通知ランプがぴかぴかとひかっていた。私は幾人かの顔を思い出しながら、うっすらとした期待とあとは面倒くささを胸にスマートフォンを手に取り、その通知がなにかを確かめた。母からだった。昔からかわらない狂気がごってりと乗った文面はひさしぶりのそれで、私はなんとなくちょっと笑った。
そんな将来のない男と母は言った。別れろとも言った。姉の恋人は絵描きだった。国内のいくつかの、若手にとっては将来が見込めるコンクールで賞を取り、その賞金のひとつは海外での制作の場を与えられるというものだった。おとなしい人で、声が小さくて、貧弱な体をして、ハゲで、食べるのが遅く、マイペースで、でも見ず知らずの恋人のきょうだいの引越しを手伝ってくれるいいひとだ。母に似てエキセントリックな姉の話を辛抱強く聞き、無愛想なその妹が昔美術をやっていたということをいつも覚えていて、展示会のはがきをくれる、良い人だ。
しかし母はそんな彼が気に入らなかった。その彼の母親が気に入らなかった。片親であることが、資産家であることが、その母親が教師であることが気に入らなかった。それで、別れろといった。
姉は別れなかった。母に一生恨んでやると言って、結婚した。
母は何かを恐れたようだ。いつか復讐されると怯えるようになった。私は昔あの子を叩いたから。馬鹿だといったから。頭をかち割ってやりたいと思ったから。だから憎まれている。あの子は頭がおかしかった。だから叩いた。でもそれが伝わらなかった。それで憎まれている。私は悪くない。でもあの子は私を憎んでいる、おかしい子だから、いつか私を苦しめに来るかもしれない。
恐怖のためか、母は眠れなくなり、心療内科にかかった。医者はうつ病だといって薬を出したが、その薬はうつ病の薬ではなかった。母は気づかずに飲んだ。薬漬けにされる、あの医者は藪だと言いながら飲んだ。少し眠れるようになった途端弾薬をしようとしてまた恐怖に心をつかまれ、慌てて薬を飲む。あの医者に騙されている、殺される、といいながら、しかし飲んでいた。
そして、母は変わった。少なくとも変わったように見えた。突如激昂することがへり、よくわからない理論を並べ立てて人を詰問することがなくなった。言葉尻を取り上げながらじりじりと論点をすりかえ、人を追い込むようなことがなくなった。そんなふうに見えた。穏やかになり、普通の人になったかと思えた。
しかし、また薬はなくなってしまった。ゆっくりと医者の指導のもと断薬をしたせいだ。そのうえ、妹が結婚をしてしまった。母は反対をしなかった。妹の恋人は有名私大の学生だった。哲学科の博士課程に在籍していた。外見は爽やかで、はきはきとしゃべり、話もなんとなくうまいようだった。だが学業が忙しいとアルバイトをせず、一般職の妹とほとんど同棲するような生活をしていた。そのうえ、巧妙に人の対立をあおる人間だった。それは昔の母とおなじだった。にこやかに近づいてきて、しかし笑顔の中に卑屈さをにじませ、かならず誰かが悪いという。時代が悪い、老害が悪い、あいつが馬鹿なのが悪い、あいつはいつも上から目線で腹が立つ。私は彼のことが嫌いだった。しかし母は、姉の時のようには反対しなかった。しかも妹は姉のことがあったせいか母になにか暴言を吐いたようだ。母は私にそれを言わなかった。
妹に対する愚痴が増えていた。私はそれを聞き流し忘れようと努めていた。もう少しひどくなったらまた病院をすすめようと、そうぼんやりと思っていた。
妹はリストラされたようだ。会社名を言わないと母は言う。私は多分、きっと正社員ではないからだろうと想像する。妹の夫なら派遣社員のことはばかにするだろう。一流企業でなければ人ではないということくらい言うだろう。母もそういう人間だ。だから妹はそれを言わない。
あの子なんてもう家族じゃないと母は言った。だってケータイの家族割からお母さんのこと外したのよ、あの子。勝手にやればいいわ。もう家に入れてやらないから。あの子は昔から馬鹿だった。あの男に騙されてるんだ。薬を飲まなくなった母はまたそんなことを言う。言ってから、自分の言葉に恐れる。あの子のこと、いつも馬鹿だといって殴った。たくさん殴った。馬鹿だから殴らなきゃわからないけど、あの子はそれを恨んでるのかもしれない。自分のことを馬鹿だともわかってないから。あの男にあることないこと吹き込んで私にしかえしにくるかもしれない。どうしよう。どうしよう。どうしよう。
その昔、母は私を殺そうとした。死ねといった。不潔だといった。姉よりも妹よりも先に恋人ができた私はていのよいサンドバッグで、その男は騙そうとしている。どうやって媚びたんだと罵った。姉も妹も私のことを気持ちが悪いといった。その気持ちが悪い私は二人を養うのが当然だとよく金をせびった。私のものを使い、壊した。母はそんな二人のことをたださなかった。あの子は馬鹿だからいいのよ、とさえいっていた。あの子はバカで嘘つきで、しかも男に媚びて、だからなにをやってもいいの。しかし母はどこかでその記憶を姉と妹に言ったとねじまげてしまった。殴られたのは私だった。馬鹿だと言われたのは私だった。不潔だと言われたのは、デブだと言われたのは、不細工だと言われたのは私だった。あんたに出す金はないと言われたのは私だった。死ねと言われたのは私だった。しかし母は忘れてしまった。そして私に言う。
あなたのことはずっと頼りになると思ってきた。一人で何でもできるし、言わなくたってちゃんとしてる。早くまともな人と結婚して子どもを作りなさい。その論理の飛躍を母は自分で自覚できない。それに比べてあの二人は、と母は憤然として言うだけだ。だから子どもができないんだ。だからあんな男に騙されるんだ。あなたはちゃんとした人と結婚してね。
私は母の言葉に逆らわない。うん、うんと聞いてそうだねという。あの二人は馬鹿だから気をつけないとね。馬鹿だから金の無心に来るかもね。バカだから、子どもができたら世話を押し付けてくるかもね。馬鹿だから、頭がおかしくなって仕返しをしに来るかもね。
そのまま死んでくれと思う。なにもかも恐れたまま死んでくれと思う。
いまからでも遅くないから精神科につれてけ。
苦しむだけ苦しんで死ねばいいと思っている。
境界性パーソナリティ障害、あなたに遺伝してるよね。親はあんたよりはやく死ぬので、親や家族の問題からは離れて、さっさと自分の人格障害と向き合ったほうがいいよ。
文章表現があまりに小説的すぎるので、完全に創作か、どこかの事実っぽい話をもとに膨らませた話だと思うので、ツッコミだけ。 医者はうつ病だといって薬を出したが、その薬はう...
なにも解決しないままゆっくり母が壊れていく。それを看取るだけの人生なのか、と思うと切ないものを感じた。
正直虚しいなとは思ってる。 ただ、人格障害のひとにとって恐怖や憎悪は生きる燃料でもあるけど、際限ない苦しみでもあるので、正直いい気味だと思っている。 父はこの結婚生活が苦...
ただ、人格障害のひとにとって恐怖や憎悪は生きる燃料でもあるけど、際限ない苦しみでもあるので、正直いい気味だと思っている。 ブーメランじゃん。人を呪わば穴二つ。