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2024-05-19

上川外相

最近外交はとんと声がかからなくなって、SNSに取り上げてもらうために

あいった微妙なところを突くというのはすごいですな。

比喩から、といういいわけをできると思っての作戦でしょう。

でもそんな作戦にのっているマスコミのほうがどうかしてるとおもいます

上川外相発言「うまずして何が女性か」だけど、メディアの取り上げ方がヘンだという、当たり前のことを、

ちゃんと指摘しておかないと日本はどんどんおかしくなる。

生みの苦しみという比喩として昔から成立している表現を、まさしくそのような用法発言しているにもかかわらず、マスコミは一体なんなんだ。

候補当選によって新たな知事誕生させたいとの思いがあったとみられるが、出産を願ってもできない人への配慮に欠けるとの指摘が出る可能性がある。

とても気になったのは「XXへのへの配慮に欠けるとの指摘が出る可能性」という表現

こうして、「出産を願ってもできない人」というグループ示唆することで、それらが何かしら傷つきやすメンタルを持っているという、配慮を要する人々としてイメージを固定してゆくのがとても気になる。

実際には、出産を願ってもできない人々というのは多様だ。みんないろんな事情があるんだよ。

単に適齢期を過ぎているだけとか、仕事と両立したいなどの理由で機会を逸している、とか、あるいはそもそもパートナー出会えないなど、

要するに、ないものねだりをしている場合だってある。経済的問題で躓いているひともいるはずだ。

じゃあ、逆に「出産を願ってもできない人」というカテゴリーにはそういう社会経済的弱者は入りませんよ、というのかね?

体や心の障害に起因して、ある意味病理的な意味で、出産ができない人を指すのだと定義したりしてしまう?

そうすると、今度はむしろ、健常ならできるはずのことができない人々は悔しいと思っているに違いない、かわいそうだから、産むとかそんな言葉に触れさせないよう配慮必要っていう、潜在意識ますます透けてくる。

でも心身の問題出産できないというのを、自分はいかんとしもしがたい宿命的なものして捉えた場合

それって社会経済的理由出産できない場合と実際のところ、地続きだと思える。

例えば、親の介護など家庭の事情で適齢期を逃した人がいたとするよね。それってその人にとっては、自分意思で選んだわけではなく、自分にはどうにもできなかった、そういう運命だったという意味では、病理的に出産できないという宿命とさほど変わらないようにも思うんだよね。

出産を願ってもできない人」

産みの苦しみとかい表現を嫌がるような、そういう配慮を要するグループがあたか存在するかのように、それを空気のように記事するマスコミのほうが怖い。

そういうの、すごく傲慢上から目線だと思わないのかね。

障害者や病人ができなそうなことを比喩的にでも表現するのは彼らを傷つける行為だとする空気をまん延させることは、「そういうカテゴリーの人たちを可哀そうだと思うべきだ」とする社会規範空気として押し付けてくることだ。

そこでは、知らず知らずに、どこまでが可哀そうなグループで、どこまでが身から出たさびとみなすグループなのかの選別が空気として形成される。

実際には、よくよく考えると、どこからどこまでが配慮を要する、などと到底割り切れるものではない。誰かを傷つけるかもしれない、と配慮することはそのイメージから漏れた人を知らず知らずに排除することでもある。その意味で、病理的な意味出産ができない人に限定して、「出産を願ってもできない人」というイメージを作り上げるなら、それは差別的ですらある。その場の雰囲気で、発言文脈をよく考えずに配慮を求めることで、逆に、特定グループを過度に保護し、そのグループ弱者として固定化する結果を招きかねない。

抽選結果で「落選」はやめます 都立中高説明会、表現めぐる指摘受け [東京都]:朝日新聞デジタル

これなんかも、「受験生」の感受性因子(susceptibility)を過剰に捉えていて、おかしなことになっている。


出産を願ってもできない人」なんていうふわっとしたイメージは、そもそもそんなに必要かね?

これは、戦時中の、「兵隊さんご苦労さん」っていって兵隊を敬わせて背中を押し、銃後の守りを頑張らせようとするのと近い話で、マスコミ世間空気をつくることができるのだから気を付けてもらいたい。

