はてなキーワード: 小説家とは
「小鳥はね、歌を歌わないの」
「小鳥は歌なのよ。歌は歌を歌ったりしないの」
「じゃあ歌を歌えなくなった小鳥はどうなるのさ」
「それは死んでいるのと同じ。ご飯を食べたり、息をしていたりっていうのとは違って、なんていうか、意味がないの。生きてる意味が、ないの」
そういって妻は家をでていったきり、帰ってこなかった。
僕は小説家だったが、それももう過去形だ。丸十年何も書いていないし、書く気もおきない。だらだらと過去の遺産を食い潰して生きていくつもりだったし、それくらいのたくわえはあった。
ただ妻がいないだけでそれ以外は何も変わらない生活。
妻は、僕を愛してはいなかった。僕の小説を、僕の物語を愛していた。物語だった僕を愛していた。物語を作れない僕は彼女にとって、まさに生きている意味がない存在だったのだ。
吸い込まれるようにそのドールショップの中に入り、僕は出会う。
青い髪のドール。その青い瞳が、僕を見つめると、僕は自分がドールになってしまったような錯覚を覚える。
「このドール、いくら?」
「そのドールはね、壊れてしまって、廃棄に出そうかと思っていたんですけど。それでもよければ、お安くしますよ」
僕はそのドールを買って帰る。
彼女の種類は、ボーカロイドで、彼女は歌うことしか知らない小鳥だった。彼女は歌だった。しゃべることができず、家事ができず、セックスができなかった。
そして、壊れているのは、その声帯だった。
僕たちは似たもの同士だった。
彼女は申し訳なさそうに紅茶を飲み、ケージの中のインコに目をやる。
僕は、歌えない小鳥に、意味を失った少女に、意味を与えてやる。
もう壊れたボーカロイドじゃない。
なにも壊れていない、僕の娘だ。
久しぶりに何か書けそうな気がする。
なんだか問題の重要度がまちまちな気がするんだが、それらの中では近いのは
だな。
してもいいけど、まともな人ならしないように気をつけるし、しても修正するだろうね。
子供4人
正確には5人。次男の森不律(Fritz)は生後半年で亡くなっている。彼を除いた簡易家系図を書くと
読みの後ろに「*」が付いてるのが鴎外自身の命名。そうですねー。鴎外はいま流行の「姫空梓(ぴくしー)」とかDQN命名の元祖なんですねー。Jaquesとか、もはや字自体がヤバいしw 自身の本名「林太郎」がドイツ人に正しく発音されなかったことがコンプレックスだったとか。
しかしまぁ。みなさんDQNネームに負けず、旧帝大、早慶出ばっか。孫の代まで見てみても、まず8割方著作がある。偉大な家系ですわ。
「歴史…青年期あらゆる希望を胸に、いきりたって人にケンカ(論争)をふっかけた鴎外。
以後官僚として栄達をのぞみ、ドロドロした権力闘争にも身を置いた鴎外。
歴史…それは男の当然の生き様であるが、晩年のわずか五年間、鴎外、
栄達がのぞめなくなると急に肩の荷が降りたのだろうか?
