はてなキーワード: 小説家とは
女性が脳内メーカーとか喜んでるのを見てると分かると思うけど、血液型性格判断とか、基本的に根拠なんてどうでも良いのよ。
結局「あなたはこういう人です」って出た、それを話して、そうだよねー、いやちがうよねー、って言われて相手が自分をどう認識しているか、
それを確認したり、相手への認識をオブラートに包んで伝えるためだから。
科学とか持ち出す人はそれはそれで、そう言う人だという認識をするわけだし。
その話題の元になる、「あなたは○○!」を出すのが、神でも科学でも変数でも何でも良いのよ。
「あの○○がこういった、で、あなたはどう思う?」だから。
だから、血液型性格判断に科学的根拠を持ち出す人はそもそもずれてんのよ。
どうでも良いの、結局世間一般には通用して居るんだから。
血液型性格判断っていうのは言い換えれば、理系版の「確信犯」。
間違ってるけど、それがまかり通ってるからそれで良い。
専門家とか厳しい人は目くじらを立てるけど、一般人は問題なく使ってる。
科学は宇宙の真理で動かせないものだから。ってことで意固地になる人が居る。
そこら辺は中世の頃から変わってないと思う。
地球の周りを太陽が回ろうが、太陽の周りを地球が回ろうが、一般人は変わらない訳ですよ。
確信犯も新聞や小説家が使うようになって、そのうち辞書も変わるでしょう。
血液型性格判断は、科学とは違ってるから世界を変えることはないでしょうけど、
まあそれもひとつの事実だけどさ、そこまでシニカルにならんでもいいんじゃない?
ほんの一部のすごいand/orラッキーな人間だけが大成功して後は人知れず埋もれて行く世界なんていくらでもあるよ。音楽家。俳優。漫画家。小説家。プロスポーツ選手。博士課程だけがことさらに殺伐としているわけじゃない。
もひとつ残酷な事実は、1%の本当に優秀な人を排出するためには99%の夢敗れる人が必要だってこと。その99%が最初から諦めてたら、たぶん本当の1%も出てこない。自分の夢が敗れても、それは1%を送り出すための礎になったってことだ。慰めにならないかもしれないが。
「第二次」が名称としてマイナーというのはその通りなので別に異論はないけど、作家としては超メジャーなので言及しておくよ。
昔の小説家の「第3の新人」も第2が見当たらなくね? なんかはあるんだろうけどさ。第2に相当するもんが。ただマイナーっつうか。
俗に第一次のあと、第二次と言われた人々は、小説の手法などを一気に革新し戦後小説の世界を開いたと言われています。
「世界のミシマ」こと三島由紀夫、「ノーベル賞候補」だった安部公房、「全身小説家」こと井上光晴。
他に「出発は遂に訪れず」で有名な元震洋特攻隊隊長、島尾敏雄。「広場の孤独」の堀田善衛など、知らなきゃモグリっつー人々です。
相当重要な人々であって、日本文学史を語るには欠かせない。名称ももっとメジャーになると良いなあ。まあ周囲が勝手に名付けただけで徒党を組んだワケじゃないし、そもそも名称なくても全然構わない存在感がある人らだからいらないと言えばいらないんだけどね。
ぼくもとっても好きでした。
彼女には、ひとが生きることのかなしみときらめき、狡さと気高さ、繊細さと大胆さといったさまざまな相反するものが共存していたと思います。そしてそれは、非常に人間らしいものです。
普通の人はそういうものを隠して、こそこそと適当に暮らしているものですが、彼女はまるっきりむき出しにしています。だからみんなの目をひくし、嫌われもする。ときには「世間を騒がせる」こともある。
でもそんなの、まったく問題ないよ。世界は空気の読めないやつがドライブするんだ。
はしごたんは、つまんない借金なんてすぐに自己破産して、その他の面倒なものも全部ぶん投げて東京に出てくるといいと思う。あるいはいっそ、上海とかニューヨークとかにいっちゃうとかね。田舎にいるのはほんとにもったいないです。