配慮に欠ける可能性がある」という、世論規範的に誘導する表現は、プロパガンダとしても機能してしまうので、正直、よっぽどのことがない限り使ってもらいたくない。

必要だとすれば、なぜ必要だと認識しているのか、マスメディアにはよくよく考えてもらいたい。

とりわけ政治家発言については、言論多様性重要だ。

言論空間を浄化して、きれいな発言だけをすればいいというものではない。

浄化できるというのも幻想しかなく、配慮したつもりで単に別の固定観念形成される、ということも頭に入れておく必要があるだろう。

政治家発言に過度な配慮が求められると、知らず知らずに本来意図文脈が歪められる恐れがある。

特に選挙に絡んだ発言については、妙な世論誘導に使われかねない。

自由表現が妨げられることで、社会全体の健全議論が損なわれることになる、ということの不利益ちゃんマスメディア理解しておくべきだ。

2024-05-18

anond:20240518084904

つるべ落とし、みたいな比喩と絵柄を一致させて覚える

2024-05-17

anond:20240517130412

これを「癌は遺伝する」って話だと思い込むのが

最前から言ってる「抽象思考無理なレベルの人」の説明そのまんまなんだけど

それを当人にわからせる方法はほぼないんだよなあw

比喩という概念自体が無理なのを見てとって

さら抽象度を上げてX,Yに置き換えてもそれは見えないのか見たくないのか。

論点ずらし」の呪文一発でなかったことにされちゃったw


そこは〇〇でも✕✕でもAでもBでも言ってること一緒なのよ。ガイちゃん聞こえてる?

anond:20240517124226

ここで増田恒例、抽象思考無理なレベルの人がさっそうと登場w

ガイジは比喩においては「共通点」にしか意味がないということがわからないので

りんごを使って算数教えようとしたら個体差がどうとか本気でゴネだすんですよ。

そして挿絵に過ぎない比喩自体を本題だと思いこんで食らいつく。

遺伝とガンは違う!」ってw

anond:20240517114306

あれって決して叶えてくれない悪魔比喩だよな

2024-05-15

漫画家という収益構造理不尽

 漫画家の「儲け」にまつわる話には、ふたつの矛盾するように見えるストーリーがある。

 世間一般の思う、一度当たれば「印税」でガッポガポというイメージ

 一方で、例えば「バクマン」に描かれる、(いちおう)漫画家自身表現によると「連載が終われば数年で貯金も尽きる」という話。

 どちらが間違っていて、どちらが正しいのか? というのは誰しも思う疑問。

 しかし深掘りして考えてみると、これは「どっちも正しい」。だからこそ、漫画家って商売は他にない特殊営業形態なんだとわかる。

 

 ※以下では、漫画家業のもっとも「売れる」形態として「週刊連載漫画」に限った話を考える。

 

原稿料印税

 漫画家収入についてざっくりまとめる。

 まずほとんどの漫画家雑誌に連載するという形で基本的収入を得ている。

 その原稿料掲載料)がだいたい1Pあたり数千円〜数万円。

 ここではわかりやすく、1万円とする。

 すると、1万円×毎週20P×月4本で、月収は約80万円(100万円弱)くらいが一般的な週刊連載漫画家の最低収入相場と言える。

 

 一方で、単行本が売れると1冊あたり10%の印税収入がある。

 ジャンプコミックス場合約40円。連載が続けば年に約5冊出るわけだから、例えば単巻10万部売れていたら2000万円の収入になる計算だ。

 もちろんこれは税金等を一切考慮していない売上高であり、これだけの額になれば実際には半分程度持っていかれるだろう。それでも、なかなかの高収入に見える。

 

スタジオ制という自転車操業

 しか問題は、これだけ大きな売り上げが見込める週刊連載漫画には、実際にはスタジオ制作というコストのかかるシステム必要なことだ。

 最低限度で考えても、アシスタントを4人雇えばその人件費だけで40万は下らないだろう。さらに、それだけの人数で描くと、多くの場合自宅作業ではなく別途仕事場を借りる必要もある。

 まあこのあたりは人により原稿料スタッフ給料もさまざまなので一概に言えないのだが、一般論として原稿料の高いベテランほど、大きなスタジオ技術の熟れた固定メンバーを確保して経費も大きくなる傾向がある。

 そんなこんなで、よく言われるのは、原稿料はこれらの諸経費だけで全部消えてしまうという話。

 

 つまり雑誌掲載だけではプラマイゼロという話だ。

 増田にも漫画を描いた経験があるが、20Pの原稿を1週間(弱)で仕上げるというのは信じられないような過酷作業であり、アシスタント制をなくしては、現代商業誌に載っている平均的なレベル漫画を毎週仕上げるなんてことは、作家の「画力」がどれだけあろうとほぼ不可能に近い。

 商業漫画クオリティというものは、この自転車操業のほぼ利益0のシステム必須であるということはよく覚えておきたい。

 

単行本はどれだけ売れているのか

 一方で、出版冬の時代といわれる昨今、単行本はどれだけ売れているのだろう。

 実は、漫画雑誌の中でも押しも押されもせぬ発行部数を誇る「週刊少年ジャンプ」と言えども、信じられないような低い数字も珍しくない。

 「鬼滅の刃」や「呪術廻戦」の華々しい数字メディアに踊るので勘違いしがちだが、ジャンプ連載漫画ほとんどは単巻10万部も売れていない。

 例えば、最近アニメ化もした「アンデッドアンラック」や「夜桜さんちの大作戦」(どちらも20巻を越える長期連載)でやっと10万部前後だ(総発行部数を巻数で割って大まかに計算)。

 ものすごいものになると、大人漫画磯部磯兵衛物語」の作者・仲間りょう次回作高校生家族」は、ネット上ではちらほら好意的感想散見されたものの、実は売り上げは単巻1万部以下(計測不可)で打ち切りとなってしまった。増田も好きだったのでショックを隠しきれない。ドラマ絶対いけると思たのに!!!!!

