ナオキイシイの出産クラファンが話題になった時、俺は何にも思わなかった。
『自分の顔をネットに出して、一生懸命やりますみたいな文章をいっぱい書いて、ここまで身を削ってやるなんて凄いな!面白い人がいるな~』みたいな感じに思ってた。
だから批判意見が噴出しまくった時も『詐欺や犯罪じゃないんだから支援する人の勝手じゃん。批判している人達はお金を取られた訳でもないのになぜ必死なのだろう』なんて思ってた。
ただし俺はあくまでもクラファンを眺めていた一個人で、ナオキイシイに金を出した訳でもない。話に入る権利のないただの傍観者。
『海外旅行中なんだけど、行きの飛行機乗り遅れてチケットキャンセルしたら帰りのチケット代を余計に払わないといけなくなった!お金ピンチだからpolcaで助けて!』
騒動の中身は出産クラファンと同じような感じなんだけど、俺の場合ここではナオキイシイの時のような『誰も騙してないし悪いことをした訳でもないんだからえーやん!』みたいな気持ちにはならなかった。
なんとなくモヤモヤ感があってムカついた。
今回も俺はただの傍観者で、リプライした訳でもないし、ツイッター眺めてたいただけだから何もしていない。
では俺の中でナオキイシイとやぎぺーで、何が違ったのか、ということを考えてみたところ、それは『嫉妬』なのかなと思った。
ナオキイシイは金のないダメ大学生で、ツイッターやブログの様子を見る限りでは俺が見下せそうな存在だと認識→嫉妬しない存在→だから何にも気にならない→寛容になる。
一方やぎぺーは高学歴で信者もたくさん抱えてて会社を起こして自立しているなどの点から俺が嫉妬する対象と認識→そいつらがさらに儲けたり幸せになったらムカつく→寛容にならない。
ナオキイシイの出産クラファン騒動を眺めていた時の俺はリベラルで公平性を持ち、倫理的にも論理的にも物が見られるプチ賢者を気取っていたが、やぎぺーに嫉妬している自身を俯瞰してみるとこんな小さな嫉妬で、思想は簡単に変わってしまうんだなーって思った。
俺みたいなペラペラな賢者気取りは結構多いのではないだろうか。
皆色々言うが結局は多くの場合自分と相手の上下関係に縛られてるだけなのかな、って思った。
スマホによってネットがより一層普及し、とうとう小学生から80代の年寄りまでスマホからwebにアクセスするようになった。
それによって、より多くの弱者が強者の実態を知ることができるようになった。そこから起こる嫉妬や不満が原因となって日本でも弱者と強者が対立関係になったりしてね。