はてなキーワード: スバとは
とか、いやいや、ありでしょ? とか、むしろそれで値踏みしてるんだぜとか、試してやってんだよとか、価値観の違いがわかっていいじゃん・・・とかなんとかSNSで喧々諤々の議論が行われた結果、男女交際の経験値の少ない学生さんや若い人に不毛な苦しみを与えては可哀想だと思っている。
だって初デートでサイゼがありかなしかなんてケースバイケースに決まってる。なんの場合分けもなしに「あり」も「なし」も言えるわけがない。
そんな当たり前の前提など知らない若い人にとってサイゼ問題は害悪でしかない。男は「デートめんどくせー」「カネつらー」となり、女は女で「このレストランは有りなヤツ?無しなヤツ?」とか「別に普通でいいんだけど」とか「いやでもサイゼだったら友達に憐れまれるし」とか余計な雑念に振り回され、背伸びして行った店には「なんかイタいカップルが来たな」と思われいいことがない。
そこで参考になるかどうかはわからないが、「ごく簡単で外しにくいお店選び」を提示してみたいと思う。ここでお前誰やねんというツッコミがくることが想定されるが、それには答えない。性別も年代もデート経験値も伏せる。中身だけ読んで参考になるならしてほしいし、ゴミだと思えば無視してくれ。ネットのは男→女パターンが前提ぽいが、ここに書いたのは逆でも使えると思う。
【中高生編】
まあこの話で誰も中高生のデートなんてさすがに想定してないと思うが、中高生の目にも留まる以上本人たちは気にしてしまうかもしれない・・ということで。大丈夫。安心してサイゼ行け。うーん当たり前すぎるな。それで笑われたりSNSで晒されたりするのだとしたら、そいつが悪い。イオンのフードコートでもマックでもいいじゃないか。奢る必要もない。収入もないのに人に奢るな。テスト勉強教えてもらったお礼にジュースとかスタバとかマックとか焼きそばパンとか映画のポップコーン奢る程度にしとけ。
【大学生編】
大学生になったらフードコートはやめとけくらいで、別にサイゼでもチェーン店でもいいと思う。金がないのに変わりはない。少しカッコつけたいんならそのへんのデパートのレストラン街に入ってるようなチェーンのサイト見て最寄りの店に行くとかしとけば大きくは事故らない。高すぎず安すぎずで初デートとしてはちょうどいい。バイト代も入ってるだろうし。そして後輩なら奢れ。同級生や先輩にはお礼の気持ちがあるならその旨伝えて「今日は」奢らせてくださいお願いしますと言え。勝手に奢ろうとするな。店選びに困ったら相手に聞け。困らなくても聞いていい。しかし手ぶらで聞くな。3つくらい候補用意してから聞け。別系統のを3つ提案しろ。あらかじめ好みを知ってるなら2つ混ぜろ。しかし自分の案に固執するな。会話して店選びを楽しめ。チョイスした3つを笑われたら一緒に笑って「クソが。じゃあお前の考え聞かせろや」と言い、なんか言ってきたら「そっかー。そっちのがいいな!」と返せ。
新社会人や若手社員はフードコートに加えサイゼも鳥貴族もやめろ。別に同期の女の友達と会社帰りに「ちょっと飯食いに行く」程度ならファミレスでも安居酒屋チェーンでもいいが、互いに「まあ、これはデートだよね」と認識するようなシチュエーションならやめろ。休日わざわざ待ち合わせて行くデートならデパート云々のくだりで書いた程度の店か、あとは勝手に調べろ。高すぎるとこは行くな。安い店だから滑稽なのではない。分不相応だから滑稽なのだ。どうせあれだろ?「初デートサイゼ」を笑ってた女もよくよく聞けば「お前な、年上でしかもこっちに下心ありありのくせにサイゼかよ」とかそんなとこだろ?しらんけど。単なる男友達とデートでもなんでもなく行くサイゼで文句言ってたわけじゃないだろ?学生彼氏に怒ってたわけでもないだろ?
