はてなキーワード: 小説家とは
http://marineko.moo.jp/eroparo.htm
批評的に読むと、そういうお約束があるというか、多くの人が同じ言葉を使いまわしていて、
それがなんだか画一的というか、あーパロッてるなというか、私には退屈で面白くなかったです。
キスするときは「歯列を割る」、舐めるときは「水音」を立てて、胸には「うっすらと赤い蕾」、アレは「楔」、
で、指で「解した」「秘孔」に、それを打ち込むわけですな。最期は「吐精」とか「熱を放つ」。
(全体的に、「受け」さん痛そう・・・でもやおい界の「受け」さんは、なぜかすぐ気持ちよくなるのです)
まあ、歯列はいいけど、「蕾」って表現はないでしょ、「蕾」ですよ「蕾」。陳腐すぎる。
白人だって、そんな綺麗なピンクの「蕾」なんか胸についてないよね。
しかも触られると、すぐにそれが尖って、「っあ・・・」だからさ。
そんなことで、男がいちいち「顎を震わせて」のけぞるのか?
普通の読者はそんな細かいこと気にしませんよ^^
米国の方ではもう出てるみたいだね・・・日本でもそういう会社が出ないかな。
通常利用料は無料で付加サービスに対して課金制度取るようにして、利益を出す。
付加サービスでは単語を直接Webの本の上で調べられる機能、編集に関しての機能追加、添削サービスetc.
付加サービスだけでは利益に心もとないので、本のページ上下隙間に広告を付ける(内容に合ったもの)
本の質感の再現も欲しい、あと電子ペーパーの普及に伴うサービスの拡大etc.
あとは、仮想本棚を登録者1人1人に無料設置、好きなWeb本を自分の本棚に並べられる様にし、書き手側からも自分の書いた本が本棚に並べられるとやる気に繋がる。
さらに一から書くから著作権は既存の本をWebに転記するよりも少なくなる。
著者はこちら側が用意したテンプレートに文章を記入するのも良いし、自分で作った表紙やページをアップロードしてそれを活用するのでも良い。
問題は著者側へのリターンが少なくて活性化しないことだけど・・・
出来れば有名な著者に出版してもらって、その場合はこちら側からある程度の金額はお支払いして。
○○を書いた○○○○が!Webで出版!
なんてのが理想だけど、無料で読めるし大勢の人に読んでもらって、その著者の他の出版物にも興味を持ってもらえるかもしれない。
でも、リアル出版社からの圧力とか出版社契約とかの問題もあるから難しそうだけど・・・
現状でもサイトで小説書いてる人、掲示板で書いてる人、埋もれた名作の著者、小説家志望の練習の場を少しでも書店で販売してる本と同等の立場まで持っていければ良いと思う。
きはらおとせではない。このはらなりせと読む。彼女はボーイズラブ作家である。男同士の恋愛を主軸にした物語を精力的に書いている。
いや、ここで引く前にちょっと聞いてほしい。まずボーイズラブの現状を知ってもらいたい。
諸兄がボーイズラブに抱くイメージはどんなものだろうか。例えば王子様、例えば美少年、例えば美形青年実業家。そんな見目麗しい男たちがキャッキャウフフと乳繰り合っているというイメージだろうか。それはあながち間違いではない。確かにそういった作品群が大半を占めるからだ。ただし、それだけかというと答えは否だ。
ボーイズラブの懐は思ったよりも深い。時代物あり、ファンタジーあり、サスペンスあり、不細工あり、さえない親父あり、バツイチもありだ。人気作家に限られるが、男同士であれば何を書いてもいい土壌がある。木原音瀬は間違いなくその「何を書いてもいい」という特権を与えられた作家だ。
彼女の作風をひとことで言うと「痛い」。キャッキャウフフなどは微塵もしていない。人は愚かで、人を愛することによってさらにここまで愚かになるのかという現実を、圧倒的筆力でこれでもかこれでもかと叩きつけて来る。痴漢冤罪で収監された男、HIV感染者の男、死体を隠した男、女装が趣味の男、肥満体型の男…彼らが紡ぎ出す恋情そして執着は、私たちの心に深く楔を打ち込む。ここまで高品質の愛憎小説を、彼女のような頻度で上梓している作家は一般誌でもそうはいないだろう。