都会で何をするかだけど、一例ですが、小説家はどうでしょう。たとえば岩井志麻子とか、ロールモデルになるかもね。彼女のデビューは35歳です。はしごたんの文章力なら可能性はけっこうあるはず。
いずれにしても、健康に気をつけてがんばってほしいな。応援してます。
以上、ウェブでだまって見ていただけの一読者より。
「キャラクターは商品ではなく実体を持った一個の存在だ」という前提の前には、本来なら消費者だけでなく作者も疎外されているはずだ。実際、普通はキャラクターの一挙一動に作者の意図を感じながら読んだりしないよね。(人にもよるだろうけど。男性が製造するポルノの使用について「おっさんにちんこを握られているみたいで嫌」って表明してる人もいるみたいだし。)
作品と消費者が円満な限りは作者の存在は意識されることもない。気に入らない展開になって初めて、作者→作品→消費者という作為の構図が表面化する。キャラクター自体と、その前提となる嘘に二重に裏切られるわけだ。
消費者の怒りがキャラクターに向けられる場合、「実体を持った一個の存在」という前提は崩れていない。「ナギ様は自由な一個の存在なので読者を裏切る事すらも出来る」という意味ではむしろ強化されているとも言える。アニメのようなのように多人数が関わり制作過程が目に見えにくい場合に起りやすいように思う(『宇宙のステルヴィア』のしーぽんの件など。)
小説や漫画のように作者の関与が大きいと思われる作品の場合、消費者の怒りが作者に向けられることもあるだろう。しかし、「俺たちの意に沿わない行動をさせやがって」という怒りに隠れている真意は、「キャラクターが実体を持った一個の存在ではないと気付かせやがって」という怒りではないか。
もし仮に、読者が抗議をおこない、作者が読者の意に沿った改訂をおこなったとしても、「キャラクターが実体を持った一個の存在」という嘘がバレた事は覆せない。むしろ、(作者どころか)読者の作為も及ぶ存在であることが明らかになる事で、元の円満な状態からは一層離れてしまう。作者にとっても読者にとっても得られる者が少ない悪手だと思う。「作者ばかりがナギ様を思い通りにしやがって」と溜飲を下げる事はできるかもしれないけど、どのみち共倒れという意味では自爆テロみたいなもんだよね。
以上のように、本当にキャラクターの実体性を信じて居たのだとしたら、読者の行動としては「怒りをキャラクターにぶつける(嘘は温存)」か「構図が見えて冷める(作品から離れていく)」の二つ以外は合理的とは言い難い。ただ実際には商品でもあることも知っていて、そういう意味では自爆テロも意味があるんだろうね。
よく小説家や漫画家が「登場人物が勝手に動き出す」的なことを言っていて、そういうのは制作者の実感として間違いなくあるんだろうけど、今回の騒動を見て思うに、作為の構図やビジネス的側面を意識させない為のゼスチャーとしても意味があるのかもしれない、と思った。
「可能性をぎりぎりにおしすすめて行く
ことこそが、私の存在理由を決定する。」
現状を維持しているだけじゃ成長もないし、つまらない。
「ひとは軽蔑されたと感じたとき最もよく怒る。
だから自信のある者はあまり怒らない。」
確かに私はそういう理由で怒ることが多いかも・・・
何に反発しているのかよくわからないけれど、
失恋して怒ったのも、相手が惜しくてじゃなくて、軽蔑されたと感じたのかもしれないね。
「人間には上・中・下の三種類がある。
上というのは、他人の良い分別を学んで、
自分の分別とすることである。
中というのは、他人から意見をされて、
その意見を自分の判断に変える人物である。
下というのは、他人から良いことを言われても、
ただ笑って聞き流す人間をいう。」
素直に、柔軟に生きていきたい。
「男は、そのすべてを捧げることを女に求める。
女がその通り生涯をかけて尽くすと、
男はその重みに苦しむ。」
あはは。まったくもってその通りw
・・・・orz (今度からは出し惜しもう)
男女は逆でも通じるけどねー!
