はてなキーワード: 性質とは
二次創作についてガイドラインが出てなくて許可取りしてなくても「自己責任でどうぞ」と「あくまでその行為をそそのかすことになる」言動をとる人たちがいるが、
この根拠を親告罪であることに求めているなら、それは上記で列挙したような器物損壊や名誉毀損に対しても「自己責任でどうぞ」と言ってよいとするのと同じだ。
物を壊す、人を侮辱するというのは典型的な「非倫理的なこと」平たくいえば「悪いこと」だ。つまり「悪いことをそそのかしている」ことに他ならない。
悪いことをしようとしている人に対してかけるべき言葉は「自己責任でどうぞ」ではなく「自分で責任をとれたとしてもやるべきではない」だろう?
某増田へのブクマで「私的自治の原則」を挙げて反論した気になっている人がいるが、親告すれば罪になりうる内容の二次創作は刑法犯としての性質を持つものなのに、民法の原則を挙げるのはちゃんちゃらおかしい。
「犯罪行為に対してはその被害者が赦していることが起訴しない絶対的な理由にならない」というのもまた法学のきほんのきだと思うのだが…。
創作の「意義」とやらを掲げて、非親告罪としての権利者が認めているか不明な二次創作の実行を擁護するなら、刑法175条にふれるわいせつ図画にも意義がないとはいえないでしょ。あるいはそれと比べ「二次創作」の方がどれだけ意義で勝っているといえるのだろう?
創作の意義を云々するなら、ストリップも文化的意義がないとは言わせないぞ。でも過去に上野のストリップが公然わいせつで捕まったな(これは、、被害者=劇場の観客が許していようが起訴しない理由にはならない例でもある)。
意義なんて曖昧なものを掲げるほうが、かえって法律上の不条理を浮き彫りにしてしまう。あるいは、二次創作の方がわいせつ図画やストリップより意義が大きいとみなされているから、後者2つと違って親告罪とされているのだろうか?
どれも「表現」には変わりないはずなのだが、その意義に差があるとでもいうのだろうか?どうせ、いやらしい方が意義が低いはずだみたいなステレオタイプにあてはめて判断しているだけで、理路整然とした説明は出来まい?
身もふたもない言い方すれば、自分たちの大好きな二次創作だから「好きだから意義深いはず」って信念だけだよね。それ、無修正エロ漫画が好きな人だって同様に思ってるはずだけど、(少なくとも創作側は)悪いことだと認識して我慢してるんだよ(読者側はしらん)。
結局この複雑な状況に出すべき結論は「お上が法律で違法と言っている」ことをそそのかすのは悪いことなんだよ。「自己責任で」と枕詞をつけることが免罪符になるわけでもない。
その証拠に「自己責任でなら無修正で性器ぱっくり図画出していいよ」「自己責任でストリップ劇場開いていいよ」って言うのははばかられるだろ?そういうこと。
自分がやってしまったこと(例えそれがわずかなものでも)が確実に原因で起きてしまった不幸と、まったく自分に原因のない不幸とではどちらがより耐えがたいものだろうか。
前者は「あのとき自分がこうしていなかったら…」というような激しい後悔に苛まれるだろうし、後者は そのことの理不尽さの前でおのれの無力さをおもいしることだろう。
さて、その選択はとりあえず個人の手に委ねることにして、最初の問いの「不幸」を「恐怖」と置き換えてみよう。
[A]その人自身に起こるべくして起きた恐怖
と
[B]全く原因不明の恐怖
どちらがより怖いか。まあケースバイケースというか結局はその状況に立たされなければ答えは出ないだろうが話を続ける。
[A]の原因というのを、過去にはたらいた明らかに人道に反する行為、とより狭義のものとし、 それ以外を後者にいれるとすれば、一般的に「ホラー映画」と呼ばれているものはほぼ全てが後者を扱ったものだといえよう。
原因が呪いのヴィデオテープを見たということにしろ遺伝子操作に失敗して前代未聞のウィルスに感染してしまったことにしろそれらはとくに人道に反するというほどものではなく、せいぜい無根拠な禁忌を犯したという程度だ。
そして観客はその恐怖を、襲われている者に 感情移入/同化してともに味わい、それから逃れるとホッとして、それからまたそいつに襲われて……、 で最終的には原因が解き明かされるなり逃げ切るなりで幕は下りる。作る側も、いかに観客を引き込ませるかを意図して作っているし、そこで描かれる恐怖というのはあくまで襲われる側から見たものだ。
ところで、[A]の恐怖を描いた映画がいまやほとんどないのは、非のある者がこうむる恐怖を因果応報・当然のものとしてみなし逆に追いつめていく方が主人公として描かれているからである。
すなわち正当な復讐をする勧善懲悪の物語となってしまう。当然それは「恐怖= 襲われる側への感情移入により抱くもの」の図式が成り立たないのは言うまでもない。
では[A]の恐怖が恐怖映画として成立する場合とはどのようなものであるか。
それは、執行される復讐方法が観客に感情移入など到底させないほどおぞましいものであるときである。
観客を思考停止に陥れさせるほどの残酷なもの。このとき、その恐怖はまさに恐怖そのものとしてスクリーンに映し出される。
黒沢清監督作品『蛇の道』(1998年)はこのような映画である。