彼は負けたのだろうか? 男の生涯、ただの男になって死に様を見つけた。」
エレファントカシマシ / 歴史
でもやっぱね。チヤホヤされたいんだわ結局自分って。
凄いなお前的なそれでもいいし
あいつ変わってるな的なそれでもいいし
若いのにそんなことするのかへぇー的なそれでもいいし
普通じゃなくて、その普通じゃないところを、皆から、チヤホヤされたいわけ。ああ、なんて凡人な発想だろう。この時点で普通すぎる人間だっつうのって話で。
でも、普通の凡人だから、普通に生きてたら、当然、チヤホヤされない。
まあ頭だけちょっといい方だったからそこ頑張ってみたけど、当たり前だけどいい高校いけばそこは頭いいやつばっかだしいい大学いきゃそこは頭いいやつばっか。結局そこじゃ普通なんだよね。まあ、バイト先とかで学校名いって「へえーすごい。頭いいんだ」とかちょっと言われるだけで、もうほんと凡人だから結構それで満足してたわけだけど。でももうそれももうすぐ言えなくなっちゃう。
じゃあどうするか。
もうほんとチヤホヤされないと嫌だ。意気消沈。生きる意味見出せない。困った人だよ本当。
だって趣味とかもチヤホヤされたくて始めたんだもん。もう典型的で悪いけど、ギターとかさ。でもギターはあまりに皆やってるから敢えてのドラムとかちょびっとかじってみたりしてさ。あんま知られてない古い小説家にハマったふりしてプチ文学人間気取ってたりさ。中二病を高校生まで、つーか今も、引き摺ってる。引き摺ってると自覚があってもやめられない。だってそれがなくなったら、ほんと、やる気っつーのか、生きる意味っていうのか、そういうのが失われてしまう。人に凄いとか褒められたりさそういうのが好きで、やってるんだよ、全部。それ自体が、その趣味自体が好きなわけじゃなくて。いやま勿論嫌いじゃないし好きっちゃ好きだけど、のめりこんでるってまででもなくて。本当は。のめりこんでるポーズしてるけど。いかにもマニアですよと言わんばかりにしてるけど。でもそれは変わってるーとかスゴーイとか言われたいからなの。別に自分が好きでたまらんからじゃないの。
こんな自分が時に嫌になるけどこれが自分なんだから仕方ないとも思ってる
もうさ、だから、凄くかっこいいんだよ。自分が好きなのを好きだからって理由で淡々と極めてそれが職にまでなる人って。それでいて人の評価はどうでもいいとか言っちゃう奴。自分から見たら凄くかっこいい。憧れるわけ。でもそんなのに憧れてる時点でダメなんだよね。この矛盾。この皮肉。
ほんっと俗い。嫌になるほど。ああ恥ずかしい。恥ずかしい本音おわり。
>小説家か誰かが「奥さんとはセックスしない、だって家族だから」って言ったのを思い出した。
いや、その気持ちわかる。
少なくとも俺は10年たっても奥さんと恋愛対象でいられるほどの元気は無い。
好きではある。大事だとも思う。
だが恋愛してた頃のような頭の沸騰するような感覚はとっくに無い。
自分が元々淡白なのかもしれないけど、半年以上キスもしてないような状況(当然セックスは1年以上なし。)だと、いまさら気恥ずかしくなるんだよね。
こういうのって割と普通じゃない?
それともみんな、50歳でも、60歳でも、死ぬまでラブラブしてるのか?
世の中ジジババ同士でいちゃついて盛ってる奴だらけなのか?
んなわきゃねーよなw
大毅はオレら兄弟の中でも一番ボクシングが下手やった。
オレと和毅が才能があるとは言わんけど、大毅には才能がなかった。
その大毅がおやじとの努力でここまで来た。
ちっちゃいときからいっつも一緒に練習してきたけど、大毅が一番練習した。
オレらについてこられへんかったからな。
兄貴やからええとしても、弟の和毅が出来ることを、自分にはできへんっていうのが屈辱やったと思う。
大毅はそんなことは絶対に口にせえへんかったけど、つらかったと思う。そやからボクシングが好きちゃうかったと思う。
大毅が絵を描くようになったんも、オレらにできへんことをやりかったんやと思う。
最初は絵も下手やった。でもオレがうまいって言うまで何回も描き直すねん。
練習の合間にずっと画用紙に向かってた。それでいつの間にかめっちゃうまくなってた。
おやじはいつも大毅につらくあたってた。オレと和毅の練習が終わってもずっと大毅に付きっきりやった。
おやじが教えたことができへんかったら大毅はどつかれてた。
たぶんおやじも必死やったと思う。3兄弟の中で1人でも脱落者を出したくなかったんやと思う。
大毅がオレと和毅と同じレベルに来るまで毎日毎日一生懸命教えてた。
今日負けて引退することになったら、彼は自分の価値をどこに見つけられるだろうか。
今思えばカラオケもピアノも、>オレらにできへんことをやりかったんやと思う。
に尽きるんじゃないだろうか。だがさすがにプロにはなれないだろう。一番得意なボクシングでさえダメだったように、他のプロ世界も甘くない。
でも中2病全開で育った彼は、みんなが中坊のとき軽々しくアーティストや小説家やマンガ家を目指したのと同じような全能感を、未だに持ってる気がする。
テレビにすら映らなくなる自分に耐えられるだろうか。世の中が自分主役でない状態に。
俺もITのでかい仕事やってた頃は、良くも悪くも何かするたびにネットニュースに掲載され、するとすぐにライバル会社が対抗サービスを発表したり、
またその新聞を元に緊急対策会議が開かれたり、隣の部屋のチームが情報漏えい起こして会社の株価下げまくったり、
知ってる顧客の一人が雑誌のインタビューでかっこつけて嘘ばっか言ってるのを職場のみんなで笑ったり、
それを接待で本人を前にネタにしたり。今日からテレビCM始まるからHPのアクセス数気をつけろって言われたり。
たとえ幻想でも自分が日本社会と絡んでる感があってとてもやりがいを感じたものだったが、会社を辞めた途端にまるで関係なくなって、
俺ってなんだろうって悩んだことがあった。
もっと身近なイメージだと、東京から田舎に帰ると、テレビでやってる事が全て自分と関係ないものになったりしない?