「女の涙は、必ずしも今、口にしている事を
理由として流れているのではない。」
これもおもしろいな。女性って言っていることと思ってることも違うよね。
「やってみせ、言ってきかせて、させてみて、
ほめてやらねば人は動かじ。」
人をモチベートするのは、とても大変!
そういう仕事をしてみたいけどなぁ・・・
「傷つきやすい人間ほど、複雑な鎖帷子を身に
つけるものだ。そして往々この鎖帷子が、自分の
肌を傷つけてしまう。」
いつまでも傷ついてられないから、もう殻を脱ぎ捨てなければ。
1つは何も奇蹟なんてないと思って生きること。
もう1つは、すべてが奇蹟だと思って生きることだ。」
中途半端だから苦しいのかもしれないですね。
「知っていると思い込んでいる人が利口なのではなく、
自分が知らないということを自覚した人が賢いのである。」
『無知の知』、ですね。
できるできる!
やれるやれる!
(松岡修造ノリもちょっときついなぁ・・・)
水村実苗氏の小説『本格小説』の副産物で、図らずも「ケータイ小説(笑)が許し難い理由」を得たので紹介したい。
(小説を読まない私が水村氏の著作を読んで見ようと思い至ったのは、梅田氏のトピhttp://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20081107/p1に因る)
もちろん小説家が自分の人生を書いた小説、あるいは、書いたように見える小説は、どの言葉にも存在する。そしてそのような小説は、どの言葉で書かれていようと、もっともたやすく「真実の力」をもつであろう。なにしろそこには一人の人間の一人の人生そのものがある。だからこそ、小説家はどの言葉で書こうと、自分の文章を売るよりも自分の人生を売りたいという誘惑と、常に、そして永遠に、戦わなくてはならないのである。しかも私たち人間は例外なく他人の幸福よりも他人の不幸に興味を持つ。小説家が、自分の不幸を売りたいという何よりも大きな誘惑と、常に、そして永遠に、戦わなくてはならない所以である。ゆえに、小説家にとって真の不幸とは、自分の不幸を売るのが文学として通るようなところで書くということにある。「私小説」的なものが日本語で栄えるということは、日本語で書くことが、小説家が自分の不幸を売るのが文学として通るようなところで書く不幸を意味することにほかならないのであろう。
以前より私は、ケータイ小説(笑)に対して朧気ながら嫌悪感をもよおしていた。
・そもそもビッチの生態が気にくわない
・ページをめくる作業もめんどくさい
だが、理由のどれもこれも個人的の嗜好で、ケータイ小説が根本的に駄目な理由としては弱い。
が、水村実苗氏の『本格小説』の上記引用部分に触発され、ケータイ小説(笑)に決定的に欠けている点が良く分かった(と私は感じた)。
まさしく、これだ。ケータイ小説(笑)の著者(笑)は、たやすく誘惑に屈する。
自分の人生を切り売りして描くことは、水村氏が言うように、「真実の力」を得やすい。故に、並の小説家が「真実の力」を小説に込めたいがために己の人生を己の視点のまま書いてみようという安易な姿勢に堕するのは想像に難くない。
こうした誘惑に踏みとどまり<何故この小説でなくてはならないのか?>と自問し続けることができるかどうかが、小説家の値打ちを決める。
『蹴りたい背中』綿矢りさ等々(例が古くてゴメン)、若年の著者による小説が隔年間隔で大々的にプロモーション展開がなされている。
が、彼らは少なくとも<己の部分>をそのまま表出していては、選者の評価を得られなかったであろう。
まさしく、そう。
感情の垂れ流しを嬉々として受け入れる読者層も不幸ならば、己の姿勢を問い続けることのできないケータイ小説(笑)の著者も不幸。
元増田だけど。
