暴力があってアーティストが悪く言われているとき 本当によくわからない気持ちになる 暴力 暴言 外に出さなかったことがタガが外れて溢れ出してしまう 爆発
理由はもちろんどこかにあって それが溜まっていくのは負の現象だから それが外に現れたとき、本当にいいことが何もない 爆発した方は自分がバラバラになってどうしようもないし 巻き込まれた方だってそう
でも録音しながらすすり泣いて完全に「弱者」「被害者」を演出されたら、なんの躊躇いもなく弱者を守れてしまうひとたちはどういう思考なんだろう
詳しいわけじゃないけど大森靖子が援護されるのはおかしい とかいう人たち 何考えて生きてんだ
人が持ってる強い気持ちを、優れた才能を そんなこと(わかりやすい被害者の存在のみ)で否定できるの?そういう風に生きてるの?
とりあえず才能のある人が、そんな世論に潰されないと良いな
考え方違う複数人が適当に協調しようとする→じわじわと亀裂が入る→怒るほうが怒って怒られるほうが怒られる (怒られるほう「キャアァーーー(泣)」怒るほう「キャーじゃねぇよ!!!」)この流れなんとなく見に覚えがありすぎて辛くなった
お互いに全く種類が違うって気づかずに自分をわかってほしくなっちゃった時にこうなるのかな でもこういうの当事者のときはただただ相手が憎いだけなんだよね こういうとききっと自分は怒る側にいちゃうからガチで気をつけたい というか、怒るほうタイプの人間っているじゃん それを理解しようよ
いくら怒っても、いくら怒鳴っても恨んでもいいと思う(でも暴力はアウト 相手に目に見える被害が及ぶとそれはただの破壊だから と個人的に思う)でもその感情はそう至るまでの経緯を知ってる当事者同士くらいにしか正しく受け取れないものだだからインターネットに晒すなんて、ましてやあの音源を第三者が晒してるとしたら本当に最悪 それに乗じてどっちかを貶して騒げる第三者たちが無理すぎる
あとフラバフラバ言うけど是非ともフラバすんのは傷つけられた方だけじゃないってのも考えてほしい あの音源で自分は相互不理解の末路のことをフラッシュバックした。本当に心が弱いのはいじめっこの方って腐るほど聞いたことあるよね。世に言ういじめっこ、加害者の方を救えないの、寄り添えないの、社会の現状の圧倒的悪だと思う
自分のことをつい最重要視して相手を傷つけてしまう加害者、被害者どっちも悪
でも、それがとんでもない才能のパワーが表面化したものでもそうするの?そのパワーの持ち主が不器用だった場合、うまくやるのは近くにいる人たちだよね?振り回されるべきがどっちかって思わないの?害を加えた方は絶対に負けるって、どうにかしてあげられなかったのかな それとも大森靖子が周囲にとって人望も魅力もない人だったのか まあこれをかいてる自分はそうは思ってなかったわけだけど
自分を否定されたくない人をみんなで守れるようになればいいのに 察するって一番汚くて嫌いな言葉だな 正直になって 賛成も反対も認め合って それだけなのに 多数派はこうもずるい 多数派がやってることは完全に統制で弾圧で排除だもん もし自分が多数派になったときこうならないようにしたい 当人が喋ったことだけを待って信じて考えて、正直に、発信できればいいのに
音源を晒したのが第三者なら要らない邪魔が入ったとして無視すべき
こうするしかなかった当事者ならこの音源の意義を聞けるまで、待つべきだよな
誰だって他人の意見には弱いんだし これ性善説ってやつ?こうするしかなかった第三者の可能性考えるべき??
はあ。めっちゃどうでもいいほんとにこんな文作ってる時間じゃなかったのにやらかした やるせない 読んだ人いたら今から散歩とかした方がいいと思う
好きでよかった
大森靖子は自伝や街録で元カレを一方的に腐してるぞ そう言うのはいいの?