横道それたが「困ったら相談」も上に書いたのと同じだ。おごりおごられ問題についても同じ。収入も立場も同じ相手に勝手に奢るな。
【それ以上編】
上に新社会人・若手社員編を書いたが、それ以上の年齢、立場、収入でもまあ同じだ。デパートのまあまあのお店を基準にケースバイケースで調整しろ。婚活やお見合いなどもう少しフォーマルな感じなら都内シティホテルの店を基準にしろ。「最初は軽くお茶かランチでも」というノリでもスタバやファミレスでいいわけがない。よくわからないならシティホテルにしろ。
二回目以降は初回の様子で相談しろ。気が合いそうならその場で次の約束をしろ。初回相談時に3つ候補用意してたなら「じゃあ次ここ行ってみよっか」とつながりやすい。お前らの好きな「自然に」仲良くなる感じを自然に演出できる。「この店行ってみたい」「この映画見たい」「このイベント行きたい」。まあ理由なんてなんでもいい。そこまでの会話に出てきたトピックに絡められればベターだ。デートの約束はデート中が一番とりつけやすい。気に入られていればだがな。返事はいつでもいいと言え。「わかった。じゃああとで返事するね」と言われたら半分諦めろ。固執するな。2回以上返事督促するな。諦めきれないなら半年後もう一度かるく誘え。状況が変わっている可能性がある。ただし軽くだぞ。繰り返すが固執するな。その半年でお前もよその女(男)に寄り道するくらいでちょうどいい。
この年代になると年齢、収入、立場に明確に差がついてる場合も多い。お前が上ならノータイムで奢れ。さも当然のように奢れ。そこで押し問答が始まりそうなら「じゃあ次は奢らせてください」と言って次に繋げろ。相手は奢られた負い目を感じることなく、次が嫌なら断れるという逃げ道を用意してやれ。お前が下の立場でも同じくらいの立場でも誘ったなら奢れ。しかし相手の立場もあるのでお願いベースで奢れ。無理はするな。
店選び以外に奢り奢られまでいろいろ書いてしまったが、まあこっちも地続きの問題だからな。店選びについては「ケースバイケース」と「分不相応な店はやめろ」以外のことは言ってないことに注意してくれ。TPO、それがすべてだ。「初デートにサイゼはありかなしか」に唯一の答えなどない。がんばろう!
自分がやってしまったこと(例えそれがわずかなものでも)が確実に原因で起きてしまった不幸と、まったく自分に原因のない不幸とではどちらがより耐えがたいものだろうか。
前者は「あのとき自分がこうしていなかったら…」というような激しい後悔に苛まれるだろうし、後者は そのことの理不尽さの前でおのれの無力さをおもいしることだろう。
さて、その選択はとりあえず個人の手に委ねることにして、最初の問いの「不幸」を「恐怖」と置き換えてみよう。
[A]その人自身に起こるべくして起きた恐怖
と
[B]全く原因不明の恐怖
どちらがより怖いか。まあケースバイケースというか結局はその状況に立たされなければ答えは出ないだろうが話を続ける。
[A]の原因というのを、過去にはたらいた明らかに人道に反する行為、とより狭義のものとし、 それ以外を後者にいれるとすれば、一般的に「ホラー映画」と呼ばれているものはほぼ全てが後者を扱ったものだといえよう。
原因が呪いのヴィデオテープを見たということにしろ遺伝子操作に失敗して前代未聞のウィルスに感染してしまったことにしろそれらはとくに人道に反するというほどものではなく、せいぜい無根拠な禁忌を犯したという程度だ。
そして観客はその恐怖を、襲われている者に 感情移入/同化してともに味わい、それから逃れるとホッとして、それからまたそいつに襲われて……、 で最終的には原因が解き明かされるなり逃げ切るなりで幕は下りる。作る側も、いかに観客を引き込ませるかを意図して作っているし、そこで描かれる恐怖というのはあくまで襲われる側から見たものだ。
ところで、[A]の恐怖を描いた映画がいまやほとんどないのは、非のある者がこうむる恐怖を因果応報・当然のものとしてみなし逆に追いつめていく方が主人公として描かれているからである。
すなわち正当な復讐をする勧善懲悪の物語となってしまう。当然それは「恐怖= 襲われる側への感情移入により抱くもの」の図式が成り立たないのは言うまでもない。
では[A]の恐怖が恐怖映画として成立する場合とはどのようなものであるか。
それは、執行される復讐方法が観客に感情移入など到底させないほどおぞましいものであるときである。