いや、これだけではこの作品を ひどく矮小化していることになる。
この作品の恐怖は、あるひとつの極点に立ってしまった人間がとってしまう行為の目をそむけずにはいられないような醜悪さが、これでもかこれでもかと露呈されていくことにある。
かといってそれは単に悪趣味とかたづけられるような類いのものでは断じてない。
それが、紛れもなく人間の性質によるので、恐怖を通り越してとにかく正視しがたいのだ。
それでもひとはこの映画を見るというほとんど拷問のような行為をやめようとしないのは、その恐怖の果てにも救いがあるはずだと信じているからにほかならないのだが……。
この映画での哀川はほぼ、人間の醜悪さを次々と 引き出す媒体として存在している。またその媒体としての仕事ぶりの的確さは、この世界の物理学的法則を解明していく学習塾でのもうひとつの姿とも重なり、存在論的に否定しがたいものとなるのだ。 あえて例えるならばこの作品での哀川の存在は、ルー・リードの声の響きのようだ。優しさ/慈悲深さと、 その奥にある圧倒的強度をほこる底無しの得体の知れなさ、そしてかなり強引なのにもかかわらず 抗いきれない魅惑にも似た正しさ(のようなもの)を備えている。
いや、やはりできるだけ見ないほうがよい。レンタルビデオ屋のやくざものコーナーに、絶対的「大凶」としてなにげなく陳列されているのが、 この作品の存在としてしごくふさわしいものだとおもわれる。
(2024年5月付記:リメイク版公開の報に触れ、四半世紀前にこのような文章をひっそり公開していたのを思い出したのでまたひっそりと匿名公開させていただきました。ニュアンスを変えない程度に改行等いじりましたが、死語である「ヴィデオ」」」云々の最終2行は削れませんでした。)
漫画家の「儲け」にまつわる話には、ふたつの矛盾するように見えるストーリーがある。
世間一般の思う、一度当たれば「印税」でガッポガポというイメージ。
一方で、例えば「バクマン」に描かれる、(いちおう)漫画家自身の表現によると「連載が終われば数年で貯金も尽きる」という話。
どちらが間違っていて、どちらが正しいのか? というのは誰しも思う疑問。
しかし深掘りして考えてみると、これは「どっちも正しい」。だからこそ、漫画家って商売は他にない特殊な営業形態なんだとわかる。
※以下では、漫画家業のもっとも「売れる」形態として「週刊連載漫画」に限った話を考える。
まずほとんどの漫画家は雑誌に連載するという形で基本的な収入を得ている。
ここではわかりやすく、1万円とする。
すると、1万円×毎週20P×月4本で、月収は約80万円(100万円弱)くらいが一般的な週刊連載漫画家の最低収入の相場と言える。
ジャンプコミックスの場合約40円。連載が続けば年に約5冊出るわけだから、例えば単巻10万部売れていたら2000万円の収入になる計算だ。
もちろんこれは税金等を一切考慮していない売上高であり、これだけの額になれば実際には半分程度持っていかれるだろう。それでも、なかなかの高収入に見える。
しかし問題は、これだけ大きな売り上げが見込める週刊連載漫画には、実際にはスタジオ制作というコストのかかるシステムが必要なことだ。
最低限度で考えても、アシスタントを4人雇えばその人件費だけで40万は下らないだろう。さらに、それだけの人数で描くと、多くの場合自宅作業ではなく別途仕事場を借りる必要もある。
まあこのあたりは人により原稿料もスタッフの給料もさまざまなので一概に言えないのだが、一般論として原稿料の高いベテランほど、大きなスタジオと技術の熟れた固定メンバーを確保して経費も大きくなる傾向がある。
そんなこんなで、よく言われるのは、原稿料はこれらの諸経費だけで全部消えてしまうという話。
増田にも漫画を描いた経験があるが、20Pの原稿を1週間(弱)で仕上げるというのは信じられないような過酷な作業であり、アシスタント制をなくしては、現代の商業誌に載っている平均的なレベルの漫画を毎週仕上げるなんてことは、作家の「画力」がどれだけあろうとほぼ不可能に近い。
商業漫画のクオリティというものは、この自転車操業のほぼ利益0のシステムが必須であるということはよく覚えておきたい。
一方で、出版冬の時代といわれる昨今、単行本はどれだけ売れているのだろう。
実は、漫画雑誌の中でも押しも押されもせぬ発行部数を誇る「週刊少年ジャンプ」と言えども、信じられないような低い数字も珍しくない。
「鬼滅の刃」や「呪術廻戦」の華々しい数字がメディアに踊るので勘違いしがちだが、ジャンプ連載漫画のほとんどは単巻10万部も売れていない。
例えば、最近アニメ化もした「アンデッドアンラック」や「夜桜さんちの大作戦」(どちらも20巻を越える長期連載)でやっと10万部前後だ(総発行部数を巻数で割って大まかに計算)。
ものすごいものになると、大人気漫画「磯部磯兵衛物語」の作者・仲間りょうの次回作「高校生家族」は、ネット上ではちらほら好意的な感想が散見されたものの、実は売り上げは単巻1万部以下(計測不可)で打ち切りとなってしまった。増田も好きだったのでショックを隠しきれない。ドラマ、絶対いけると思たのに!!!!!