 閑話休題そもそも、「磯部磯兵衛」も単巻ではやっと30万部売れたくらいだ。「斉木楠雄の災難」も同レベルギャグ漫画はヒット作でももともとそんなものだということも注意しておきたい。

 

 上でも計算したように、10万部売れてやっと年収2000万、税金が多く引かれることを考えると、サラリーマンならそれなりに良い会社に勤めているというレベルだが、長くても数年で終わってしま印税収入であることを考えると、はっきり言って少ない。これが一桁上がると一気に数億円になって生涯年収というクラスになるが、そういう「上がり」の漫画家は本当に一握りなのだ

 

連載がなければスタジオが立ちいかない、印税がなければ儲けが出ないの生むレバレッジ

 原稿料スタジオ維持費で消える。「もうけ」は単行本売り上げ次第。この二重構造が生むのは、株の売買でいうレバレッジの危うさだ

 株のレバレッジ買いというのは、簡単に言うと「株価が上がった時は2倍儲かるが、下がった時は2倍損する」ような信用買いを言う。らしい。増田素人なのでそこら辺は聞き流していただきたい。比喩なので。

 漫画家場合ある意味でなお悪い。連載があるときは、定期収入スタジオを維持しつつ、漫画が当たれば大きなもうけがザクザク入るが、当たらなければそれなり。連載がなくなるとスタジオの維持費を賄う原稿料もない上に、普通は昔の単行本もそこまで売れ続けないので、ただ金が減るばかり。

 当たらない漫画を描くということは、その連載中の儲けが少ないだけでなく、連載を終わらせることのリスクも同時に上げてしまうのだ。

 当たらない漫画ほど、原稿料の維持のためにしがみつきたくなるという負のインセンティブが働くのである

 

 こうした不思議構造は、漫画家作品を当てて印税収入で儲けを出すという「作家」の側面を持ちながら、スタジオを抱えて自転車操業で日々口に糊するという「中小企業経営」を求められるという二面性を持つ仕事であることに起因する。

 本来トキワ壮くらいの時代漫画家は、前者の性質しか持たなかった。小説家や他のフリーランスアーティスト業と何も変わらない「作家業」であった。

 しかし、彼らが売れていくにつれ、漫画産業が盛んになるにつれ、漫画家は「作家」ではいられなくなって来た。

 当たれば天国、外れてもまあまあの貧乏暮らしという気楽な稼業でなくなった漫画は、作家としての挑戦に誘うものよりも、日々の仕事キッチリキッチリで稼ぐ真面目な仕事という側面が大きくなってきてしまった。それでいて、やはり作家自身成功の如何は、印税収入という儚い夢だけに支えられているのだ。

 たまに当たりはあるけども、当たったところでそれはそれだけ、次の事業拡大には繋がらないビジネスなんて、他にあるのだろうか? 

 

 こうした漫画家業の二重性は、もしかすると将来の漫画産業に負の影響をもたらすかも知れない。あるいは、既に?

 

最後に:週刊連載漫画家以外は?

 週刊連載をしないと、ここまでのスタジオワークは必要ない場合がある。

 とは言え、多くのメジャー月刊誌を見ている限り、やはりある程度売れる作品は週刊漫画と同じスタジオワークとクオリティ商品価値を保っている例が多いと感じる。

 さらに、やはり週刊連載漫画漫画界におけるある種の花形である

 「鬼滅」「呪術」の例に漏れず、誰でも知ってる大ヒット作というものは週刊連載作品が多い。

 これは作品の展開が早いこと、露出が多くなり話題にあがりやすことなどが理由としてはあるだろう。

 ジャンプ連載作品というブランドがまだまだ強いとも言える。しかし、それでも上で述べたように、大半は10万部も売れない自転車操業なのが現実である

 逆に言うと、この状況を変えれば、週刊連載という危うい綱渡りに賭けなくても良いのかも知れない。

 現代ネット社会である作品を世に出す、露出させることについては技術恩恵がさまざまに得られる時代である

 

 漫画産業がこれから時代も伸びていくかどうかは、こういった状況をうまく利用して、漫画家という「稼ぎ方」をどれだけ変えていけるのかにかかっているのかも知れない。

2024-05-14

愛するお前へ

夜も遅くて連絡するのがはばかられるのでこの肥溜めに君への想いを書き留めるよ。

君にとって、僕は太陽だ。近すぎず遠すぎず、いつもじんわりと全体を順繰りに生暖かくして、強い男性に恐怖していて潔癖じみた個人主義の君の体表に救うアトモスフィアは、絶妙死滅しない。