観客を思考停止に陥れさせるほどの残酷なもの。このとき、その恐怖はまさに恐怖そのものとしてスクリーンに映し出される。
黒沢清監督作品『蛇の道』(1998年)はこのような映画である。
いや、これだけではこの作品を ひどく矮小化していることになる。
この作品の恐怖は、あるひとつの極点に立ってしまった人間がとってしまう行為の目をそむけずにはいられないような醜悪さが、これでもかこれでもかと露呈されていくことにある。
かといってそれは単に悪趣味とかたづけられるような類いのものでは断じてない。
それが、紛れもなく人間の性質によるので、恐怖を通り越してとにかく正視しがたいのだ。
それでもひとはこの映画を見るというほとんど拷問のような行為をやめようとしないのは、その恐怖の果てにも救いがあるはずだと信じているからにほかならないのだが……。
この映画での哀川はほぼ、人間の醜悪さを次々と 引き出す媒体として存在している。またその媒体としての仕事ぶりの的確さは、この世界の物理学的法則を解明していく学習塾でのもうひとつの姿とも重なり、存在論的に否定しがたいものとなるのだ。 あえて例えるならばこの作品での哀川の存在は、ルー・リードの声の響きのようだ。優しさ/慈悲深さと、 その奥にある圧倒的強度をほこる底無しの得体の知れなさ、そしてかなり強引なのにもかかわらず 抗いきれない魅惑にも似た正しさ(のようなもの)を備えている。
いや、やはりできるだけ見ないほうがよい。レンタルビデオ屋のやくざものコーナーに、絶対的「大凶」としてなにげなく陳列されているのが、 この作品の存在としてしごくふさわしいものだとおもわれる。
(2024年5月付記:リメイク版公開の報に触れ、四半世紀前にこのような文章をひっそり公開していたのを思い出したのでまたひっそりと匿名公開させていただきました。ニュアンスを変えない程度に改行等いじりましたが、死語である「ヴィデオ」」」云々の最終2行は削れませんでした。)
スーファミの試作機がネットオークションに出されて話題になっているが、一部では任天堂がその気になれば所有権に基づき試作機を取り戻せるのではないか、と指摘されている。
当方は法曹でもなければ法学部卒でもないが、民法の教科書を読む限りは、任天堂は遅くとも2015年11月23日にはスーファミ試作機の所有権を失い、試作機占有者が正式に所有者になっているのではないかと推測する。以下、条文の当てはめを示す。
占有者の所有の意思(自主占有)はいつ発生するか。この発生時期が取得時効の起算点になるため重要である。
試作機の使用貸借の終了により代理占有関係が消滅しても、任天堂は試作機をなおも代理占有し続ける(204条第2項)。他方で学説は、占有代理人に「自己のためにする意思」も存在するときは、占有代理人において他主占有に加えて自主占有も併存しうるという(潮見佳男 民法(全)(第2版)(pp.245-246))。これに合わせて、所有の意思の有無は、占有取得の原因となった客観的事実(占有権原の性質)から外形的に判断される(最判昭45.6.18)という判例理論を考慮すると、試作機返還債権の消滅という占有権原の性質の変化から、占有代理人には他主占有に加えて自主占有も併存し、この債権消滅日を取得時効の起算点と自分は結論した。
(追記)
ブックマークコメントの指摘の通り、所有の意思が占有取得の原因となった客観的事実(占有権原の性質)から外形的に判断されるならば、試作機返還債権が時効消滅しても占有取得の原因となった客観的事実は変わらないのだから、引き続き占有代理人には所有の意思なしと考えるべきかもしれない。
しかしその場合、占有権原(使用貸借契約)に起因する債権(試作機返還債権)が全て消滅時効にかかってもなお任天堂が永遠に代理占有し続けうるということを意味し、法的な不安定性を社会にもたらしうると思う。別の解釈として、試作機返還債権を本人(任天堂)が行使せずに時効により消滅させたことを、黙示に代理人に占有をさせる意思を放棄(204条第1項第1号)したと位置付け、任天堂の代理占有が消滅し占有代理人から他主占有が消滅した、こういった具合に法律構成することができるかもしれない。但し、ざっと調べた限りこれを支持する判例や学説は見つけられなかった。
