はてなキーワード: 新潮とは
787 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/01/13(水) 18:07:26 ID:d/8ohH5s
▼ 808 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/01/13(水) 18:10:10 ID:5j8K36KE
砂利の件で嵌められた鹿島が全部吐くからいまさら石川を友愛しても無理。
鹿島が吐くってことは芙蓉Gは全力で逃げるし、大林は鹿島に右倣えするから。
▼ 816 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/01/13(水) 18:11:34 ID:7E/xxrW/
実はお縄はゼネコンからも強烈に恨まれている?
▼ 822 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/01/13(水) 18:12:42 ID:Xv4paauk
石川も恨まれていたみたいだし当然でしょ
▼ 823 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/01/13(水) 18:12:52 ID:eGLpHFNT
これで恨みを買わないと思う方が、おかしいです
▼ 830 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/01/13(水) 18:13:52 ID:HGrAvcvw
上だとお金もらえるのは一社だけで、下だと下手したら全社出すもんね。
主席は怖い発想だ。
▼ 838 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/01/13(水) 18:14:32 ID:7E/xxrW/
わかりやすくまとめてくれてありがとうございます。
▼ 824 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/01/13(水) 18:13:03 ID:xGfndBO6
みかじめ要求して恫喝する相手は恨まれて当然。
▼ 828 名前:有名希望の名無しさん ◆YumeiTH/jI [sage] 投稿日:2010/01/13(水) 18:13:41 ID:pEvLr8eR
そりゃ、『天の声』で搾り取ってきたんだから、
憎まれないわけは無いでしょう。
▼ 829 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/01/13(水) 18:13:48 ID:LV/fAi6k
金をもらって便宜をはかるんじゃなくて、金を渡さないと嫌がらせのスタイルだからね。
▼ 841 名前:有名希望の名無しさん ◆YumeiTH/jI [sage] 投稿日:2010/01/13(水) 18:15:27 ID:pEvLr8eR
恩を売ったつもりが、恨みを買ってると。
▼ 832 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/01/13(水) 18:14:09 ID:C7fv4Xdx
恨まれてないわけないだろ
新潮ソースだと石川は吉原接待してもらった岩手の水産会社社長が
熱でフーフー言ってるときにも呼び出して接待させて
「ホントに病気だったんだwいい医者紹介するおww」(意訳)てのたまったそうだ
内心では皆恨んでるはず
▼ 870 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/01/13(水) 18:18:39 ID:5j8K36KE
思いっきり恨まれている。
鹿島-日立が受注した青森の原発、JVどこか調べると簡単だよ。
自民党に土木建築利権なんてずいぶん昔になくなっていたんだけどな。
設計もコンサルもゼネンコンもサブコンも小沢に土下座して仕事恵んでもらっていたから。
少しでも小沢に逆らうと干されるから。
ゼネコンが物件とっても、資材メーカー、施工業者全部小沢のひも付きだったから。
小沢に銭渡して仕事受注する業者がまともな仕事や納品するとでも?w
問題があるサブコンでも小沢に銭を渡しさえすればゼネコンからきられない。
異常なことだぜ?
この現状をゼネコンが怒っていないとでも?
▼ 886 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/01/13(水) 18:21:41 ID:7E/xxrW/
▼ 892 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/01/13(水) 18:22:44 ID:5j8K36KE
さぁ?w
▼ 918 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/01/13(水) 18:27:14 ID:CRdUJI/u
あ~ただでさえ不景気で仕事へって苦しいのに使えない下請け押し付けられて困ってたんか…
そりゃ恨むわなw
▼ 945 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/01/13(水) 18:32:04 ID:5j8K36KE
土建屋ってのは人の情や温かみを基礎にしてモチベーションを維持してるの。
このモチベーションが低下したら転落災害、重大事故が多発するの。
まじめにがんばってくれる下請けの支払いを削って、インチキ仕事しかしない紐付きの下請けが言い値で受注していく。
これがまかり通っている現状を一番苦々しく思っているのは誰だろうね?
ゼネコンの中で仕事しているのは機械でもロボットでもなく、感情を持った人間なんだぜ?
▼ 825 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/01/13(水) 18:13:10 ID:d/8ohH5s
羽田の砂利か?
あれ小沢にハメられたの?
