30年くらい前の乗用車は、その目が真っ直ぐ前を向いていたと思う。「車の目」というと、やはりヘッドライトなんだと思う。映画「カーズ」では、登場“車”物の目が、フロント・ウィンドウに描かれていたけど、私達が生活する空間を走っている車は、やはり前照灯が目として意識されるかな。
昔の車のライトは丸とか四角とかあったけど、たぶん電球の性能が今ほど良くなかったから、その所為で、目が素直に見開かれて、前を見つめているような雰囲気だったのだろうと愚考する。真っ直ぐだったと思う。
ところが、20年くらい前からだろうか、「目つきの悪い」車が走り始めた。言ってみれば「半眼」とでもいうような、眉をひそめているような、何か世界を疑っているような、不信・不審を漂わせた「表情」に見えた。ハロゲンランプのおかげで、ライトの面積を狭くしても光量を確保できるようになったからかもしれない。エンジンが小さくなってボンネットを低くできるようになったとかもある?
最近ではLEDを使ってさらにヘッドライトを小さくできるから、「デザインの可能性」がより高まったと言えるのかも。でも、「デザインの可能性」て、何だろ。マーケティングへの工学的応答性が高まった、簡単に言ってしまえば、人気ある売れるデザインが作れるようになった、てことかもしれない。
自動車会社のデザイン部門としては、売れ線を追究したらこーなりました、てなところで、つまりはお客様のご要望、ひいては社会のニーズに応えております、てなことなんだろうけど、それ、つまりは、昨今の「お客様」とか「社会」とかが、恫喝とか威圧とか煽りを求めている、てことなのかな、どうかな、そうなのかな。
最近、ミニバンとか言われる車種の面構えが、怖いんだよね。周りに恐怖を撒き散らしてどうするよ。
車を買う方=消費者=お客様としては、自らの心のうちに抱いている共感とか憧憬とか趣向とか、そういう感情・感覚的なものと、目の前にある車のデザインが醸し出している何かがガキッ! と反応するから、目の前の車を買うわけで、そのときにお客様の心持ちが、車の、そして車メーカーの無意識的何かによって後押しされているんじゃないか、と心配になってくるわけです。
当社のモットーは安心安全です、と表明している裏側には、ほら、オラオラってカッコいいだろ? はん? とかいう下顎横滑り右斜め上30度のせせら笑い的ニュアンスが漏れ出してないのかな、と。
お客様のニーズに応えることが、お客様の中にある何かを後押しして、そうやって後押しされたお客様がそこに力を得てアクセルを踏み込む自分を肯定する、てな感じで、何か「黒いサイクル」のようなものが力強く拍動しながら加速したらやばいんじゃないか、と危惧するわけです。言ってみれば産業デザインの社会的責任性というのか、その辺に懐疑を抱いてしまう。
まあ、そういう一連の欲望のようなものが束になって人類社会が発展してきたということも確からしいので、一概に否定することはできないと思うけど、子供に言われるままに甘いものばかりやってると、そのうち虫歯でボロボロになっちゃうよ、という不安なわけです。子供の国があって、そこで幸せに暮らし続けることができるならいいけど、そこから子供がこぼれ出してきちゃうと厄介なわけで。