僕にとって、君は衛星だ。常に僕を見ていてくれるが、君は決して僕を束縛しない。なんか遠くでクルクルしてるだけ。

君が今週末、後輩と遊ぶと聞いて、とても興奮している。まぐわったら感想を聞かせてほしいし、まぐわらずとも僕と比較して良い点があったら教えてほしい。

僕は君と結ばれて愛の結晶がお前の膣から噴出(出産比喩だよ。気にしないで)されるのを待ち遠しく想うと同時に、彗星のごとく飛来した第三者によって関係破滅するのを待ち構えている。

僕にとって、君は太陽だ。僕より長生きして、100億年後に世界すべてを破滅させてくれ。

全然関係ないけど子供向けに世界の終わりを科学的に示すのやめたほうがいいと思う。哲学科に進んでしまうぞ。ガキにはポルノハブでも見せとけ。

https://holdings.panasonic/jp/corporate/sustainability/citizenship/pks/library/009earth/earth012.html

2024-05-13

なぜか好かれてると勘違いする奴って本当はものすごい打たれ弱くて片思いにすぎないことを直視したら比喩でなく死にかねないか生存本能自死を防ぐために認知の歪みを発生させてるのかな

anond:20240513124206

直喩じゃなくて比喩なんや

そこを勘違いしてるとアホっぽいやで

anond:20240105191053

どの親の子として生まれるかどうかは運で決まるけど、

ガチャを引く行為に相当する何がないことには

ガチャ比喩を使うのは不適切だという話だな。

「そういう話ではない」とか、

まれが運で決まることを増田否定しているかのような

言及ブコメ的外れもいいとこ。

ただ、その親からまれるかどうかの2択も別に選択できるわけではないな。

anond:20240105191053

自分が生まれる前に親は選べないから!

から自分で欲しい景品だけを選べない「ガチャ」ってワード比喩するんだよ

2024-05-11

anond:20240511101439

それはアタック比喩)が攻撃なのではなくストーカーしたり殺したり立場を利用して社内での居場所をなくすことが攻撃ですね

2024-05-09

anond:20240509184357

比喩としては「人は二度死ぬ」とよく言われるけどな。

セカンドレイプだってセカンドは実際のレイプでは無いのだから比喩的な意味死ぬのをカウントしてもよかろう。

2024-05-08

anond:20240508213519

そういうのはミラーリングではなくない?

単なる比喩とか換喩とか。

ミラーリングっていうのは、

私たちのことこうやっていうけど、君たちのほうこそどうなんだい

という立場の反射

anond:20240506233546

俳句が"情念"や"私"を盛る器たり得るか? というのは、増田の言う通りあるあるネタだと思うが、正直情念シマシの俳人もいるので、情念一本槍で説明するのはちょっと難しいんじゃないかと思う。というわけで、自分の好きな情念系の俳人三橋鷹女の句を紹介したい。

  この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉  鷹女

あまりにも有名なこの句。なんというか、余りにもぎょっとする一句だ。作者は秋の夕方燃え上がるような紅葉の樹をただ見ているだけだ。しかし、その樹の美しさが作者の心中出会って化学反応が起きる。「この美しい秋の夕暮れの紅の陽の中で、こんな燃え上がるように輝く紅葉の樹に登ったら、私の中の何かが身を焦がし、たちまち目はつり上がり口元は避け頭には角が生え私は鬼になってしまうのではないかしら……」と考えるという、そんな俳句だ。想像できるだろうか?

たとえば妖艶な女性が秋の夕暮れ、紅葉を見ながらほんのり微笑んでるわけだ。(できれば舞台京都とかその辺の古都であってもらいたい。)やあ、紅葉がきれいですねえ、なんてうかつに声をかけると彼女はにっこり笑って、「そうですね、きれい……あんまりれいで…」と何か言いたげに言葉を濁す。ここでついうっかり、え、紅葉好きなんですか、なんて下心を出して聞いたが最後、「いえね、あんまり燃え上がるようにきれいから、この樹に登ったら全身火に包まれしまいそう、そうして大声で叫ぶ私は、まるで鬼になったように見えるかしらなんて思うと面白くて……」などとやべー妄想を全開でぶちかまされるからだ。考えてみてほしい、鬼になるかどうか、とか以前に、美しい紅葉を見て「その樹を登ったら…」なんて想像をする時点で(まともな大人でそんな奴、いるか?)もうこの人尋常じゃないヤバい系の人なのだ紅葉を見たら、駆け上る想像をせずにいられないくらいの、この人の身を焦がす情念っていったい何だろう? 恋か。恋だとしたら、どんな恋なのか想像するだにオソロしい。一方でこの「燃え上がる樹に包まれ鬼女になる」というそ妄想自体は、余りにも凄絶で美しくてカッコいい。自然風景と一体化しながらも、この人の情念はまったく矮小化定型化も減量もされず、読む人の心を打つ。