木原音瀬の人気は、まず、彼女の本を出すためだけのレーベルがあることで証明されている。彼女の小説と、そのコミカライズ作品のみ掲載されたムックも現在4号まで出ている。例えは難しいが、乙一・西尾維新クラスだと思ってくれていい。毎月80冊前後出ているボーイズラブ小説界において、間違いなくトップクラスの人気を誇っている。
ただしその人気が、彼女の実力に相応しいものかというと、そうでもない気がしている。評価が高すぎるのではない、低すぎるのだ。ボーイズラブ界は良くも悪くも読者が熱心で財布の紐がゆるい。需要と供給が小さな輪の中で完結してしまっている。いくらボーイズラブ読者が多くなったとはいえ、分母となる絶対数が足りないのだ。これでは高評価にも上限がある。
もちろん私は彼女に、一般向け作品を書けと言いたいわけではない。今のままの作風でなんら不足はない。考えてみれば、日本の文壇で同性愛表現が完全にタブーだったことなど、一度もないのだ。ニアボーイズラブ作品に至ってはそこらじゅうに転がっている。問題なのは、ボーイズラブ読者以外の人々に彼女が知られていないこと。店頭でもまず足を運ばない書棚に並べられていることなのだ。
まずは彼女を知って欲しい。店頭が恥ずかしければAmazonでも7&Yでもいい。何ならBOOK OFFでもいい(後で新刊を購入するのなら)。よしながふみを、オノ・ナツメや佐原ミズを見出した人々に、いま少しの歩み寄りを願うのは贅沢なことだろうか。木原音瀬のような類まれな才能と作家性を併せ持った作家を、私たちは天井のある籠の中で飼い殺している。そのことに対して罪悪感を持つ程に、私は彼女の作品を愛している。どこに出しても恥ずかしい木原音瀬信者なのだ。
http://anond.hatelabo.jp/20080504230316
たぶん「ギーク」と「エンジニア」をごっちゃにしてるのが混乱の原因ではないですし、そもそも混乱はしてません。コーディングがうまいのも、画像認識の仕組みを考えるのも、僕にとってはあまり違いがあるようには思えません。コーディングについて考えていけば、実際に手を出すかどうか(出せるかどうか)別にして、htmlやcssという言語やブラウザに対してあーしたい、こーしたい欲がでてきます。
いや、大分違うと思います。画像認識とかあるいはシミュレーションとか、そういう分野はコンピュータ・サイエンス以外の分野がメインの従来型のエンジニアであって、画面上でやる作業の比重が相対的に低いです。それに、コーディングの場合は「質を問わなければ」解けるとわかっている問題を解くのが作業であるのに対し、画像認識のような分野は解けるかどうかやってみないとわからない問題を解くわけです。これは似て非なる作業です。要求されるバックグラウンドも違います。コーダーの意味でのプログラマーは学歴不問でセンス勝負でしょうが、画像認識のような分野の技術者は大学院レベルの知識と経験が前提になります。
つまり、「出せるかどうか」が問題になるわけです。従来型のエンジニアは「ギーク」のような見事なコードは書けないだろうけれど、それは大した問題ではなく、学識の集積をライブラリやモジュールの形で提供できればよい。コーディング職人は小難しい知識は必要がないから、従来型のエンジニアが書けないような質の高いコードを書けばよい。
そういう風に、向いている方向が大分違う。それを私は「職人芸」と「技術」の違いだと書いたわけです。
勿論それはそう。ただ、そんなことを言えば小説家や画家だってしょせんは紙の上の世界で勝負してます。
そこに意味を見出せるかどうか、です。
