はてなキーワード: 腫瘍マーカーとは
母子家庭だった。
母ひとり子ひとり。
僕の教育は祖母がした。
母は仕事がきつかったのか、よく僕にあたっていた。
僕を管理しようとし、意にそぐわないことをすると叩く、怒鳴るという人だった。
僕は祖母が大好きだった。
祖母が死んだ。
これ以上ないくらい泣いた。
母の知り合いの息子さんは脳外科だったが、腫瘍マーカーの結果を見てすぐに大きな病院へ紹介状を書いてくれた。
1度目の手術は大成功。ただ、浸潤していたので転移の可能性はあると。
術前から僕は無宗教から、各地の癌にまつわる神様仏様に参る多宗教信仰になった。
「うん、いいよ」
結局、泊まらなかった。
1年が過ぎたころ、母は2年の余命宣告された。
転移していたようだったが、今までと変わらない元気な姿だった。
その頃、初めて「小さい時にすぐに怒られて辛かった」という話をした。
母は僕を無視した。
でも、「それでも僕にとって、お母さんは大事なんだ」ということを伝えた。
目の前で「生きてて欲しい」と泣く息子を見て、母は喜んでくれていたらしい。
「あの子は優しい子」だと自慢していたらしい。
正月を過ごすたび、「お母さんと過ごす正月は最後かもしれない」と覚悟したりしていた。
同時に「このままずっとこういう調子なのかもしれない」とも思っていた。
2回めの正月を迎える直前、母は歩けなくなった。
骨転移だった。
帰り道の車の運転は嗚咽しながらだった。
3月。
週末に行ったらクリームシチューを作ってくれた。
テレビの料理番組の録画を見ていたら美味しそうだったとのこと。
しんどくなったのか、途中からは僕が作って二人で食べた。
腸閉塞だった。
手術で食べれるようになったが、母は以前の食欲を失っていた。
ある日、母は僕に「大好きだ」と言った。
僕も即答で「僕もお母さんが大好きだ」と言った。
母は泣いていた。
近所のおじとおばに「最高の答えだった」と言っていたらしい。
その後すぐに母は入院した。
先月、母が死んだ。
「何言っているんだよ、当たり前じゃん。また時間作ってお見舞い来るね」と答えた。
これが最後に交わした会話だった。
息を引き取った時、びっくりするほど泣いた。
泣かずに通夜を終えて、翌日、葬式の挨拶をしはじめた瞬間びっくりするほど泣いた。
母が「この人達だけに知らせて」と呼んだ参列者は全員泣いていた。
僕が本音で思っていることを伝えても問題ない人は、この世に存在しない。
会おうとも思わない。
死んでから一ヶ月近く経った。
祖母が死んだ時は「まだ病院で入院してそう」って思っていたが、母のときは「いなくなった」という喪失感がすごい。
後悔しているのは2つ、仕事なんて辞めて同居すればよかったこと。
手術前、恥ずかしくなって母を抱きしめなかったこと。
なんで恥ずかしがったのかわからない。
仕事柄、役所への手続きが得意だった母。この報告ができない。したい。
まわりは親をなくしていない友達が多い。
親をなくしていても、片方だったり。
仲の良い女の子に思い切って話してみたら、「ちょっと重いね。私にはわからないけど辛いんだね」と言ってくれたが、僕と別れた後のSNSでは楽しそうにしている。
当たり前だと思う。僕もきっとそうだっただろうし。
「わかってくれない」と嘆いたりはしない。わからないのが当たり前だ。
親と死別しているという人は少ない。
だから、どんどん誰にも話せなくなっている。
辛い。
闘病中に行った飲み会で「親と会える時間って計算してみ。本当に無いから。だから、みんな実家帰れよ」って言っても、「真面目だな」としか言われなかった。
そんなもんだ。
失って初めて気づくんだし。
そんなわけで、オチはない。
みんなは親を大事にして欲しい。口うるさいだろうけど、親身で口うるさく言う人なんて親ぐらいだよ。
嫌味で口うるさい人は会社に山ほどいるけど。
残り時間は思っているより少ない。
イライラするかもしれない。でも、優しくしておいて損はない。
優しくしていないとびっくりするぐらい後悔する。