はてなキーワード: 文化祭とは
お袋は既に別居して実家に戻っており、先週木曜にそのような話をしてきたそうだ。自分は親父と同居している。今年で27になる。そろそろおっさんだ。結婚も考えてる。
家は、借金の担保に入っており、売ることになるそうだ。不渡りは今のところ出さなくてもいいそうなので、倒産というよりは、廃業という形になる。
話を聞いたときは、来るべき時が来たかと思った。正直、そこまで動揺はなかった。
しかし、自分という人間は頭が悪い。しかも鈍い。だから、いつもこういう「ショック」な出来事は、聞いた瞬間はうまく感情の処理が出来ないらしい。あとからじわじわ沸いて出てきて、長期間にわたり体調を崩す、そんなことはもうごめんなので、はてな匿名ダイアリー、通称増田に自分の感情を書き綴って、整理をしようかと考えた。
そんなことはチラシの裏にでもかけよ、というのもごもっともだ。ただ、一つの人生のサンプルとして、もしかしたら誰かの役に立つかも知れないとも考えるので、増田に書いておきたい。一石二鳥が好きなんだ。せっかく書くんだから、ってことで。不愉快に思った人は、ここらへんでブラウザなり、タブなりを閉じることをおすすめする。
今回の倒産は二度目になる
最初に親父の会社が倒産したのは中学一年、1995年だった。文化祭を謳歌していた僕は、親から倒産の報を受け取った。しばらく家を離れているようにとのことだった。
家に帰り、荷物をとり、母、妹、僕の三人で成田空港まわりの安いホテルに泊まった。平日だったので、安く泊まれた。
その時僕は、ひたすら星新一のショートショートを読んでいた。あの短く、そしてあのライトな皮肉のこもった文章ですら、どうにも心がざわついて、読んでるうちに気持ち悪くなったことを覚えている。
一方、親父は、会社更生法の適用に走り回っていた。混乱の無いよう、このときの会社をA、今日廃業が決まった会社をBとする。しばらくAの話をする。
そもそも、「親父の会社」と書いたが、父が社長になったのは倒産する一年前の事だった。その前は、母の父、僕の祖父が社長を務めていた。
親父が僕の母親と結婚した際、母の両親が「是非うちの会社に来てくれ」と何度も頭を下げて頼みに来たそうだ。今でも「あのとき断っていたら、今頃どうなっていたろうな」と親父は振り返る。
そして、親父が会社Aに就職して十数年が経ち、製造業だった会社Aは円高の影響を受けて苦しい状況になる。その中で、アメリカにも会社を作ることとなる。その時点で、会社は東北と関東に分社化しており、関東社長を祖父、東北社長を叔父(母の弟)が勤めていた。アメリカにも会社を作ると言うことで、その社長に叔父が就任することとなった。空位となった東北の社長に祖父が就任、そして空位となった関東の社長を誰にしよう、という話になった。親戚類で、社長になれるのは親父しか残っていなかった。代表者として、自宅を、会社借金の抵当にいれることになった。
その一年後、会社Aは倒産する。実質代表は、関東社長である親父になっていた。数社来たテレビや新聞のカメラの前で、親父は深々と頭を下げた。
その後親父は、会社更生法の申請、アメリカ会社の存続(他の会社に買収して貰った)、会社整理などに駆けずり回った。あの頃、親父は「家から出るのが嫌で嫌でしょうがなかった」と言っていた。債権者からは怒鳴られ、従業員からは責められていたそうだ。家は、競売に売られた。資産があった祖母に競売で買い取って貰ったが、その後祖母には家賃を納める事になった。
祖父と叔父も代表権を持っていたため、家を売ることになった。叔父はアメリカに既に家があった為、日本の家を売っても問題はなかった。祖父は、祖母が名目上の役員として給与を数十年貰っていた貯金があり、家を買い戻すことが出来た。祖父は既に年金を受け取っており、叔父はアメリカの会社が存続できたため社長として仕事を続ける事が出来た。倒産の際、一番苦労をしたはずの親父には職が残らなかった。持ち家も無くなった。結果として割を食ったのは我が家だけとなってしまった。
初めての会社設立
問題は、親父が無職になった事だった。他の会社から「うちで勤めませんか」というお話をいくつか頂いた。が、我が家は差し押さえの対象となっていた。20万円の給料を貰った時点で、それ以上は差し押さえられてしまう状態だった。
説明すると、家は競売に出されたが、他の家具なども差し押さえるかどうかという話になった。が、持ち出す費用、売る費用考えると、ということで家具は差し押さえられずに済んだ。しかし、親父の給料は、20万以上の給与を貰った時点で差し押さえられる、という事になった。
よって、給料を貰えば、一家の収入は20万しかない。うち10万は祖母に家賃として納めなければならないため、一家四人で10万で暮らすのは、学費含めてやや不可能に近い状態だった。
そこで親父は、起業をすることとなる。それが会社Bだ。会計上、母を名目上の社長に据えて、母親が給料を受け取る仕組みにした。これならば、差し押さえられることもない。
そこで、家を担保に入れて借金しながら、どうにかこうにか年収700万前後の収入を15年間その後親父は稼ぎ続けることになる。それは、来月で終わるわけだが。
そして、この家も、借金の担保に消えて、売らなくてはいけなくなったわけだが。
一方の家庭事情
端的に言って、親父とお袋の性格相性は最悪だった。たびたび皿が飛び、怒号が鳴り、もうどうしようもなかった。
まず、横浜の社長令嬢だった母親と、大阪でどん底の貧乏から這い上がってきた親父とでは、そもそも金銭感覚も生活感覚もずれていた。二人は、ハワイで知り合い、その後親父が大阪から横浜へ熱烈なプロポーズをしにいき、それをお袋が受け入れる形で結婚した。お互いの性格をちゃんと確かめなかったのも、こういった状況の一端だったろう。
自分はそれこそ5歳ぐらいのころから、両親の喧嘩の仲裁をしてきたことを思い出す。自分は両親が好きだった。両親の言い分はどちらも理解出来た。そして、なぜ、人によって見える世界がこれほど食い違うのかと繰り返し繰り返し思った。端的に言えば「絶望」といった形なのだろうが、そんな言葉を理解出来ないころから、お互いの言葉を通訳して相手に伝える、というようなことをしていた。そのころは、まだ二人が仲良くやっていけるものと、どうにかいい方法があるはずであると、信じていた。
自分にとって、お袋は怒りっぽくて片付けができないけど、優しくて感情豊かで料理のうまい母親だった。
自分にとって、親父はクールでデリカシーのない人間だけど、いざという時には頼りになる、一家の大黒柱だった。
その二人が、互いの事をひどく罵り合うのを聞き続けた。今でも一番聞きたくない言葉達だ。それでも、二人はその文句を理解してくれる人間が僕しかいないということで、ずっとそれを僕に言い続けた。今でも、言い続けている。
