「AIにより簡単に絵が生成できるようになったことで、手抜きとしか思えない絵が、同人サイトや画像投稿サイトに大量に投稿され、検索が汚染されているので、AI絵師は規制されてほしい」というものである。
ということだ。
恐ろしいことに否定派がAIでない絵師ならまだ看過できると主張する理由は
「AI絵師と比べれば投稿ペースが遅いので、検索の汚染度合いが少なく済むからまだ我慢できる」
なのである。
つまり、AI絵師否定派にとっては下手な絵を投稿すること自体が害悪であり、その害悪を実行する頻度が高いのでAI絵師は否定されるべきであるという主張なのだ。
これは非常に由々しき事態だと私は思う。
何故ならば、もしここで「下手な絵の投稿は控えるべきである」という主張が通れば、その次には手書きの絵師であろうとその標的になるのは明らかだからである。
AIによる粗製乱造でないことを証明するための投稿頻度が最初「30分おき」と設定されていたのが「1時間おき」「2時間おき」「4時間おき」「8時間おき」「1日おき」と増えていくのは明白である。
だがそうやって規制が進むに連れて、クオリティの高い絵を描く者たちの作品であればいくらあっても良いと主張する者たちが現れ対立が起きるだろう。
そしてそこに折衷案が誕生するが、それは間違いなく地獄を生む。
「いいねが100以上の絵を投稿したなら時間を開けなくても投稿して良い」「一定期間の間に得たいいねの数で次のスパンまでの間に投稿できる上限が決まる」といった形で規制が行われるようになるからである。
そうなったとき、「今はまだ下手だが、投稿しながら練習し多くの意見を浴びることで急成長する」というタイプの絵師が成長する機会が損なわれていくのは明白である。
インターネットはかって絵師たちの卵が挑戦し、成長し、挫折し、時に花開き、時に適切な距離を学び直す場所として機能していた。
だが、AI絵師否定派達の語る規制論に動かされた未来においては、挑戦の場としての機能は損なわれ、結果として多くの者たちが自分と絵の適切な関係を学ぶ機会を失うだろう。
黎明期のインターネットにおいて、お絵描き掲示板にはマウスで描いた落書きと、下書きをスキャナで読み取った上からペンタブで丁寧に彩色された絵が平然と並んでいた。
10個の投稿を一度に表示する設定であれば、マウス片手に20分で描いた絵も、日をまたぎ作業時間が何十時間となった絵も同じ一つとして数えられていた。
今でもなお、インターネットにおいて多くの投稿サイトがその方式を取っている。
しかし、もしもその空間が消費者としての都合を押し付けようとする者たちの粗悪な言論に屈すれば、下手な絵はその存在を隠され、上手い絵だけが表示される差別的な階級社会が始まるだろう。
インターネットが育ててきた相互的な絵の共有という文化を破壊し、その上に自分たちが一方的に他社の労力を搾取するのに都合がいい世界を作り上げようとしているのだ。
0いいねも100000000いいねも、5秒で出力された絵も5年をかけた絵も、一枚の絵としての存在そのものは平等であるべきである。
その事実を捻じ曲げようとする者たちに対して、我々は断固として反対の声を挙げていくべきなのではないだろうか?