2016-05-16

考えない工夫を教えて

みんな何が楽しくて働いているのか?輝かしい未来も期待できない、希望もクソもないこの社会で。人生には何の意味もないことなんて、みんな薄々気づいてるはずだ。その事実から必死に目を背ける技術が、才能があるのだろうか。それとも全員狂ってるのだろうか。

「なにやってんだろ。」  ゲームをしても、勉強でも、パチンコでも、プロ野球応援でも、アイドルの追っかけでも、恋愛でも、仕事でも、結婚でも、子育てでも、老後でも、こう思うときが来るだろうと考えてしまう。怖くて仕方がない。結局なにも踏み出せない。こういったことを考えない工夫ができる人と、できない人の差はなんだろうか。みんなできないながらも、必死ごまかしながら生きているのだろうか。

遺伝子や生まれ育った環境出会人間といった偶然性は大きく影響するだろう。不条理だ。

何か宗教組織のような、大きなイデオロギー物語のようなものに身を任せることができたら、ある程度は楽かもしれない。

そもそも忙しすぎて、そんなことを考える暇がないというのもひとつ方法か。あるいは、無条件でこれだけは好きだと強く言い張れるモノがあれば、そういったもの出会う才能、深く没入できる才能、没入力みたいなものがあれば、考えなくてすむのかもしれない。

何か大きな組織社会などのために、必死目的でっち上げて、テキトウに自己啓発とかライフハックしながら邁進できる人。

新しい服を買って嬉しいとか、新作の漫画音楽映画が楽しみだとか。おいしいご飯が食べたいだとか。そういったものに喜びを見出して、資本主義に過剰適応して、消費に没入できる人。そんな人が一番生きやすいのだろうか。それが下手な人は絶望しながら、死んだように生きるしかないのか。

きっとみんな、「あの子可愛い」「なんかよくわからんが、空がとても青い」「夕日がきれい」「子供が楽しそう」「わりときもちい」「めしがうまい」「この作品は美しい」「なんだか笑える」といったような、没入した、純粋感情が、一瞬でも瞬間でもあれば、当面は生きていけるのかもしれない。

それでもやっぱり、ご飯は面倒だし、あまり食べたいとも思わない。肺と心臓今日も重たい。生活リズムコントロールできないし、好きな音楽もなんだかうるさい。セックスなんて面倒で虚しいだけだ。そもそも性欲がない。人と会えば気はまぎれるが、近すぎると面倒になってしまう。これを読めば世界が違って見えるかもしれない、と思って読んだ本は何冊目だろうか。運動どころか、起き上がるのも面倒だ。生きるのも面倒だ。それに加えて、この社会世界で起こっているあらゆることや、他人気持ちを考えれば考えるほど苦しくなる。楽しみも希望もない。

この厭世観から逃れるために、考えないために、みんなどんな工夫をしているのだろうか。

キトウに満足感をでっち上げて、死ぬまでやりくりしていくのか。

そもそも感じないのか、ある程度年をとったら忘れる感覚なのか。

それともみんなすでに中学高校ときに、テキトウに折り合いをつけてる問題なのか。

こんな青年特有のショーモナイ悩み、誰か教えてください。切実に。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん