2018-11-09

『女あてがえ』論とはつまりそういうことでしょう

エマ・ワトソン増田

2、3日前だと思うが、ここ増田エマ・ワトソン演説について批判擁護の論争が繰り広げられていた。

何年か前、国連エマ演説したことと、エマ自信の男性遍歴に著しい乖離がある、というのが批判派の言い分らしい。つまり

エマキモくてカネのないオッサン恋愛対象として見ましょう』

批判増田「いや、あんKKOとは恋愛してないでしょ」

ということだ。(ちなみに演説の中身が気になったので、ググって読んでみた。エマ男女平等について『男も女もステレオタイプに囚われるのはやめよう』と言っていた。まあKKO恋愛しよう、と取れなくもないかな?程度の発言である。)

これに対する擁護派の意見

エマKKO以外との恋愛否定してるわけじゃない」

エマの置かれた社会的階層を考えればハイスペック男子と恋仲になるのは自然

これに対しては批判派は

「言い出しっぺがそれでは説得力がない」

「美味いケーキばかり食べてるやつが不味いケーキ価値を認めろと言うのか」

ううん、上手い例えだけど、別にエマがどんな男と(あるいは女と)恋愛しようがそれは彼女自由だよね…。ただ、と思った。

ステレオタイプから解放」はステレオタイプ否定するもの

擁護増田が言っていた「KKO恋愛対象に含めるからと言って、KKO恋愛しなきゃいけない訳じゃない」という言説。僕はこれに非常に引っ掛かりを覚えた。もちろんこの言い分は『正しい』。誰が誰と恋愛しようがそれは当人自由意思に依るべきだ。それに全く異論はない。

しかしこれを拡大して各々の男女不平等実態に当て嵌めていくと、男女平等論者にとってマズイ事態になるのではないか

まりこういうことである

女性役員管理職の登用対象としなければならないが、女性管理職女性役員を増やさなきゃいけない訳じゃない』

女性男性同様に政治家になるべきだが、必ずしも女性政治家に選ばなきゃならない訳じゃない』

ステレオタイプ(ジェンダーロールと言い換えても良い)から解放を訴えながら、個々がステレオタイプ的なものを選ぶ事を否定しなかったら、結局それは現状の追認にしかならないのではないか

強制から自由になるべきだけどそれを強制はしない、と言ってしまった場合、固着した現状を変えられるのだろうか。

『女あてがえ』は男女平等・男女同権の裏返しである

日本政治経済の分野で男女格差が大きく、ジェンダーギャップ指数で114位という話はもうみんな聞き飽きてるかもしれない。

要は女性管理職役員経営者政治家が極端に少ないと言うことだが、この現状を打破するために立法してでも要職に着く女性を増やそうと言う意見結構多いはずである強制力を持たせようと言うわけだ。

ここでようやく『女あてがえ』論が出てくるのだが、先に言っておくが僕は『女あてがえ』論には賛成ではないし、主張してる人にしたってどの程度本気なのか正直疑問だ。ただ本気っぽいものも目にした事が無いではないので、言葉通りに受け取ることにする。

法律裏付けを得て女性要職を増やすべきだというのは、社会的弱者を強制力を持って並以上に浮上させようという施策だと思うが、『女あてがえ』もそれと同根だと言える。「いやいや、男はそもそも社会的強者でしょ?」と言いたい人もいるかもしれない。

ネット上では(増田でも)本気で日本女尊男卑社会だ、と主張する鳩がいる。

僕は全体で見れば日本はまだまだ男尊女卑社会だと思っている。しかし、その『男尊』の部分に与れない男はそれを受け入れられないかもしれないし、見るところだけ見れば『女尊男卑社会だと思っても仕方ないかも知れない。

裏返しとはそういうことである自分社会的弱者だと思っている人間たちが、自分を、自分属性を上げようと思ったら、強制力を発揮させるのは1つの手であり、男女同権論者と女あてがえ論者は実はとっても近い存在だと思う。

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