こうして文章にして読ませるとまた違うものだけど、日常会話においては日本語って主語が抜けやすい。
というか、抜けてしまってもまったく不便を感じないぐらい、普通に会話ができてしまう。
まあ、日本語だけの問題じゃなくて、アジアの諸言語はほとんど似たような問題を抱えてるんだけど。
英語のように主語優勢言語だと、日常会話においてもほぼ必ず「私は」がどこかしらに含まれる。
言語は文化とも密接に関係してくるもので、だからこそこのタイプの言語を使う人たちは無意識に個人個人を分けて考えやすくなって、
議論においても個々人の意見のぶつかり合いという軸がぶれることは基本ない。
Theとかaとかあるのも、大きな枠の中から一つを抽出するためにあるようなものだし。
でも日本語のように主題優勢言語だと、意識的に主語を混ぜていかないと議論をする上で話が際限なく広がっていってしまいがち。
それが否定的な文脈で、主語が曖昧に抜けたり入ったりを繰り返していると、その主題を肯定する立場の人間そのものにまで話の内容が及んでいるように錯覚してしまう。
もちろんそんなことはないんだけど、でもただの批判がいつのまにか度を超えて人格攻撃にまで発展してしまったり、
自分のすべてを否定されたように感じる人が出てくるのも、言語的特性のせいで主語による明確な境界が提示され続けないから起こる現象だと思う。
逆に肯定的な文脈そのものが、主語が抜けることで大きな意味での否定への否定となって、火に油を注いでいたりもする。
ポイントは、主語を提示し続けることであって、多くの文の中に数回の「僕は私は」じゃ圧倒的に足りないんだよね。
特に議論なんかでヒートアップしてるときには、意識的にそれをし続けることなんて全員ができるわけじゃない。
しかも聞いてる側も普段から無意識的に「私は」なんて使ってるわけじゃないから、相手がそれを言ってても耳から耳へ抜けてしまって一個人の見解に過ぎないと無意識で認識できない。
意識しないと出来ないって時点で、これはものすごいハンデになってる。もちろんそれが転じてメリットにもなるから一長一短だけど。
当然、海外では海外の炎上はあるけれど、でも日本ネット界の批判合戦はポジティブもネガティブもすぐに行き過ぎたカルトっぽくなりがちなんだよね。
ネットによって曖昧であったはずの他者との境界が浮き彫りになった結果なんだと思う。
匿名を好むところや言葉狩りにすぐ走るところも、ほとんど言語的特性による副作用である程度は説明できる気がしないでもない。
たったこれだけの文章でも、「私は」っていう個人を示す主語がないから、「こいつはこれこそが真実の大正義であるかのように語ってやがる」って感じでしょ?
でも会話や討論の中で「私は」「俺は」って主語が毎回入るとそれはそれでウザいんだよな…… 昔「そこがヘンだよ日本人」って在日外国人がパネルディスカッションやる番組あったけ...
それは日本語がネイティブだからそう感じるだけじゃないか? 言語的特性に合ってないから違和感あって気持ち悪いとか
たったこれだけの文章でも、「私は」っていう個人を示す主語がないから、「こいつはこれこそが真実の大正義であるかのように語ってやがる」って感じでしょ? 「私は」という主語...
ただの意見だからで手抜きするクズが多いだけだろ。ただの意見と言いながらこっそり影響を与えて自分に都合いい価値観や人間を増やしてやろうというのが透けて見えるからぶっ殺さ...
ネット上とかもう煽り合い叩き合いの果てに誰もいわゆる「まともな批判」なんて物を信じていない状態に成り果てたからね 批判という単語を声高に自称する物ほど叩きたいだけだとい...