閑話休題。そもそも、「磯部磯兵衛」も単巻ではやっと30万部売れたくらいだ。「斉木楠雄の災難」も同レベル。ギャグ漫画はヒット作でももともとそんなものだということも注意しておきたい。
上でも計算したように、10万部売れてやっと年収2000万、税金が多く引かれることを考えると、サラリーマンならそれなりに良い会社に勤めているというレベルだが、長くても数年で終わってしまう印税収入であることを考えると、はっきり言って少ない。これが一桁上がると一気に数億円になって生涯年収というクラスになるが、そういう「上がり」の漫画家は本当に一握りなのだ。
原稿料はスタジオ維持費で消える。「もうけ」は単行本売り上げ次第。この二重構造が生むのは、株の売買でいうレバレッジの危うさだ。
株のレバレッジ買いというのは、簡単に言うと「株価が上がった時は2倍儲かるが、下がった時は2倍損する」ような信用買いを言う。らしい。増田も素人なのでそこら辺は聞き流していただきたい。比喩なので。
漫画家の場合、ある意味でなお悪い。連載があるときは、定期収入でスタジオを維持しつつ、漫画が当たれば大きなもうけがザクザク入るが、当たらなければそれなり。連載がなくなるとスタジオの維持費を賄う原稿料もない上に、普通は昔の単行本もそこまで売れ続けないので、ただ金が減るばかり。
当たらない漫画を描くということは、その連載中の儲けが少ないだけでなく、連載を終わらせることのリスクも同時に上げてしまうのだ。
当たらない漫画ほど、原稿料の維持のためにしがみつきたくなるという負のインセンティブが働くのである。
こうした不思議な構造は、漫画家が作品を当てて印税収入で儲けを出すという「作家」の側面を持ちながら、スタジオを抱えて自転車操業で日々口に糊するという「中小企業の経営」を求められるという二面性を持つ仕事であることに起因する。
本来、トキワ壮くらいの時代の漫画家は、前者の性質しか持たなかった。小説家や他のフリーランスのアーティスト業と何も変わらない「作家業」であった。
しかし、彼らが売れていくにつれ、漫画産業が盛んになるにつれ、漫画家は「作家」ではいられなくなって来た。
当たれば天国、外れてもまあまあの貧乏暮らしという気楽な稼業でなくなった漫画は、作家としての挑戦に誘うものよりも、日々の仕事をキッチリキッチリで稼ぐ真面目な仕事という側面が大きくなってきてしまった。それでいて、やはり作家自身の成功の如何は、印税収入という儚い夢だけに支えられているのだ。
たまに当たりはあるけども、当たったところでそれはそれだけ、次の事業拡大には繋がらないビジネスなんて、他にあるのだろうか?
こうした漫画家業の二重性は、もしかすると将来の漫画産業に負の影響をもたらすかも知れない。あるいは、既に?
週刊連載をしないと、ここまでのスタジオワークは必要ない場合がある。
とは言え、多くのメジャーな月刊誌を見ている限り、やはりある程度売れる作品は週刊漫画と同じスタジオワークとクオリティで商品価値を保っている例が多いと感じる。
さらに、やはり週刊連載漫画は漫画界におけるある種の花形である。
「鬼滅」「呪術」の例に漏れず、誰でも知ってる大ヒット作というものは週刊連載作品が多い。
これは作品の展開が早いこと、露出が多くなり話題にあがりやすいことなどが理由としてはあるだろう。
ジャンプ連載作品というブランドがまだまだ強いとも言える。しかし、それでも上で述べたように、大半は10万部も売れない自転車操業なのが現実である。
逆に言うと、この状況を変えれば、週刊連載という危うい綱渡りに賭けなくても良いのかも知れない。
現代はネット社会である。作品を世に出す、露出させることについては技術の恩恵がさまざまに得られる時代である。
漫画産業がこれからの時代も伸びていくかどうかは、こういった状況をうまく利用して、漫画家という「稼ぎ方」をどれだけ変えていけるのかにかかっているのかも知れない。
産まれてから言葉を話し始めるのが遅かった時点で気づくべきだった。検査したら発達障害。今は5歳だが、既にアトピーで皮膚はボロボロ。意思疎通が下手で情緒も安定していない。
私も配偶者もお世辞にも頭も容姿もいいとは言えないし、息子は将来成長しても弱者男性まっしぐらだろう。まさか自分が末代を作ってしまうなんて思ってもみなかった。
いくら実子だとしても、実子だからこそ、見たくないものを直視しなければいけない苦痛がある。愛情がないわけではないけど、自分の子供が、世間一般で見れば平均以下だと認めざるを得ない。
こんなことなら病院が間違って隣の子供と取り違えていて欲しかった。せめて自分の子じゃなければ、そういう性質を持っていても優しい気持ちで受け入れられたのにと思う。