昨夜、風邪による発熱にうなされながら思ったこと。
人がなぜ恋愛をするのか?という問題について考えると、自信満々でこう答える人がいる。「性欲に決まってンじゃんかよ」と。
その人は、僕の友人だったり、ネット上の赤の他人だったり、僕の心の一部分だったりするのだけれど、それは間違っている。
なぜ間違っているかと言えば、確かに人が恋愛を始める原初の動機は、性欲である場合が極めて多いが、物事の大本にある物がその全てであるとは限らないのである。
異性に対して、おっ、こいつなかなかええやんけ、と思うだけで、恋愛がはじまる条件は揃うが、後にその恋愛が成就するためには、様々な問題をクリアーする必要があるわけで、個々の問題に対する動機付けが性欲でない場合も大いに有り得る。問題とは、具体的に言えば、相手や自分の心の問題、第三者との関係、金銭面の事など。
恋愛とはそうやって、パートナーその者に対する「以外の」動機付けがあるからこそ成り立つ。もし恋愛がパートナーとの一対一の関係のみに深化してしまうと、色々ヤバイ。身近でヤバくなった人の話を聞いたことがある。僕がそんな事を考えたのは、新潮12月号に掲載された山崎ナオコーラの小説を読んだからかもしれない。
第一、全てが性欲で説明できるなら、一生自分で性欲処理していれば済む話だろう。
んで、僕が恐ろしいと思ったことは一対一問題についてでは無かったりする。話が逸れて申し訳ない。僕が言いたいのは、おっ、こいつなかなかええやんけ問題についてである。
僕が、ええやんけ、と思うのは、その原初は性欲であることが多いのだけれど、でも性欲で物事を決めるのはそれは畜生にも似た浅はかな行為であるような気がして、性欲以外のポイントに目をやろうとする。
そうすると、僕の性欲とは一見無関係な、その人の魅力が見つかるのだけれど、もしかしてそれは僕のええやんけが、その人の変哲のない部分を魅力に見せているのではないか、性欲補正がかかっているのではないか、という疑念が心から離れなくなる。恐ろしい。
もっと恐ろしいのは、僕が天然に、自然に気づいた人の魅力と、性欲補正によって見いだした人の魅力、その二つの区別がつかなくなってしまうという事。
一体どうすればいいのか。っていうか、本当にそんな事が起こるのかどうか。それすらもわからないし、そんな妄想をしていても、恋愛は出来ない。まぁ、出来ない分には構わないんだけど。
別に常日頃からそのような妄想にかかずらわっている訳では無いけれど、そんな事を一分一秒でも考えている間にも僕は世間から取り残されていっているような気もして、それもまた恐ろしい。
最近では、そんな妄想を文章に出来るようになりたいと思って努力したりしているのだけど、どうなんでしょ。まぁいいや。ちなみに僕は関西人じゃありません。
575 名前:本当にあった怖い名無し 投稿日:2008/11/23(日) 16:57:17 g6eOXUCUP ?
舞鶴の件、文春と新潮の記事から、逮捕された男の情報を再構成してみた。
捜査本部は11月15日朝、7月の女性下着ドロと8月の賽銭ドロの容疑で、
60歳の無職の男を逮捕した。当日夜、捜査一課長が近隣住民を集め、異例の説
明会を開いた。16日朝からは自宅の家宅捜索が行われた。
捜査本部は事件発生当初から男をマークしていたが、夏前からは男に絞って捜
査と行確を行っていた。
男は被害者が通った道沿いにある居酒屋(文春は「スナック」)の常連で、事
件当日も午後9時ごろまでその店で飲んでいた。当日も防犯ビデオに映っていた
男とよく似た、黒いキャップに黒いジャージという姿で来店しており、事件後、
店の従業員や女将に「ワシのジャージには白い縦線が入っていないから別人だ」
「キャップとジャージはほかした」「被害者とは顔見知りだ」などと語っていた。
男は店では「ヤマモト」という偽名を名乗っていた。
男は現場から約400メートルのところにある府営住宅に住んでいて、生活保
護を受けていた。自宅は被害者が小学生の頃に住んでいたマンションのすぐ近く
にある。
男はサングラスにマスクという姿で近所を徘徊し、鉄くずなどを拾って自宅裏
に積み上げていた。最近はバールのようなものを持ち歩いて、神社の賽銭箱を壊
して中身を盗んだりしていた。近所の住民も不安に思っており、今年の春には近
若い頃、舞鶴市内の実家を出て、35年前(新潮は「三十数年前」)に他県で
大きな殺人事件を起こした。服役後、十数年前に戻ってきたが、間もなく女性を
襲って再び逮捕された。
578 名前:本当にあった怖い名無し 投稿日:2008/11/23(日) 18:41:50 g6eOXUCUP ?
いま、買ってきた週刊ポスト(これは図書館に置かれていないので)を読んだら、
「当初は小杉さんの交友関係を洗い、10代の少年などが捜査線上にあったが、
皆アリバイが証明された。ただ、過去の事件を洗っていくと、ヤマモトの名前が
浮かんできた。彼は今年で60歳。73年、結婚を断られたホステスとその兄を
刃物で刺殺している。【略】」
この事件はさっき縮刷版で読んだぞ。身勝手な理由で二人殺したにしては出所が
早いから、この事件ではないと思って除外していた。
589 名前:本当にあった怖い名無し 投稿日:2008/11/24(月) 16:18:59 pWLgRdCFP ?
