はてなキーワード: 原則論とは
まとめてないし、まとめてもブログに書けないので、
見てる視線が一緒なら、そりゃ何年経っても同じに見える
能動的な悪を声を上げて明確に否定しないことは、
悪をのさばらせる消極的肯定でしかない、という話
何もせずとも救ってくれるだろうという甘え
何もしなくても悪を裁いてくれるという甘え
被害者は相手が悪なのは当然として証拠を集めない
悪は自分が悪であるという証拠は集めない
誰かも相手が悪であるという証拠は集めない
・自勢力に有利な、極端にあるいは明らかに社会悪の虚像を想定する
・大悪(相手)を非難するために、小悪(自分)は許容する
嗜好の先鋭化がもたらす人物像の姿
ごく狭い範囲により深く沈む事を至高とする○○マニアになる
PTAの悪者探し
・自分が所属しないカテゴリに自分が理解出来ないものの理由を求める
自分を善良の側にしたいが為に
一番の悪を消める終わりの無いマスゲーム
腐女子行動
・自分が所属していないグループで内部抗争が起きているときに、
・同調、優越感
236 名無しさん [sage] 2010/05/28(金) 15:18:06 ID:OyCrGS9P
奈落がまた荒れてるな
まったりしてるほうがいいのにねw
要旨
・喜ぶのはリアルタイムだった20代後半以上だけ
・作ってる側が古いものに拘り、それが絶対と勘違いしていないか
・ズルズルと自分たちのノスタルジーに嵌まってるとそのうち見向きされなくなる
こんな感じ
・反対のための反対をしている層が賛成派に言質を与えている(無能な味方)
・他の意見や反論を悪と認定する
うむ、君とはわかり合えないことが判ったよ。
善意の有無とか、チャリティーの現場的には割とどうでもいいことに拘られると、正直迷惑だが、こだわりというか思想の一種なんだろうから、
現実論をぶつけてもしょうがないんだろうな。そういう思想的立場が(結果にどういう悪影響をもたらすかを別にすれば)首尾一貫してる
ことは認めるよ。
ただ、そういう立場が、チャリティーなりボランティアなりやってる一線の団体では、常に嘆きの種になってることは心得ておいてくれ。
偽善のかたまりみたいな、「一流ホテルでチャリティーパーティー」に参加してくれる人たちの方が、偽善を非難する人たちよりよっぽど
有り難いんだよ。欺瞞や偽善は原則論では悪寄りなのかもしれんが、「金が集まらない」という大きな悪に比べれば遙かに小さな悪、
あるいは必要悪とか考えるべき話で、「必要悪をなす」ってことは「必要」を実行してるからむしろ善だ、というのは否定できない考え方
だと思うぞ。
国際河川の開発の中で,昔から一つの不文律がある。経済が発達した国から水資源開発の優先権を与えて行こうと言う考え方である。例えば,1980年代から1990年代にかけて,インドシナ半島の中でタイの経済発展が突出した。カンボディアはポルポト政権の後で,まだ政治各派が争っていたし,ベトナムはカンボディア侵攻で世界の経済制裁を受けていた,ラオスは完全にタイ経済の中に組み込まれていた。
勿論中国は,天安門事件などが起きて,まだ海外進出を考えるどころか,内政に腐心していた。このような情勢の中で,タイは着々と自国領域内,国際河川であるメコン河の左岸支流,チ川,ムン川の開発を進めていた。1992年を境目に,カンボディアが和平復帰,ベトナムへの制裁解除,と進んで,メコン河の水の使い方で,メコン委員会の場でメコン河の開発に於ける原則論が議論され,一つのルールが確立された。
このときに一つの議論になったポイントは,インドシナ半島が混乱している中で既に灌漑など,メコンの水を取り込んでいるタイの施設がどう扱われるべきか,と言う問題である。タイの当時の既開発は,メコン河支流にダムを造って灌漑に導水したものであるから,灌漑後にメコン河へ返される可能性もあるが,殆どは灌漑として消費されてしまう水で,下流国としては本来容認できない問題である。
このタイの既得権は,新しいメコン河委員会が組織されたときに,ベトナム,カンボディア,ラオスの沿岸諸国の代表によって,追認,承認された形をとった。当時は,タイと他の三国との間に余りにも大きな経済の実力差があったから,このような追認が出来たわけである。今,もっと激しい議論の渦中に合うのが,カシミールを中心としたパキスタンとインドの水争いである。
メコン河のケースと違うのは,パキスタンとインドの間で,水資源開発能力に,メコン河の場合ほどは,格差がないと言うことである。それでも,1960年代に結ばれたインダス河水条約の中には,先に開発した方が水利権に優先権を主張することが出来ると書かれている。インダス河上流のニールム川は,下流はアザドカシミールのパキスタン実効支配地域,上流はジャムカシミールでインドの実効支配地域である。