狭い世界で芸の奥義を極めたいならギークがよいでしょう。ですが、コンピュータの中に閉じこめられるのが嫌なら、従来型のエンジニアになる手もあります。こちらに行くとギークと違い、才能やセンスよりも知識と努力で道を切り開いていくことになります。
電気・電子工学を学べばコンピュータがブラックボックスではなく電気機器の塊になる。情報工学を学べばOSやDBMSを使うのではなく作る立場になれる。制御工学・信号処理を学べばコンピュータに目鼻を付けることもできる。経営工学を学べばシステムの全体を設計することもできる。そういう道の選び方もあります。
そうした道に方針転換をするのも悪くないのでは。今まで学ばれた経験がなければ社会人大学院に行くのもよい。その際、今まで培ったギーク流のコーディング能力があれば、同等の知識を持った純粋培養のエンジニアよりも一歩優位に立てるはずです。
どちらがいいのか。一度考えてみてはいかがでしょう。
つもりなんだけど、「やるおが同人小説家になるようです」っていう2ちゃんのスレを見て
久しぶりに同人誌を書きたくなってしまった。
同人活動をやっていたのは5年もないくらいなんだけど、
とーぜんスペース代やらの会計は持ち出し、100冊刷ってもほとんど余るし
本を作る楽しみ、文章を書く楽しみはあっても、挿絵がないと売れない現実やら
年々重なる赤字やらを見ると、いつの間にかめげて、勝手に潮時って思ってやめていた。
そのお陰で、今の社会人としてはわりと成功した生活があるんだけど、
また同人誌作ってみたいなあ、と思ったり思わなかったり。
その根底には、小説家へのあこがれがあるんだろうけども。
小説家や漫画家などのクリエイター職がたばこを吸うのは合法的なドラッグ摂取という意味で肯定してもいいかなと思う。
捕まる物に手を出すよりはね。
高校2年の冬だった。もう5年も前。
初めて会ったその日にアドレスを交換して、3日後の夜、彼女と初めて電話をした。
話は尽きずに、でも電話料金を気にして、お互いかけ直しながら朝まで話した。
やっと巡り会えた気がした。小さい頃、母親の胸に抱かれていたような、そんな安らかな気持ちになることができて、
そのとき僕は運命を信じた。それは偶然じゃなくて、必然だと確信した。
その2日後、初めて会ってから5日後、学校が終わってから教室で暇をつぶして、
彼女が部活が終わるという時間に、電車で彼女の学校の駅へ迎えに行った。
改札まで友達と一緒で、すごく元気でさばさばしていて、電話のイメージとは違った子だった。
でも二人でボックス席に向かい合わせに座って、会話が止まった瞬間に、それが緊張のせいだとわかった。
自分の気持ちと彼女の気持ちが手に取るようにわかって、泣きそうになった。
「がんばり屋さんなんだね、強がってるのがすごいわかる」
「なんでそんなにわかるの?」
「わからない、なんかわかるんだ」
「友達にメールしてること言ったら、付き合ってるの?って言われたんだ」
「付き合ってるって、言えば?」
彼女はうなずいて、また泣いた。
帰らなければいけない時間になって、駅まで送ってくれた。
電車が来て、ドアが開いた。
今でもそのときの彼女の顔は覚えている。
思いつく限りの種類の感情を想像してほしい。
愛情、不安、興奮、焦燥、、その全部を一気に表現したら、あの顔になるんじゃないかと思う。
それから2年半後に別れるまで、いろんなものを二人で見て、二人で聞いて、二人で感じた。
今は別の人と付き合っていて、もうすぐ1年半がたつ。
心苦しいけど、僕はまだあの時の彼女に恋をしている。
そして僕と同じか、それ以上に、僕のことを思い出して、甘く切ない気持ちになっているだろう。
ただ彼女は、もう僕を求めたりしないだろう。
女の人は、思い出を作るのがうまいと思う。
僕は未だに、現実の世界へと漏れだしてきてしまう過去から逃れられない。
こんなんじゃ、いまの彼女を幸せにできないと思っても、好きという気持ちは嘘ではないから
いつか思い出になってくれることを待ちながら、卑怯にもいまの彼女を愛している。