両親の仲は「当然」1995年の会社A倒産以後さらに悪化する。親父はどこかで「あのとき会社Aに入らなければ」「倒産の時の一番の被害者は俺だ」と思ってるし、お袋はお袋で「起業するのはいいけどなぜ母親(僕の祖母)の持ち物である家を抵当にいれるの?」と思っていた。悪化しないほうが無理というものだった。
それでも、お袋は「自分に出来ないことはない」とどこかで思っている節があり、関係修復しようと親父に話しかけた。しかし、やはりその話し方は非常にぎこちなく、結果として高圧的で、それこそ親父の状況を見ずに話しだすようなやりかただった。そして、そのやり方は親父が一番嫌う物だった。親父は押しつけが嫌いであり、お袋は押しつけあうことこそがコミュニケーションだと考えていた。
親父とお袋の仲を修復しようとする「不可能」に対して母親は挑み続けた。結果、余計にストレスをため込むようになった。また、会社Bで借金をする度に祖母に僕の自宅を抵当に入れてくれと頼みに行く(会社A倒産後、僕の自宅を競売で競り落としたのは祖母なので)時も、「あなたの勝手に私の母親を巻き込まないでよ!」と、たびたびヒステリーを起こすようになっていった。さらに2008年以後会社Bの経営が悪化すると、母自身が無職であることによる生活への不安感で、よりストレスをためるようになる。父が休日家にいると「テレビ見てる暇があったら営業に行ったらどうなの!」と怒号を発し、それが喧嘩の発端になることも度々だった。
そんな中、極度のストレスの結果か、母は大動脈瘤を患うこととなった。2009年、冬の事だ。
いつ動脈瘤が破裂するか分からない、しかし妹は既に嫁に行き、父と僕は勤めにでていて平日は母の様子をみられない。なので、母は実家に帰ることとなった。その後、母は快方に向かう。母は、父と顔を合わせているだけで、体調が悪化するという状態になってしまっていたのだった。
父が先週の木曜、母の実家に顔を出して、話をした。そこで、標題の話になった。
母はそのまま実家に居るだろう。父は神戸にいる父方の祖母、および父の姉の面倒を見るため神戸に帰ることも検討しているらしい。妹は嫁に行っている。僕も一人暮らしをして、その後結婚を考えている。実質上の、一家離散となるだろう。
今こうして、キーボードを打っている家には、20年近く住んだことになる。僕の後ろには、まだ妹が寝ていた二段ベットが残っている。この家も、来月には売りに出さなければならない。
色んな事があった。色んな事があった。たぶん、誰にも悪気は無かったように思う。全てが食い違っていった。何が悪かったんだろう?
* 祖父が父を会社Aに誘ったことが悪かったんだろうか?
* いやいやそもそもハワイで出会っただけの二人が結婚しようとしたのが間違ってたんだろうか?
* 祖父が父に社長を押しつけなければよかったんだろうか?
* 僕がもうちょっとうまくやれば、両親はもしかしたら、うまくやれる日が来たかもしれなかったんだろうか?
* 会社Aが倒産した後、親父が20万しか稼げなくても、俺が中学を辞めるなりして勤め始めれば良かったんだろうか?
* 会社Bが出来た後、俺も今の会社じゃなくて親父の会社の手伝いをすれば良かったんだろうか?
どこで間違えたかはよくわからない。ただ、親父は起業後、毎朝5時半に起き、一日も休まず会社に行き続けたし、母親は毎日美味しい料理を作り続け、たとえば僕や妹の愚痴なんかも受け止めたりして、祖父もその後起業して親父に仕事を回したりして、祖母もそもそもこの家を買い取ってくれたりもして。
色んな人が、色んな事をやって、それでもダメだったときは、いったいどうすれば良かったんだろうか。
ようやく、泣きそうになってきた。どうすれば良かったんだろう。ほんとうに。
そんなことを振り返る。
ここまで読んでくれた人、ありがとう。
お袋は既に別居して実家に戻っており、先週木曜にそのような話をしてきたそうだ。自分は親父と同居している。今年で27になる。そろそろおっさんだ。結婚も考えてる。
家は、借金の担保に入っており、売ることになるそうだ。不渡りは今のところ出さなくてもいいそうなので、倒産というよりは、廃業という形になる。
話を聞いたときは、来るべき時が来たかと思った。正直、そこまで動揺はなかった。
しかし、自分という人間は頭が悪い。しかも鈍い。だから、いつもこういう「ショック」な出来事は、聞いた瞬間はうまく感情の処理が出来ないらしい。あとからじわじわ沸いて出てきて、長期間にわたり体調を崩す、そんなことはもうごめんなので、はてな匿名ダイアリー、通称増田に自分の感情を書き綴って、整理をしようかと考えた。
そんなことはチラシの裏にでもかけよ、というのもごもっともだ。ただ、一つの人生のサンプルとして、もしかしたら誰かの役に立つかも知れないとも考えるので、増田に書いておきたい。一石二鳥が好きなんだ。せっかく書くんだから、ってことで。そのくせ、感情の整理の為に、一つ一つを思い返して書いていくからそれなりの長文になると思う。しかも、たぶん結論なんてない。不愉快に思った人は、ここらへんでブラウザなり、タブなりを閉じることをおすすめする。
最初に親父の会社が倒産したのは中学一年、1995年だった。文化祭を謳歌していた僕は、親から倒産の報を受け取った。しばらく家を離れているようにとのことだった。
家に帰り、荷物をとり、母、妹、僕の三人で成田空港まわりの安いホテルに泊まった。平日だったので、安く泊まれた。
その時僕は、ひたすら星新一のショートショートを読んでいた。あの短く、そしてあのライトな皮肉のこもった文章ですら、どうにも心がざわついて、読んでるうちに気持ち悪くなったことを覚えている。
一方、親父は、会社更生法認可後の後処理に走り回っていた。混乱の無いよう、このときの会社をA、今日廃業が決まった会社をBとする。しばらくAの話をする。
そもそも、「親父の会社」と書いたが、父が社長になったのは倒産する一年前の事だった。その前は、母の父、僕の祖父が社長を務めていた。
親父が僕の母親と結婚した際、母の父である祖父が「是非うちの会社に来てくれ」と何度も頭を下げて頼みに来たそうだ。今でも「あのとき断っていたら、今頃どうなっていたろうな」と親父は振り返る。
そして、親父が会社Aに就職して十年が経ち、製造業だった会社Aは円高の影響を受けて苦しい状況になる。その中で、アメリカにも会社を作ることとなる。その時点で、会社は東北と関東に分社化しており、関東社長を祖父、東北社長を叔父(母の弟)が勤めていた。アメリカにも会社を作ると言うことで、その社長に叔父が就任することとなった。空位となった東北の社長に祖父が就任、そして空位となった関東の社長を誰にしよう、という話になった。親戚類で、社長になれるのは親父しか残っていなかった。代表者として、自宅を、会社借金の抵当にいれることになった。