これにビビっと感じてくれたかもしれない人のために、もう一句だけ鷹女の名句を紹介しておく。

  白露や死んでゆく日も帯締めて  鷹女

ただそれだけ。まあ、露ははかない人の命の比喩でとか、白露はことに露が美しい秋の季語だとか、そこから作者の人生も秋にさしかかっている立場で詠んだ句であろうとか、まあそういう教科書的な講釈はいい。いいと言いながら一応一通り言ったけど、それより、スッとこの句を眺めてほしい。そこに立つ、一人の女性の姿が鮮やかに立ち上ってこないだろうか。

和服着付けというのはなかなかの苦労だが、帯を締めるというのはその仕上げの工程に当たる。この句で「帯を締める」というのは、普段から服の手入れもぬかりなくし、朝からきちんと身支度をし、化粧もふさわしくして、そして最後にキュッと帯をしめるまでの一連の工程総称だと考えられる。これまでも、これからも、そしていつか死んでゆく日にも、私はこうして帯を締めて(そうして死んでゆく)、という( )内の聞こえない言葉が、「帯締めて」という言い差しによってかえって響いてくる。女性としての自身、当時の社会との軋轢、様々なものを一身に引き受けながらすっくと立つ一人の人間としての強い思いが伝わってくるようだ。

死ぬはいい日だ」なんて言葉もあるけど、常在戦場の心構えというのはそういう何気ない言い回しの中にあるものなのかもしれないと思う。それになぞられるというわけではないのだけれど、この「帯締める」行為何だか戦いに備えて自分自身を隙無く装っているような、そんな雰囲気が漂っている。こういう「私はオンナよ」みたいな、固定化されたジェンダー内面化って昨今あまり流行らないんだけど─まあ軽やかに変化し続ける自己というのもそれはそれでもちろんよいのだけれど─人が成熟の深みとでも言うべきものに到達するには、ここまで強く深く「私は○○○だ」という意識自身に刻み込み、時を重ねる必要があるのだろう。そんなこの人の「覚悟」みたいなものを、「死」の一字がぐっと引き締める。誰にも文句は言わせませんよ(ニッコリ)、という体で、これまた見事な情念世界だと思う。

どうだろう、こういった情念個性の強さ深さというのは、なかなか短歌のそれに劣ったものではないのではないだろうか。

そうしてみると、結局増田の言う”情念”も、それぞれの作家性に拠る部分がかなりあるということも理解していただけるのではないだろうか。鷹女の句は、俳句王道を決して踏み外してはいないけれど、輝くばかりの個性情念に満ちあふれている。もちろん、増田の言う、短歌俳句の出発点となる発想・捉え方の違い(ほとんど真逆)、それに基づく「短歌やりすぎると俳句作れない」という主張もそれなりにもっともだと思う。ただ、から俳句には情念が盛れないと言われると、いやいやそんなことはないんだけどなあ……と思ってしまうんだよね。

2024-05-06

一茶の句は反例にならない。

 

anond:20240506174540追記しようとしたら長すぎたので記事を改める。

meganeya3 短歌の考えは知らんが増田俳句の考えとして「やせ蛙 負けるな一茶 ここにあり」はどうなの?

私の短歌俳句論について、異論は認めるのだが、この一句は反例とは思えない。むしろ私の認識を強化することにしかなっていない。

この句は一見情念のこもった句に見えるが、この句における一茶はあくまでも風景の一要素としてやせ蛙と並列されている。つまりは蛙ごときに向かい合って必死になっている俳人描写である。一茶の句におかしみがあるのは、滑稽な自分を冷静に客観視できるからこそで、情念を込めてやろうという精神からはかけ離れている。

それに対して、例えば同じ蛙を描写した以下の斎藤茂吉の歌はどうだろう。

死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる

この歌は一茶の句と比べると写実的情念の無い描写に見える。しかし、用心深く読んでみると「かはづ」(蛙)の鳴き声が「天に聞ゆる」のは作者が添い寝をしていて地面に近いところにいて、天を眺めながら聞いているからそのように感じるのであり、実際に天から蛙の鳴き声が降ってきているわけではない。実はこの歌は非常に主観的情念によって風景を巧妙に歪めていることが分かる。茂吉にとっては「かはづ」も、それどころか「死に近き母」すらも己の寂しさや怖れの大きな比喩しかないのである。一茶のような引いた視点など待とうとする気もない。短歌情念産物と言うのは、こういうことを言う。