プログラマーという仕事は、感情の世界から、論理の世界へと僕を隔離してくれる。
論理的に考える訓練をすると、自分の感情が持つ醜さや幼さを合理的に回避して解釈できるようになる。
心ではわかっていることを、頭で考え直して納得する。
それが結局は、僕から流れ出す不幸を最小限に食い止めている。
心で自分と向き合ったら、誰も幸せにできないだろうから。
日本で社会運動が今ひとつ盛り上がらない理由について考えてみる。日本の風潮のせい、ネットで話題になる偏向報道、またひどく深刻な社会問題がないということ、学生運動の失敗などなど理由はいくらでもあるだろう。それらが複合的に絡み合って今の現状がある。
ところで日本人の風潮とは一体何だろう。色々な問題が出たときにとやかく日本人の風潮というものが問題視されるが、その実体は一体何なんだろう。最近読んだものには”表面的な付き合いしかしない若者”というものがあった。自己のメリットの範囲内でしか人間と人間の付き合いをしないという若者のコミュニケーションがそこでは問題視されていた。表面的な付き合いというのは日本の一種独特のコミュニケーションスタイルだと思う(それをコミュニケーションと認めるならば)。集団社会という点、自分の趣向をないがしろにできるという点、雰囲気を過剰に読むという点(KYというふざけた言葉があるくらいに)などが表面的な付き合いというものを可能にしている要因である。特に日本には以心伝心という言葉が古くからあるように言わずとも分かれという意識が非常に強い。これは日本人全体のコンセンサスにもなり得る程だ。
あるいは古い時代なら何と言わないままでも分かり合えてたのかもしれない。しかし、現代の人間にはそんなことは伝わらない。むしろ言っても何も伝わらない時代なのだ。人間という生き物は確かなプロセスと結果を学習しなければ、何も得る事は出来ないのは自明の理である。子供の精神や脳のシステムが発達していく段階に、親はしつけの名の下に何がどうしていけないかを教えなければならない。現実問題として親はしつけを放棄するようになっているし、大人が子供を恐れているという問題もある。挙げ句の果てにはアダルトチルドレン問題なんていうものさえあるのだ。少し脱線したが、私が言いたいのは想像力のない人間が増えているということである。人間を包丁で刺したら死ぬということさえ理解していないように見える人間だっている。現代は人に対する想像力が決定的に欠けている人間が多くなっている。想像力のない人間に、”ダメ、絶対”という言葉だけで一体何が伝わるというのだろうか。しかし表面性を重んじる社会はこれを賞賛するのだ。全くもって素晴らしい国だ。説明する労力をみんながみんな省こうとするのだから。
こうした表面性にも増して社会運動が盛り上がらない重要な要因はもう一つある。それは言うまでもなく日本的集団社会のシステムである。グループや組織の中で一人違った発言や主張をしただけですぐに組織からしめだされる。マイノリティを排除しようとする素晴らしい民主主義システムである。
こうした事柄などから社会システムなんていうものはいくら頑張っても個人の力では何一つ変えられないと日本人が思うのは至極当然のことだ。そういう意識は勿論私にもあるし、日本全体のコンセンサスのようになっているかもしれない。社会運動、学生運動などは時代が違うのだ。社会のシステムに歯向かうなんて馬鹿のすることだ、と多くの人は考えている。それでも立派な革命家、思想家なら徹底抗戦するだろう。詩人や小説家も同じかもしれない。とにかく少しでもいいから社会をいい方向にもっていきたい。それが理想であろうと幻想であろうと妄想の戯れ言であろうと彼らは頑張っている。それが例え最悪な結果を招いても方向性が著しく間違っていたとしても彼らを私たちが嘲笑うことなど出来ないだろう。私たちは何にもしていないのだから。
