「性的消費」という言葉は一種のバズワードであり、多くの人はその意味を深く考えずに使っている。
そのような状況では、「性的消費はよくない」という標語も意味をなさないだろうが、同時に「性的消費の何が悪い」と開き直るのも感心できない。
これを改善するため、そもそも「性的消費」とは何なのかについて整理しようと思う。
対人性愛を持たない筆者としては対人性愛中心主義云々など言いたいことはあるが、そういったことは最後に少し触れて終わりとする。
まず、「消費」とは何か。
「食料を消費する」、「燃料を消費する」、いずれも人間にとって当たり前の営みであり、何も批判されるようなことではない。
一方、「文化を消費する」には多くの人がネガティブな印象を持つだろう。
ここで言う「消費」とは、「漫然と、思考停止して」という言外のニュアンスが込められているのであって、字義通りの「消費」のことではない。
このような「消費」が批判されるとき、字義通りの「消費」活動が批判されているのではなく、言外に込められた「漫然と、思考停止して」の姿勢が批判されているのである。
「文化を消費するな」とはどういうことだろうか。
「音楽を消費するな」とは、「音楽を聴くな」ということではない。
「映画を消費するな」とは、「映画を視聴するな」ということではない。
ただ、「漫然と、思考停止して、消費するな」「頭で考えて中身を理解しろ」という意味だろう。
「性的消費」が批判されるときもまた、字義通りの「消費」活動が批判されているのではなく、言外に込められた「漫然と、思考停止して」の姿勢が批判されているのではないか。
「AVを見るな」という話ではなく、「どこにフィクション的演出があるのか」「適正なプロセスで制作されているのか」といった点を考えて視聴しているのか。
より日本語に真摯な言葉遣いをするならば、「性的消費をするな」と言うよりも、「性的消費をするからには、性に対して誠実な態度であれ」と言うべきかもしれない。
逆に言えば、性的表現そのものを「性的消費」扱いするということは、その表現に最大限の作意を込めるクリエイター達に対する侮辱でもあるのだろう。
異なる文化について学び、親しむこと、それらは言うまでもなく「盗用」ではない。
しかし、元の文化に対する敬意もなく、不誠実な引用を「消費」すること、それが「文化の盗用」と呼ばれるのだろう。
対人性交渉が「性的消費」と呼ばれないのは、コミュニケーションが介在しているからと言うが、そのコミュニケーションとやらは果たして完全無欠なものだろうか?
特に異性愛の場合、そもそもこの男性社会において、男女間の権力勾配を無視して簡単に「コミュニケーションの成立」を信じてよいのか?
そうした問題を常に考え続けることが、対人性愛者としての「誠実な態度」ではないか。
性的表現の中には、女性の人権を蹂躙するプロセスで制作されたものや、実在女性に対するミソジニーを内包するものも存在するのは事実だろう。
しかし、そうしたものが「すべての性的表現の連帯責任」だというならば、実際の性犯罪者やセクハラ加害者が「すべての対人性愛者の連帯責任」にならないのはなぜか?
そこには間違いなく対人性愛と非対人性愛の間の権力勾配があることを意識してもらいたい。
また、私個人は実写AVを見ないFセクだが、実写が対象になるFセクもいるし、また例えばリスセクシュアルのような「対人性交渉を欲望しない人々」にとってもAVは必要な表現であろうことには注意して欲しい。
全ての対人性愛者の連帯責任として性的表現が槍玉に上がるのではないかな そういった表現があるからこそ、真似する犯罪者が出てくるのは間違いない 人間は真似する生き物だから影響...
「真似する犯罪者が出てくる」と言うならば、犯罪者が対人性交渉の真似をすることをまず危惧すべきではないでしょうか。 「認知の歪んだ犯罪者にとって、空想と実践の間の壁は薄い...