銀座の店がオープンとか、うまいラーメン屋特集とか 東京に住んでれば「おっあそこか!今度行ってみるか」ってなるけど、実家だとまるで
別の国の話のようになってしまう。自分が世界から置いていかれる。
そのときの、なんともいえないむなしさみたいなものに、彼は打ち勝てるだろうか?
このたびはわたしの個展にお越しいただきましてありがとうございます。お忙しい中すみませんね本当。みんな忙しいよね? 授業とか就職活動とか美術展とかそういうの。この上さらにバイトやってる人はすごいと思うよ実際。うんうん。
で、個展やるからには作品解説!あと、私友達が本当にぜんぜんいないので、自己紹介を兼ねてなんか文章でも書こうかなと思います。暇だったら読んでみてください。
そういうわけで私の作品って何なんだろうって考えてみたんですけど、何なんでしょうね本当。テーマとか意味とか必然性とかないですよそういうの。楽しければいいじゃん。私が。というまあご覧のとおりのゴミ野郎です。排泄物です。カスです。オヴィリヨンダストです。そんなゴミ野郎がなぜ個展なんて開きやがったのかとお思いになるかと思いますが、要するに露出趣味です。私を見て!というやつです。こういういわゆる非コミュ・非モテ属性の人間というのは、人一倍自分を見てほしいと思うものなのです。でも傷つくのがいやだから直接見てください、どう思いますかって聞けないんです。
えーと私の作品ってだからアートじゃないと思うしむしろ「作品」ですらないんじゃないのかっていうのはありましたね去年くらいから。誰にも何も問うてないし社会?時代?なんですかそれはという感じなんですよね。どうにか意味づけをしようとしても無理でした。まさにゴミ野郎。でもそんなゴミカスでも一応人間だからいろいろと思ったり考えたりするんです。最近やっと東さんの本読みました。僕エロゲ大好き!YU-NOってマジ最高じゃね?って言ってるあの本ね。んなことブログにでも書いてろよ!!!!!!!たちまちはてなブックマークでホッテントリになれますよ。てめーなんか狭い村社会でせいぜいはしゃいでろよ。というような感想を抱きました。肝心の内容は理解できたようなできてないような感じです。ここ一年くらいで特に印象に残った本は「戦闘美少女の精神分析」(全部読んでないけど)「電波男」「1000の小説とバックベアード」の三つでしょうか。とまあこういう風に印象に残った本とかにかなり影響は受けてるつもりですが、どこがどう印象を受けているのかと聞かれるとさっぱりわかりませんのでやはり私の作品は「作品」たりえないのだろうしそもそもアート(笑)に思い入れなんぞないのです。私はアニメとか漫画とかが好きなんです。好きな小説家は舞城王太郎と江戸川乱歩と佐藤友哉です。じゃあなんで芸術学科に入ったの?って聞かれたけど、絵を描くのは好きなんです。いやーほんとまじめにアート勉強したいって方からすると邪魔でしょうがない人種だとは思います。なんで京都精華大学を受験しなかったんでしょうかね。富野とか竹宮先生とかいるのに。いや、高校生のときは今ほどオタk……漫画やアニメに熱心ではなかったので、ちょっとまじめに絵をやりたいかなーと思っていたんです。でも所詮「かなー」程度で大学受験してんじゃねえよって感じですよね。ハイハイすみませんね私みたいなやつが存在してて!!!!!!!!!!中学生のときギャル入った子が前の席にいてその子に「どうしたの?暗いよ?」と聞かれて「いやもともと暗いから」と答えたらあやうくシメられかけたことがあります。ほんとこれだからリア充はいやだよ。例えば教室で私が一人で座ってて後ろにギャル数人がいるとしますね。で、後ろでギャルとかが笑うたびに「私、笑われてるんだ……」と思うわけです。そうです、被害妄想です。