」って何よ。「私たちの理解」なんて、定義に関係無いでしょ。10^10^10^10とか、私達に理解できないぐらい大きい数だと思うけど、∞ではない。
同じ程度の長さだったら、「∞はどんな数よりも大きい『こと』を表す記号です」でいいじゃん。ついでに言えば、「ですから、∞は数ではありません。もし、∞がある特定の数だったら、∞+1は∞より大きくなってしまい、『どんな数よりも大きい』という定義に反するからです。」とか付け加えておけば、なおよし。
∞ + ∞ = ∞ と定義します。私達が理解できないくらい大きな数を加えあっても、それが理解できないくらい大きいことに変わりはありません。
なぜ、∞ + ∞ = 2 * ∞ ではないのでしょうか? それは、∞は我々が知りえない数だからです。つまり、∞ = ∞ という計算が、 「私達の知っている意味で」等号計算が正しいかどうかなんて、誰も知らないからです。
∞+∞=∞、って定義なの?ε-δ論法使えば、∞の定義から、定理として導き出せるんじゃない?「我々が知りえない『数』」とか言って、∞をある特定の数だと誤解させるのやめろよ。等号「計算」って何?「誰も知らない」って何?良心的に解釈すると、「∞は数ではないから、「∞=∞」という表記をしたいのであれば、「9=9」みたいな数における等号とは別に定義しなければならい」ということを言いたいのだろうか。で、「∞ + ∞ = 2 * ∞」ではない理由は、単純に、∞という記号に対する+と*という定義を厳密にしていないからでは?
この「∞-∞が0にならないこと」しか分からない長文の理解にかかる時間と、ずっと応用範囲の広いε-δ論法の理解にかかる時間を比べて、前者の方が圧倒的に短いとは思えない。
理解にかかる時間が短くならないなら、いくら労を凝らしたつもりでも、分かりやすいとは言えないのではないか。
高校でも塾でも、こういう興味を持った学生には、ε-δ論法を教えてあげた方がいいと思う。その時は分からなくても、最低限、「ε-δ論法」というキーワードがこの問題に関係していることさえ知っておいてもらえれば、今の時代、インターネットを検索すれば、短時間で正確な情報に行き着くことができるのだから。
http://anond.hatelabo.jp/20120418161834
高校生に教えるって前提なら極限の話になるんだから、それなら∞は「正の無限に発散する」の省略表現であって、何か特定の数を表すかのように言うのが誤解のもと。
「∞ + ∞ = ∞」とか「2 * ∞ = ∞」とかも極限の和や積の性質を表す慣用表現。「∞ - ∞」が定まらないのも極限の性質による。
理系全員εδを理解しろとは言わないけど、教える立場になるなら理解した上で崩した説明しろよと。εδなんていくらでも解説してる本があるし、中根美知代『ε-δ論法とその形成』みたいな数学史の本も手軽に読めるんだしさ。
それと濃度や順序数の演算だったら\alephやωを使うから、わざわざ∞を使って誤解を誘発しなくてもいい。極限の話とは全然別の文脈。ごっちゃに論じてもおかしくなるだけ。
確かに怠惰を奨励するような言説が世に跋扈していて、それに惑わされる若者がいることは認めよう。そういう人たちを批判すること自体は構わないと思う。しかし森毅をそこで非難するのは誤爆と言わざるを得ない。
そんなときに、森が著書の中で
「ええかげんでいいんや。大学では勉強なんてしなくていい。エリートは勝手に育つもんだ」
と主張していたのに、救われた気がした。
いったい森毅がどこでそんなことを言っていたのだろうか。
「こうあるべきだ、という型に囚われる必要はないし、『エリートたるものかくあるべき』という型に学生をはめるのも馬鹿らしい」
「人に言われたことやイデオロギーを何でもかんでも真に受けて生きるのは痛々しいし危ない」
というそれだけのことに尽きる。ただ、これらの命題は自家撞着と紙一重(「俺の言うことを聞くな」というのはパラドックスである)だから、あんな持って回ったような言い方になっている、それだけのことだ。
私はそれを当時理解できずに痛い学生生活を送ったからこそ、その言葉の正しさを今になって身に沁みて実感していると確信している。
私が大学生になるかならないかの頃には、「怠惰の奨励」とはちょうど逆の言説が流れていた。「分数ができない大学生」だの「東大生はバカになったか」だのその手の本だ。その手の本を読めば、
「日本の大学生は勉強しない、教養がない、東大生でも厳密な学問を理解できない、旧帝大生といえども外国の大学生に比べて圧倒的に劣っている」
というようなことばかりが書かれていた。
それを真に受けた私は、「教養」とやらを身につけ、「あるべき大学生の姿」に自分を近づけるために随分つまらないことをやってしまった。興味も何もないのに哲学書だの文学書だのを紐解いてみたり、あるいは勉強の過程において、興味の範囲をはるかに超えて厳密さのために厳密さを追究してみたり。全く無駄であったとは言わないが、著しく非効率だったことは間違いない。そんな衒学的な「教養」だの、必要最低限を越えた完璧主義的な「厳密さ」だの(ε-δ論法というレベルではなく、物理数学を勉強するためにまず数理論理学を勉強するような類、あるいは読み始めた本は最後まで一行たりとも漏らさず理解しなければ許さないとする類の)を、自分の興味から逸脱してまで追い求めても、苦痛なだけで身に付くことは乏しかった。今だから分かるが、私はもっと自分を信用して、自分の興味に忠実になるべきだったのだと思う。そうすれば、「教養」だの「厳密さ」だのは、必要になった時点でいくらでも身につけることができただろうからだ。「青春」をエンジョイすることを放棄して人よりも多くの勉強時間を使っていたのに、人より飛び抜けて優秀でもない自分に嫌気がさしつつ、どうしてよいか全然わからなかった。修士論文のための研究をやっていて最後の数ヶ月でようやく自分の過ちに気づいたとき、余りに自分が時間を無駄にしていたことに気づいて絶望的な気分になったものだった。
敢えて長く自分語りを続けてみたが、あなたと対極的な私の失敗談を読んであなたはどう思っただろうか。「お前の下らん失敗など知るか、そんなどうでもいい本を真に受けたお前が悪いんだろうが」。その通りである。私が馬鹿だったのである。人に馬鹿と言われたくないがために、「教養がない大学生」「学力低下の大学生」と言われたくないがために、自分を無意味にガチガチに縛ったために自分の学生生活を楽しくなくしてしまった私の単なる自爆である。しかし私の失敗とあなたの失敗の一体なにが違うのか。どこかで見聞きしたことから勝手に自分で組み上げてしまった自己規範に従った結果、自分の人生をスポイルしたという点で、あなたと私のやったことは全く同じだ。そして森毅が言っていたことの真意を全く読み取れていなかったのも全く同じだ。
「他山の石」という言葉をご存じと思う。私の自分語りが痛いと思われるならば、あなたの自分語りも同じぐらい痛いことを思い知るべきだ。そして人を恨むのではなく、逆に過度に自分を責めるのでもなく、ただ自分が失敗したという事実を受け入れるべきだ。運が悪かったのか、環境が悪かったのか、そういったことが原因であなたや私は正しい道が見えなかったのかもしれない。だが、そのことに不満を言っても誰も助けてくれないし、失われた時間は返ってこないのだ。ならばせめて、今後の時間を無駄にしないようにお互い努力しようではないか。