民衆の結束力が弱くなった時代だと言う。人々は互いに無関心になって、国民意識とか郷土意識とかがなくなっているともいう。しかし、世界の裏側で子供が餓死しようと、チベットで暴動が起きようと、そうした事が私たちの実生活に影響を及ぼさないのも事実だ。所詮対岸の火事なのだ。そんなことは私や君の生活には関係ないから、例えそれが心を痛ませるものだとしても、私達は自分達がどうやって明日の生計を立てていくかを考えた方が良いのだ。ではもし自分の住んでいる街に原子力発電所ができたら、ゴミの埋め立て場ができたらどうするだろうか。どうもしない。その街を出て行けばいいだろうと人は言うだろうし、反対運動に身を費やすよりは補助金でももらってさっさと新天地を求めた方が懸命だ。現代とはそんなもんなのである。
では、例えばの話をしよう。
ある漁村にダムの建設計画が浮上した。漁村が位置するのは珍しい泥海がある場所で、そこで漁師達は伝統的な漁を営み生活していた。またそこにはムツゴロウなどの珍しい生態系も住んでいた。その地域は毎年ひどい水害に見舞われていた為、ダムをつくって水の流れを止めてしまう事が切実に必要だった。しかし、ダムによって水がせき止められてしまえば、そこにいる生態系は全滅し、漁師達は職を失う。
このニュースは直ちに全国に流れた。人々はそれを見て何て可哀想な出来事なんだと感じた。そして、様々な抗議運動が展開された。珍しい生態系を守らなければならないというのが特に人々の心を動かしたようだった。漁師の伝統的な漁と、珍しい生態系は絶対に守らなければならない、と彼らは声高に叫んだ。だが、ダムを建設しなかったら水害はどうなるということについて彼らは何も考えていないようだった。水害は毎年死者を出すほどのひどいものであったので、地域の住民はダムの設立を切望した。双方様々な運動をした。どちらにとってもダムは文字通り死活問題だった。
結局漁師の抗議運動もムツゴロウなどの保全をうたう環境団体の運動も結局は何の効果ももたらさなかった。何故ならダムを作る事の優位性は明確だったし、地域の住民の数に比べて漁師の数は圧倒的に少なかった。そして誰もが仕方の無いことだったんだな、とニュースを見てひとしきり胸を傷ませた後、各々の生活に戻った。
一つの季節が終わり、春が来るとほとんどの漁師は村を去ったが、ムツゴロウは元気に繁殖活動を続けていた。
数年後、漁師やムツゴロウ達が消えた場所には「ここは昔海でした。」とだけ書かれた看板が立てられた。世間の人々は漁師やムツゴロウのことはもうすっかり忘れていた。何故人はすぐに忘れてしまうのだろうか。それは全ての事件に胸を痛ませて、憤慨し、悲しいことを忘れないように、理不尽なことを忘れないようにしていたら、人は疲れきってすぐに気が狂ってしまうに違いないからだ。誰もが何もかもを忘れていく。自分に直接関係のないことは所詮自分に関係のないことなのだ。
昔、漁村があった街には今では味気ないダムと味気のない看板が立っている。その街の人々はとても幸せそうに暮らしている。
私はこの文章を書きながらチベットの人々のことを考えた。難民のことを考えた。食べ物が無くなり、今にも餓死しようとする子供達のことを考えた。平和が訪れればいいな、と本気で思った。
それでも寝て起きたら、私も全てをすっかり忘れて私の日常に埋没するかもしれない。それが良い事なのか悪い事なのか私には分からない。
ただ、それが出来てしまう今の自分を好きになれないということだけは分かっている。
Dreamweaverなどのソフトを使ってのweb製作から始まって、今ではTABLEまたはCSSでどんなグラフィックデザインでも表現できるようになった。
仕事の中でFlashを使ったモーションデザインも必要となり、それも覚えた。
昔から興味があったPerlやPHP、データベースの使い方もなんとか覚えた。
約10年間web製作という仕事をやってきて、今までは常に「覚えること」 があった。