わかってます。でもそう思ってしまうんです。私という人間の根本的な問題ってそういうところにあるんじゃないかなと思っています。こういう思考回路が理解できない、という方のために説明すると、こういう人は社会に一定数います。さっきの中学時代の話も「どうしたの?暗いよ?」のあとに(笑)がついているような気がしてならなかったんですよね。というかそうじゃなくても超普通にしてんのにそんなこと言われたら誰だっていやな気分になるだろ……でも一応心配してくれたわけだから、やっぱり「ありがとう、でも大丈夫」とか言っとけば良かったんだよね。普通にしてて暗いって言われるとかどんだけ根暗なんだよって話ですよね。友達にも真顔が怖いといわれたり話しかけづらいと言われたり、普通にしてるのに……と思います。でも友達にすらそう言ってもらえないよりはまだマシだし、一応友達と呼べる人たちはいるので(でもすんげー少ない)幸せなほうなのだと思います。
あと私が自分のことを最低だなと思うのは、誰かのために怒ったり泣いたり喜んだりできないという点です。舞城王太郎の「好き好き大好き超愛してる。」で登場人物が「メタ化された友人関係」について言及するシーンがありますが、私のそういう他人に共感するというプロセスがまさにそういった感じで「ここはこうするべきなんだろうな」というのはわかるんですが感情としてついてこないんですよね。これは本当に最悪だと思います。友達とか家族とか私のために何かしてくれたりするのに、私は本質的な意味で何も返せないんです。こういったことを書くと今後の友人関係が気まずくなりそうな気もしますけど。
とまあそんな感じで私個人の抱える問題というのをとりあえず書いてみました。こういうのも絵に少なからず反映されていると思います。というか、私がそういう人間だからこそ、文章や絵の中ではとても饒舌になれているのだろう、と思います。だからつまり、私が要するに根暗な人間でなかったら、絵を描くのも文章を書くのも苦手だったのではないかなと思うわけです。私の描く絵は、自分の気持ちのなかでかなり過激な部分が反映されてるような気がしています。言葉に出来ない分、がーっといけるのかもしれません。
というわけでここまで読んでくれた皆さんありがとうございました。これからも最下層なりに真剣に生きていけたらいいなと思います。
著作権はあくまで権利の話しであって、世間で問題視されるのはあくまでその権利の行使のやりかた。
今のような方向性で権利が行使がされつづけると面白いコンテンツを生み出すそもそもの土壌がなくなる。
既存の作品というのは製作者の成長の過程において基礎となり重大な影響を与えている。
もし小説家の卵が明治時代に活躍した文豪の作品しか模倣できなかったら。
模倣という練習の先に独自のスタイルを織り交ぜるのであって、
それなしに著作者権利を行使したのでは、すべてのクリエイターが車輪の再発明を強いることになる。
想像してみてほしい。
作者没後70年というのは、1937年、昭和12年に死亡した人ということだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/1937%E5%B9%B4
1870-1890に生まれた人達。彼らが作品を生み出したのが20、30台だとしよう。
もし、厳格に著作権が管理されたら、
ポケモンの歌をくちずさみながらピカチューの絵を描く子供達は、
著作物使用料を支払わなければならない。
文化祭で学生が演奏を披露する子達はラベルのボレロ以前の作品をコピーすることになる。
フェアユースが認められていない以上、インターネットは脱法状態だし、ポケットはてななんてもっての他。
そんな状態で生産性が問えるだろうか?