35年前の事件の記事を図書館で読んだが、こいつよく出てこられたなあ。いまでいう
ストーカー殺人で、実家に逃げ帰った元交際相手を追いかけていって、玄関前で待ち
伏せして兄妹を刺し殺したうえに、近くの民家で女二人を人質にとって立て籠ったり
している。
594 名前:本当にあった怖い名無し 投稿日:2008/11/24(月) 18:32:05 pWLgRdCFP ?
595 名前:本当にあった怖い名無し 投稿日:2008/11/24(月) 19:09:20 pWLgRdCFP ?
連投すまそ。
一応犯人の名前は伏せておいた。○の数と実際の文字数は関係ないよ^^
舞鶴市浜の市道で、12日午後7時25分ごろ、女性(21)にいたずらしよ
うとした男を、同市余部下、海上自衛官吉開勝治3佐(46)と同市桃山町、海
上自衛官吉田雄二郎海士長(26)が協力して取り押さえ、舞鶴東署に引き渡し
た。
調べでは、男は同市朝来西町、グラインダー工員○○容疑者(43)で、同時
刻ごろ女性の自転車に後部から体当たりして転倒させた。自転車で通りかかった
吉開3佐が悲鳴を聞いて駆けつけ、あわてて逃げる○○容疑者を40メートルほ
同署は、女性が顔などに約10日間のけがをしていたため、傷害と強制わいせ
つの疑いで調べている。自衛官2人には感謝状を贈ることにしている。
599 名前:本当にあった怖い名無し 投稿日:2008/11/25(火) 18:42:18 RBqY78y4P ?
携帯電話でROMしている人がいるみたいなので、>>591の記事をテキストに起
こしてみました。
十七日朝、滋賀県草津市内の新興住宅街で、暴力団員らしい若い男が、以前交
際していた女性の家に押しかけ、兄妹を刺殺し、近所の家へ逃げ込んで、主婦ら
を人質にたてこもっている。同日午前七時ごろ、同市西草津一丁目、友禅職人林
芳弘さん(三七)方に若い男がやってきて、妹の無職好子さん(二六)を出せ、
と押し入った。芳弘さんと妻の初枝さん(二六)が「好子は京都へ出かけて留守
だ」と断った。男はいったん外に出たが、同九時ごろ、林さん兄妹が京都へ出か
けようとしたところ、玄関前の道路で待ち伏せしていた男が二人を、持っていた
刃渡り約二十センチの出刃包丁で刺した。このため、好子さんは即死、芳弘さん
もまもなく死んだ。
男は、現場から約五百メートル離れた西草津二丁目、会社員布施左門さん方に
逃げ込んだ。布施さんが留守だったため、妻の春美さん(二六)と妹の二人を人
質にして、二階六畳の間へたてこもった。滋賀県警草津署は、同県警機動隊の応
援を得て約五十人で布施さん方を取り囲み、説得を続けている。
同署の調べでは、男は「京都の暴力団員だ」と自称している。男は二年ほど前
から好子さんと同居、舞鶴市内で暮らしていたが、十日ほど前、林さんの家族が
妹と男との縁を切らすため、好子さんを実家に連れ戻していたことから、男が好
子さんと家族の仕打ちに腹を立て、押しかけたらしい。
付近は新興住宅街で、サラリーマンが多く、出勤時間がすぎた直後の事件で、
家に残っていた主婦らは、恐怖に顔をこわばらせ、約百五十人が外に出て、布施
さん方前で、犯人の説得を続ける警官隊の動きを、かたずをのんで見守っていた。
626 名前:本当にあった怖い名無し 投稿日:2008/11/26(水) 22:49:39 sl2hZj2O0
当時ホステスをしていた林好子さん(二六)と 知り合い、舞鶴で同居
1973年9月17日・草津市内で林さん兄妹を刺殺後、滋賀県の住宅で人質2人とともに篭城=舞鶴市常(25歳、料理店員)
1991年9月12日・女性(21)に対する強姦未遂及び傷害=舞鶴市朝来西町(43歳、グラインダー工員)
☆2008年5月6日~8日・女子高生行方不明の後、朝来川南側の雑木林内で遺体となって発見される
2008年11月15日に、下着ドロ、賽銭ドロで逮捕=舞鶴市朝来中、朝来団地(60歳、ナマポ生活。鉄屑拾い)
とりあえず拾いまとめしてみたが、どんだけ舞鶴に自縛されているんだよ。
628 名前:本当にあった怖い名無し 投稿日:2008/11/26(水) 22:54:35 xjY0e+ZLP ?