もっとも、オークション売主の言動を見る限り、ゲーム開発会社に勤めていた父親が退職の記念に持ち帰った試作機を相続により承継した子息が売りに出した、こういった経緯が目に浮かぶ。この場合、退職により父親が持ち帰った日にゲーム開発会社(占有代理人)は占有物の所持を失うことになり、任天堂の代理占有は消滅する(204条第1項第3号)ので、退職日が取得時効の起算点になるだろう。また、ゲーム開発会社が解散して試作機が外部に流出した場合は、同様の理由でその流出日が取得時効の起算点になるだろう。いずれにしても、取得時効の起算点は1995年11月22日よりさらに遡る可能性が高い。
この少し前に話題になった、日本マクドナルドの社内研修用ニンテンドーDSソフトの「クルトレ eCDP」について、同社が所有権を失うのはいつか。以下に示すように、遅くとも2039年頃にはマクドナルドはクルトレの所有権を失うだろう。
まず、スーファミ試作機の考察から、取得時効の起算点の特定のために、占有者の所有意思の推定(186条)を所有者が覆せなくなる日はいつかが重要になる。その日は、フランチャイズ店からクルトレが外部に流出しマクドナルドが代理占有を失った(204条第1項第3号)日になるだろう。この日からクルトレ占有者の所有意思の推定(186条)をマクドナルドは代理占有を根拠に覆せなくなり、取得時効が起算される(162条)。
クルトレが外部に流出した日はいつかはケースバイケースであろうが、報道によるとマクドナルドは2018年までクルトレを研修に使用していたとのことなので(ttps://www.j-cast.com/2024/03/27480390.html)、遅くともその翌年の2019年に外部流出したと仮定してよいだろう。
すると2019年の20年後の2039年に取得時効か成立し(162条)、クルトレの占有者は正式に所有権を取得する。その反射的効果としてマクドナルドは同所有権を失う。
(使用貸借)
第593条 使用貸借は、当事者の一方がある物を引き渡すことを約し、相手方がその受け取った物について無償で使用及び収益をして契約が終了したときに返還をすることを約することによって、その効力を生ずる。
第185条 権原の性質上占有者に所有の意思がないものとされる場合には、その占有者が、自己に占有をさせた者に対して所有の意思があることを表示し、又は新たな権原により更に所有の意思をもって占有を始めるのでなければ、占有の性質は、変わらない。
(期間満了等による使用貸借の終了)
第597条 当事者が使用貸借の期間を定めたときは、使用貸借は、その期間が満了することによって終了する。
2 当事者が使用貸借の期間を定めなかった場合において、使用及び収益の目的を定めたときは、使用貸借は、借主がその目的に従い使用及び収益を終えることによって終了する。
第166条 債権は、次に掲げる場合には、時効によって消滅する。
一 債権者が権利を行使することができることを知った時から五年間行使しないとき。
第186条 占有者は、所有の意思をもって、善意で、平穏に、かつ、公然と占有をするものと推定する。
2 前後の両時点において占有をした証拠があるときは、占有は、その間継続したものと推定する。
第204条 代理人によって占有をする場合には、占有権は、次に掲げる事由によって消滅する。
二 代理人が本人に対して以後自己又は第三者のために占有物を所持する意思を表示したこと。
ここで俳句の解説するとボロクソ言われるのが落ちなので、リアルで相談した方がいいよ。
…というのは、俳句は滅茶苦茶コンテクスト(文脈)に依存する芸術だからだ。短歌31文字が対決的な文化(歌合せとか)を成立させてきたように「向き合う他者」に言葉を届ける能力をもつのに対して、俳句は仲間内のような座の中で成立してきたように「コンテクストを共有する仲間」の間で盛り上がるタイプの道具であり、背景となる文化文脈を共有していないことが多い現代社会(特にネット上)では、説明したところで、「そうとは限らないのでは?」みたいな突っ込みが山ほど入るのが目に見えてる。「なんでそう言い切れるの?」「必ずしもそうとは限らない」etc……いやうるせえわ。俳句ってそういうモンなんだから仕方ねえだろ。
それを踏まえた上で、可能な限りの解説をするぞ。長いので暇人向けだ。ちなみに、調べて作者名見て「あー」(嘆息)と声が出そうになってあと調べるのはやめた、から、ほぼ推測のみで書く。まあ、ちょっと古い昭和の俳句だわ、くらいに思いながら聞いてくれ。ちなみに、俺はこの句、一読して「短歌的な俳句だ。それだけに、短歌増田が感心したのは分かる」と感じた。俺自身は、こういう俳句は作らないと思う。理由は後述する。