その一年後、会社Aは倒産する。名目代表は、関東社長である親父になっていた。数社来たテレビや新聞のカメラの前で、親父は深々と頭を下げた。
その後親父は、会社更生法の申請、アメリカ会社の存続(他の会社に買収して貰った)、会社整理などに駆けずり回った。あの頃、親父は「家から出るのが嫌で嫌でしょうがなかった」と言っていた。債権者からは怒鳴られ、従業員からは責められていたそうだ。家は、競売に掛けられた。資産があった祖母に競売で買い取って貰ったが、その後祖母には家賃を納める事になった。
祖父と叔父も代表権を持っていたため、家を売ることになった。叔父はアメリカに既に家があった為、日本の家を売っても問題はなかった。祖父は、祖母が会社Aの出資者として役員をやっていたため給与を数十年貰っていた貯金があり、家を買い戻すことが出来た。祖父は既に年金を受け取っており、叔父はアメリカの会社が存続できたため社長として仕事を続ける事が出来た。倒産の際、一番苦労をしたはずの親父には職が残らなかった。持ち家も無くなった。結果として割を食ったのは我が家だけとなってしまった。
問題は、親父が無職になった事だった。他の会社から「うちで勤めませんか」というお話をいくつか頂いた。が、我が家は差し押さえの対象となっていた。20万円の給料を貰った時点で、それ以上は差し押さえられてしまう状態だった。
説明すると、家は競売に出されたが、他の家具なども差し押さえるかどうかという話になった。が、持ち出す費用、売る費用考えると、ということで家具は差し押さえられずに済んだ。しかし、親父の給料は、20万以上の給与を貰った時点で差し押さえられる、という事になった。
よって、給料を貰えば、一家の収入は20万しかない。うち10万は祖母に家賃として納めなければならないため、一家四人で10万で暮らすのは、学費含めてやや不可能に近い状態だった。やや、と書いたのは、不可能ではなかったからだ。しかし、社長令嬢でもあり金の少ない暮らしには耐えられない母親が、10万円での暮らしに耐えられたかどうかは、正直厳しいところだったと思う。思えば、これが最大の問題点だったのかも知れない。
そこで親父は、起業をすることとなる。それが会社Bだ。会計上、母を名目上の社長に据えて、母親が給料を受け取る仕組みにした。これならば、差し押さえられることもない。
そこで、家を担保に入れて借金しながら、どうにかこうにか年収600万前後の収入を15年間その後親父は稼ぎ続けることになる。それは、来月で終わるわけだが。
そして、この家も、借金の担保に消えて、売らなくてはいけなくなったわけだが。
端的に言って、親父とお袋の性格相性は最悪だった。たびたび皿が飛び、怒号が鳴り、もうどうしようもなかった。
まず、横浜の社長令嬢だった母親と、大阪でどん底の貧乏から這い上がってきた親父とでは、そもそも金銭感覚も生活感覚もずれていた。二人は、ハワイで知り合い、その後親父が大阪から横浜へ熱烈なプロポーズをしにいき、それをお袋が受け入れる形で結婚した。お互いの性格をちゃんと確かめなかったのも、こういった状況の一端だったろう。
自分はそれこそ5歳ぐらいのころから、両親の喧嘩の仲裁をしてきたことを思い出す。自分は両親が好きだった。両親の言い分はどちらも理解出来た。そして、なぜ、人によって見える世界がこれほど食い違うのかと繰り返し繰り返し思った。端的に言えば「絶望」といった形なのだろうが、そんな言葉を理解出来ないころから、お互いの言葉を通訳して相手に伝える、というようなことをしていた。そのころは、まだ二人が仲良くやっていけるものと、どうにかいい方法があるはずであると、信じていた。
自分にとって、お袋は怒りっぽくて片付けができないけど、優しくて感情豊かで料理のうまい母親だった。
自分にとって、親父はクールでデリカシーのない人間だけど、いざという時には頼りになる、一家の大黒柱だった。
その二人が、互いの事をひどく罵り合うのを聞き続けた。今でも一番聞きたくない言葉達だ。それでも、二人はその文句を理解してくれる人間が僕しかいないということで、ずっとそれを僕に言い続けた。今でも、言い続けている。
両親の仲は「当然」1995年の会社A倒産以後さらに悪化する。親父はどこかで「あのとき会社Aに入らなければ」「倒産の時の一番の被害者は俺だ」と思ってるし、お袋はお袋で「起業するのはいいけどなぜ母親(僕の祖母)の持ち物である家を抵当にいれるの?」と思っていた。悪化しないほうが無理というものだった。
それでも、お袋は「自分に出来ないことはない」とどこかで思っている節があり、関係修復しようと親父に話しかけた。しかし、やはりその話し方は非常にぎこちなく、結果として高圧的で、それこそ親父の状況を見ずに話しだすようなやりかただった。そして、そのやり方は親父が一番嫌う物だった。親父は押しつけが嫌いであり、お袋は押しつけあうことこそがコミュニケーションだと考えていた。
親父とお袋の仲を修復しようとする「不可能」に対して母親は挑み続けた。結果、余計にストレスをため込むようになった。また、会社Bで借金をする度に祖母に僕の自宅を抵当に入れてくれと頼みに行く(会社A倒産後、僕の自宅を競売で競り落としたのは祖母なので)時も、「あなたの勝手に私の母親を巻き込まないでよ!」と、たびたびヒステリーを起こすようになっていった。さらに2008年以後会社Bの経営が悪化すると、母自身が無職であることによる生活への不安感で、よりストレスをためるようになる。父が休日家にいると「テレビ見てる暇があったら営業に行ったらどうなの!」と怒号を発し、それが喧嘩の発端になることも度々だった。
そんな中、極度のストレスの結果か、母は大動脈瘤を患うこととなった。2009年、冬の事だ。
いつ動脈瘤が破裂するか分からない、しかし妹は既に嫁に行き、父と僕は勤めにでていて平日は母の様子をみられない。なので、母は実家に帰ることとなった。その後、母は快方に向かう。母は、父と顔を合わせているだけで、体調が悪化するという状態になってしまっていたのだった。
父が先週の木曜、母の実家に顔を出して、話をした。そこで、標題の話になった。
母はそのまま実家に居るだろう。父は神戸にいる父方の祖母、および父の姉の面倒を見るため神戸に帰ることも検討しているらしい。妹は嫁に行っている。僕も一人暮らしをして、その後結婚を考えている。実質上の、一家離散となるだろう。
今こうして、キーボードを打っている家には、20年近く住んだことになる。僕の後ろには、妹が寝ていた二段ベットが残っている。この家も、来月には売りに出さなければならない。
色んな事があった。ここには書けないようなことも。たぶん、誰にも悪気は無かったように思う。全てが食い違っていった。何が悪かったんだろう?
どこで間違えたかはよくわからない。ただ、親父は起業後、毎朝5時に起き、一日も休まず会社に行き続けたし、母親は毎日美味しい料理を作り続け、たとえば僕や妹の愚痴なんかも受け止めたりして、祖父もその後起業して親父に仕事を回したりして、祖母もそもそもこの家を買い取ってくれたりもして。
色んな人が、色んな事をやって、それでもダメだったときは、いったいどうすれば良かったんだろうか。
ようやく、泣きそうになってきた。どうすれば良かったんだろう。ほんとうに。
そんなことを振り返る。
ここまで読んでくれた人、ありがとう。
大人しく清楚で、そこはかとなく白百合を感じさせるような娘だった。
もちろん俺は会話したことなく(その子自身、特定の真面目グループとしか会話してなく)俺の一方的な片思いだった。
偶然、その娘と同じシフトとなり、打ち合わせで初めて会話することが出来た。
実際会話してみると暗い娘なんかではなく、俺のつまらないジョークにも心から笑ってくれた。
文化祭、自分達のシフトの時にお客さんが多かったことに二人して喜んだ。
「どこに連れて行ってくれるの?」
意外にも、その娘は小悪魔のような瞳を輝かせてOKしてくれた。
まあ、二流の恋愛物だったが、途中、その娘の手をそっと触ると、強く握り返してくれた。
なぜその娘の瞳が輝いたのかは、その時には理解出来なかった。
「ボウリングやったことある?」
俺の質問に「う、うん」とあいまいな返事が返ってきた。
ボウリング場でその娘が15オンスのボールを選んだ時、俺の中の何かが警告音を発した。
その娘の運命の第一投、
完璧なフォームから投じられたボールはスピンを描いてピンを全てなぎ倒した。
「ょっしゃーー」
まあ二人だけなんですけど。
なんか明るくて優しくて真面目でいい子でした。二人とも。
明るくて一生懸命文化祭とか体育祭とか参加して部活も明るく真っ直ぐ一生懸命やって勉強も真面目にコツコツやってっていう。
それで友達にも優しくて、こう、正論を真っ直ぐ信じてる感じ。
なんかさ、女の人っていうのは多少我侭だったり多少気が強いくらいの方が自分の身を守れたりするよね。
彼氏に「今日は危険日じゃないからゴムなしでいいよね!」って迫られたときに、「はぁ?あんた何言ってんの?さいてー」ぐらい言えるようなじゃないと。優しくて思いやりがあって、で流されがちな女の人っていうのは、結局あれだ。出来婚するような羽目になる。
最初は友達としか思っていなかったけど、それ以来だんだん好きになっていった
その後、夏休みに私の所属するサークルのショーに二人で行き、ついでに渋谷でお互いに似合う服を選び合う
このとき、私は確実に彼女のことが好きになっている
私が夏に彼女にチョイスしてもらった服を着て行ったら、彼女も私が選んであげた服を着ていた
文化祭を回っている最中は、彼女が私にしがみついたりもしてきて、かなりいい雰囲気だった
この日、文化祭が終わってから学校そばの公園で告白するつもりだった
しかし、題名通り告白できなかった
彼女とは恋人という関係になりたいとは思うが、断られて今の関係がなくなるのは怖い
このままでは何も起きないのはわかっているから、クリスマスデートに誘おうと思っている
クリスマスの雰囲気に便乗して告白できるのだろうか
今まで全然、苦労をしていない。と思う。
医者の父親に庇護されてきたし、家はそこそこ仲が良いし、高校までそこそこリア充に楽しく過ごしたし、恋人がいたこともある。
なにかの折に「大変だねー」とか言われても何が大変なのかよくわからなかったりする。
父親がちょっと鬱気味だったことがあるのも、母親が浮気をしてたことがあるのも、わたしにはさほど関係無かったし、
文化祭で監督をやったのも、いま浪人しているのも、少し忙しいけど楽しいから別に苦痛じゃない。
小説みたいな悲恋をしたこともないし、近しい人が死んだり病にかかるのは誰にでもありふれた仕方の無い悲しみだと思う。
周りの女の子たちは些細なことで大げさすぎるように見える。
でもネットで色々みているとものすごく大変な人生を送って来たひとがたくさんいるようなので、
わたしはこれからどんな大きな異変やらはなはだしい苦労が起こるのかと思うと恐ろしい感じがする。
夢っていうのは、ゴールラインを駆け抜けたら「はい叶いましたおめでとう」っていうものじゃないよ。
「××になりたい」っていうふうに夢を語ると、「××」になった時点で夢が叶ったように錯覚しちゃうけれど、実はそれはその人にとってスタートラインに過ぎないから。
活き活きしてるのは、「夢が叶ったから」じゃない。今まさに夢を叶える途中にいるから、活き活きして見えるわけ。ちょうどほら、文化祭前に燃えるやつとかいたじゃん。そういう感じ。
そういう人生を選ぶかどうかは人それぞれだけど、あなたが彼らのノリについていけないからって、別に引け目を感じることはないと思うな。
自分は学生の時演劇をやってて、その時の友人の何人かはプロになったし、何人かは普通に就職して堅実に家庭を築いてる。自分は一応演劇とは別の夢があってその職業についてるんだけど、堅実にやってる友人の話を聞くのも楽しいよ。確かに世の中には華やかな職業と地味な職業があるけど、幸せってのは華やかさとは関係なくて、その日その日をいかに味わって生きてるかなんだよね。
あなたはあなたでいればいいんだよ。もしあなたの話を彼らがつまらないと思うなら、それは彼らの感受性の問題であって、あなたがどうこう気を回す必要はない。
元増田です。
初めてここに書いたので、いまいちルールが分からくてすみませんでした。以後、気をつけます。
メールも電話も何となく気が引けてしまう状態ですが、今度、大学の文化祭の話なんかをしてみようと思います。
あと元々の記事には書くのを忘れてしまったのですが、実は2年後に教育実習で出身高校に行く予定です。
それで、彼女の家が学校からすごく近いのでそのときに何回か食事に誘いたいと思っているのですが、
2年間ほとんど連絡せずにいきなりそこでっていうのはやめた方がいいでしょうか。
やはり、気まずい感じがしてもなにかアプローチはし続けた方がいいんですかね。
2回ふられているのでどうも消極的になってしまいます。
クラスの女の子たちと会話をしていると皆恋人がいるからか結構な割合で恋愛やら下ネタやら結婚なんかの話になる。
いつもそこでなんか違和感を感じていて何だろうなぁと思っていたのが、さっき何となくわかったような気がするので書いてみる。
私は幼稚園の頃は人並みにお嫁さんになりたいの、とか言ってるような子でした。
しかし、小学校に入って、高学年になるにつれ上手く人とコミュニケーションが取れなくなりました。
それもあって、なのか、表情や服装など外見や雰囲気、性格、生活の事なんかでからかわれるようになり、勝手に人間不信のようなものに。
そんな感じのことが高校卒業まで続きました。
そういった私が勝手に嫌がらせだと思い込んでいることをしてきたのは大半が男の人で、だから私は男性から見たら特に最低な人間なんだろうなと思ってました。
今も思ってます。女性から見てもきっと快くはない。
で、そのまま進学しても同世代の中にいたらきっと今のように苦しい状況が続くんだろうと訳の分からないことを思ったのと、
会社のように厳しいところで人間性を叩き直したいと思ったので就職をすることにしました。
しかし、集団面接の会場でもう本当に決定的に私は人様とレベルが違いすぎて選考の対象にもならないと今更ながら気がつきました。
ここまでうだうだしてきたのがいけないのは分かりきったことだし、せめてまとも、というかその場所にいても邪魔にならない人間になるために何とか頑張りたいと思って
故郷を離れて今の専門学校へ。習っているのは高校での専攻の延長にあって、頑張らないととれない、でも、凄く頑張ったら取れるかも、というようなこと。
それでこっちにきてからは、とりあえず変に相手を疑うのはやめようと思って何も考えずに体当たりな感じでとにかく人と話してみたり、
服装は今まではパンクとかゴシックよりだったんだけど一回封印。普通の町中に溶け込みそうな、悪く言うとその時は個性皆無な無難な服に変更。
表情もとにかく笑顔でいることを心がけて、人畜無害で無印象で、邪魔にならないで、でもちゃんとコミュニケーションはとれるようにならなきゃって
私なりにやれることは、全部じゃないんだろうけどやった。
最初はあんまり分からなかった服も今は落ち着いていて可愛らしいものが多いなって普通に思えるようにもなったし、そこまで無理しなくても表情もテンションも何とかできる様になった。
その結果、今は目立たないことで目立ったりもしてないし、得に嫌がらせも受けてないし、
飲み会とかも気軽に参加できるようにはなったし誘ってもらえるようにはなった。
去年の冬くらいに二人に告白されて、そのうちの一人と今も恋人関係は円満なのかはわからないけど続いていて
昔からの知人に会うと変ったね、成長したねって言ってもらえる。
でも、なんか、もう何書きたいのか良く分かんないけど、駄目なんです。
周りがそんなに私のことを気にしてるなんて思ってないけど
今もやっぱり皆私が嫌いで本当は邪魔でしょうがないと思ってるんだって勝手に考えてる。
でも、本当に自分が救いようもなくて本当は努力なんてしてなくて今までやってきたことも全部無意味で、そうとしか考えられなくなる。
自分がうまく肯定できない。
皆見えないところで凄く悩んで苦しんで頑張って今みたいに素敵な人になったんだろうな、なんてわかってるんだ。
そんなの「でも、みんな悩んでるかもしれないじゃん」なんて言われなくても分かってるんです。
良く分かりません。何考えてるの?