結局、ことばにはことばに付随したものがあってそれとともに脳ミソは働いてるんだと思う。大事なのは、ことばじゃなくて、ことばに付随した何ものかの方なんだよ。日本語には日本語の、英語には英語の、ドイツ語にはドイツ語の、中国語には中国語の、なにものか。ことばで脳ミソに溝をほってて、その溝の形がそれぞれ違う。究極をいえば、べつにどれでなくてはいけないとか、どれを守らなければとか、そんなことをいう義理も必要もない。滅びの美学とかでは一切ない。そんな感傷に浸っていても意味がない。仮に、後世の学者がコツコツ読んでるだけのものになったとして、それで何が悪かろう。
で、本当はそういうことばにまつわるなにものかを維持し創造する人たちが文学者小説家のはずなんだ。でも、今はだれもそんなことしないし、大体読み手のほうがどうにもならんでしょう。それでもなお。絶望してもなお、文学者は書かなきゃならないんだよ、本当は。
理系の人とかプログラマーとかは、言葉を純粋に記号としてしか見てないように感じてるんだが、どうなんだろ。ことばってそういうものじゃないと思ってる。で、純粋に記号として見てるから、それだけ日本語という記号それ自体に対する愛着もあるのかな。取締役に怒られそうだ。ごめんね。
梅田もっちーとダンコーガイの自己啓発(笑)の両巨頭が紹介した本には無批判に絶賛がつくといういつもの流れ。はてな村民がいかに自分の頭で考えない人間かよくわかるね。ちょっと前には、英語嫌いの益川先生が歴史に名を残す研究をしたという話が流れたばっかりなのに、すぐ忘れてしまってるんだから。
ま、そんなことはともかくとして、言語学を新書レベルに読みかじった経験があれば、この両氏の書評と著者のインタビューを読んだだけで、モチヲや弾のお勧めを期待してこの本を読めば期待はずれに終わることがよくわかる。誤解なきよう、私は「日本語が亡びるとき」が面白くない本だとは思わない。何しろ相手は小説家、本当のことであろうが嘘のことであろうが面白く書いて読み手に深い印象を与えるプロなのだから、それは期待してもよい。ただし、著者に言語学のバックグラウンドがない時点で、論としての面白さを期待するのは諦めるべきだ。SFとして面白いものが科学理論としてよくできているわけではないのと同様、純文学作家の言語論に学術的レベルを期待するのは酷というものだ。もともとそういうものなのだから、モチヲや弾のようにあの本を絶賛する人というのは、アジテーターとしての自分を売り込みたいだけか、アフィリエイトで稼ぎたいだけか、あるいはまともな議論とトンデモの区別が付かない程度の知的素養しかないか、そのどれかだろうと思ってしまうのは私だけか(そういえば一部のはてな界隈で人気な「温暖化懐疑論」の論者に気象学者が一人もいないのはどういうことなんだろうね?)。
そもそも、著者が言うような意味で日本語が亡びるというのが先走りにすぎるのは英語の歴史自体が証明している。英語がどうして、同じゲルマン語のドイツ語よりも、ロマンス語のフランス語に見た目が似ているかと気になったことはないだろうか。あれはノルマン・コンクエストの帰結である。英語は文化的外圧に曝されるどころか外敵に征服され、日本語と同じかそれ以上に外来語に「汚染」された言語なのだ。しかしその伝統からシェイクスピアをはじめとする華麗な英文学の伝統が花開いた。
日本語も、実際に「地域語」であり、現代と比べものにならない外圧に曝された時代があった。飛鳥・奈良時代や、明治維新期などはそれぞれ強大な帝国の圧倒的な文化力・軍事力の前に日本は存亡の危機に瀕していた。しかしそれらの時代に外の文化を大きく導入したことで、逆に日本語の文化は大きく栄えた。
単なる「国力」だけで、言語が「地域語」に堕し、その結果衰退するなどというのが俗論にすぎないことがよくわかるだろう。
そもそも、「日本語が亡びる」という問題意識自体、日本列島の言語を「日本語」という名で無自覚にひとくくりにしてしまうことの問題が現れている。アイヌ語や琉球語を考えてみるがよい。これらを「方言」と呼ぶのは無理があるだろう。しかしながら「日本語」の隆盛のもと、これらの言語文化は危機に瀕している。