著作権は主に二つに分解することができる。
誰がどのような作をなしたのかは厳格に保護される必要がある。
すべての作り手はマルパクリから第一歩を踏み出すのだ。
第一歩ぐらい最近のものから模倣したいじゃないか。
っていうか、そもそもプログラムには著作権認められないという。
どういうことやっちゅう話しじゃ。
実行結果はほとんど同じでも書き方は千差万別。
もう、ほんとなんなんだよと思ってしまう。
「一人の人間と話をする」のが我慢できるなら、小説家、漫画家(一人でやってたら寡作になるけど)がいいんじゃないの。
メールのやり取りで済む事もあるし、密に会う必要はなくなってると思う。
でも、それなりに才能が要ると思うけど。
あと、農業は一人(一世帯)だけでは出来ない。
田舎だから人付き合いを強要されるってのもあるけど、
なによりも貯水池や川から水を引くラインの制御とかの「農業に絶対に必要なインフラ」をみんなが持ち回りで管理してたりするのよ。
だから人付き合い必須。
「管理に参加しないけどお水使わせてください」なんて無理っす。
定時連絡で雇い主のオペレータとは随時連絡取るし、運搬先の人には愛想ふらなきゃいけない。もしも自営とか請負でやるなら黙ってたら仕事なんか入ってこない。営業コミュニケーション能力必須。もちろん無い人もいるけど、どんどん干される傾向にある。だって元気のいい若い兄ちゃんがいくらでも新規参入するから。
狭いコミュニティの中で、濃い人間関係が産まれてる。農業コミュニティのじっとりした関係ってこの上なくめんどくさい。農業って作るだけじゃなくて売らないと成立しないし、よってコンバインとか肥料とかの営業さんと適切にお付き合いしないといけないし、バイヤーに営業だってかけなきゃいけなかったりする。
は、よく知らないからわかんないや。編集者とのコミュニケーション能力って必須じゃないの?そもそも物語を書くってことは人と関わってないと無理な気もする。
占師なんてコミュニケーション能力で生きてる職業の最たるものじゃないか。
暇だから付き合うね。
プログラマの希少価値は、目的に対して最大効率で仕事を仕上げることにある。
この場合の効率は作業効率じゃない。
コードサイズだったり、実行速度だったり、ハードに対するフォローだったり様々。
「何を作るべきか」なんてことは、どっかの誰かに考えさせておけばいいんだ。
そんなもの希少価値を見出すようなプログラマには求めない。
小説家なら、どれだけ人を惹きつける文章が書けるかになるのか?あんまりピンとこないが。
その物語が何であるかは関係なく、その題材をこの人が書けば面白くなる、そういった感じ。
その当人が、面白い物語をゼロから創造できる必要性なんかないし、無理にやらせれば大抵つまらない物になる。
希少価値のあるプログラマとはそういうものだ。
元増田です。
まさかこんなに反響を呼ぶとは思わなかった。読んでくれた皆さん、ありがとう。あ、ちなみに自分は文系です。ただし理系的な方面にもかなり興味がある文系ではありますが。
面白いと思ったのは
http://anond.hatelabo.jp/20070801202401
の文章です。ただ僕は
「教科の勉強で身に付かないものを持っているやつだっているのだから、学歴で人を差別してほしくない。個性豊かなやつはどこにだっている」
と主張する一般の学生について考えているわけで、実際に「教科の勉強で身に付かないものを持っている」人間というのは「一般人」の領域を逸脱しているかと。私が話しているのは「自分には何らかの『個性』があるのだから、学歴で人を差別するなと主張する、教科の勉強すらできない、物事を考える上での基礎的な知識すらあやふやな人間」であって、すでに開花した、あるいはその片鱗を見せる才能をもった、つまり本当に「個性」を持っている人間のことではありません。持っていないのに「万人に個性が存在する」と考え自らの偽りの個性を主張する人を、私は前提としているわけです。