相手が自分のことを思ってくれて、
自分もその相手のことを思っていて、
それでいて自分はその相手に何かできるんだという
前提の前提のような信頼関係とでもいうのか
そういうのが築ける自信、でもないけど、なんか、そんな感じのが私にはない。
だから一人で生計を立てられるようになりたいなってずっと思ってきたし、そのために何とかしなきゃって今も頑張ってる?
頑張り切れてないから悩んでるんだよねきっと。
だって折角会計士学科にいるのにでも取りたいのは日商一級だからって会計士の勉強ほぼ全くしてないもの。
結局人間関係だって周りの人がみんないい人だから成り立ってるだけで私の努力なんかじゃない。
当たり前だよそんなの。
私がしてきたことなんて努力なんて呼ばない。
ずるずるずるずるいつまでも同じとこで止まって悩んで考えているふりをして苦しんでるつもりか?最低だな。
それは彼も私より完璧な2次元方がいいだろうし、名前だって呼びたくなくなるだろうし、袖掴まれたり、電話されたりしたら迷惑この上ないだろうな。
それでも一緒にいてくれるのに、約束の前日に二回続けて連絡付かなくて当日に一回ドタキャンというか、どうするのって話してる途中で連絡途絶えたくらいでキレて。
彼にとって都合よくいたら良かったのに何してるんだろう。
二次元よりも私を見て欲しいとか馬鹿じゃないのか。彼女たちにどこも勝らないのに。
とにかく私は相手が自分のことを思ってくれてるとか、私が相手の為に何かできるとか、そういう風には思えないので
結婚の話が遠いところの話に聞こえるのかなと思っただけなんです。
自分勝手な自分最低と自己否定を入れたら弁解になるとでも思っているのかね。最悪だ。
長々と不快な文をごめんなさい。
誰か知らない人の前に吐き出したかったんです。
場所を貸して頂いてどうもありがとうございました。
学生時代に年相応の青春な恋愛ができなくてこじらせるとこうなる。
私なんかもそうで、学生時代ずっと好きだった人はいたけど発展の無い片思いだった。
んで学生時代の青春をこじらせたまま、学生時代の文化祭はサボり、体育祭にも力を入れなかった結果、今そういうものに色々と夢を持つ結果になってしまった。きっとこのままだと私が子供を産んで育てた時に青春は今のうちに闊歩しとけ!と言う親になるんだろうと思う。
まぁそんな私だったけども、同じように学生時代に青春な恋愛をこじらせた彼氏ができた結果、今はなんとかうまくいっている。
青春を感じたい恋愛をしたかったら、同じようにこじらせた相手か、純粋な相手を探すしかない。
ただ年齢を追うごとにそれは難しいものになるし、逆に青春はできてもそれが出来る相手には「見た目」やら「性格」が地雷になる人間も多いっていうリスクを踏まえといた方がいい。
元々自分の外見には特に決定的な欠点も無かったし、コミニケーション能力も特に無いわけでも無いので
少し外見に気を使って、つるむ友達を変えれば特に問題も無くリア充になる事に成功できた。
リア充になろうと思った理由は当然女の子との関係を作るため。彼女だって作りたい。
という訳で色々とリア充の遊びをして沢山の女の子と仲良くなっていった。
これを期にリア充をやっていて何が楽しいのか冷静に考えるようになった。
リア充の男友達ってのは女の友人関係みたいな物でほとんどあって無いようなもの。
利害が一致した時だけ行動を共にして、群れを作ったりする。
リア充になってから俺は本当の意味で友達とよべる人間を作ることが出来なかった。
最初のうちは楽しかった女の子との絡みや遊びも時を経るとただイライラするだけになっていく。
そもそも自分とは思考が違いすぎる人種。向こうに合わせているだけでストレスは溜まるし、
それに見合う報酬も舌が肥えてきて感じなくなっていた。
今の俺は凄く孤独を感じる。学校で非リアに睨まれながら女の子と会話をしていても、少しの優越感も感じなくなった。
常に誰か周りにいる。でも楽しくもなんとも無い。かえって孤独だってのを実感するだけになる。
昨日文化祭に中学のからの親友が遊びに来た。そいつといる時は本当に楽しかった。
屋上から校庭でナンパしているリア充に「死ね」って嫉妬したり、
前から歩いてきた美少女にも声を掛けることなく、「今の娘やばくね?」と二人でその娘についての妄想をしてみたり、
でも結局俺にはそれが一番楽しかった。
人には向き不向きがあるんだと思う。俺にはリア充は向いていなかった。
これからは徐々に方向を変えていこうと思う。
リア充になって学んだ事もある。女の子の持ち上げ方、スイーツのうざいノリ、美女の悩み、池面の悩み、…
確かに出会いの数はリア充じゃないと圧倒的に減るだろう。でも世の中には沢山の出会い方が存在する。
別に学校に出会いを求める必要は無いんだと思う。俺の発想がそもそもガキだったんだろう。
もし俺が進学後初めて女の子に声を掛けた時に戻ることができるのならば、
その事を非リア共に自慢して満足していよう。
公開直後は登録サーバなど負荷増大のため,しばらくは重たい使用感になるかも知れませんが,期待されていたARアプリだけに,今後の活用と展開が期待されます。きっと様々なエア・タグが登録されていくことでしょう。
私の興味関心は,いろんなツールを学校現場で使ってみることなので,セカイカメラも同じように学校現場で利用したら,様々な点で面白いと思います。
・校内の各教室や備品などにエアタギングしてみる
・文化祭の企画として学校中にエアタギングされた学習クイズやヒントを解いていく
etc..