「ここで昼餉(ここでひるげ)」
初手から6字で字余りだ。字余りについては今更説明しないが、基本的にはあんまりやらない。なぜなら、基本的にはリズムを壊したり重たくしたりしてしまうからだ。わずか17字でつくる詩で、およそ1/3のリズムが崩れかねないというのは、かなりオソロシイことだ。逆に言えば「その危険を押してでもやりたい」と作者が判断したときだけ、リスクを背負ってやる。素人にはあまりお勧めしない手法だ。さて、作者はわざわざ字余りをして、「さあ、この辺(の場所)で昼飯にしようかな」というメッセージを伝えているわけだ。何とも人を食った話だが、昼飯の場所が決まっていないということはこの人が日常の中にいるわけではないことを暗示してる。まあ、単に定年で暇になって毎日あちこちの公園やらデパートやらで飯を食ってる爺さんという可能性もゼロではないが、後で出てくる夏という季節にそんなことをする爺さんもあまりいないだろうから、ここで作者はそれなりに若く、夏の最中に野山を歩き回っていると推測される。これで一気に「作者の年齢、場所、状況」に関する情報が得られるのだから、字余り使った値打はあると言えばあるが、それ以上に作者がここであえて句のリズムをもったり重たくさせたのは、「いい年したおっさんが夏の昼間にハイキングしてる」という「のんびり感」を演出しようとしたためであるかもしれない、とも推測される。その意味では、この初句、のんびりして見えて人を食ったような、それでいて計算もあるやり手の初句だ。ちなみに、この初句、体言止めで切れる。俳句はやはりどこかで「切れる」ことが推奨されるが、それは句の焦点をはっきりさせるためだ。句切れの前に焦点があるか、後にあるかはケースバイケースだとしても。
ただ、それにしても「ここ」が山とか自然の中、は分かったが、どんな場所なのか、また、ここで昼飯にしようと思ったのはなぜか、作者はいまどんな気分なのか、とかは分からない。それは、続く部分で種明かしされる。(よって、ここでは句切れの後、つまり「種明かし」パートが句の焦点だと考えられる。)
「真赤な夏の/花佇つゆゑ」
最後に「ゆゑ(故=理由)」とあるが、普通に考えたらこれまた俳句では普通やらないおきて破りである。句の中でこういう「理由の明示」みたいなこと、ダメだろ普通。なぜかというと、基本的にカッコ悪いからだ。たとえば「閑けさや岩にしみいる蝉の声」を、「蝉の声岩に染むゆえ閑かなり」とかやったら、なんかいろいろ台無しだろう? ネタ晴らしというかなんというか、たとえそういう意図を込めていたとしても、言わずにそこを感じさせて感心させるところがさあ、まあ句の仕掛けなんだから、答え言っちゃったらもう何かダメじゃね?とふつうはまあ思うんだよ。でもこの句はもう少し進化した句で、理由を言っちゃった上で「え?それが理由になるん?」と読み手に突っ込ませることを狙った作品なのだな。突っ込みさせた上で、「え……理由…?………になるんか、…ならんこともないか、うーん、なるほど」みたいな。最初ののんびり路線がここで効いてくるわけだ。作者は「それが理由なん?」という突っ込みに対して"のんびり"という姿勢をとることで「それが理由ですが、何か?」と返してきているわけだ。そうやって自信満々に言われるとなんかこっちが間違ってる気もするし、そう言い切られたらそうかなあ、と少し納得感がないでもない……と思わされた時点でもう作者の術中に落ちているのだ。この作戦、小難しく解釈しようとする人であればあるほどハマる。
もっとも、そういう、突っ込みさせつつセルフ納得もできる「微妙な線」を狙うのはなかなか難しい。だから、それを実現させるために作者は2つほど仕掛けをしてる。
