2、3日前だと思うが、ここ増田でエマ・ワトソンの演説について批判と擁護の論争が繰り広げられていた。
何年か前、国連でエマが演説したことと、エマ自信の男性遍歴に著しい乖離がある、というのが批判派の言い分らしい。つまり
エマ『キモくてカネのないオッサンも恋愛対象として見ましょう』
ということだ。(ちなみに演説の中身が気になったので、ググって読んでみた。エマは男女平等について『男も女もステレオタイプに囚われるのはやめよう』と言っていた。まあKKOと恋愛しよう、と取れなくもないかな?程度の発言である。)
「エマの置かれた社会的階層を考えればハイスペック男子と恋仲になるのは自然」
これに対しては批判派は
「言い出しっぺがそれでは説得力がない」
「美味いケーキばかり食べてるやつが不味いケーキの価値を認めろと言うのか」
ううん、上手い例えだけど、別にエマがどんな男と(あるいは女と)恋愛しようがそれは彼女の自由だよね…。ただ、と思った。
擁護増田が言っていた「KKOを恋愛対象に含めるからと言って、KKOと恋愛しなきゃいけない訳じゃない」という言説。僕はこれに非常に引っ掛かりを覚えた。もちろんこの言い分は『正しい』。誰が誰と恋愛しようがそれは当人の自由意思に依るべきだ。それに全く異論はない。
しかしこれを拡大して各々の男女不平等な実態に当て嵌めていくと、男女平等論者にとってマズイ事態になるのではないか?
『女性を役員・管理職の登用対象としなければならないが、女性管理職、女性役員を増やさなきゃいけない訳じゃない』
『女性は男性同様に政治家になるべきだが、必ずしも女性を政治家に選ばなきゃならない訳じゃない』
ステレオタイプ(ジェンダーロールと言い換えても良い)からの解放を訴えながら、個々がステレオタイプ的なものを選ぶ事を否定しなかったら、結局それは現状の追認にしかならないのではないか?
強制から自由になるべきだけどそれを強制はしない、と言ってしまった場合、固着した現状を変えられるのだろうか。
日本は政治経済の分野で男女格差が大きく、ジェンダーギャップ指数で114位という話はもうみんな聞き飽きてるかもしれない。
要は女性の管理職、役員、経営者、政治家が極端に少ないと言うことだが、この現状を打破するために立法してでも要職に着く女性を増やそうと言う意見は結構多いはずである。強制力を持たせようと言うわけだ。
ここでようやく『女あてがえ』論が出てくるのだが、先に言っておくが僕は『女あてがえ』論には賛成ではないし、主張してる人にしたってどの程度本気なのか正直疑問だ。ただ本気っぽいものも目にした事が無いではないので、言葉通りに受け取ることにする。
法律の裏付けを得て女性の要職を増やすべきだというのは、社会的弱者を強制力を持って並以上に浮上させようという施策だと思うが、『女あてがえ』もそれと同根だと言える。「いやいや、男はそもそも社会的強者でしょ?」と言いたい人もいるかもしれない。
ネット上では(増田でも)本気で日本は女尊男卑社会だ、と主張する鳩がいる。
僕は全体で見れば日本はまだまだ男尊女卑社会だと思っている。しかし、その『男尊』の部分に与れない男はそれを受け入れられないかもしれないし、見るところだけ見れば『女尊男卑』社会だと思っても仕方ないかも知れない。
裏返しとはそういうことである。自分を社会的弱者だと思っている人間たちが、自分を、自分の属性を上げようと思ったら、強制力を発揮させるのは1つの手であり、男女同権論者と女あてがえ論者は実はとっても近い存在だと思う。