日常使うツールとして使うのも面白いですし,特別な日のために活用してみるのも面白いです。
iPhoneやセカイカメラのような「ICT機器」(教育のセカイでは,情報機器やモバイル端末等をこう呼んでいます)を学校現場に持ち込むことに,どんなメリットがあるのか不審に思う向きも少なくないようです。
携帯電話が学校持ち込み禁止になりましたから,なお,そのような考えや意見は増え,強くなっているかも知れません。
しかし,「ツールを使う日常が学校にあること」は,メリット・デメリットを丸ごと含めて,とても重要なことだと考えます。なぜなら,そのような「ツールを使う」ことに対する「指導や学びのチャンス」を学校内に確保できるからです。
残念なことに,軽量小型のビデオカメラ機能付き音楽プレーヤーが盗撮の道具に使われるという事件が起きています。このような行為をするのは,ツールの機能的な側面ばかりに目を奪われて,利用による効果や影響に関する思慮が足りないせいではないでしょうか。誘惑を断ち切る精神的な強さも足りなかったのでしょう。
ツールを使う日常が学校にあることによって,たとえば,機能面に捕らわれて起こしてしまう小さな失敗から多くを学ぶ機会が得られると考えます。少なくとも学校教育の中なら,そのような学びの機会を用意しやすいのです。そのような経験の繰り返しによって,ツールに対する適切な態度も形成されるのではないでしょうか。社会人になってからでは,その学習機会をつくることがどれだけ難しいか,実感されている方も多いと思います。
iPhoneやセカイカメラといったツールは,学校現場に積極的に持ち込んで,そのポジティブな面とネガティブな面を両方とも触れていくことが大事ではないでしょうか。そこに夢を描いてもよいですし,過度な商業主義に対する距離を確保してもよいでしょうし,あるいは学習活動に積極的に導入してもよいでしょう。
2009年09月23日sfkenうんうんと読み進めていたら、リキッドとか文化祭とか、しっかりリア充体験していて「ふざけんな!」と叫びそうになった。
ブコメに同感。
今から10年位前、大学生、ひとり暗い部屋で、馬鹿騒ぎの深夜番組から、「おはようございます」とニュース携えたアナが爽やかに挨拶する夜明けまでずっと、光るテレビ画面をひたすら眺めていた自分。
膝抱えて、ビクターのラジカセでスピッツの大宮サンセット聞いていた自分。
今自分がタイムマシンかなんかであの時に帰れるなら、今でも当時の自分に何て声掛ければいいか分からんが、よしよし大丈夫大丈夫だとひたすら頭をなでてやりたい。
ド田舎から出てきて、妙にプライドだけ高くて、東京の最高学府にぎりぎり滑り込んだはいいが、周りのあまりの賢さやリア充(当時こんな言葉はなかったが)の眩しさやオサレさに思いっきり打ちのめされる。
生来の引っ込み思案も手伝って溶け込めず、クラス仲間とも当然疎遠になった。
1年の終わり、ろくに出なかった第三外国語のテストの口頭試問で、優しい外人先生に、心から心配そうに「あなた友達いないでしょう」と流暢な日本語で言われたのを今でも傷みたいに思い出したりする。
何とかしようと真面目系サークルに入っても皆勤なくせに和気藹々も出来ず、ゼミもしかり、真面目キャラのくせに勉強ができるでもない。まさに準ひきこもり(当時こんな言葉は(ryだった。
んでもあのとき必死だったと思う。
悩んで悩んで自分何やりたいんだろうか、どうして友達できないんだろか、学校辞めようかでもせっかくこんないい所入ったんだしとも思うしうじうじ、でも行動もどう起こしていいのか分からない、授業に足を踏み入れればクラスメイトが散らばっててどの席座ったらいいのか分からない、食堂もどこ座っていいのか分からない、
卒論もお情け合格、就職するにあたっても当然面接落ちまくり進路も決まらず、最後は学歴だけで採用してもらったようなもんだが、まあ職場の人間関係にも恵まれたのか、今何とかこうやって生きていて、そう苦しくもなく、恋人は無論いないものの、中高大と合計して片手で足りるほどの友人と、たまに会ったりして今ではそれなりに心安い生活を送っている。
これくらいの年月生きてきて、ようやっと社会人として、いやそれ以前に人間として、他人とコミュニケートできる素地が育ってきたと思う、大学の同窓会にもやっと出られるようになって、当たり障りない話して笑えるくらいになった。
そして今大学時代を思い返してみると、大半の暗い思い出の中で、痛痒かったり楽しかった瞬間も思い出せるっちゃあ思い出せる。今は無き新宿リキッドへ初めて連れてってもらったよなーとか、文化祭で皆で夜中じゅう寄ってたかって変な食べモノ作ってたよなーとか、ゼミ旅行で酒飲んで初めて記憶失ったよなーとか、もう卒業だってんで好きだった優しい先輩に告白してうん、とだけ言われて玉砕したよなー、とか。
ビタースウィートシンフォニーっていう、ヴァーヴのヒット曲のタイトルがあるがまさにそういう感じ、90パーがビターで10パースウィート、昔は思い出したくもなかったが、苦さの中からスウィートのほう思い出せるぐらいには成長して、自分を卑下するには年を取りすぎたのかもしれんし、人生に耐性がついたのかもしれん。遅っ。
ネットでよく非コミュで大学辛いぜと泣きそうに笑っている人を見て、あの時膝を抱えて暗い部屋の隅っこでじっとしてた自分の姿とダブりまくって、ああ大学なんて人生の一部だ、あと10年も生きればなんとかなるなんとかなると頭をなでたくなってくる。
人生の輝かしい時期を棒に振ったと言われりゃその通りかもしれんが、うあああーと朝まで苦悩していた自分を思えば、今の時点からえらそうに後悔という言葉を当てるのも痛々しい程だから、せめて今の自分はあのときの自分を肯定してやりたいのだ。
横だけど俺に取っては
・目的が上からあたえられたものではない
・その集団に出入りすることが自由だ
場合にはみんなでやった達成感を感じるかもな。
例えば今フットサルやってるけどこれは俺が好きで飛び込んでるわけ。そして仲間も同好の士なわけさ。そしてその外部には別にフットサルに興味がない人たちがたくさんいる。つまりそれに価値を感じないということも肯定されている、という世界観をサークル内で共有している。
文化祭とかってこれらの要素を一切満たさない催しじゃん?