私の論に反論するのだったら、例えば短歌情念はいうが、奥村晃作のただごと歌、たとえば

次々に走り過ぎ行く自動車運転する人みな前を向く

などはどこに情念などあるのか?と言った指摘ぐらいは欲しいところだ。

ついでだから私が、これこそ短歌情念だと思う歌を掲げておく。

いらだちをなだめてばかりの二十代立ちくらみして空も揺れたり 江戸

あをき血を透かせる雨後の葉のごとく鮮(あたら)しく見る半袖のきみ 横山未来

電話口でおっ、って言って前みたいにおっ、って言って言って言ってよ 東直子

子がわれかわれが子なのかわからぬまで子を抱き湯に入り子を抱き眠る 河野裕子

革命作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ 塚本邦雄

玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする 式子内親王

anond:20240506115921

ここで俳句解説するとボロクソ言われるのが落ちなので、リアル相談した方がいいよ。

…というのは、俳句は滅茶苦茶コンテクスト文脈)に依存する芸術からだ。短歌31文字が対決的な文化(歌合せとか)を成立させてきたように「向き合う他者」に言葉を届ける能力もつのに対して、俳句は仲間内のような座の中で成立してきたように「コンテクストを共有する仲間」の間で盛り上がるタイプの道具であり、背景となる文化文脈を共有していないことが多い現代社会特にネット上)では、説明したところで、「そうとは限らないのでは?」みたいな突っ込みが山ほど入るのが目に見えてる。「なんでそう言い切れるの?」「必ずしもそうとは限らない」etc……いやうるせえわ。俳句ってそういうモンなんだから仕方ねえだろ。


それを踏まえた上で、可能な限りの解説をするぞ。長いので暇人向けだ。ちなみに、調べて作者名見て「あー」(嘆息)と声が出そうになってあと調べるのはやめた、から、ほぼ推測のみで書く。まあ、ちょっと古い昭和俳句だわ、くらいに思いながら聞いてくれ。ちなみに、俺はこの句、一読して「短歌的な俳句だ。それだけに、短歌増田が感心したのは分かる」と感じた。俺自身は、こういう俳句は作らないと思う。理由は後述する。

「ここで昼餉(ここでひるげ)」

初手から6字で字余りだ。字余りについては今更説明しないが、基本的にはあんまりやらない。なぜなら、基本的にはリズムを壊したり重たくしたりしてしまうからだ。わず17字でつくる詩で、およそ1/3のリズムが崩れかねないというのは、かなりオソロシイことだ。逆に言えば「その危険を押してでもやりたい」と作者が判断したときだけ、リスクを背負ってやる。素人にはあまりお勧めしない手法だ。さて、作者はわざわざ字余りをして、「さあ、この辺(の場所)で昼飯にしようかな」というメッセージを伝えているわけだ。何とも人を食った話だが、昼飯の場所が決まっていないということはこの人が日常の中にいるわけではないことを暗示してる。まあ、単に定年で暇になって毎日あちこち公園やらデパートやらで飯を食ってる爺さんという可能性もゼロではないが、後で出てくる夏という季節にそんなことをする爺さんもあまりいないだろうから、ここで作者はそれなりに若く、夏の最中に野山を歩き回っていると推測される。これで一気に「作者の年齢、場所、状況」に関する情報が得られるのだから、字余り使った値打はあると言えばあるが、それ以上に作者がここであえて句のリズムをもったり重たくさせたのは、「いい年したおっさんが夏の昼間にハイキングしてる」という「のんびり感」を演出しようとしたためであるかもしれない、とも推測される。その意味では、この初句、のんびりして見えて人を食ったような、それでいて計算もあるやり手の初句だ。ちなみに、この初句、体言止めで切れる。俳句はやはりどこかで「切れる」ことが推奨されるが、それは句の焦点をはっきりさせるためだ。句切れの前に焦点があるか、後にあるかはケースバイケースだとしても。

ただ、それにしても「ここ」が山とか自然の中、は分かったが、どんな場所なのか、また、ここで昼飯にしようと思ったのはなぜか、作者はいまどんな気分なのか、とかは分からない。それは、続く部分で種明かしされる。(よって、ここでは句切れの後、つまり「種明かし」パートが句の焦点だと考えられる。)