「,:*:・'☆,・:*: 未解決事件50,・:*:・゜☆,:*」 http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/occult/1224243981/l50 より。
思うところがあったので書いておく。
オタク文化大勝利!!
http://anond.hatelabo.jp/20081220191940
それなのに最近なんだか様子が変だ。特にオタクを自負する人たちがおかしい。こんな素晴らしい状況に水を差そうと頑張っている人たちがいる。
「そんな奴らはオタクじゃない」「ゆとり」「ニコ厨」「ぬるい」と言ってせっかくやってきた人たちを馬鹿にして排除しようとしている。いったい何を考えているんだろう? さっぱりわからない。
この危機への恐怖を体現しているんじゃないかという発言を見つけた。DJ TECHNORCH氏のブログでのエントリー『自分語り133 - DENPA!!! 「超ライトオタク」 言説』への有村悠氏のコメントだ。
Yuu Arimura | 2008年12月23日 09:46 | 返信
ユリイカ共著者のぼくが申し上げるのもなんですが、どうにもついていけないというか肩身が狭いですね、こういう人々に対しては……。岡田斗司夫をロールモデルとして人生の半分を生きてきたぼくは、滅び去る種族なのかもしれない。
このコメントの「肩身が狭い」に全てが集約されているような気がする。「居心地が悪い」にも言い換えられる。
そしてこのコメントに対してDJ TECHNORCH氏は『もしよければ具体的に「肩身の狭さ」について教えて頂けませんでしょうか。』と返している。
この「肩身の狭さ」の理由を考えることがそのまま現在のオタクの危機を炙り出すことになるのではないだろうか。
数人の気の合う仲間だけで作り上げた秘密基地。仲間以外に教えず秘密を共有しながら遊ぶのはそれはそれは楽しいだろう。
しかし、ある日少年が秘密基地に遊びに行くと何故か基地を知らないはずのそんなに仲良くないクラスメートたちが基地内で遊んでいるのを目の当たりにしてしまう。
誰が教えたのか発見したのかはわからないが、クラスメートたちに知られてしまったのだ。この時やってきたクラスメートが「ここすごい楽しいな」と言ってきて素直に「うん!」と答えて一緒に遊べないのがオタクなのである。
「僕たちが作った基地なのに……」「僕たちだけの遊び場だったのに……」という思いが湧いてきて「盗られてしまった」と感じるのだ。
素直に一緒に遊ぶことができず、下手したらやってきた人間に対して楽しみを取られたと怨嗟の念を抱いてしまう。
このような反応をしてしまうのは非モテ・非コミュの人間です。オタクコミュニティは非モテ・非コミュの受け皿としての役割がありました。しかし、今それが崩壊しようとしている。
オシャレな人がやってくることによって「ダサくてもいい」という機能が失われ、きちんと異性と恋愛関係が築けている人がやってくることによって「恋愛できなくてもいい」という機能が失われ、美形な人がやってくることによって「ブサイクでもいい」という機能が失われ、コミュニケーション強者がやってくることで「話すことが苦手でもいい」という機能が失われる。
オタクには「遊び場」と「逃げ場」が同時に失われてしまうという危機がやってきているのです。
そう考えると誰よりも先に危機に瀕していた、いや常に危機状態にあったのは女性オタクの皆さんではないかとも思う。身なりを整えろ、女性らしく振る舞えという圧力は男性のそれの比ではないだろう。そして、実際に現れ始める身なりの綺麗さとオタク趣味を両立させる人間たち……未だにコミケなどに行くと「ださい」「もさい」女性がいるがこの危機をどう乗り越えたのか非常に興味がある(私の周りにも女性オタクはいるが、完全に男性オタクコミュニティに溶け込んでいるか、サブカル系しかいないのでサンプルにならない)。
それが「ボーイズラブ」「ドリーム小説」というジャンルの誕生やウェブサイトの引きこもり状態化と関連があるのではないだろうか、とも思ったがあまり詳しくないのでやめておく。
さて、タイトルの「でも、大丈夫!」は何の根拠もない希望的観測である。しかし、先人たちが「オタク文化」を発見し作り上げたように、これからの世代が新たなる非モテ・非コミュの受け皿を発見してくれると信じている(それは「再発見」かもしれない)。
今、危機感を感じ肩身の狭い思いをしている人間はコミュニケーション能力を磨いて迎合するよりも全力で新天地を探そうではないか。そう提案したい。
それが新たな文化の形成・発展に貢献すると私は強く信じている。
ところで今、一番危機に瀕しているのかは誰なんだろうかと考える。それはおそらく若い世代でありながら新たな潮流に馴染めず、新天地を探すような余裕もなくオタク業界に既に片足を突っ込んでいる人物……そう、有村悠氏(id:y_arim)のような人物になるんだと思う。
俺のやりたかったことは
だまし絵みたいにいくらでもまではいかないけど、少なくとも複数の見方ができるものはあるんだが、見たいように見ていてはw
少なくともはっきりしたことは、