そして一通りのことが出来るようになった今、かつての情熱が冷めつつある。
少なくとも、随時入ってくるweb製作依頼をさばくことに関して、以前ほどのやる気を保てない。
写真のクオリティを上げたり Flashモーションデザインなどにさらにこだわって情熱を取り戻すか。
まだまだ細部を煮詰めることはなんぼでもできる。
だが1件1件にこだわればこだわるほど、労力はさらに増える。
1件の単価が上がっているわけではない以上、これ以上の細部へのこだわりは自滅を招きかねない。
簡単に言うと「いつまで経っても完成しない」。
このようなことを愚痴っていたら、知り合いの小説家に「それはディテール病だ」と言われた。
彼自身今まで約10年間、かなりのペースで小説を刊行していたのだが、このディテール病にかかった途端に一気に執筆ペースが落ちた。
治し方もひょっとしたら知っているのかもしれないので後で聞いてみるが、この「ディテール病」という言葉は一般的にはなんというのだろうか。
技術力が落ちているわけではないので「スランプ」という言葉にはあたらないと思うのだが。
強いて言えば「飽きた」←これも職人としてどうかと思う
携帯小説でふと思うんだけど、
「こんなのなら俺でも書ける!」
「これならあたしにも書ける!」
って思う人は実際に書いたりしないんだろうか。
(あ、後者は結構多いか)
特に批判的な人。
実は紙媒体になった携帯小説すら読んだことないし、携帯小説のおいてる(配信してる)サイト自体行ったこともないから今どんな作品があるのかもよくわかんないんだけど、
そういう潜在的なアマ小説家はいっぱいいただろうに、どうして話題になって本にもなったりするのはスイーツ(笑)っぽいのばっかりなんだ
ろう。
おもしろいのがあるなら読んでみたいが、どうもマスで宣伝されてるものが代表格だとすると自分の期待しているような作品には出会えない気がして探しに行く気になれない。
単純に媒体と支持層のリンクがコンテンツに影響した結果が表に出ているだけで、実際にはおもしろいものがごろごろしていたりしないのか。
ヒモといっても単に生活費を同棲している彼女に賄ってもらっています。
僕は寄生目当てに彼女に近づいたわけじゃありませんし、四ヶ月前まで僕も働いていて折半でした。
休日は他とあまり変わらないと思うので、平日のことを書いてみます。
・朝
一週間に二回は五時半に起きて洗濯機を回してまた寝ます。干すのは彼女。
七時ぐらいになると目覚ましか彼女が起こしてくれて一緒にトーストを食べます。
その間、僕は夕食の時に使った食器を洗ったり、テレビを見ながら歯磨きします。
・昼
月のお小遣いを貰っていて、その中に昼食代も含まれているのですが
本やゲームを買ったり映画を見たりしたいので、滅多に食べません。
彼女には昼は小説家になるための創作活動をしてることになってて
そもそもそれが理由で仕事やめたのですがネットが常時接続だったりで
週にニ、三回は掃除をします。汚れてると、彼女の機嫌が悪くなります。
・夜
夕食代はお小遣いとは別途に貰ってますが、ほとんどお小遣いみたいなもんです(笑)
冷凍食品だったりします。美味しければ良いのだ!
平均八時ぐらいまでに彼女が帰ってきてご飯を食べて、
あんま元記事と関係ないけど一応。
元増のようにためしに話を量産してみようとか、文章の練習しようとか、とくに思い入れもなく仕事と割り切ってやってるとか、
ベテランで自分の言いたいことを言い切ってしまってあとは惰性で書いてるような人とかならともかく。
初めて小説家を目指すときに一つも物語が思い浮かばなくてそんなカードに頼るってのは、それ小説家になる意味あんの?って思う。
普通「うぉぉ!これが書けたらぜってー売れる!」とか、「俺が作ったこのキャラを絶対具現化させてやる!」とか思って
書き始めるもんなんじゃないのか?すっからかんでも小説書きたいとか思うのか?