そこがファシズムっぽい。
似てる状況としては、卒業式にアンジェラ・アキ(別にどの歌手でもいいんだけど)が来て生徒たち大熱狂!とか。その横でケッ!なってる人がいたらそれは俺の分身だ!
http://anond.hatelabo.jp/20090920165715
自分のペースでしか動かない男子に、団体行動してもらおうと思ったら、何度も「一緒にやろう」と呼びかけて団体行動ウィークだってこと思い出してもらう必要があるでしょ。別にこっちも好きで同じクラスになったわけじゃないから、参加したくなかったら参加してくんなくてけっこうなんだけど、団体行動の評価はクラスごとにされるんだから「呼びかけもしなかった」じゃクラスの評価が下がるじゃん。体育祭にしろ、文化祭にしろ、本当に準備にかかる時間なんて、2週間くらいなんだから、そのくらいクラスに付き合ってくれてもいいと思うんだけど。団体行動ダメな男子って、マジダメだよね。女子はなんとか耐えるけど。性差なのかな。
中学時代の話。うちのクラスに、ドラえもんに登場する「出来杉君」をある程度マイルドにしたような人がいた。成績は中の上で短距離走が異常に早く、帰宅部なのに県大会とかに出てたりして、性格や「穏健」を体現したような感じ。なので男女問わず彼を悪く言う人はいなかった。
それとは別に、担任もさじを投げるようなどうしようもない奴もいた。いわゆるDQNってやつか。出席率は3割以下。たまに来る日も、昼前に、明らかに暴走族とおぼしき輩がバイクで送迎してくる。舌打ちしながら授業を途中で「自主的に切り上げる」など日常茶飯事。
そんな二人が一度だけ激突した事があった。
年に一度行われる文化祭的なイベントにむけて、うちの学級は学校のジオラマを造っていた。二畳ほどの広さのもので、校舎の窓ガラスも一枚ずつプラスチックの板をはめ込む気合いの入れよう。途中経過を見た校長はその出来映えに感心し、文化祭的イベント終了後は学校の来客用のエントランスホールに展示するとまで言い出したのだから級友達のテンションが上がらないはずがない。クラスのみんなが自主的に連日放課後居残って制作に勤しんでいた。
そこにDQNの登場である。
ジオラマの作業場所は余った机や椅子置き場になっている、今は使われていない教室なのだが、何故かDQNが放課後そこにふらっと現れた。
教室に入るなり「おっしゃ!俺も手伝ってやるぜ!」とがなりたてるが、当然みんなは白け顔。そんな空気を読み取ったか、DQNはつかつかとジオラマに近づき、「お、殆ど出来てんじゃん!」と言うやいなや、「はいどーん!」と、あろうことかジオラマのグラウンドの部分を思い切り踏みつけやがった。
ジオラマの土台は発泡スチロールなため、ジオラマの真ん中に巨大な足跡があっけなくできあがり、白い破片が周囲に飛び散った。あっけにとられる周囲を尻目にDQNは「よっしゃこれで完成www」とついでに東校舎を蹴っ飛ばした。
すすり泣く女子達。「何やってんだお前!」とDQNににじり寄る男子達。へらへらと笑うだけのDQN。そのうちの何人かが職員室へ事態を報告しに行こうとした時、教室の隅で作業中だった彼(穏健な方)が突然投げつけたパイプ椅子が、DQNの顔面に直撃した。折りたたまれた状態で縦回転しながら飛んできたので、かなりの衝撃だったように思う。
予想外の事態で後頭部をしたたかに床に打ち付けたDQNは、鼻と口からダラダラと血を流し(上あごに当たったのだろう)、DQN達特有の威嚇の雄叫びをあげた。しかし彼は意にも介さずDQNの頭をサッカーボールのように蹴り上げた。
「お前何してんだこら。」
彼はそう言いながら、今度はDQNの腹を蹴りつけた。
「なあおい!お前何してんだよ!なあ!」
次はDQNの顔面を思い切り踏みつけた。
まるで外国の映画で、悪徳刑事が取調室で無実の被疑者をいたぶっているような光景だった。もしくは、命令をしくじった下っ端のチンピラを制裁するマフィアの姿にも見えた。生まれて初めて目撃する純然たる「暴行」に俺は背筋が冷たくなった。いつも威勢のいいDQNの顔には、血と涎と涙と恐怖しか残っていなかった。
職員室から担任が急行した数分後には既に終わっていた。半壊したジオラマの横で土下座をするようにうずくまり、背中にいくつもの足形をつけ(彼が蹴りつけた時についたものだ)、「うーっうーっうーっ」と、泣いてるのかうなっているのか判別しかねる声を上げ続けるDQN。散らばったジオラマの部品を黙々と拾い集める彼。
「何があった?」と尋ねる担任に、彼は無表情のまま答えた。「そいつに聞いてください」。
その日以後、DQNは学校に現れなくなった。DQNに暴行を加えた彼はとりあえず反省文を提出させられたようだが、教師側も(普段の彼とDQNの行状から)事情を察したようで、後からその件に触れる事はなかったようだった。そして我々も何事もなく卒業を迎える事になった。
およそ二十年弱が経過した。そんな彼をmixiで発見した。結婚し、子供も居るらしい。俺は彼にメッセージを送って連絡を取り合い、あの「暴行事件」を懐かしんで見せると、彼は翌日少し長いメッセージを送り返してきた。あの日の自分の行いをとても後悔しているらしい。自分がクラスになじむチャンスを奪ったのではないかと、今でも思い出す事があるそうだ。なので私は、DQNが16か17歳の時に無免許でバイクを乗り回し、交通事故を起こして死んだ事は言わなかった。多分彼も知っていただろうが、これ以上は私が切り出すべき話ではないような気がしたからだ。少なくとも私にはあの事件は「武勇伝」ではあったが、彼自身にとっては、それは「忘れがたき若き日の過ち」だったのだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20090912180954
を書いた増田です。
上記の日記では、
「公立中学に行かせるべきじゃない。理由は、リア充やDQN化したときに、子供の反抗期では済まないレベルになってしまうからだ。俺が住む地域のみかもしれないけど」
のような事をかきました。
ブクマやトラバで、いろいろなご意見を頂いたので、返信したいと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20090912180954
id:white_rose
id:aozora21
中学卒業前には、明らかなヤンキーもいたが、俺が話してるリア充グループは、そうではない奴がほとんど(リア充グループのリーダーはそうだった)。俺が話してるリア充グループは、「野球・サッカー・バスケ部のエースや部長で、文化祭や体育祭では、張り切ってしまう」、そんな典型的なリア充だった。友達思いのいい奴らも多かったと思う。しかし、それが仇になったのだろう。
彼らは、中学を卒業しても、中学時代の人間関係を断ち切れなかったのだ。 id:ppp22 が言うように、本格的にヤンキーになり犯罪を手に染めるようになるのは中学卒業後だ。しかし、中学時代の人間関係がかなり関係していたように思える。
中学時代の人間関係のために、俺が巻き込まれた、体験談を書く。
これは、
id:white_rose
「あとやばそうな人とは高校で別になるし、子供がしっかりしてたら巻き込まれないのでは?」
と考えている人に読んでほしい。なぜなら、20代後半になる今の俺でも、あのときどう対処したらよかったのか、わからないからだ。子供がしっかりしるレベルじゃ、防げないと思う。
カーストの低いグループの一員として、中学を卒業した俺は、同地域の普通(偏差値55くらい)の公立高校に通っていた。その時期、ちょうどPHSやポケベルが全盛期だった。そのため、中学の友人とも連絡をとり、月に一度くらいは会っていた。ある時、グループのリーダー的存在であり、上位のリア充グループとも付き合いがあるAに、呼び出された。
「Bから、○○会のパーティー券が回ってきた」と言われた。
同世代なら知っていると思うが、知らない人もいると思うのでパーティー券の説明をする。パーティー券とは、かつあげのためのツールである。(大抵の場合、開催すらされない)パーティーの入場券を買わせることで、かつあげをする。このシステムは、友人がやるコピーバンドのライブチケットを買うのとシステムが似ているため、検挙され難かった。
Bとは、中学時代のリア充グループの一人で、○○会とは地元で最強の暴走族だ。○○会は、現役の高校生だけが暴走行為を楽しんでいる暴走族ではなく、少なくてもチンピラと、おそらくヤクザとも関係をもっている暴走族だ。Bは、○○会と関係するようになっていたのは噂で知っていた。そして、○○会の先輩に俺達のグループにパーティー券を回すように言われたらしい(これはおそらく嘘)。
券の枚数は忘れたが、一人当たり2千円ほどの負担で済む額だった。そして、俺達はそのパーティー券を買った。これはかなり危険な選択だった。一度買ってしまえば、また買わされる可能性が高いからだ。しかし、幸運にもそれ以降なにもなかった。
この時、さらに券が回ってきた時にどうしたらよかったのだろうか?