その根拠は
そんなところだ。
言うまでもないことだけど、アブストというエッセンスを書いている人は研究者本人なわけだけど、第三者の書評なりは研究者が主張するエッセンスと必ずしも一致するわけではない。無論後者のほうが正しい場合もあるのだろうが、後者のみを持って前者の評価を下すことはどうかな。例外的に後者の判断を下した人の能力を持って推し量ることは出来ないこともないが、それもさてさてどうだろうか。
さらに増田の分が悪いところは、新潮も書籍も読んでいないとなると、純粋な意味で一次情報に当たるものはタイトルだけである。タイトルで全てを推し量るには些か危うい。タイトルが似非科学ほど怪しい雰囲気を出しているわけでもないからだ、というには若干厳しいがw
アブストを持ち出したのは俺ではないが、言いたかったであろうことはそんなところであろう。
君の思ったとおりに他人が動く訳じゃないんだよ。
もう少し言うと、
1が正しいとして、2,3を実行したかを聞いている。特に聞いているのは、3をもたらした2を実行したか否か。それをしていないのに、3が出てくるわけがない。
それに対して、今増田が言っているのは、2.別の方法論(誰それが言っている)から3.導かれる結論(正しいだろう)と言っているに過ぎない。えらい人が言っているから正しいというのは思考停止だろう。ちなみに俺は新潮でさえ読んでいない。
それはさておき、塩野七生の「ローマ人の物語」は専門家からするとどうなんだろうという意見を見かけたことがあるが、小説?としては面白いというのと似ているのではないかな。
なるほど。数日の議論を読んでみて、水村本の目次を確認してみると、否定派および肯定派がそれぞれの立場に別れた理由が少しわかっってきた。
目次・水村美苗『日本語が亡びるとき』http://books.yahoo.co.jp/book_detail/32157995/
2章 パリでの話
なるほど。本で第4章以降を読んだ人からは、もう知ってるよという反応や具体的提案についての否定的コメントが出てくるのも頷ける。日本語とか英語とかあるいは語学教育とかについて何か語りたくなる人も現れるだろうし、反対に、多文化主義的な観点からのコメントも出てくるだろう。
わたしなどは、8月に読んだからでもあるが、むしろ第1章がとてもおもしく感じられた(そりゃあだって、理論的な解決がこの本にあると思って読む人なんているだろうか。水村さん作品に親しんでいる人はもちろんそんなこと思わないだろうし、煽った人たちの力点もそこにないだろう)。
おそらく、
柄谷周辺の論者の問題意識に沿って書いた議論の向かう先・解決策を期待してこの本を手に取るか、あるいは、「アイオワの青い空の下で「自分たちの言葉」で書く人々」と交流しながら問題の所在を発見するというその出発点に着目するか、これにより、この本の評価はかなり分かれるのではないか。
多分、梅田さんがこの本について語りたくなったのも、水村さんがアイオワで様々な国からやってきた文学者と触れあう内に、日本や日本語についての問題に近づいていったというプロセスを、梅田さんの場合であればシリコンバレーでの経験になるかと思うが、この本を読みながら追体験し共感したからのではないか、とわたしは思った。
第1章のところだが、アイオワに各国の作家とともに招かれて出会った内の一人が、若いころロシア娘と恋に落ちたりもしたことがありその頃学んだロシア語を用いて盆栽に詳しいリトアニアの青年と会話のできるモンゴルの老詩人で、何かの時に水村が老詩人に向かって“You are an important person”といったときに、英語が苦手なのでたどたどしいながらもゆっくりと静かに“Everbody is important”と答える場面やそのほかの場面は、外のものに触れることでいくつかのばらばらの点が繋がり問題が自分のものとして感じられるプロセスとして見ることができ、さすがにマドル・スルーというようなものではないが、問題を自分のものとして受け止める過程はそれなりに緊張し疲れるのだが充実した読書だった。
そういうことが問題となってるのはずっと昔から知っているよ、何この話、古くさい、というのは十分あり得る反応だろう。ただ、問題の所在を個々人がそれぞれ理解するというのはそれとは独立に重要なことだろう。もちろん、この本とは別の入り口でも全然かまわないのだが。
そういう意味では、今回の騒ぎをきっかけに、こういう問題があるんだあ、と思った人にとっては水村さんの本は一つの入り口として悪いものではないと思う。
別の話。
http://d.hatena.ne.jp/Thsc/20081109/p2
話は少しそれるが、これを読んで、まず、「あたし彼女」読もうと思った。
もうひとつ思ったのは、
『新潮』9月号に載った前半部読んだ感想としちゃ、読めたもんじゃないよ。
何の説明もなく日本の文学は一人で幼稚なものになっていっていたと断じている作家が、この『ひとり』をひらがなに開く言語センスすら持ち合わせない作家が、<叡智を求める人>は今の日本文学など読まないなどとぬかしているのだよ。
