みんな何が楽しくて働いているのか?輝かしい未来も期待できない、希望もクソもないこの社会で。人生には何の意味もないことなんて、みんな薄々気づいてるはずだ。その事実から必死に目を背ける技術が、才能があるのだろうか。それとも全員狂ってるのだろうか。
「なにやってんだろ。」 ゲームをしても、勉強でも、パチンコでも、プロ野球の応援でも、アイドルの追っかけでも、恋愛でも、仕事でも、結婚でも、子育てでも、老後でも、こう思うときが来るだろうと考えてしまう。怖くて仕方がない。結局なにも踏み出せない。こういったことを考えない工夫ができる人と、できない人の差はなんだろうか。みんなできないながらも、必死でごまかしながら生きているのだろうか。
遺伝子や生まれ育った環境、出会う人間といった偶然性は大きく影響するだろう。不条理だ。
何か宗教や組織のような、大きなイデオロギーや物語のようなものに身を任せることができたら、ある程度は楽かもしれない。
そもそも忙しすぎて、そんなことを考える暇がないというのもひとつの方法か。あるいは、無条件でこれだけは好きだと強く言い張れるモノがあれば、そういったものに出会う才能、深く没入できる才能、没入力みたいなものがあれば、考えなくてすむのかもしれない。
何か大きな組織や社会などのために、必死に目的をでっち上げて、テキトウに自己啓発とかライフハックしながら邁進できる人。
新しい服を買って嬉しいとか、新作の漫画や音楽、映画が楽しみだとか。おいしいご飯が食べたいだとか。そういったものに喜びを見出して、資本主義に過剰適応して、消費に没入できる人。そんな人が一番生きやすいのだろうか。それが下手な人は絶望しながら、死んだように生きるしかないのか。
きっとみんな、「あの子が可愛い」「なんかよくわからんが、空がとても青い」「夕日がきれい」「子供が楽しそう」「わりときもちい」「めしがうまい」「この作品は美しい」「なんだか笑える」といったような、没入した、純粋な感情が、一瞬でも瞬間でもあれば、当面は生きていけるのかもしれない。
それでもやっぱり、ご飯は面倒だし、あまり食べたいとも思わない。肺と心臓は今日も重たい。生活リズムはコントロールできないし、好きな音楽もなんだかうるさい。セックスなんて面倒で虚しいだけだ。そもそも性欲がない。人と会えば気はまぎれるが、近すぎると面倒になってしまう。これを読めば世界が違って見えるかもしれない、と思って読んだ本は何冊目だろうか。運動どころか、起き上がるのも面倒だ。生きるのも面倒だ。それに加えて、この社会や世界で起こっているあらゆることや、他人の気持ちを考えれば考えるほど苦しくなる。楽しみも希望もない。
この厭世観から逃れるために、考えないために、みんなどんな工夫をしているのだろうか。
テキトウに満足感をでっち上げて、死ぬまでやりくりしていくのか。
そもそも感じないのか、ある程度年をとったら忘れる感覚なのか。