自分は社会経験も豊富ではない上、今まで小さい会社に勤めていただけだったから、こういった仕事は初めてだった。
で、新人たち。まぁ見事に挨拶もしない、返事もしない。こちらが問いかけても全く無反応。
一人だけ反応しようと素振りが見られるが、周りが静かすぎて合わせて沈黙する結果、全員が無反応。
自分たちが社外の人間だからだろうか、とも思っていたが、直属の上司にも全く同じ反応。
「連絡事項があります」と声をかけても、喋ることをやめない。
まぁ、社会経験のなさか……よく言われるZ世代の特徴か……?とは思いながら、そこは現状様子を見ている。
ちなみに、ここの社風はなかなかに古風なThe 体育会系だ。(研修プログラムの中に、走り込みや登山などがある)
そんな感じだからか、勝手な偏見で「こんなだりぃ事やってられっかよ!」みたいな、反発心があるかといえばそこは全然なかった。
とにかく自主性がない。いわれたことはきちんとやる。その代わり、いわれたこと以外は全くしない。
今回の学習方針が「自主性を育てる」だったのも相まって、割と研修者に決定権を委ねる、という事を多々行っているが、皆とにかく困惑する。
誰も動かない上に「いやそっちで決めろよ」という空気すら流れる。
そんな研修者たちの自主性のなさや熱量の低さと社風の古式ゆかしいシステムが、第三者から見ていてあまりにもアンマッチだった。
都会とは到底言えぬ場所に会社を構え、その周辺に引っ越しをさせる。ある人はアパートやマンションを借り、ある人は社宅へ居を構える。
居住地でさえ会社に縛られる。その他の様々なアクティブな雰囲気をまとった行事もあいまって、研修者の性質とのギャップを感じ、頭をひねった。
自分なら間違いなく息苦しさを覚えて、こうも変な風習に縛られるのなら、さっさと離脱してしまうだろうな、と考えた。
でもすぐに、こういうのって割と社会人として普通なんだろうな、と思った。
自分の社会経験の薄さもあいまって、判断に困るのだが、それでもある種自分に社会性がないのだな、と気付いた。
多様性という単語を、個人の行動の多様さって意味で使ったのが悪かったな。強迫観念を取り去って色んな行動をしたいんだ。じゃないと労働ができん。
ちなみに個人の中に多様な視点を持つイントラパーソナル・ダイバーシティという概念もあり、個人内にも多様性は必要らしい(そうは思わないが)
学習性無力感の学習性(専門用語)と同じような感じの性質を持った無気力で、まさに「何回もやってんのにダメだ。学習(一般名詞)できてない」ということを自覚してきてて、そんで無力感がある。
そうなんだよね。自分でどうにもならんので変えてくれる何か、誰かに会うまで旅するしかなくて、その一環がこの増田。
計画を建てなきゃいけない理由は、無意味行動ループを自覚して抜けるため。また、本コミュニケーションのようなプチカウンセリング的なヤツを成立させるため。いつ返信見るかとかを考えずに書き散らかしたからあんたからの返信をもらえないってワケよ。
今は旦那さんが料理することも多いのだろうが、仕事をしながら毎食しっかり作っている、という話をすると、驚かれることが多い。
と言うことは、こういう生活スタイルは、まだあまり一般的だとは言えないのだろう。
元はというと、(無自覚だったけれど)自分はかなり食にうるさい方だったらしく、
おいしくないものが我慢できない。それがプレッシャーになる、ということで、自分が料理をするようになった。
ただ料理(食事)が好きなだけじゃん、と言えばそれまでなのだが、
別に元々自炊する習慣がついていたわけではない。学生時代や、社会人生活の最初の方は、かなり適当な食生活をしていた。
だから、今回の話は、必ずしも生まれつき料理が好きな人にだけ当てはまる、というわけではない、と思う。
自分で料理をする上で、最もいいな、メリットだな、と思っている点は、
自分はそもそも合理的な行動が非常に好きなので、料理という一つの動作で多くのメリットを同時に実現していることを思うと、それだけで嬉しくなる。
自分で料理をすることのメリットは何か? 挙げていけば、下記のようになる。
①節約になる。
②健康になる。
③好きなものが食べられる。
⑦妻に喜ばれる
以下、順番に説明する。
これは言わずもがな、だ。一部には、「自炊はお金がかかる」と言っている人もいるようだが、そんなわけはない。
短期的に見れば、確かに一定の初期投資は必要かもしれないが、一旦ルーチンが確立してしまえば、中長期的なコストはどう計算しても自炊の方がやすい。わざわざ計算式で表現するのが馬鹿らしいほどだと思う。