という記述について。この方の水村本の理解からはそのように読めるし、きっと正しいだろうと思う。
ただ、もうひとつの可能性もあるのではないかとわたしは考えた。(いま新潮および本が手元にないので原文を確認することができない。「一人で」あるいは「ひとりで」が本のどのような箇所でどれくらい用いられれているか確認しないままではあるが、Thscさんの指摘にインスピレーションを受けてわたしの理解を書いてみることにする。)
Thscさんの主張はおそらくこうだろう。
という文の「一人で」は、「おのずから(自ずから)」あるいは「ひとりで勝手に」というニュアンスで用いられていると理解できる。そうであれば、「ひとりで」とひらがなで表記するべきであろう、と。
しかし、もしかすると別の考え方もあるのではないか。
「一人で」と漢字で表記するという点に固有の意味を見ようとするならば、日本語が「ひとりで勝手に」幼稚なものとなっていった、という理解とは別の理解でこの文を読まなければならない。その理解とはこうだ。
水村の議論全体をふまえると、水村は「言語というものは孤立すると衰退する」と考えているのではないだろうか。言語は「一人」になると衰退する。
このようなニュアンスを込めて、ひらがなにせず、あえて漢字を用いて「一人で」と表記したと考えることはできないだろうか。ここではそのような理解の可能性を指摘してみよう(もちろんこれはまだ単なる思いつきの段階であり、実際には、本文で語が使用されている箇所を逐一チェックしていく必要がある)。
ただし、このように考えたとしても、それならば違った書き方をするはずだ、等の疑問は当然に出てくるだろうし、結局のところは、Thscさんの理解が穏当なところだろうとわたしも思う。
別の可能性を指摘しただけでは水村さんが確信犯で「一人で」を用いたことの立証にはならないし、ひらがなか漢字かの選択だけでこのような微細な部分をオミットするのは文章家として正しい態度ではないのだから、いずれにせよ批判されても仕方のないところだろう。
【要旨】
梅田望夫さんが水村美苗『日本語が亡びるとき』の紹介をしていた。ブックマーク数は多いのだが、梅田さんの紹介にやや舌足らずな点もあるからか、反応もいまひとつのような気がする。ただ、わたしも水村さんの論を読んで非常に感銘を受けたことはたしかなので、まずは、水村さんの議論の骨子を紹介してみることにした。ただし、わたしが読んだのは新潮9月号で発表されたものであり、ここで紹介することも本の第1章から3章までの議論にとどまる、という点をご海容頂きたい。
ここで紹介したのは水村さんの問題意識であり、この問題に対して水村さんがどのように思考を進めていくか、というメインの部分については実際に「新潮」9月号や本をごらんいただきたいと思います(この一文追記)。
(追記2)梅田さんがこの本をどう見ているかについては、すでに8月時点でこの本の前身の論稿に触れられたエセーがすでにあるのでこれもご覧になるとよいかと思います。以下の記事のブックマーク数があまり多くなかったので補足しておきます。
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080823/trd0808230354002-n1.htm
【本文】(本文途中からお名前を「望田」さんと誤っている箇所があったので修正いたします。大変失礼いたしました。また指摘してくださった方に感謝いたします。)
水村美苗の新刊『日本語が亡びるとき』が梅田望夫さんのブログで紹介されていた
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20081107/p1
コメント欄やブックマークでのコメント欄では芳しい反応は少ないようで、梅田さんの議論とかみ合っていないし、梅田さんの高揚の理由がわからずポカンしているように見える。
これはおそらく、水村美苗および梅田望夫の問題意識がちゃんと理解されていないからではないかと思う(その点で梅田さんの紹介が不十分ということはあるかと思う)。とはいっても、本書が梅田さんの心に響いた理由をわたしは想像できるし、わたし自身も「新潮」9月号を読んでおもしろいと感じた。なので、以下で水村さんの議論を紹介したい。
水村さんの議論、および望田梅田さんがインスパイアされた問題意識というのは、たとえば、英語公用語化論のようなレベルでの「日本語の危機」というようなものではない。すなわち、日本の「国語」としての日本語と、英米の「国語」としての英語とのパワーバランス等が問題とされているわけではないのだ。「国語 vs 国語」という問題、ではないのだ。
そうではなくて、水村の議論はこうである。
水村の分け方によれば、言語には「普遍語―国語―現地語」の3レベルがある。
中世では「普遍語」としてのラテン語および「現地語」(のちにフランス語やドイツ語になる言語)しか存在していなかった。
近代国民国家の時代になると、(学術的な成果等の)「普遍的なこと」を語る言語として、「普遍語」の他に、「国語」(もと現地語)が登場した。この意味で「普遍語」の役割を果たす「国語」が複数あるというのが20世紀半ばまでの状況であった。
