内容にあるように、無性に今朝あったことを文章にしたかったのですが、どうしたらよいでしょうか?w酔っているので、一度寝たほうがよいのでしょうか?
朝食のときに、テレビから県内ニュースが流れていた。アナウンサーが、県警本部により飲み屋街の建物所有者たちに対し暴力団対策のためのレクチャーがおこなわれた、というような概要を伝え、その後VTRに切り替わった。
なにかおかしい、と感じた。
VTRとナレーションが、微妙に噛み合っていないのだ。小銭を渡す手、それを受け取る手。街角、行き来する人々。最後に、空撮による都市の俯瞰映像。「非公開で行われ」「暴力団に協力すると罰則が」「金銭の授受を」VTRのだし間違いか?いや、非公開だから、イメージ映像を映しているのか?などと考えながら、 VTRとナレーションの関係を繋ごうとしていたため、内容がまばらにしか入ってこない。そのニュースが終わり、スタジオのアナウンサーの映像に切り替わる。次のニュースは、地元の銀行の調査によると、消費者は家計における消費支出を減らしているという結果が出た、という内容。VTRに切り替わったときに、先のニュース映像での疑問が解ける。ホワイトボードを背にした、いかついオッサン、そちらに視線を向けている人々のバックショット。そして、時折見えるホワイトボードにある県警本部の文字。つまり、VTRの順番を逆にしてしまっていたのだ。テロップは正しく表示されていることから、アナウンサーのミスではない。ここまでは、あー、そうか、VTRのほうのミスか、くらいの印象だった。
しかし、不意に、先のニュース映像が思い起こされ吹き出しそうになり、抑える。それでも抑えきれず、ニヤニヤしてしまう。先の映像を見たときには、考えながらであったため気付かなかったが、あの小銭の受け渡しは、スーパーのキャッシャー(なぜか、この時、頭のなかでレジではなくキャッシャーと呼んでいた)を挟んで行われていたのだ。
『暴力団がみかじめ料を徴収するときにレジを使っている』というイメージ!
そのイメージが脳裏をかすめるたびにニヤニヤしていることを家族に気付かれたくないので、素知らぬ顔で食べ進めようとするが、そのニュースが終わり天気などを映しているテレビに目を向けるだけで、再び、イメージが浮かんで吹きそうになる。他に目を向けて気を落ち着かせようと、テーブルの下にいる愛犬を探すが、それでも、ニヤニヤが止まらない。おそらく、ニヤニヤしていることは気付かれているが、指摘を受けずに食べ終わり、席を立ち、洗面台へ向かう。歯ブラシをとり、鏡を見るとニヤニヤしている自分の顔を見てさらにニヤニヤしてしまう。
しかし、そのとき思ったことは、これだから生きてることは面白い、ということだった。他人のミスを楽しんでいるのではない。もはやそれ以外考えられなくなるほどに愉快になる、それこそが最高だと思った。(ただし、これは後付けの理屈であって、そのときはただ漠然と、これだから生きてることは面白い、と感じた)
それから、具体的なシチュエーションの妄想に入る。インテリヤクザがエプロンをつけ対応、ショバ代十万円などの貼紙(相場が分からないので適当)、VTR中の街角や行き来する人々は、この「経済活動」によって生活が成り立っている、それらに支えられる都市の俯瞰映像など。しかし、自分の想像力や創作力がないためかもしれないが、このような後付けの妄想はさして面白いとは感じなかった。最初のイメージが、自分にうまくはまりすぎたためだ。
通勤中の車からの景色や人が、今まで感じたことのないほど輝いて見えた。近頃は、毒にも薬にもならないだろうと、ラジオでクラシックを流しているのだが、それが景色を一層華やかにさせる。今日は、一日中このことを文章にすることを考え、気分が落ち込むことはほとんどなかった。気の持ちようというか、脳の配線自体が変わったかのようだった。このようなことが、生きていくことの原動力となるのだと感じた。
繰り返しになるが、ミスを楽しんでいるのではないことだけは強調しておきたい。おそらく、現在このミスをした人々は、始末書や再発防止策の提出やらできついことになっていることだろう。とってつけたように、「ありがとう」や「ミスは誰でもするし」なんて言葉を書こうともしたが、それはこの経験について脚色が過ぎると思う。しかし、自分にとって忘れられない経験となったことだけは間違いない。
一行にまとめる癖をつけましょう。 朝のテレビニュースで、VTRとナレーションが微妙に噛み合っていなかったので笑えた。