女にモテたいからとか金持ちになりたいからとかで、音楽に大した思い入れもなくバンドやる人とかいるけど、そういうノリで目指してんのかな?
このスレの面白さって、どうしようもない男が一念発起してやがて一人前の男になっていくっていう成長物語の黄金パターンを踏まえてることと、そのストーリーを崩すことなく小説入門として役立つ情報が詰まってるってとこにあるのかな。
それと成功するためにはもちろん本人のやる気や努力も大事だけど、いい師匠(グル)に出会うことが大切だって実感した。やらない男みたいな師匠がいればいいよなあ。
ただ、いい師匠に出会えたのも、大人なのに友達に頭下げて教えを請うやる男の、良い意味でのプライドの無さのせいでもあるんだよな。大人になると変な自尊心が出てきて素直に人に教えを求めたりできないし、悩みが深いほど他人に打ち明けられなかったりするからな。
俺、昔のジャッキー映画や「ベストキッド」みたいにひょんなことから達人に出会って秘伝を授けられるなんてパターンに憧れてるが、本来はやる男みたいに自分から動き出さないといけないんだろうね。
やぁみんな、元気?
今日僕は、15歳のころからずっと探し求めてたモノについに出会ったんだ。
あんまり嬉しかったから、ここでそれについて軽く報告させてもらうよ。
さて、僕がずっと探し求めてたモノ。それって一体なんだと思う?
勘のいい人なら題名を見た瞬間にピンと来ただろうね。
今日の午後の話だよ。
そうだね、あれは確かランチを食べた後だったから、1時かそのくらいだったと思う。
いつも通りその約30分後に便意を感じ、
けど、そこで僕が対面したウンコは決して「いつも通り」なんて言葉じゃ片付けられないシロモノだったんだ。
完璧だったのさ。
何がって?
ウンコだよ。
ウンコがだよ。
あまりに完璧すぎたから僕、思わず半ケツでつぶやいちゃったよ。
「パーフェクト・・」ってね。
それは実際、ネスカフェのメグ・ライアンもびっくりするくらいのパーフェクトっぷりだった。
その瞬間確かに僕は感じたんだ。
いつも見慣れた薄汚い灰色の密閉空間が、朝日が燦燦とさしこみカーテンが朝の爽やかな風に揺れる
あのリビングへと一瞬で様変わりするのを。
さて、あまりに興奮してたからかな、ここまで一息で書いちゃったんだけど、今読み返してみたら、
上の文章がいくらか読者のみんなに対して不親切だったかなという感が否めない。
というのも、みんなと「完璧なウンコ」という概念についてコンセンサスを築くことが出来ているのかどうか、
確認することを怠っていたからだ。
そこで以下では、みんなに僕がどれだけ興奮したかをもっとよくわかってもらうためにも、
僕がここで「完璧なウンコ」と呼ぶものが一体どのようなウンコを指すのかを簡単に説明しておきたいと思う。
この概念を一番最初に提唱したのは、イタリアの哲学者、フンバルト・エーコだ。
みんなも名前くらいは聞いたことがあるだろう。
彼は記号論の分野で世界的な名声を得ているんだけど、同時に小説家としての顔も持っていて、
多くの人はむしろ彼を哲学者ではなく小説家として認識しているかもしれない。
処女作「ウンコの名前」は世界24カ国で大ベストセラーになって(当然日本でもだ)、
ハリウッドで映画化もされたし、なんと主演のショウン・コネリーはアカデミー賞までとってる。
そしてその彼が初めて「完璧なウンコ」について言及したのが、第2作「フーコーのウンコ」だ。
彼はその中で、こう語っている。
