根本的なところで意思の疎通が図れない人(表題)とどう付き合っていけばいいかという話。
変にリベラルぶるつもりはないので前もって明言しますが、私はこういった人たちの気持ちがわかりません。すいません。
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ハラスメント問題とかに関して、「オープンな対話が大事ですよ」、というような話を耳にするたび、そうだよね、でもそれが通用しない相手っているよね。と思う。
通用しない相手とは何か。それが表題のような人物。「そう思っている」ということと「それを正直に表現する」ということは完全に切り離されている人。あるいは「そう思っている」という実質自体がない人。(少なくとも私にはそう見える。)
どういうことか。たとえば彼らは、人に「大丈夫?」と聞かれたら、全く大丈夫じゃなくても、必ず「大丈夫です」と答える。なぜなら、それがこのやりとりにおいて、「正解」の反応の仕方だと学習しているから。
反対に、「大丈夫じゃありません」「手伝って欲しいです」「つらいです」…本心でこのように思っていたとしても、この人が学習したコミュニケーションというゲームにおいて、それは相手を心配させ、あるいは不快にさせるかもしれない「不正解」の回答ということになっている。だから言ってはいけない。
要するに、こういった人たちにとって、根本的にコミュニケーションは「自分の思っていることを相手に伝える」ことではない。彼らにとってコミュニケーションとは、「相手の顔色のパターンを窺い、相手を怒らせず、怖がらせない反応を返す」ことである。だからこそ、そこに自分の「本心」が投影されている必要はない。コミュニケーションの定義が違うから、それは嘘ですらないのだ。
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部下や後輩がいる人ならわかると思うが、何かあったら正直に「つらい」とか「本当はこういうふうに感じてる」と正直に打ち明けてくれるのが一番安心なわけだ。
だから最近は事前のリスクヘッジのために「話がしやすい環境」とか「相談事がしやすい雰囲気」とかっていうことを言うわけだけど、それは「彼ら」にとっては直接的には全く関係ない(私の経験則からして)。
どうしてか。それは、彼らは必ずしも「心優しいから/臆病だから言い出せない」のではないから。
彼らは時に、「本心を言わず、相手に都合のいい言葉を返し、コミュニケーションの「正解」をやりきった」ことに満足感をおぼえるし、そのように慎ましく、自己犠牲的でいた自分を誇りさえしている。
たとえ、普通に話して交渉すれば、ちっとも負わなくてもいい負担だったとしても、「素直に従った」ことを美徳として考える文化が彼らの中には(全員とは言わないが)ある。それが彼らにとってのコミュニケーションの成功の瞬間なのだ。
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相手がこういう人だとわかってくると、自分は最近関わることにリスクを感じてくる。
もちろん、人間のコミュニケーションってあやふやなものですよ。嘘もつくし、誇張もある。適当に聞き流している時もある。でもそれはあくまで「ちゃんと聞く/話す」というモードがあることがわかっているがゆえの話で。
つまり、いつもは適当でも、いざとなれば「これに関しては嘘をついてはいけない」とか、「ここは正直に話そう」といった最低限の倫理や責任を、発言者とその発言に期待できるということが重要なんですよね。
でも、発言が、発言者本人に一切根ざしておらず、無限に「実はあの時はそう思ってなかった」と言えてしまう人なんだとすると話が違ってくるよなと思う。
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実体験だけど、こういう人にされる謝罪とかはキツいですよ。「ああ、これは「手続き」をこなされているんだな」と感じられるから。
セトウツミ&PUNPEE「コミュニケーションなんて演技力」
身近に2人いるからわかるなー 言うべきときには意見言わないのにこっちの言葉尻捕まえて受動攻撃みたいなことしてして悦に浸ってるのがいや