下から7割の人のための理科&算数教育 - Chikirinの日記
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20140225
http://d.hatena.ne.jp/locust0138/20140225/1393341659
「ただの知識」だけ学校で教えてもあまり役には立たない - 脱社畜ブログ
http://dennou-kurage.hatenablog.com/entry/2014/02/26/200540
ちきりんさんの科学教育論をめぐる議論がすれ違ってる気がする - 雪見、月見、花見。
http://snowymoon.hateblo.jp/entry/2014/02/27/000005
結論から書くが、上記の一連の記事は、議論ではない。科学の素人であるちきりん氏が、ネット上で科学教育について「素人考え」を述べた。これに対し、科学の心得のある人物が、「それは間違いですから信じてはなりませんよ」とネット上の大勢に向けて注意を促した。それだけのことである、というのが私の結論である。
ことの発端はちきりん氏が、氏の考える理想的な科学教育について記事を書いたことである。それがなかなか残念な内容であったことから、この記事に対する反論のような記事がいくつか提示されてきた。これらの記事には、相互に「共通する考え」と「異なる考え」の部分が存在する。
「共通する考え」とは、「社会のより多くの人が、科学リテラシーや科学的考え方を持つようになるのは良いことである」というものである。「画一的な教育ではなく、科学に適性を持つものにはより高度な教育を施し、人材を育成するのは良いことである」というのも恐らく共通している。この共通の考えについては、多くの人が同意できるものかと思う。
一方、「異なる考え」とは、上記の「良いこと」を達成するための方法の部分である。特に、科学がそれほど得意でないと考えている子供に、「何をどのように教えれば科学リテラシーが身につくのか」ということ。これは幅広いコンセンサスを得るのが難しいところだと思う。子供には個性があり、教育資源は有限である。どのような教育が最大限の成果をあげられるのかは、専門家の間でも意見が分かれるかもしれない。
”「あたしに理科とか数学とか教えるの、ほんとーに時間の無駄!」 ”
” 私に必要だったのは小学校レベルの理科だけであって、中学・高校で、化学、物理、生物、地学などを学ぶ必要は全くなかった ”
と、御自身で仰るほどに、科学には縁遠い人物である。科学に関しては全くの門外漢、ずぶの素人であるといえる。また、教育に関しても(よく知らないが)専門家というわけでもないだろう。そうした人物が提示する「科学教育論」の具体論に、果たして検討に値するものがあるだろうか。
ちきりん氏は、「何をどのように教えれば科学リテラシーが身につくのか」について、かなり具体的な内容を記述している。例えば、「台形の面積を求める公式」など、ググればわかるものについては教える必要は無い、リトマス紙も無駄である。それよりも、「リボ払いを選んだ場合の利子の額」や、「副作用のあるワクチンを接種すべきかどうか」などの「生活に役立つ」知識を教えてほしい、としている。しかし一方では、>>科学的な思考とは何か、ということはしっかりと教えた方がいい<<ということも強調しており、多少の科学リテラシーを持つ者から見れば、全体としては破綻した内容に見えてしまう。
このように破綻して、あるいはお粗末に見えるのはなぜかと言うと、それはちきりん氏が科学に関して「素人同然」であるからに他ならない。
科学リテラシーを現に持っている人物は、それを自分がどのように身につけたのか、また他者がどのように身につけるのかについて、いくらか知っている部分があるが、持たない人物はそれを実感として知ることはできない。このように教えられたら身についたかもしれない、という空想しか語りようがないのである。
ちきりん氏の記事が全くの無意味というわけではない。氏の記事は、「科学リテラシーを身につけることの出来なかった人物はこのように考えているのだな」という一例を知ることができる、貴重な機会であるといえる。
だが、ちきりん氏の記事を「有害」だと考える人も存在する。それはちきりん氏が比較的大きな影響力を持つブロガーだからである。日本は民主主義国家なので、自分の考えとは異なる「間違った考え」を持つ人が増えてしまっては困るのである。科学に明るい者からすれば、ちきりん氏の科学教育に関する具体論が「間違っている」ことは明白なのだが、ちきりん氏の言うような「7割」の人たちが氏の考えを無批判に(あるいは自分で考えたうえでなお)受け入れてしまうと、困ったことになるわけである。中高生が「ちきりんが言ってたから俺もう理科とか数学の勉強しない」と言い出してしまうと親御さんは困るでしょう。
そういうわけで、科学リテラシーのある人物は、半ば義務感にかられながら「ちきりん氏の科学教育論」の間違いを指摘することになるのである。これは議論ではなく、単なる「間違いの指摘」であり、その記事の向けられた相手はちきりん氏ではなく、その他大勢なのである。