歳の離れた兄弟がいて、年下の子の扱いには慣れていたから、保育園でも小学校でも小さい子から人気だった。小さい子のお世話が得意な女子ってやつだ。
最初は、ただ小さい子と遊ぶのが好きだから保育士になりたかったんだと思う。大きくなるにつれて、なんとなく「私は将来保育士になるんだろうな」って思っていた。
高校生になってもその夢は変わらなかった。けれど、その頃から希望進路を伝えると、親や先生を含めた周りの担任の反応が微妙なことに気付いた。
私は受験でめちゃくちゃ勉強を頑張って、割と有名な進学校に通っていた。高校は、東大や京大、一橋、東工大などの有名国立大学や医学部、早慶のいずれかに入るのが良いことと考えている人が多かった。
先生もそう考えていて、高校1年生の頃に私が保育士になりたいから資格が取れる地元の大学に行くと伝えたら、やんわりと否定された。親も最初は夢を応援してくれていたけど、「折角良い高校に入ったんだから有名大に行ってほしい。」と思っているのが言葉の節々から伝わってきた。
周りの友人も東大や医学部を目指してる子が多かったし、有名大学に行けなかった先輩のことを軽く見下しているような雰囲気があった。そんな雰囲気に徐々に飲み込まれていって、「良い大学に入らなきゃ!」と思うようになっていった。その頃から「良い高校に入ったんだから、保育士になるのは勿体ない」という謎の思考に侵されて、保育士の夢を諦めた。不快に思う人もいるかもしれないから伝えるが、これは保育士を馬鹿にしているのでは決してない。私がただ馬鹿で、窮屈な価値観を持っていただけだ。
保育士の代わりに自分が何をしたいのか考えて考えて、結論を出した。「有名大学に行って、ある興味のある分野を学んで、企業の開発職に就く」というものだった。高校生の頃の自分は納得していた答えだったけれど、本当に納得していたかはわからない。ただその学問に関わる教科の偏差値が高いから好きなだけで、実のところ興味があるわけではなかったのだと思う。
それでも、いつのまにかその進路に進むことが本当の夢のように感じられて、大学受験をがんばった。
結果、かなり有名な大学に入れた。親も担任も大満足で、たくさん褒められた。あまり話したことのなかった親戚からもめちゃくちゃ褒められて、たくさんお祝いしてもらった。周りの反応が今までにないくらい良いものだったから、「自分は正解の道を歩めた」ってすごく安心したのを覚えている。
でも、「正解の道」を歩めたから、「不正解」になることをすごく恐れるようになった。大学に入ってからは、単位を少しでも落とすことが怖くて勉強をきっちりしたし、体育会かサークルで悩んだ時は体育会が「正解」だと思ったからそちらにした。企業の開発職に就くという「正解の道」に進むため大学院に進学することも決めた。
今、私は大学院の入試試験の勉強をしている。周りの友人は大学院に進む人が多いものの、就職する人もいる。就職する人を横目に学生をすることに少し負い目があり、なぜ私は大学院に行きたいんだろうと考えることが増えた。考えるたび、「本当は保育士になりたかった。別に大学院行かなくて良い人生だって歩めたのにどうしてこんなことしてるんだろう?」という思考が頭を占める。
「不正解の道」を歩んでしまったのではないか?とすごく不安になる。本当は「正解の道」は保育士になることだった?
人生は選択の連続であり、その選択に正解や不正解がないことは重々承知している。今の生活にも満足している。友達がいて恋人がいて学歴も持っている。世間から見たら満足していないのがおかしいと思う。それでも、やはり保育士になるべきだった、なりたかったという気持ちが湧き上がってきてとても辛い。
後悔しても仕方ないから、目の前の院試の勉強を頑張るしかないのはわかっているので、勉強は頑張る。
ただ、とても辛く苦しい。
うんち
保育士って低賃金低社会的地位重労働高リスクかつ産後続けられないという超ブラックだし もっと良い仕事に就ける当てがある子なら親からも先生からも反対されるのは当たり前じゃ? ...