夜更けに受験勉強のために机にかじりついていると、おふくろが階段を登ってきた。
ドアが開いた時に香ばしい香りがプン、と立ち込めたので、コーヒーを持ってきてくれたということがわかったのだが、
クリームがたっぷり盛られているところをみると、どうやらただのコーヒーとは違うようだ。
熱々のコーヒーの上に、たっぷりのホイップクリームがかぶさっている。その上を飾る黄色い花のようなものは、オレンジの皮の砂糖漬けだ。
皿にはスプーンの代わりに、シナモンスティックが添えられている。シナモンとは、アップルパイの味と香りを引き立てる、苦いような、甘いようなスパイスだ。
シナモンだけでできているシナモンスティックを、たかがコーヒーいっぱいのために使うという贅沢。
砂糖の甘み、オレンジの甘み、シナモンの、ほのかな甘み。それらが一緒になって、複雑な味わいを形作る。
その一杯が効いていく。
集中を続けているうちに気づかないうちに溜まっていた、意識の澱のようなものを溶かし、ほぐしていくのを感じた。
それまで焚き木のようにごうごうと燃えていた合格への熱意は、ガスバーナーを調節したように、音のない青い炎に変わっていく。
そんなこんなで炎を燃やし過ぎて、すっかりガス欠になって燃え尽きて、やる気を失ったダメ受験生の俺が第一志望の大学に合格できるほど受験戦争は甘くなく、しかしそのあと滑り止めには何とか滑りこんで入学して、紆余曲折あったのち卒業、就職、やがて仕事が忙しくなって、会社に泊まるようになって。
夜中に部下を全員帰して、オフィスに一人になった時に。ふとあの日々のことを思い出した。
勉強の内容はさっぱり覚えてないけれど、カプチーノのあの不思議な味わいは、鮮やかによみがえってきた。
仕事明けの休日、暇になった俺は、図書館でカプチーノのことを調べてみた。
レシピは簡単に判明した。
でもろくに料理もできない独身男アラウンドサーティーが素人ながらにやる気を出してみたところで、密かにコーヒーマニアだったおふくろの味を再現することなんて、どうせできないだろう。
だが幸いな事に時間ができた。金もある。コーヒー一杯800円程度だって、全然問題ない(そういう感覚だから、貯金がたまらないのだ、と友達が呆れ顔で言う。一理ある)。
だが週末をかけて、近所の喫茶店を歩きまわったところで、ついにカプチーノを出す店を出会うことはできなかった。
一方はおふくろのカプチーノ。これは実は日本で発明され、広まったレシピだ。昔の喫茶店ブームの時に広く日本中で飲まれるようになったが、そうした店が少なくなった現代では、古風な喫茶店を除き、扱っている店は少ない。
もう一方は皆さんご存知のカプチーノ。コーヒーの上に、温めたミルクと、熱を加えて泡立てたミルクが載せられている。このシンプルなレシピのコーヒーは、いまも世界中で飲まれている。特にスターバックスなどではお馴染みの風景だ。冬のさなかにマフラーを巻いた女子高生が、単語帳(のようなもの。あるいはスマートフォン)を片手に握りしめて、空いた方の手をカプチーノの入ったカップで温めている。
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でも残念ながら、哀愁ただよう独身ボッチのおっさんにとっては、そういう風景は思い出の向こうにしか無いので(※実は向こうにもないけど)、俺は自分の目的に集中して脇目もふらないことにした。
若いカップルが花見を口実にイチャイチャしているのに目もくれず、歩く。一杯のコーヒーを飲むためだけに、舞い落ちる桜の花びらの中を、颯爽と行く。
これが俺という大人なのだ。
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うんうん正直悪く無い。全然後悔なんかしてない。まだ三十代。余裕余裕。
そして、カプチーノを探す旅がはじまる。