「真赤な夏の/花佇つゆゑ」

最後に「ゆゑ(故=理由)」とあるが、普通に考えたらこれまた俳句では普通やらないおきて破りである。句の中でこういう「理由の明示」みたいなこと、ダメだろ普通。なぜかというと、基本的にカッコ悪いからだ。たとえば「閑けさや岩にしみいる蝉の声」を、「蝉の声岩に染むゆえ閑かなり」とかやったら、なんかいろいろ台無しだろう? ネタ晴らしというかなんというか、たとえそういう意図を込めていたとしても、言わずにそこを感じさせて感心させるところがさあ、まあ句の仕掛けなんだから、答え言っちゃったらもう何かダメじゃね?とふつうはまあ思うんだよ。でもこの句はもう少し進化した句で、理由を言っちゃった上で「え?それが理由になるん?」と読み手に突っ込ませることを狙った作品なのだな。突っ込みさせた上で、「え……理由…?………になるんか、…ならんこともないか、うーん、なるほど」みたいな。最初のんびり路線がここで効いてくるわけだ。作者は「それが理由なん?」という突っ込みに対して"のんびり"という姿勢をとることで「それが理由ですが、何か?」と返してきているわけだ。そうやって自信満々に言われるとなんかこっちが間違ってる気もするし、そう言い切られたらそうかなあ、と少し納得感がないでもない……と思わされた時点でもう作者の術中に落ちているのだ。この作戦、小難しく解釈しようとする人であればあるほどハマる。

もっとも、そういう、突っ込みさせつつセルフ納得もできる「微妙な線」を狙うのはなかなか難しい。だから、それを実現させるために作者は2つほど仕掛けをしてる。

一つは「真っ赤な夏の花」だ。これ、普通なら夏に咲くそ花の名前を入れる部分だよな。たとえば朝顔ならアサガオ向日葵ならヒマワリ……だいたい花の和名なんてそんな長いものじゃない。少なくともただ花それ自体を指すのに9字も使うのって、俳句始めたての人の句なら真っ先に直されそうな部分だ。でも、その上でだ。聞いてみるけど、この花何だろうな? 日本の、ハイキングで行くような野山に、真夏に「真っ赤」な花なんて咲いてるか? あとで「たつ」という言葉がある以上、人の背丈程度には高さがあってすっと伸びた草花だ。さて何だろう? 作者の答えは「知らん!」だよ。知らないから「真っ赤な夏の花」なのだ。おいおい、そりゃねえだろ、と読者に突っ込ませておいて、そこで作者はぬけぬけと「だからここで飯にするんだ、悪いか?(ニヤリ」とやってくるわけだ。無責任適当にやってるように見せながら計算もあり、でも基本的楽天的天衣無縫な語り口の句だ。それが初句の「のんびり」加減と相まって、この句に独特の雰囲気を醸し出していることは否定できない。なんだったらここで笑い出しちゃうような面白みがある。

二つ目は「佇つ」だ。学のある人をこれで引っ掛けようという腹だ。この字、音数から考えれば「たつ」と読ませているのだろう。だがこの字に原則として「たつ」の読みはない(少なくとも家にある広漢和辞典(全四巻)でみる限りはない)。一般的な読みは「たたずむ」で、じーっと立っている、という意味だ。「たつ」に宛てたのは、その意味を合わせて感じさせたかたからであろう。花はいつまでもじーっと立っているのだから人間が「立つ」のと同じ字でない方がいいんじゃありませんか、というか、「佇む」には途方に暮れて立ち止まる、みたいなニュアンスも漂う。何か、その夏の花が所在なくじっと立っているので、仕方なくしばしのひと時を一緒に過ごす、みたいな感じだ。なんだろう、ひょっとしてこの「真っ赤な夏の花」というのは、山道を歩く途中で一緒になった、真っ赤なサマードレスを着た女性か何かの比喩なんではないだろうか、みたいな、そんなちょっと色気みたいな解釈深読みが(実際、俳句読みはその手の暗喩創作をよくやる)この「佇」一字から立ち上ってくるのである。そうなると、花の名前が特定できなかったことも、何だかそのための仕掛けであるようにすら見えてきて、うーん、と悩まされるのだ。当然、そこまで考えての、このルール違反用字である

結果、山歩きの途中花の下で飯食うかあ、というだけの句が、俄然ストーリー性、物語性、ロマンスの色彩まで帯びてくる。が、もちろん現実にはそんなことはないのであって、実際ただ飯をくっただけなんですけどねー、という緩い種明かし(そもそもそんなロマンスが勃発したら俳句なぞ作っている暇はないので)を前提に、その幻想を楽しむ、そんな句ということに落ち着くわけだ。

そんな風に、この俳句はなかなか外連味(けれんみ)のある、仕掛けとイメージてんこ盛り、物語調の俳句で、実に面白いと言えば面白い、一般的俳句の目指すところとはちょっと外れた句だ。一般的俳句もっと、瞬間的、即物的、断片的に風景を切り取るのが基本なので、まあ普通は「季語感情」でつくるとこから始めるのが適切だろう。この句も、山道で赤い花に出会った瞬間の感情を句にしてると言えなくもないが、それにしてはいろいろな仕掛けが人を食っていて、また、無用物語調で独特だ。一般的俳句なら、たとえば「握り飯ハイビスカスの色に染む」とかでいいわけだが、この句はその瞬間の風景以上に、遊び、のんびり感、山道を歩いてきてよいしょと腰を下ろすそのしぐさ…からああ花がきれいだな、という一連の感情を全てこの一句に込めようとしてるのだ。これを17字でやるのは、本来かなり無理筋なので、普通はもうちょっとワンショットに切り分けようとしたりするか、あきらめて短歌にいくかするだろう。その無理をやってる(そして、そこそこ成功もしてる)のがこの句の面白いところで、たぶん短歌増田が感心したところなんじゃないか