いや、言い直す。そもそも何を「方言」とよび何を「国語」「標準語」と呼ぶかは政治的な産物でしかない。ポルトガル語やオランダ語は、かつてはスペイン語やドイツ語の一方言でしかなかった。デンマークでは読み書きができる知識人はドイツ語やフランス語を使っていて、アンデルセンやキルケゴールが現れる前の「デンマーク語」は「汚い方言」でしかなかった。
その意味で、日本の文化を見直してみるとよい。「遠野物語」のような地域の民話を語れるのは一部の語り部に過ぎないのではないか?いや、かつて日本の「中央」を荷った「上方文化」でさえ、衰退が甚だしい。関西弁はラジオ・テレビの成立以降、急速に流入した「標準語」の影響によって激しく変質し、江戸時代後期から明治時代にかけて成立した上方落語でさえ、若者や子供のかなり多くはまともに聴き取りができない。上方落語が日本の言語文化の貴重な財産であることは誰も否定しまいが、これを日本人は自ら衰退に追い込んでいるのである。人間国宝の米朝師匠が事実上現役を退いた今、その前途ははなはだ暗い。
あるいは地域的な変化でなく時間的な変化を見てみるとよい。能は勿論、狂言や歌舞伎でさえまともに聴き取れない日本人がどれほどいるか。源氏物語はおろか、明治期の擬古文でさえ現代語訳なしで読めない日本人がどれほどいるか。いやそればかりか、旧字体・旧仮名遣いの文章ですらろくに読めない人間とて決して珍しくあるまい。
このようなことになったのも、一つには近代化の推進のため我々が明治期と戦後に「国語」の成立と普及を強引に推進したせいだというと言い過ぎだろうか。世界に誇る日本文学などと言うが、我々が現代「日本語」を通じて享受できる文化遺産など、たかだか百年分ぐらいしかないのである。
というか、元々これはそういうものなのである。「国語」という概念は「近代国家」が政治的に成立させるものだ。「江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた」という本があるが、これによると実際、江戸時代では各地の方言を通訳する商売が成立していたという。あるいはフランスでは近代化以前、知識人はもっぱらラテン語で読み書きをしており、フランス語は単なる「俗ラテン語」のなれの果てでしかなかった。日本ではもっとひどく、仮名文字さえ実は統一されていなかった。変体仮名というのを聞いたことがあるだろうか。うなぎ屋の看板などで今もその名残を見ることができる。これらがきちんとした正書法と文法を揃えたのは疑いもなく時の権力の政治的な措置なのだ。
それを思えば、「今の」日本語がどういう形であれ変容するのは当然であり、むしろ「近代国家」という枠組みが溶解しかかっている(EUを見ればそれは明らかだろう)現在、無理に「国語」を防衛しようとする思想はまさに時代遅れのナショナリズム、保守反動でしかないとさえ言えるのだ。
からかい半分で書き始めた文章につい力がこもってしまったが、いずれにせよ、「守るべき国語」というのはかくのごとく、大いなる虚構だ。関西人である私がこのように完璧な「標準語」で読み書きができるように、北欧あたりではテレビを通じて完璧な英語を多くの人が身につけている。だがそれがいったいなんであろうか。言語の遣い手としては、一つの言語しか使えないよりも複数の言語が使えた方が楽しいに決まっている。考えてみれば、何の問題もないのではないか。
仮にそうした時代になろうとも、日本語でしか書けないような優れた文学作品があるのならば、日本語が読める人は必ずや読むであろう。日本語でなくても書けるものは、日本語で読む必要はない。そうなって困るのはいったい誰なのだろうか。「普遍語」を寡占してグローバリズムの伝道を行うことで糧を得ていた人、昔日の栄光に浸る老人、それぐらいしか私には思いつかないのだが。
b:id:Nean えっと、だいたいの論旨に異議はないんだけれど、水村は「国語」が「虚構」ということを知った上で書いてるってのがいつの間にか飛んでるんでない? 「国力」の論点も変ですぜぃ。