料理器具などについての議論は一旦おいておくとして、ぜひ注目してほしいのは、「保存の効く食材について」だ。
ある程度料理をするようになるとわかるが、案外、日常的な料理で日本人が使用する食材や調味料のレパートリーは限られている。
また、そのレパートリーを大別すると、
(a)生鮮食品のように足が早いもの・・・肉、魚、卵、葉物野菜、牛乳、ヨーグルト、など。
(b)ある程度日持ちのするもの・・・玉ねぎ、ジャガイモ、にんじん、ねぎ、にんにく、生姜、昆布、鰹節、味噌、醤油、酒、ワイン、蜂蜜、塩、砂糖、コショウ、その他種々の調味料、など。
となる。
ポイントは、(b)に分類される、日持ちのする食材のうち、特に根菜類を、例えばイオンの場合であれば火曜市などの安価に入手できる日に、
常に一定数以上確保しておくようにすることだ。
(b)の分類の食材が常に冷蔵庫にストックされており、調味料なども揃っていれば、
あとはその日の気分次第で、適当に(a)分類の生鮮食品と組み合わせて調理する。
肉類も、日によって、この日は豚ロースが安い、この日は鮭が、などと変わっていくので、
特別なこだわりがなければ、こうした特売に合わせて食材をチョイスすると、より割安に材料を調達できる。
こうした方式を導入すれば、仮に一人暮らしだったとしても、食材を無駄にせず、常にジャストな分量の食事を、最も安い価格で実現することができるはずだ。
これについては、妻の嗜好をかなり取り入れたところがある。今となっては、むしろ出来合の食事を食べることがかなりストレスになってしまい、一食でもコンビニ食などで済ませるのは、非常に嫌になった。
むしろ、調理済みの惣菜や、飲食店の食事で、一日に必要な野菜の摂取量を十分に確保することは難しい。
調理済みの食品には、大抵の場合、多くの食品添加物が使用されている。
昔は食品添加物など「そんなシャラ臭いこと気にしてられるか」という印象だったが、今はほとんど全ての買い物で、食品の成分表示を確認するようになった。
具体的に、何は取るべきではなく、何は取ってもいい、という情報はあまりにも細かな話になってしまうし、自分自身でも完全に把握できているわけではないので、立ち入らない。
が、実際にコンビニやスーパーなどで普通に販売されている食材の中にも、専門的な見地から見て十分に安全とは言えない添加物が多数使用されているようだし、
加工食品をあまり摂取しない生活の方が、(少なくとも主観的には)体調がいい状態で日々を送れているように感じる。
また、砂糖や油などの、体調への影響度が大きい成分についても、
自炊をする中で、それぞれの分量や性質が自分の体調に与える影響の度合いを、実経験で観測していくことができる。
こうしたPDCAが自炊をしていると自然と回るようになるので、自然とダイエットにもなり、体調管理にもつながっていると思う。
これも当たり前と言えば当たり前だが、自炊による料理のおいしさ、という点では、個人的にはYoutube以前と以後で、自炊を巡る状況は大きく変わっている、と思うのだが、どうだろうか。
コロナ以前の、あまりYoutube上での料理動画が充実していなかった頃は、ホットクックを見るか、料理本を見て作るか、くらいが基本的な選択肢だった。
ホットクックは玉石混淆だし、料理本は色々試すにはハードルが高く、またレシピ通りに作っても必ず美味しくなるわけではない。
また、いずれの場合でも、レシピだけを見て作っていると、料理の背景に、ベースとなる基礎があることが理解しにくかった。
その点、例えば食材の切り方一つ、食材の投入タイミング一つでも、動画で示されれば、そこで用いられているテクニックは一目瞭然だ。
また、「これは本当にすごいな」という、作って感動するレシピがかなりたくさんあるのもYoutube料理動画の凄さだと思う。
誰の料理が好きかは好みが分かれるところだろう。個人的には、コウケンテツさんは、このジャンルでは本当の天才だと思う。ほとんど全てのレシピ動画に、味という観点だけでなく、作りやすさ、シンプルさ、という観点からも、驚くような工夫が凝らされている。毎回非常にクオリティが高いのに、ありふれていない。単純に仕事として憧れるところがある。
Youtubeがあることは、今から自炊を始めることの大きな理由の一つになるのではないか。
上記のように、Youtube動画でちゃんとレシピや工程を確認しながら多くの料理を経験していくことで、料理全般を下支えするセオリーが体感的にわかるようになってくる。
例えば、
・どのようにして旨味を構成するか?
・〇〇の食材は、季節によって味がどう変化するか、いつが美味しいのか?
・なぜこの順序で食材を投入するのか?