まあ、こういう句、狙って作るのはなかなか難しい(ちなみにこの作者・中村草田男は、こういうのをやたら作るのだが、ひどい失敗も多いので有名な人だ)。そういう意味でも、まあなかなかない句ではあると思う。あと、何も知らずにいろいろ書き飛ばしたので、もっと知ってる人から突っ込み入れてもらえたら感謝する。

AIとの対話

生成AI議論で頻繁に見かける、以下の流れ。

AI存在肯定派「この部分において、生成AIと〇〇は同じです」

AI利用反対派「〇〇と生成AIが同じなんてありえない何言ってんのバカアホボケ

目にするだけでもアホらしい、反論にすらなっていない事を理解できていない、よくある反AI発言

人間学習AI学習はまったく同じ」と本気で信じている者が居たら、バカだと思うだろう。同じことだ。

あくまでも一定の条件下で特定観点から見ると、という話でしかないのだ。

反生成AI活動家急先鋒カーラ・オルティス女史は、生成AIの出力を「21世紀コラージュ」と見做す。

生成AIは、さまざまな作品から拝借切り貼りしている<ように見える>

厳密に、技術的には違うとしても、そう見える。故に「21世紀コラージュ」だと言っているにすぎない。

コラージュという技法抽象化し、比喩に使っているだけなのだ馬鹿でも理解できるように。

しかし便乗しているだけの反AIは、ここが理解できない。

生成AIの出力を「単なる合成、切り貼りコラージュ」と公言して憚らない。みんながそう言ってるから

学習データの一部が<実質的に>復元できてしまうことと、単なる圧縮解凍区別も出来ない。

生成AI文明から排除するために誇張された言葉を、すべて鵜呑みにしてしまう。

「生成型検索エンジン」という造語がある。StableDiffusionの顔、Emadの言葉だ。

これは「いままでは画像必要な時に検索していた。しかしこれから検索するかのように生成する時代が来る。生成AI次世代検索エンジンだ」という意味で、ターゲットであるビジネスマンに向けた造語である

しかし反AIは知性が無いので「生成型検索エンジン検索して切り貼りモデル学習データのものを保存=やっぱりコラージュだ」と、ここでも誤った解釈をしている。

最低限の学が備わっている者ならば、早々に見切りをつけたことだろう。救えぬものじゃと。

事実、反AIの中でも理解力の高かった者は次々と脱落していった。

自身から湧き出る要求自己中心的で、何を言ってもどこかでダブルスタンダードになってしまうことに気づいてしまったのだ。

部分的に、ある側面から見れば同一である」事に理解を示してしまうと、生成AI全否定しか許されない村から追い出されてしまう。反AI村に居たいなら、黙るしかない。

そうして濃縮されたものが、今の反AIである

言葉が通じない相手と、どうして対話ができようか。

2024-05-03

店の前で呼び込みやめーや…

比喩じゃなく客逃げてるじゃん

本当にセンスないな

2024-05-02

脳死で」という言葉の使い方を批判されたら「脊髄反射で」も同じだと反論されたりしたけれど、

脊髄反射は違うと思うけれどなあ

だって脊髄反射って膝を叩いたら足が上がるとかそういう奴であって、

何も考えずに行動する事の比喩としては普通に的確だし

別に人の死とかが絡んだ深刻な単語ではないし全然違うと思う

2024-05-01

anond:20240501120116

時代の流れの中でのパワーゲームなだけだったんだよなぁ

会社が偉くてふんぞり返れていたのは労働者が圧倒的に多かったか

比喩じゃなく「代わりはいくらでもいるんだぞ」だったか

でもそれはつまり会社が悪でサラリーマンが善だったわけではないってこと

今度は労働者がふんぞり返る時代

40歳オッサン労働者でもふんぞり返れるだろうか

anond:20240501030612

ああごめん、なんか論調と話しのふわふわ感が全くいっしょなので他のスレッドと間違えたわw(わかるように、テーマ固有の単語ちゃんと使ってくれw)

奴隷」の話はねえw

現代奴隷」っていう用語くらい覚えた方が良いよ(国連人権委が定義してる)。

奴隷」ってさ、現代社会でも比喩ではなく普通に使われてる用語から

就職して自活できるのに結婚生活向上を目指すのは、定義上の「奴隷」にはなりません。

そんなのと一緒にされたら本物の「現代奴隷」(親などに逆らえず売られていく女たち)に申し訳ないと思わないの?

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