「世の中には二種類のウンコしかない。すなわち、完璧なウンコとそれ以外のウンコだ。ここで私がいう完璧とは必ずしも形而上学的な意味ではなく、ただ単純に、ウンコがいかにウンコらしくあるかという意味での完全性のことを指す。(中略)そして、ウンコがこのように自同律的であるためにはいくつかの条件を満たしている必要がある。臭気、色艶、フォーマット、コンテクスト、訴求力、含有物。これらがウンコが完璧であるための必要条件となることは言うまでもないだろう。だが実はこれらはあくまでも前提にすぎない。真に重要な条件はその先にある。そしてそれが限りなく実現不可能に近いために世の中のほとんどすべてのウンコは完璧となることができないのだ。その条件とは、『肛門にまったくその残骸を残さない』ということだ。そう、完璧なウンコとはそれだけで自己完結しているウンコのことを指すのである。」
ごめんよ、少し引用が長くなってしまったね。
全文引用するのが無理だったから、ちょっとわかりづらい文章になってしまってるかもしれない。
理解できなかった人のために、一応僕が簡単に補足説明しておこう。
エーコがここで言ってる「完璧なウンコ」っていうのは、まず第一に、ニオイも色艶も形もウンコらしくなきゃいけない。
普通の人は完璧なウンコって言ったら無味無臭で誰にも迷惑をかけない、そんなウンコのことを指すのかななんて
想像するだろうけど、エーコの主張はそれとはまったく違うものなんだ。
おもしろいよね。
ウンコが完璧であるためには、一目でそれとわかるような形であり、色艶であり、鼻から一息吸い込んだだけで
それがウンコであると理解できるようなニオイも持ってなきゃいけない。
エーコはこう言ってるんだ。
「コンテクスト」っていうのは、果たしてそれがどのような場面でなされたウンコかっていうような意味だと思う。
エーコ曰く、完璧なウンコはある程度の緊張感が隣り合わせとなっている場面でなされなければならないらしい。
これについては、今回僕が中略した箇所で詳しく述べられてるんだけど、これを説明してたらあと1000文字は
くだらないだろうから、ここでは遠慮させてもらうよ。
「訴求力」っていうのは、ウンコがどれだけその行為者の心を動かすことが出来るかっていう意味だ。
実は彼、「完璧なウンコというものはその行為者がそれを食べてしまいたいと思わせるほどに魅力的でなくてはならない」
とまで言ってるんだけど、ちょっとこれは変態っぽいからさすがに省略したよ。
けど彼が言いたいこと、なんとなくわかるだろ?
もう見るからにウンコで、ニオイもウンコでしかないんだけど、なぜか、「おいしそうだな、ちょっとかじってみようかな」
「含有物」については説明する必要はないだろう。
ニンジンやコーンのことだ。
そして彼が言う、最終にして最大、最重要の条件が、肛門に一切残骸を残さないということ。
これはつまり、ウンコをしたあとにトイレットペーパーでお尻を拭いても、そこに何もつかないってことを意味している。
確かにウンコをしたはずなのに、菊門にはそれが存在していたような形跡がまったくない。
(余談だけど、昔の人はこれを「紙隠し」って呼んだらしい。そう、これが神隠しの語源さ。)
今まで一度でもウンコをしたことがある人なら、これがどんなに難しいことか、容易に想像がつくだろうと思う。
だからこそ、エーコはこんな本を書いてしまうほどに、完璧なウンコというものに魅了されたんだろうね。
さて、ずいぶん長くなってしまったね。
何はともあれ、僕がどれだけ興奮しているかはわかってもらえたんじゃないだろうか。
だって15歳のころからだよ?
15歳のころから、僕はずっと完璧なウンコに出会いたくて仕方なかったんだ。
ちなみに、僕が完璧なウンコの存在を知ったのは、東野幸治がテレビ番組でそれについて喋っていたからだ。
彼には感謝しなくてはいけないね。
僕にこんな素晴らしい体験をさせてくれたんだから。