しかし状況は変わった。世紀末から21世紀初めをみると、もともとは数ある「国語」の内の1つにすぎなかった英語が「普遍語」なろうとしている。それに伴い他の「国語」は「普遍語」の座を降ろされようとしている(例としてフランス語の衰退が挙げられる)、と言うのが水村の議論の骨子だ。
そういうことであるから、日本語が「現地語」として滅びるといっているのではなくて、普遍的なことを語る役割を担わされてきた近代国民国家の「国語」が、英語が新たな「普遍語」となることによって、変質をこうむる、という見通しを水村は述べているのである。
以上が水村さんの議論の紹介。
このことからわかるように、望田梅田さんがこの本を読んで感動したというのは非常によくわかる気がする(追記;小飼弾さんが興奮するのもよくわかる気がするhttp://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51136258.html)。望田梅田さん自身をどのように考えているかは知らないが、わたしがこの本を読んで思ったのは、
日本という「現地」に帰属しつつ他方で「普遍的なもの」とつながっているという点では「外国人」のような存在、すなわち、「在地の普遍人」というでもいうべきメンタリティーを有している人間にとっては、今回の水村さんの本を読んで刺激を受けるのだろうな、ということだ。
英語と日本語を日常的に使用していることを前提に書評が進められている感じがする。日常的に日本語のみしか使ってない人にとっては「心の叫び」は届かないのでは
という反応などが、もうひとつの、ある意味で正しい反応だといえるのではないだろうか。
これも参照。http://anond.hatelabo.jp/20081111185728
【★追記。以上の議論から、文学においてはどんな問題が生ずるか。水村さんの見方はこうだったと思う。
近代においては、国語=国民=国民文学という等式が存在し得た。国語は普遍的な内容を記述できる言語であり、国民文学は普遍的な内容を論ずることができるものであった。もっというと、
ローカル(現地)なことがらを普遍的なレベルでとりあげ記述することを可能にしたのが
であった。
しかし、「国語」が「普遍語」としての地位から陥落しつつある21世紀初の状況を見ると、今後そのようなことは可能であろうか。
これが水村さんの問題意識である。
このような問題は翻訳論において繰り返し語られていて、水村さんもこれに言及している。】
【★さらに追記:
「別に日本語が『現地語』になるとして何か問題でも?」という反応に対して、水村さんの議論からはどのような応答があり得るだろうか、考えてみる。
「現地語」のみを読み「現地語」のみで語る、他のものには触れないし読まない。そうなると、文学が、そして、それによって表現される知性が、衰退する、という反応が出てくるのではないか。
文学とは異なるが、このことの理解を助けるために、テレビ番組を例に挙げてみよう(わたしはテレビをじっくり見る習慣を持たなくなったので、これから書くテレビ番組の状況は、幸いなことに、誤っているかもしれませんが)。
テレビ番組が低俗化していく、という説が挙げる例の一つに次のものがあるだろう。お笑い芸人をテレビに出してそのトークで番組を構成する、そのトークの中身は(試聴者もそれを知っていることは前提とされているものの)芸人同士の内輪のからみや楽屋ネタのようなものであり、ネタとして完成された作品であることは少ない。
このような内輪のみに意識が向けられ、内輪のもののみに言及し、その範囲での閉じた連環が固定される。
テレビの現状が本当にこのようなものであるかは知らないが、仮に、このような番組しか放送されていない世界になれば、テレビというメディアは衰退するという主張が現れておかしくはない。
日本語が、「普遍語」の役割を果たしうる「国語」であることをやめ「現地語」になってしまう、という水村さんらが表明される危機意識というのは、このようなものとして理解することができるのではないだろうか。
水村さんのインタビュー記事を読むと、
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20081107bk01.htm
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20081107bk01.htm
「中途半端な国民総バイリンガル化を求めるより、少数精鋭の二重言語者を育て、翻訳出版の伝統を維持する。作文を書かせるより、古典をたっぷり読ませる教育を積む。それが日本語の生命を保つ現実的な方策。
ここで「少数精鋭」でもよいので「翻訳出版の伝統を維持する」ことが主張されているのは、上で述べたように、外に目を向けなくなることにより日本語および日本社会がローカルなレベルへと自壊していくのを防がなければという問題意識を背景とした主張だと、わたしは理解した。】
今出先だけど、読んだのは確か
「論争・学力崩壊」「中央公論」編集部・中井浩一編 / 中央公論新社 / 03/03/25