など、無数に論点がある。
もちろん、素人なので、こういう事柄について体系的にわかっているわけではないが、それでもかなり感得できるところがあるのは確かだ。
「なぜこのような料理の仕方になっているのか」「この料理のうち、何がユニークなのか?」「なぜこれが美味しいのか?」などを考える上で、それを言語化し、考えるためのヒントが自分の中で非常に多くなる。
また、それに対する考察が、日常の料理にもフィードバックされるために、自分と家族の食の経験がより豊かなものになっていく。
これは、とても創造的で、面白い頭の使い方だと思う。食をよく楽しむと、「ああ、人生を豊かに楽しんでいるな」という気に、ふとなる瞬間がたくさんある。
これも、個人的にそう感じる、というレベルのことに過ぎないかもしれないが、料理や食材は、「人間と自然との強力な接点の一つ」だ。
「サラリーマンは一年のうち3ヶ月は田舎に行って農作業をするべきだ」
というようなことを言っていた。
これは、人間は(人間以外の)自然に触れることで、人としての自然なあり様を取り戻せる、などというような話の文脈で言っていることのようだったが、
やはり現実的にはこれはなかなか難しい。
一方で、都会に暮らしていると、自然に触れることによって自分の心身が整えられる感覚があるのも、自分としては実感するところだ。
例えば、食材を茹でている鍋の中で、いろいろな食材の色を眺めていると、何となく癒されるものがある。
また、料理をすれば、その色彩を眺めるだけでなく、実際に手で触れ、匂いを嗅ぎ、それを味わう、という、五感を総合的に用いたプロセスを、自然と経験する。
これが、日常生活を生きる上での、癒しになっている面は非常にあると思う。これは、例えば電子機器などが介在するような趣味とは、少し異なる位置づけの趣味として考える必要がある。
料理は細々したタスクの積み重ねだ。日々確実に、決まった時間に、下記のような要素を十分に考慮した料理を提供する必要がある。
・おいしさ
・栄養素
・原材料費
・在庫管理
・洗い物の段取り
これらの左脳的なタスクも、非常に奥深いものがあり、上記を同時に達成するためには、細かなオペレーション上の工夫や、機材の導入などを適切に行なっていく必要がある。
私自身は一介の勤め人だが、上記のようなスキルは、一般に経営者が求められる全般的なスキルと通ずるところがあるのではないか、と思う。実際に、経営学等における考え方を、日々の料理の管理に活用している部分も色々ある。
こうした事柄について改善を行うためには、個々の作業をただ行うだけではなく、全体の工程を俯瞰した上で、このプロセス全体を創造的に組み替えていく必要がある。
ここまで色々語っているが、自分が料理に実際に日々費やしている時間は、平均で30分程度のものだろうと思う。
このような工夫を継続的に行うことで、「涼しい顔をして高品質のアウトプットを出し続ける」ような仕事の仕方を、多少なりとも身につけることができつつあるのではないか、と思っている。
結局、これが一番大事だ。
よくある言説として、「時給に換算するとこれは〇〇円だから、外注した方がいい」などというものがある。
確かに、資本主義の原則から考えれば、原則的に自給自足は不合理であり、分業こそ正義、というのは、理論的には正しいだろう。
「自分がすることのうち、何を内部化し、何を外部化するか、ということは、生き方そのものを規定する哲学だ」ということだ。
それこそ原理から言えば、ありとあらゆることを外注化することができる。
料理を外注化すること、子育てを外注化すること、(仮想的に)家族・友人を外注化すること、(パッケージ化された娯楽を楽しむという点で)趣味を外注化すること。
技術が発展すれば、例えば「息をする」というようなことも外注できるだろう。
原理を考えれば、デカルト式に、「我思う」以外の事柄は、全て外注可能である、と言うことができるかもしれない。
しかし、やっぱり自分はそういうあり方には、本質的な喜びはない、と思う。
食事を作り、家族と食べる、という行為は、「息をする」のと同じカテゴリーに入る、自分に属する行為だ、と、今の自分は感じているらしい。
まあ、どこにラインを引いていくかは、人それぞれだ。それが生きる姿勢の反映ということだと思います。
…
リベラルやフェミニズムそのものが本質的に差別意識を内包しているからそれに被れてる奴はそりゃ差別主義者なのよ
反AIに限った話でもないが、恐らく読解力が平均以下の人間はそんなものなんだろう
ところで、以下の性質を併せ持つ人間は陰謀論にハマりやすいという研究がある
・読解力が低い
・あまり考えない
この声明、「すべての表現は怪文書の作成である」は、コミュニケーションと芸術の風変わりで独特な側面を強調する挑発的な主張です。この声明は、私たちが伝えようとするすべての行為にはある程度の謎と曖昧さが伴う可能性があることを示唆しています。
「怪文書」という用語は、通常、奇妙で理解しがたく、時には混乱を招くような文書を指します。このコンテキストでは、それは表現の不可解で風変わりな性質を捕らえています。すべての表現行為、それは芸術、執筆、スピーチ、または他の形態であっても、解釈と分析の複数のレイヤーを残す可能性があります。それは、視聴者や読者を魅了し、魅了し、混乱させる可能性があります。
この声明は、表現の主観的で個人的な性質を認識しています。私たちが何かを発信するとき、それは私たちの内なる精神、私たちのユニークな視点、そして世界に対する私たちの個人的な解釈から生じます。この内なるプロセスはしばしば曖昧で、完全に言葉で表現することはできません。その結果、私たちの表現は、他の人にとって風変わりで謎めいたものになる可能性があります。
さらに、この声明は、表現の微妙な力と影響も示唆しています。表現は、アイデアを伝えたり、感情を喚起したり、視聴者の心に疑問を投げかけたりする可能性があります。それは、人々を魅了し、彼らの解釈と分析を刺激し、彼らに独自の結論を導き出すように促す可能性があります。この意味で、すべての表現は、その受信者の心の中で独自の怪文書を作成します。
この声明はまた、表現の革新的な側面にも光を当てている可能性があります。表現は、境界を押し広げ、新しいアイデアを提示し、主流の期待に挑戦する可能性があります。この意味で、それは風変わりで革命的である可能性があり、視聴者に新しい視点や考え方を提示します。
「すべての表現は怪文書の作成である」という声明は、コミュニケーションと芸術の複雑さを認め、表現の不可解で風変わりな側面を祝います。それは、私たちの表現が常に明確な答えを提供するのではなく、むしろ解釈、探求、そしてさらなる探求のための招待状であることを示唆しています。
ガルバ/キャバ/コンカフェ/ホスト/地下アイドル/風俗とか、客の恋愛感情を煽るような仕事してる人はいつ殺されてもおかしくないとでも思ってるのか?
