先ほどあるニュースサイトで、花見のごみ問題に関する記事とコメントを読んでいた。
そこで気が付いたのだが「日本は"民度の高い国"ではない」のでは?
では何が高い国なのか。おそらく、集団帰属意識の高い国ではないだろうか。
花見のごみ問題はなぜ発生したのか。こう考えることはできないだろうか。
大事なのは、個人の意見ではなく集団の意見である。個人のモラルや民度は集団の意見ではない。
つまり、いくら個人のモラルや民度があっても無意味である。ゆえに、外部が騒ぎたてても問題は再発する。
個人に対する攻撃や批判が反映されないのは、こういう構造があるからではないだろうか?
例えば、信号付きの小さな横断歩道がある。そこに3人やってきた。
うち、2人が横断歩道を信号無視し渡るとする。最後の1人は横断歩道を渡るだろうか?
おそらく”渡る”。
横断歩道を渡る3人という集団において、集団は信号無視して横断することを選択した。
信号を無視した事実のみ考えるならば、明らかにルール違反であるはずだ。
決して、小さなルールも守るべきだと主張しているわけではない。
言いたいことは、集団に属することで個人としての意見を容易に捨てられるということだ。
そのように簡単に捨てられるモラルや民度はそもそも無意味である。実行できないモラルほど無価値なものはない。
私は自らの手で安全を確保して渡るという人は、そう言い訳しているのではないか?自分の判断を集団の判断と誤解しているのでは?
かくいう自分も、自分の意見や判断だと言い切れないときがある。
まとめると、日本は「所属する集団を最優先する文化であり個人は集団の駒でしかない」という意見である。
そこに個人のモラルや民度は存在しない。民度の高い国は幻想である。右へならえが存在するのみだ。
集団が間違うならば個人も間違えるし、いくら個人を批判しても集団が変わらねば解決しない。
一方、集団への批判は個人の行動を変えない。おおきな集団を批判するほど当事者意識は薄まる。
集団の意見にノーという個人になること。おそらく、「ネットの情報をうのみにするな」という意見と同義である。
自分が正しいと信じられるかたはどうぞ。
1つは、上位の集団に属すること。
たいてい、大衆は大きな集団なのでより大きな集団に属するほど批判は受けない。ことなかれ主義の延長であり、やや消極的である。
単純な話である。リーダが変われば集団の判断も変わる。たぶん、上司が悪いからなにもかも悪いという論調はこっちに近い(そういう話を批判している訳ではないです)。
自分がリーダになるか、なんらかの手段で集団の過半数を勝ち取るか。政治的な能力が必要。
これのみ批判する側の話になる。
個人に対する攻撃の効果が薄いなら、集団を攻撃する。ただし、集団を動かすだけのパワーが必要。
集団を重視することを逆手にとって、当事者意識を持ちうる大きさの集団を対象とするのが最も効果的であると思う。
一番は個人が集団から独立することであるように思う。だが実際は難しいので、妥協案として上位の集団に属する(あるいは属させる)のがよさそう。
「日本国民としてごみは捨ててはいけない。なので、ごみを持ち帰りましょう」みたいな大きな集団にすり替えるよう集団を誘導するのが無難に思う。
昔の三崎口もそうだったし昔から民度は低い