水村は「国語」の虚構性を半分ぐらいしか理解していなかったと私は思います。たとえばここで挙げたような方言の視点はほとんどなかったのではないでしょうか。水村は東京生まれということなのでおそらく気づかなかったのでしょう。私のような方言話者にしてみれば「母語が『現地語』でしかない状況」なんて「なにをいまさら」でしかない、というのがこの記事を書いた大きな動機の一つでもあります。
「国力」についてはその辺の地方人バイアスが入っているかもしれませんが、正直あまり自覚はできていません。
http://anond.hatelabo.jp/20081109215457
書評がなってない、という問題のコメントがほとんどならわかるが、かなりの割合で書評の内容で元の本を想像してコメントする、という例がある。現時点でそれに該当すると思われるのを俺視点で全部あげると、
id:repon あのですね、日本人から見た「英語」だから普遍語に見えるだけで、日本語という「国語」は国家統合の鍵ですよ。英語は道具としてはこれから普及するけれど、国家統合の要は国語たる「美しい日本語」です。全然違う。
id:jujubea j「英語のできる俺大勝利!皆は俺の英語力を全肯定するこの本を読むべき」
id:shields-pikes 読まずにコメント。ブログと掲示板と漫画とアニメで、世界の全コンテンツにおける日本語の比率は20年前より増えてるんじゃないかなあと予想。あとは、現代中国語をまた漢語として日本語に引き入れようぜ!
id:sbiaco ラテン語を中南米の言葉だと思っている人がいっぱいいる国に英語を普及させるなんて夢の夢。植民地にされたら別かもしれないが
id:hobbling 今どき源氏物語を「読む」人間がいないように、漱石の三四郎だって「読む」人間がいなくなるのは当然だと思う。言葉だって文学だっていつかは死にます。ラテン語が死んだように英語だって死ぬでしょう。
id:kkobayashi バカだのアホだの言われると逆に読みたくなってくるな。/英語の必要性なんて、本読んで勉強するもんじゃないと思うけど。実際必要としてない人には不要だし、実感として伝わるわけがない
id:TiTo インテリ層は今後日本語よりも英語に重きをおくのでは?私自身の体験からしても、ある分野で日本語で十分満足のいくコンテンツがない現状に気付いた時点で英語のコンテンツにアクセスするようになりましたから。
id:noiehoie なぜこの人はいつも真面目に語ろうとすればするほど底の浅さを露呈させてしまうのだろう?そもそも19世紀以降知的世界において英語が普遍語でなかった瞬間があるのかと問いつめたい。小一時間(ry
id:JuliusCaesar アメリカが没落しても英語の優位が続くかどうか。日本国が続く限りは、日本語が亡びることはないだろう。
id:nekoluna うーん・・英語で書けるならそのほうがいいと思うけど。 マーケットが大きいので、日本語では微妙な才能でも小説家としてやっていけるよ。 暴力的かもしれないけど。
id:dekaino 古代・中世と中華帝国が東アジアの中心だった時代、日本の公文書は漢文だったが、和文の文章も当然書かれていたし和歌も詠まれていたわけで。
id:mihalita 日本語を理想化しすぎ。かなりハイブリッドな言語なので、これからも政治的に強い言語と混じりながら変化していくんですよ。「田中克彦」を読んだほうがいいと思う。
id:panna-cotta 関係しそうなのは上流層だけかな。世界共通言語を操る以前に、世界規模の競争で勝ち残れない大多数の人たちは結局母国と母国語に依存せざるを得ない。 * 2008年11月08id:Meat_eating_orchid こんなのもう50年以上前から言われてることだけど、それで「自然に英語で書」いてる人って何人いましたっけ?
id:islecape 英語が「普遍語」に。すでに学術論文なんか全部英語。人口が減っているので日本語を使う人も当然減っていく。文化的に保存されず消滅する言語がかなりあるが、日本語はデータとしては残る。それで問題あるだろうか?