親、学校、警察に相談する。もちろんそれも考えた。親、学校に言えば、警察に相談することになるだろう。しかし、暗黙の脅しで、警察が積極的に動くはずがない。せいぜい、そんなもの買わないように注意され、何かされたら通報されるようにと言われるだけだろう。そもそも、○○会は、毎週土曜日同じ時間の同じ場所で暴走行為をしていたのに、警察は取り締まってなかった。
次の選択としては、俺が、Aとその周りのすべての人間と縁を切ることだ*。だが、Aの立場では難しかったと思う。Aは、族関係者のBに、直接関わってるため、何かされるリスクが高いからだ。
中学時代の人間関係のため、こんなブラックな悩みを、普通の15歳の少年であった俺は持っていた。今でも、こんな状況がきたらどうしたらいいかわからない。
「良い大学に行くのは、良い人間関係ができるから」と言う人がいる。それと、まったく逆のことが、地元の公立中学ではおきていた。子供がしっかりしていれば、防げるレベルではないと思う。
逆にいえば、中学時代の人間関係を使えば、すぐに○○会の一員になれただろう。もし、暴走族や暴力団に入りたい人には、ほしい人間関係なのかもしれない。
上記は、十年ちょっと前に東京23区東部で起きていた実際の話。俺だけでなく、俺が通っていた普通(だと思ってた)高校でも、この手の話はよく聞いた。うちの子は性格も良いし、しっかりしてるから大丈夫と思ってる親御さんは、上記の件を読んで考えて欲しい。子供がしっかりしてるレベルで対処できることじゃないし、友達を大切にする性格が良い奴ほど、ヤンキー化した友達との関係を切れない。
別に見せるのを拒んでた訳でもないし、特別見せたいという感情もなかった。
15年以上前の物であり、つまりは見せたい見せたくないと思う以前の完全な忘却状態だった。
文集は、文集委員なる物をクラス毎に生徒の中から選抜し、
選ばれた生徒が中心となって作っていくもので、内容はと言えば
「クラスの中の○○な人BEST3」とか「この人は将来こうなりそう」とか
他愛のない物ばかりで、あとは体育祭や文化祭等のイベント毎の写真で綴られる。
恋人はもちろん私のクラスと私がどんな人間であったかに興味があるようで、
私はクラスの中でおとなしい人BEST3と変わってる人BEST3にランクインしていた。
過去の自分は絶対的な存在力でその文集の中におり、恐らく、いや間違いなく
当時の私は、クラスの中で一番にはならない程度に中途半端におとなしくて、
そして変わっている人間だった。
恋人がどんな気持ちで「変わってる人だったんだー」とか「おとなしかったんだー」と
私に言ってきたのかは分からないが、言われた私の方はと言えば、
うまく表現できないが「過去の自分が現在の自分とリンクしていない」気分にとらわれた。
彼らが興味を持つのは東方ボカロ(ニコニコ文化)、あとせいぜいコスプレ、他はどうでもいい、って子が多い
この「他はどうでもいい」っていうのがポイント
「東方ボカロ以外でコミケ参加してる奴なんなの?きめえwwww」と当然思ってる故、他の参加者との「お互い様」精神が全く存在していない
コミケは「君もオタク、僕もオタク、オタク同士なら助け合ってコミケ成功させよう」で成り立ってる部分が多い
でも彼らにとってそんなことは「どうでもいい」。
待機列で「25時25分に七色のニコニコ動画歌おうぜww」や、ニコ生でコミケ実況中継などがいい例だろう
自分らの文化内だけで盛り上がることが最優先なのだ。他の文化を持つ人たちのことを考えもしない
昔から↑のような人はいたけれど、ローティーンだとさらにこういった傾向が強まるように見受けられる
なんていうか、『仲間内で他校の文化祭へ行くノリ』で来ている感じ。今週末あるってー、行ってみるかー、みたいな。
他人が開催したお祭りを覗きに来ているため、何をしようが「俺らには関係無い、その学校の奴らがなんとかするだろ」というスタンス
コミケの楽しみ方は人それぞれだし、こうあるべきというのを押し付けるつもりはないけれど、
彼らの横暴ぶりを見るたびに「時代は変わったんだな…」と思ってしまう
いや、でもこう考えることは出来ないか?
ってか配当ってガソリンと同じく2重課税じゃないの?
===
Aさん
Bさん
Cさん
Dさん
Eさん
の5人がいたとします。
それぞれ1万円ずつ出し合って、文化祭で屋台をやりました。(仮にたこ焼きやだとする)
10万円売りあげて、利益が5万円出ました。
仮に法人だったとすると、
ここに法人税が30%かかってきます。
つまり1万五千円が税金として引かれます。
配当課税がなければ、最初に1万出したみんなの手元には7000円が返ってくることになります。
ところがどっこい!
この7千円に10%の税金、平成24年度からは20%の税金がかかるわけですから、、、、、
1400円引かれて、手元に残るのは5600円。
これってひどくね??
2重課税じゃね??
で、Aさんは5600円でガソリンを買ったとすると、
1リットルあたり53円の税金(現在だと)で、リッター106円の店で入れると税率は50%ということになる。
あくまでも仮定の話で、AさんBさんCさんDさんEさんがもっともっと儲ければいいだけの話だけど、
1万の資本金を出資しあって、自分らはオーナーとして利益配分を受け取ろうと考えた場合、
(&さらに悪意ある計算方法だが、利益を全部ガソリンにつっこんだと考えると)
一人1万円の分配金のうち、7800円は税金!!
ヤバス!!!
78%も税金取られてるよ!!