で、その中の寺脇研の発言だったと思う。
それは一貫した彼の主張で、たとえばここなんかでも彼の言葉として引用されているこんな感じの内容だった。
これからの小中学校は今よりゆったりと学習してもらうようになるわけですが、その半面で、高校・大学はとても厳しい場になって行くという認識を持ってもらわなければならない。高校も大学も1時的には中退者が増えるかもしれません。今までのようにはいったら勉強しなくても、お情けで何とか卒業させてやろうという考え方では通らない。
あなたの自己選択によってはいった高等学校なのだから、そこで勉強しないのは自己責任を果たしていないことになる。そういう人には卒業証書を出せないよということです。
こちらの出典は
「21世紀の学校はこうなる」(寺脇研著 新潮OH文庫 2001年)
だとか。
寺脇は在野の学者などではなく一応一時期とはいえ文科省で大臣官房審議官として、この問題に関するスポークスマンの役割をしていたわけなので、彼の論法が「罷り通っていた」というのは一応ソースのあることと言って良いのではないかと思います。
東浩紀・桜坂洋の「キャラクターズ」(新潮10月号掲載)を読んだ。論壇へのスキャンダラスな興味で読むぶんには面白いのだけれど、宣言した「キャラクター小説」としては失敗だと思う。文芸誌に載るキャラクター小説とはいかなるものか、そこにしか興味はなかった。オタク哲学者とラノベ作家の共作ということで期待したのだが、残念ながら期待は裏切られた。これはキャラクター小説ではない。この作品のどこら辺がキャラクター小説だと考えているんだろうか。私小説が「この作品の私は作者としての私ではありません」と説明することと何が違うというのか。東浩紀の虚構話を書くこととキャラクターとしての東浩紀を書くことは違うのだ。この作品には標題に反してキャラクターなんて一人も描かれてはいない。
100歩譲って、この作品の登場人物はキャラクターである、という説明を受け入れたとしよう。それでもこの作品はキャラクター小説としては駄作だと思う。簡単な話だ。この作品の登場人物はどれもキャラが立っていないじゃないか。例えば作品の中では東浩紀が東浩紀R、東浩紀S、東浩紀Iの3人に非現実的に分裂する。この3人は向かうあう問題と行動が異なるだけで、いつでも他の東浩紀と交換可能であり別の性質的な差異は感じられない。つまりキャラが立っていない。北田暁大にしても香山リカにしてもその他の人物にしても、凶行の被害者に実在する人物の名前を与えただけではないか。これもキャラが立っていない。
キャラクターとは本来、記号的で類型的なものである。また、実在する何かを写し取ったものではなく虚構の世界に独立して存在するものだ。漫画にネズミを登場させることとミッキーマウスを書くことは違う。前者は実在するネズミと対応させることができるが、後者に実在を求めることはできない。
そもそもキャラクターとしての「私」は可能なのだろうか。しばしば現実の世界では「キャラを演じる」「キャラが被る」という言葉が使われるように、私とキャラクターの問題は「私」と他者との関係における記号的類型的な役割の問題である。文章の大半を「私」の愚直な内省独白が占めるこの作品はこの点においても私小説の延長線上にある単なる「私」の虚構話であり、キャラクター小説であるとは言い難い。
桜坂洋は文学に媚びたりせずにラノベの流儀を貫くべきだった。この作品を書くにあたっては東の自分語りに流されず、ラノベを書く時のように、キャラクターの造形からしっかりおこなって欲しかった。論壇やオタクが東に求める役割=キャラクターは最大限に利用または逆用するべきだし、キモオタ、ロリコン、ガリ勉という類型化された属性ももっと強調したっていい。例えば男性の登場人物全員になんらかの腐女子好みの属性を割り当て東×鈴木、柄谷×桜坂…手当たり次第にヤリまくったほうが朝日新聞社を爆破するよりもまだ破壊力があるというものだ。この小説は「私」に対して愚直すぎる。
あるいは東は桜坂よりもイラストレータと組むべきだったのかもしれない。そして二次創作や便乗グッズ販売が生まれるくらいのクオリティで東をはじめとするキャラクターを作ってみれば面白い。そんな魅力的なキャラ絵を含む小説が新潮に載ったら痛快ではないか。それで掲載を拒否されてたら新潮社と徹底的に戦え。それこそラノベと文学との戦いそのものじゃないか。
2月にこの日記を書いた。
http://anond.hatelabo.jp/20070228032425
そうか、人間熱意でなんとかなる時もあるのだな。
大勢だけを見て、ハナから駄目だろうと考えていた自分のヌルさを反省した。
・追記
・新潮:生意気妹系。文春をライバル視
・マガハ:世話焼きお姉さま系
・東京書籍:感情を表に出さない天才系
・学研:おばちゃん
・MW:角川の妹。電波系だが男ウケ良い
・芳文:バーのママ
・光文社:見た目は可愛らしいが、何かにつけて意地悪をしかけてくる
・PHP:人のために何かするのが好きなお人好し。「ごほーし、致しますっ☆」
・中公:人の目が気になる性格で、自分の評判など知っていないと不安になる内気な娘