id:yuki-esupure こういうの100年くらい前からいわれてるよねwww
id:ticky 英語ったって、英語を学ぶことと、英語の教養を見につけることは別。
id:nosem よくあるタイプの本の予感,そもそも普遍語たるラテン語も衰退しちゃったじゃんかよ
id:pontanta 50年前に出版されても同じことを行っていると思う。戦後のベストセラーが「日米会話手帳」ですからね。/「貯蓄から投資へ」みたいにいつになれば本格的にそういう時代になるの?という感はある
id:yamatedolphin 都会で働く人には標準語は必須だが、イナカで隔絶した暮らしをしてやってけるという人は方言で充分。それと同じで知的分野で相手にされなくてもよい人には関係ない/ コメントみると日本は「亡び」からも遅れるのかも
id:citron_908 人類2.0 タイトルと書評だけ読んで想像すると、これってなんてワンワールド化?っていう / フラット化する世界のなれの果て
id:Mihukaeru 標準語は浸透しましたが、方言は滅びましたか?(変化はしてるけど)
id:yo-net 日本語で物を考えなくなったら、日本人が終了するだけですよ。
id:georgew 英語に関しては異論ないけど、中国語の台頭というのも考えねばならんと思う。いずれにせよ日本語用済みってのは大筋そうだろう。
id:insistent シルクロードの終着点で中東から欧州から中国朝鮮から洪水のように情報が入ってくるので異文化摂取能力を限界まで高めた言語として発生した日本語。また独自の変質を遂げた日本語になるだけだと思う。
id:plummet 実感はサパーリ湧かない。|ちうか、本を紹介するだけのエントリにけっこうスターがついてるのに驚く
id:naotoj 一部の限られたエリートしか情報を残せなかった昔とは違い、今は個々人全てがデータの発信元。それが全て英語に置き換わるなどとは到底思えないのだけれど。
id:ore_de_work 滅びるんじゃなくて、それ生き物だから.....
id:kimtetsu 日本 単一の言語を民族のアイデンティティに結びつけるのは、国民国家の特徴だからそんなに歴史が古くない筈、日本語だとせいぜい150年ぐらい?
id:hummer_and_anvil 江戸時代以前は漢文が公用文の時代だったし。ヨーロッパではラテン語の時代が長く続いた。日常語と公用語が別の言語という国は現在でもたくさん存在する。これはごく普通のことじゃなかろうか。
id:ustar そもそも日本語は何千年も知識と論理を漢語に任せてたじゃないですか
id:ghostbass言葉 OK,まずは「ら抜き言葉」なる珍妙な用語を滅ぼそう。/フレーズで意味を成す用語を単語に分割して訳すバカどもを追放しよう
id:TOM2005 そのときには自動翻訳が実用的なレベルになっていて、むしろ「母国語でない英語を覚える」などというナンセンスなことは誰もしなくなったりして。
id:temtex 今まで数え切れないほど日本語の危機なんてあっただろうに。
何か似てるなーって思った。周りの人と一緒にいても楽しめないし、一人でいるほうがいい。ただ、決して現状に満足できているわけではないから、何をすれば満足できるのか求めている。観念論で考えれば、友達(小集団)と一緒に何かに取り組むのは面白いと思っている。興味や関心の対象が一致しているならもっと充実した毎日を送ると思う。だけど、心から楽しめる趣味を持っているわけではないので、物足りない毎日を送っている。
もっといえば、周りの人間自体がつまらないのではなくて会話がつまらない。日々、目の前の出来事を消化するように会話をしていても楽しめない。注意深く観察すれば、人間的な魅力の一つや二つぐらいはすぐ見つかる。でも、根底としている考え方が一致しないから自分には合わないと思ってしまう。
一時期「孤独」についての本を読み漁ったことがある。孤独の良い面と悪い面。小説家、芸術家、哲学者なんかは人間関係から離れることで創造的(統一性への興味)になれるとか。
ex)ヴィトゲンシュタイン、ショーペンハウエル、ドストエフスキー