人物に個性を与える「才能」というのは、たとえば小説家や映画監督、デザイナーなどなど、その能力を生かせる「天職」といえる職業を持てた人間にとってやくにたつものです。もちろんこの中には氏の言うとおり早熟な方(プログラマーなど)も入ります。けれども高校生までにそんな自らの才能を発見できる人間なんてほんの少数でしょう。僕は大方の人間は高校卒業までに何らかのオリジナリティ(=得意技能)を確立することは不可能だと感じています。オリジナリティや自分の得意技能は高校生活まででは発見できない。もちろん大学生活で発見できるのかと言われればそれまでですが、大学生活というのはある意味「自己責任」という側面が強いですから、そこの時間を活用してそれを見つけなくてはならない、というのが本筋でしょう。高校生活まではその大体の方向性というのを科目における勉強や普段の生活で見つける場、だと思います。そして大学生活はそれをさらに細分化させ、飛躍させ、煮詰めていく場ではないかと。東大が現在も教養部制を続けているのはそのためであると理解しています。
天才プログラマーはなぜ自分がプログラミングの才能を持っていると気がついたのか?もし気がつかなかったら?それこそが「一般」であり、早期に気が付いてしまうほうが「まれな例」(しかし非常に幸福な例)であるといえるのではないでしょうか。
ちなみに、僕だっていわゆる「アホ」な会話をしないわけではないです。もちろんそういう会話だってするし、お笑い的なものを楽しむ。僕が言いたかったのは、彼らの間ではそもそも言葉を使った「会話」というものが成立していない点。まあ、これに関しても議論はあるだろうから、僕の意見を改めて書く必要はないでしょう。
この際もうひとつ言ってみると、最近の若者は(自分を含め)語彙がかなり不足していて、そのせいで自分の感情をきちんとうまく表現できない、ということに苦しんでいるのではないかと思います。メールで絵文字を使わなくては自分の気持ちを正確に表現できない、あるいは会話で「ヤバい」など複数の意味を持ちうる単語を多用するなど、文章自体の簡略化が進んでいるためにこういったことが起こるのか、あるいは根本的な知識の不足がこういったことを招いているのかはわからないけれど、とにかく「ボキャ貧」と呼ばれる現象はますます深刻になっている。こういう用語を多様したとき、会話中であればある程度は文脈で判断できるけれども、非常に意味がぼやけてしまうため、はたして自分が言いたかった内容が相手にきちんと伝わっているか認識できない。つまり言語の運用能力が著しく低下してしまっているのではないか、と思うのです。言葉は難しい。
有花たんをばかにするなー!
してもいいけどさ、
そんなに別なのか?
若い世代の漫画家やアニメクリエイター、小説家などは見当たらない。保護期間延長で創作意欲が向上するかどうかは、クリエイター本人に聞いてみないと分からないはずなのだが――
若いクリエイター自身がブログなどでこの問題について発言しているケースもそう多くなく、彼らの声はなかなか聞こえてこない。創造の最前線で活躍している彼らの思いはどんなところにあるのか。
俺は再配布オッケーだぜ。それを糧に生活している人がいない作品についてだがな。
それはともかく、無断で原稿をつかわれたことがあるが、ああいうのはむかつく。
生まれ故郷の南部に戻るとき、スティーブン・キングはキングではなく××という姓を名乗る。
今では知っている人も少ないが、キングはあのゴシック・ホラーの大文豪××の親戚なのである。スティーブン・キングの名はいまや世界で最も強力な一つのブランドである。××の作品を読んだことのある人間よりもキングの小説を買ったことがある人間の数の方が圧倒的多数だろう。しかし故郷での彼は世界一有名なホラー作家であることより××の眷属とみなされることを好む。それが「故郷へ帰る」ということなのであろう。
南部ではキングは崇拝されている。もはや聖人に近いといっても過言ではない。「ある日曜日」と南部の人々のあいだでは噂される。「貧しい母子が暮らすあばら屋に突如キングとその三人の弟子たちが姿を現した。朝食のオートミールと牛乳を食べたあと、キングと弟子たちは2000ドルを払い、立ち去った。去る間際にキングは母親にこう言い残した。『あなたのお子さんの病気は明日の日没までには治るでしょう』と」
これではまるでキリストのようではないか。しかし南部の人々の信仰深さゆえか、この話には非聖人的な続きが用意されている。「キングと弟子たちが出て行ったあと、母親は怒りだした。『なんだい突然訪ねてきて朝飯をくれだなんて。乞食も同然だよ。子供が今腹をすかして泣いているってのに、こんな金が何の役に立つっていうんだい? 病気なんてただの風邪なんだから、明日の夜には勝手に治るに決まってるよ。まったく、あの小説家という連中ときたら、ろくなものじゃない!」
という夢を見た。