一つは「真っ赤な夏の花」だ。これ、普通なら夏に咲くその花の名前を入れる部分だよな。たとえば朝顔ならアサガオ、向日葵ならヒマワリ……だいたい花の和名なんてそんな長いものじゃない。少なくともただ花それ自体を指すのに9字も使うのって、俳句始めたての人の句なら真っ先に直されそうな部分だ。でも、その上でだ。聞いてみるけど、この花何だろうな? 日本の、ハイキングで行くような野山に、真夏に「真っ赤」な花なんて咲いてるか? あとで「たつ」という言葉がある以上、人の背丈程度には高さがあってすっと伸びた草花だ。さて何だろう? 作者の答えは「知らん!」だよ。知らないから「真っ赤な夏の花」なのだ。おいおい、そりゃねえだろ、と読者に突っ込ませておいて、そこで作者はぬけぬけと「だからここで飯にするんだ、悪いか?(ニヤリ」とやってくるわけだ。無責任に適当にやってるように見せながら計算もあり、でも基本的に楽天的で天衣無縫な語り口の句だ。それが初句の「のんびり」加減と相まって、この句に独特の雰囲気を醸し出していることは否定できない。なんだったらここで笑い出しちゃうような面白みがある。
二つ目は「佇つ」だ。学のある人をこれで引っ掛けようという腹だ。この字、音数から考えれば「たつ」と読ませているのだろう。だがこの字に原則として「たつ」の読みはない(少なくとも家にある広漢和辞典(全四巻)でみる限りはない)。一般的な読みは「たたずむ」で、じーっと立っている、という意味だ。「たつ」に宛てたのは、その意味を合わせて感じさせたかったからであろう。花はいつまでもじーっと立っているのだから、人間が「立つ」のと同じ字でない方がいいんじゃありませんか、というか、「佇む」には途方に暮れて立ち止まる、みたいなニュアンスも漂う。何か、その夏の花が所在なくじっと立っているので、仕方なくしばしのひと時を一緒に過ごす、みたいな感じだ。なんだろう、ひょっとしてこの「真っ赤な夏の花」というのは、山道を歩く途中で一緒になった、真っ赤なサマードレスを着た女性か何かの比喩なんではないだろうか、みたいな、そんなちょっと色気みたいな解釈・深読みが(実際、俳句読みはその手の暗喩、創作をよくやる)この「佇」一字から立ち上ってくるのである。そうなると、花の名前が特定できなかったことも、何だかそのための仕掛けであるようにすら見えてきて、うーん、と悩まされるのだ。当然、そこまで考えての、このルール違反の用字である。
結果、山歩きの途中花の下で飯食うかあ、というだけの句が、俄然ストーリー性、物語性、ロマンスの色彩まで帯びてくる。が、もちろん現実にはそんなことはないのであって、実際ただ飯をくっただけなんですけどねー、という緩い種明かし(そもそもそんなロマンスが勃発したら俳句なぞ作っている暇はないので)を前提に、その幻想を楽しむ、そんな句ということに落ち着くわけだ。
そんな風に、この俳句はなかなか外連味(けれんみ)のある、仕掛けとイメージてんこ盛り、物語調の俳句で、実に面白いと言えば面白い、一般的な俳句の目指すところとはちょっと外れた句だ。一般的に俳句はもっと、瞬間的、即物的、断片的に風景を切り取るのが基本なので、まあ普通は「季語+感情」でつくるとこから始めるのが適切だろう。この句も、山道で赤い花に出会った瞬間の感情を句にしてると言えなくもないが、それにしてはいろいろな仕掛けが人を食っていて、また、無用に物語調で独特だ。一般的な俳句なら、たとえば「握り飯ハイビスカスの色に染む」とかでいいわけだが、この句はその瞬間の風景以上に、遊び、のんびり感、山道を歩いてきてよいしょと腰を下ろすそのしぐさ…からああ花がきれいだな、という一連の感情を全てこの一句に込めようとしてるのだ。これを17字でやるのは、本来かなり無理筋なので、普通はもうちょっとワンショットに切り分けようとしたりするか、あきらめて短歌にいくかするだろう。その無理をやってる(そして、そこそこ成功もしてる)のがこの句の面白いところで、たぶん短歌増田が感心したところなんじゃないか。
まあ、こういう句、狙って作るのはなかなか難しい(ちなみにこの作者・中村草田男は、こういうのをやたら作るのだが、ひどい失敗も多いので有名な人だ)。そういう意味でも、まあなかなかない句ではあると思う。あと、何も知らずにいろいろ書き飛ばしたので、もっと知ってる人から突っ込み入れてもらえたら感謝する。
俺も「30下の女に全財産つぎ込んで本気で結婚できると思ってたのかよ馬鹿だな」とは思ったよ。でもおぢは既にその愚かさの代償を十分すぎるほどに支払ってるわけで、同情はしてもこれ以上馬鹿にする必要はない。
なのに現実は加害者のりりちゃんには支援者がつき、被害者のおぢはインターネットのおもちゃとして馬鹿にされている。男性は明らかな被害者であっても加害性のある側面を強調され強者側として扱われるし、女性は加害者であっても被害者としての側面を強調されることで弱者扱いになる。これがアンコンシャスバイアスでないならなんなのか、説明できる人間はいないだろう。