元増田をざっと抜粋したんだけどさ、明確に批判者のことをバッシングしてるよね。
一方で殺された女性の性質なんかに触れてしょうがないんだ、とかのことは一切いってない。
「神」のスコープが正しく出来てないから混乱をきたすんだよなと思う
日本の「八百万の神」という言葉の中で用いられる「神」っていわゆる多神教の神とは性質が違うと思っててざっくり不思議生命(?)体くらいの対象を「神」と呼称しているにすぎないと思う。
よく言う日本における「神」がスピリッツ(精霊)を指すっていうのは結構近い解釈。ただ微妙に違うのが日本の「神」の中にはちゃんと多神教で扱われる神も含まれてるところ。
なんならキリスト教的に言われるところの悪魔も「神」に含まれているとすら思う。
この前提を無視して石ころに神が宿っているというけど~みたいなことをしゃべってもそりゃずれるよなって感じ
恋愛的な意味で人を好きになったことがないので、人を好きになりすぎてアホになったりその人のことが頭から離れなくなったりしたことない。
同じ人を好きになるでも恋愛と親愛と尊敬では性質が違うだろうから「(恋愛経験ではなく)「人を好きになる経験」の話に言い換えられる』」はあんまりしっくりこない
これも個人差がある話だろうけど
スーファミの試作機がネットオークションに出されて話題になっているが、一部では任天堂がその気になれば所有権に基づき試作機を取り戻せるのではないか、と指摘されている。
当方は法曹でもなければ法学部卒でもないが、民法の教科書を読む限りは、任天堂は遅くとも2015年11月23日にはスーファミ試作機の所有権を失い、試作機占有者が正式に所有者になっているのではないかと推測する。以下、条文の当てはめを示す。
占有者の所有の意思(自主占有)はいつ発生するか。この発生時期が取得時効の起算点になるため重要である。
試作機の使用貸借の終了により代理占有関係が消滅しても、任天堂は試作機をなおも代理占有し続ける(204条第2項)。他方で学説は、占有代理人に「自己のためにする意思」も存在するときは、占有代理人において他主占有に加えて自主占有も併存しうるという(潮見佳男 民法(全)(第2版)(pp.245-246))。これに合わせて、所有の意思の有無は、占有取得の原因となった客観的事実(占有権原の性質)から外形的に判断される(最判昭45.6.18)という判例理論を考慮すると、試作機返還債権の消滅という占有権原の性質の変化から、占有代理人には他主占有に加えて自主占有も併存し、この債権消滅日を取得時効の起算点と自分は結論した。
(追記)
ブックマークコメントの指摘の通り、所有の意思が占有取得の原因となった客観的事実(占有権原の性質)から外形的に判断されるならば、試作機返還債権が時効消滅しても占有取得の原因となった客観的事実は変わらないのだから、引き続き占有代理人には所有の意思なしと考えるべきかもしれない。
しかしその場合、占有権原(使用貸借契約)に起因する債権(試作機返還債権)が全て消滅時効にかかってもなお任天堂が永遠に代理占有し続けうるということを意味し、法的な不安定性を社会にもたらしうると思う。別の解釈として、試作機返還債権を本人(任天堂)が行使せずに時効により消滅させたことを、黙示に代理人に占有をさせる意思を放棄(204条第1項第1号)したと位置付け、任天堂の代理占有が消滅し占有代理人から他主占有が消滅した、こういった具合に法律構成することができるかもしれない。但し、ざっと調べた限りこれを支持する判例や学説は見つけられなかった。
もっとも、オークション売主の言動を見る限り、ゲーム開発会社に勤めていた父親が退職の記念に持ち帰った試作機を相続により承継した子息が売りに出した、こういった経緯が目に浮かぶ。この場合、退職により父親が持ち帰った日にゲーム開発会社(占有代理人)は占有物の所持を失うことになり、任天堂の代理占有は消滅する(204条第1項第3号)ので、退職日が取得時効の起算点になるだろう。また、ゲーム開発会社が解散して試作機が外部に流出した場合は、同様の理由でその流出日が取得時効の起算点になるだろう。いずれにしても、取得時効の起算点は1995年11月22日よりさらに遡る可能性が高い。
この少し前に話題になった、日本マクドナルドの社内研修用ニンテンドーDSソフトの「クルトレ eCDP」について、同社が所有権を失うのはいつか。以下に示すように、遅くとも2039年頃にはマクドナルドはクルトレの所有権を失うだろう。