>>誰か1人、孤独感を共有する人がいれば生きていけると感じるのだが、その1人を愛せるのか、不安に駆られる。
誰か1人、孤独感を共有する人がいれば、何が期待できる? お互いに存在は認めつつ、沈黙のまま場を共有するってこと? もし、無根拠にそう思っているならずっと不安なままだと思う。
何がいいのかよく分らない小説で大賞を取って大人気の小説家、成功してニュースに出ずっぱりのスポーツ選手、大人気の俳優、仕事で成功して何千万も貰ってる会社員、仕事や学業もちゃんとやってそれ以外も充実してて人生楽しんでそうな大学生、楽しそうに笑いながら道を歩いてる高校生、自分と同い年なのにブログで立派な記事を書いてたくさんブックマークされてる知り合い、その他いろいろ、そういう人たちを見ていると、ああ、なんて自分はくだらなくて、生きている意味もない人間なのだろう、と思ってゆーうつになる。
ここしばらくほとんど家から出ず、一日中パソコンに向かってどうでもいいサイトを巡回し、ブログを書いてもほとんど誰も見ず、働きもせず、勉強もせず、友達もおらず、家族以外とは喋ることもなく、布団にこもって起きているのか寝ているのか分らないようなまま毎日を過ごしている。
ああ、なんて自分は無価値なんだろう。どうしてこんなことをしているのだろう。
小さな時に夢見た「将来の自分」とは、はたしてこんなものだったろうか。
知り合いも増え、立派に学問を修め、立派に働き、世のため人のために役立つ仕事をしながらたくさんお金も稼いでいる、そんな自分になるはずではなかったのか。
どうして今自分はこうして布団に包まりながら、パソコンに向かっているのだろう。傍から見れば、自分はいったいどのように見られるだろうか。
なんと無価値なことか。
こうして自分が存在していることそのものが、社会の迷惑であり、他の人に不快な思いをさせているような気がしてくる。みんなやさしいことを言いながら、後ろでは眉をひそめている、そんな気がする。
死にたい、でも死ぬほどの勇気もない。できることならば、誰にも迷惑をかけず、ひっそりと消えてしまいたい。最初からいなかったことにしてほしい。
社会が悪いなどとは言わない、他の人が悪いとは言わない。悪いのは全部自分なのだ。この社会に適合できず、無駄にここにいる自分が悪いのだ。
ああ、自分はいったいどうすればいいのだろう。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
ときどき、どうしようもなく落ち込む
俺は駆け出しの歴史屋なんだけれど、
こういう中途半端なエピソードが、面倒なんだ。
だけど小説家とかジャーナリストあたりは、大喜びで使っちゃうよ。
そのうち、筆がすべって「筆者が個人的に聞いた話では、、」とか、
いつの間にか本当になってしまう。
本人に確かめればいいだろう、と思うかも知れないが、
こんなこと聞く機会なんぞ、十把一絡げのモノカキや研究者にあるものか。
ああいうお金持ちの政治家が、秘書も連れずに青函連絡船で一人旅、
居酒屋で酒飲んで「俺には大望がある! いつかこの国を良くしてやるぞ!」
正直いって、俺の職業的勘からすると、バッカじゃなかろうかと。
創作だったら二十点だ。作り話は国を誤るので、絶対にやめるように。
だけど、もし万が一本当だというなら、
ちゃんとした新聞雑誌にでも投稿すればよろしい。それで世間の評判になって、
麻生本人が、いやいやそういうこともありましたよ、となるのが、
日文専攻だけど、三島は「つまんね」と思える感性が正解。詩にもなってないしクソの役にも立たん。興奮もしない。
三島好きって奴を俺は信用しないね絶対。うさんくさいよ三島ファンは。
谷崎ファンはただのミーハーだろ。
ハルキストも駄目。「好きな作家は?」と訊いて「ハルキ!ハルキ!」と興奮し出して、余計な語りを始めるからキモい。
ハルキと言えば誰もが受け入れてくれると思ってるらへんが終わってる。ハルキストは寂しがりが多い。
あとSF好きとか海外ミステリ好きとかもキモいし信用ならん。あいつら視野狭いから文学の話しててもつまんね。
しかもSF好きは「SF小説はエリート人間の嗜み」と本気で思ってる奴が多すぎて怖い。妄信を指摘するとキレるし。