結局日本社会で男性とはどこまで行っても加害者で、強者とされているが故にすべては自己責任であり同情や支援が必要とはみなされない属性なんだろう。
了解です。ここでのディベートでは、共同親権と単独親権の立場からそれぞれのメリットとデメリットを議論していきます。
主張: 子どもの利益を最優先するためには、両親が共同で親権を持つべきです。
論点:
心理的安定: 子どもが両親とも定期的に交流することで、安定した心理状態を保つことができる。
教育的利益: 両親から異なる価値観やスキルを学ぶことができ、バランスの取れた教育を受ける機会が増える。
責任分担: 親権が共有されることで、子育ての負担と責任が分散され、両親が協力して子育てを行うことができる。
主張: 最も安定した環境を提供するためには、一方の親が単独で親権を持つべきです。
論点:
安定した環境: 単独親権により、子どもが一貫性と予測可能性のある生活を送ることができる。
紛争の回避: 離婚後の両親間の対立が激しい場合、共同親権は子どもにとってストレスの原因となり得る。単独親権により、このような紛争を減少させることができる。
効率的な意思決定: 子どもの教育や健康に関する決定を迅速に行うことができる。
ディベートの結果判定
分析:
共同親権派は、子どもの心理的安定と教育的利益を重視し、親の協力による子育ての重要性を強調しました。
単独親権派は、一貫した生活環境と紛争回避の必要性、効率的な意思決定の重要性を訴えました。
勝者の判定: このディベートでは、共同親権派が勝利したと考えられます。なぜなら、共同親権派の主張が子どもの広範囲にわたる利益を考慮しており、特に心理的、教育的な側面が強調されていたからです。ただし、単独親権派の懸念も無視できないため、実際にはケースバイケースで判断する必要があります。
というか、なんで女性ばっかりが美しさや性的魅力を持ち、それを武器とする側みたいな風潮があるの?
若い美人とブスババア、イケメンとキモメンがいるよね?美しさや魅力は性別ではなく「個人差」で決まってるよね?
なんで男性という性別に生まれた時点で女性のATMになることが宿命みたいな頭おかしい世界観の人がいるの?さすがに被害者意識が性別に紐づけられすぎていてフェミナチみたい。個人差による不幸の理由を自分の性別に押し付けすぎ。
女性が賃労働して稼いだ金を男性コンテンツに貢いでる例なんていくらでもあるのに。
お、著作権法に自信ニキきたね
ところで「作風」と「創作的表現」って違うらしいんだけど、具体例知ってる?
AI と著作権に関する考え方について(素案) (令和6年2月29日時点版)
によると、
近時は、特定のクリエイターの作品である少量の著作物のみを学習データとして追加的な学習を行うことで、当該作品群の影響を強く受けた生成物を生成することを可能とする行為が行われており、このような行為によって特定のクリエイターの、いわゆる「作風」を容易に模倣できてしまうといった点に対する懸念も示されている。
この点に関して、いわゆる「作風」は、これをアイデアにとどまるものと考えると、上記2.(1)アのとおり、「作風」が共通すること自体は著作権侵害となるものではない。
他方で、アイデアと創作的表現との区別は、具体的事案に応じてケースバイケースで判断されるものであるところ、生成 AI の開発・学習段階においては、このような特定のクリエイターの作品である少量の著作物のみからなる作品群は、表現に至らないアイデアのレベルにおいて、当該クリエイターのいわゆる「作風」を共通して有しているにとどまらず、創作的表現が共通する作品群となっている場合もあると考えられる。このような場合に、意図的に、当該創作的表現の全部又は一部を生成 AI によって出力させることを目的とした追加的な学習を行うため、当該作品群の複製等を行うような場合は、享受目的が併存すると考えられる。
また、生成・利用段階においては、当該生成物が、表現に至らないアイデアのレベルにおいて、当該作品群のいわゆる「作風」と共通しているにとどまらず、表現のレベルにおいても、当該生成物に、当該作品群の創作的表現が直接感得できる場合、当該生成物の生成及び利用は著作権侵害に当たり得ると考えられる。
作風は著作権侵害じゃないってハッキリと書かれてるし、じゃあ創作的表現って何を想定してるんだよ……ってなってて、分からなくてさ。