まず、スーファミ試作機の考察から、取得時効の起算点の特定のために、占有者の所有意思の推定(186条)を所有者が覆せなくなる日はいつかが重要になる。その日は、フランチャイズ店からクルトレが外部に流出しマクドナルドが代理占有を失った(204条第1項第3号)日になるだろう。この日からクルトレ占有者の所有意思の推定(186条)をマクドナルドは代理占有を根拠に覆せなくなり、取得時効が起算される(162条)。
クルトレが外部に流出した日はいつかはケースバイケースであろうが、報道によるとマクドナルドは2018年までクルトレを研修に使用していたとのことなので(ttps://www.j-cast.com/2024/03/27480390.html)、遅くともその翌年の2019年に外部流出したと仮定してよいだろう。
すると2019年の20年後の2039年に取得時効か成立し(162条)、クルトレの占有者は正式に所有権を取得する。その反射的効果としてマクドナルドは同所有権を失う。
(使用貸借)
第593条 使用貸借は、当事者の一方がある物を引き渡すことを約し、相手方がその受け取った物について無償で使用及び収益をして契約が終了したときに返還をすることを約することによって、その効力を生ずる。
第185条 権原の性質上占有者に所有の意思がないものとされる場合には、その占有者が、自己に占有をさせた者に対して所有の意思があることを表示し、又は新たな権原により更に所有の意思をもって占有を始めるのでなければ、占有の性質は、変わらない。
(期間満了等による使用貸借の終了)
第597条 当事者が使用貸借の期間を定めたときは、使用貸借は、その期間が満了することによって終了する。
2 当事者が使用貸借の期間を定めなかった場合において、使用及び収益の目的を定めたときは、使用貸借は、借主がその目的に従い使用及び収益を終えることによって終了する。
第166条 債権は、次に掲げる場合には、時効によって消滅する。
一 債権者が権利を行使することができることを知った時から五年間行使しないとき。
第186条 占有者は、所有の意思をもって、善意で、平穏に、かつ、公然と占有をするものと推定する。
2 前後の両時点において占有をした証拠があるときは、占有は、その間継続したものと推定する。
第204条 代理人によって占有をする場合には、占有権は、次に掲げる事由によって消滅する。
二 代理人が本人に対して以後自己又は第三者のために占有物を所持する意思を表示したこと。
昔ほど見る機会減った気がするが、未だにこの揶揄を見る。
一昔前に一気に広がった気がするが、初めて見たときからこの揶揄への違和感、気持ち悪さがすごい。
基本的にこの言葉は"気持ちの大きさから間違った認識や言動で周囲を困惑させる人"に向かって使われるものだと思うが、登場時からそこまで間違ってもいない意見にも「お気持ち表明w」と揶揄する場面に出くわす。
そもそも前者のパターンでも間違った言動をしているならそこを突けばいいだけの話を、なぜか"お気持ちを出している"部分を突いていることに違和感を持つ。
派生として「お気持ち長文」という言葉もあるように、このワード使う人たちはまず長い文章が読めないのだろう。
文章を読んで間違った言動を見つけて指摘するという簡単なプロセスが踏めない。日本人の識字率100%は嘘である。
そして”お気持ちを出している”部分をわざわざ突くということは、気持ちを伝えることが恥ずかしいことだと認識している。
家族や友達と腹を割って話したことがないのだろう。人生経験の浅さが伺える。
また相手に効くと思って文脈を無視して使っているところを見るに、いかに楽して相手を効率よく罵倒するかしか考えていない。
思い返してみればネットの著名人でこのワードを使ってる人を見たことがない。
罵倒にならないと思っていたり、自分の格を下げる言葉だとわかってるんだろう。
自衛として自分から先手でお気持ち表明と題して文章を書き連ねる人も散見されるので、そんなくだらない言葉には負けないでほしい。
536 デフォルトの名無しさん 2024/05/07(火) 09:55:37.07 ID:eRnvNXkn
数学では様々な構成において、ある関係をみたすA1, A2, A3, ... を集めてくると、新たな対象Aが一意的に定まる、という形式のものがある。
これは普遍性と呼ばれている。
たとえば、Rを環とし、R加群M, Nのテンソル積π: M x N → M⊗Nは、次の性質で特徴付けられる。
(☆) 任意のR加群Lと、双線形写像f: M x N → Lを与えるごとに、線形写像g: M⊗N → Lが存在して、g∘π = fをみたす。
アラビア語圏では、材料となるデータA1, A2, A3, ...のことを「マンコ」、新しい対象Aのことを「ハメル」という。