インドは,上流で348MWのキシャンガンガ水力を建設中で,水は分水されてガンジス河流域に転流される。また下流のパキスタン領内では,969MWのニールム-ジェルム水力が既に着工している。インドは上流なので黙々と工事を進めているが,下流のパキスタンは機会ある毎に,インドの暴挙を非難して国際社会に訴えている。場合によっては国際調停の場に出て行く覚悟もしている。
パキスタンは,幾らインドに抗議しても,インドは物も言わずにただ黙々と上流プロジェクトを進めている。ここでパキスタンも悟ったようだ,実際に開発が先だ,と言うわけである。先に運転状態に入ると,上流のダムの優先権を否定出来る,というわけである。50kmに及ぶパキスタンのプロジェクトの導水路トンネルが工期を左右している,ここにトンネルマシンを導入して工期を2年間短縮し,インドを追い越そうと言う。
というのは、良く言われるが、学生は理解しないものだ。
もちろん、全員というわけではない。東大には、原則論としては、優秀な人材が集まっている。
同時に、落伍者もたくさんいるのだけれども。
旧司法試験の頃の文Iの学生は、2年ぐらいになれば予備校に通って司法試験に備えていたように思う。
ロースクールが始まり、弁護士の門戸は広がったが、同時に「人余り」がささやかれるようになった。
離婚調停や破産処理などが多いー京大から弁護士に進んだ知人がそう言っていた。
悲しいかな、それは現実なのだろう。資格者数に対して、案外、分け合うべき果実は少ないのかもしれない。
もちろん、文Iが進むべき道は弁護士だけではない。官僚や有名企業の社長に多かろう。
理文という境が正しいかという議論はさておき、理系の相対的価値は昔に比べれば上がったように思う。
それは、文系の相対的な価値の低下の裏返しであろう、と想像する。
なんども言うが、もちろん、全員ではない。だが、そういった文系が余りにも増えすぎた。
理系から理数的能力を差し引いたら文系、と言われてしまえば、文系の価値など無いに等しい。
それは文Iとて変わらないのだ。
そういった理尊文卑マインドの中で、文Iに真に求められるのは、新しい文系の在り方ではないか、と思う。
「最強の文系」像とは何か。
その答えは、割合、理系とか文系とかそういうことにも有るようにも思う。
理文無関係に過ごす駒場の2年間と、安田講堂の左右(厳密ではないけれども)で分かれる本郷の2年。
その期間が、あなたにとって有意義でありますように、お祈り申し上げます。
特別永住者が地方選挙権が欲しいというのはまだ分かる。元国民だったのが国が戦争に負けたせいで国民じゃなくなった、それを取り返したい、という論理で。(だから韓国の右翼は「韓国人が日本国民顔するな」と反対しているということが起きるのだろうけど)
一般永住者に地方選挙権を付与するって何だ? 初めて聞いたぞ。
ひるがえって地方の住民には地方の選挙権が必要、というのなら、最初の特別永住者に地方選挙権を与えるべきという以前の主張は別の論理になってしまう。特別一般関係なく地方選挙権を付与すべきだという今のスタイルが正しいことになるが、じゃあ何で最初からそうじゃなかったんだという話になる。
また、これだと特別永住者には地方選挙権しか与えられない。元国民だから国政の選挙権も欲しい、というのはやはり別の論理になってしまう。
二つの論理が重なる一つの領域を使って、二つの論理一方しか通じない領域に波及させようというのは、詐術に見える。特別永住者に国政参政権を与えるか、今みたいに永住者全般に地方参政権を与えるか、あるいは両方であるべきだ。最初からそうでなかったということは、発端が倫理的な原理原則論を通そうというのではなく、何か裏があるということを疑われてもしょうがない。
「東アジア女子選手権で北朝鮮選手団の入国を認めない」との発言があり、
これに対して
「政治不介入主義のFIFAが認めるはずがない。下手すれば南アフリカW杯資格剥奪もありえる」との
懸念の声が出ている。
しかし、ここで日本が原則論を貫いて「入国拒否」を貫き、その結果としてW杯資格剥奪になれば、
「遠い極東の出来事」としてさほど関心をもたれなかった拉致問題に、一気に欧米の注目が集まることになる。
その意味では、「本気で拉致問題を解決したいなら、むしろ強硬な原則論を貫いた方がいい」とさえいえる。
ところで、日本はW杯誘致を考えているらしいが、このような国のW杯招致をFIFAが認めるわけがないと思われるが。
「W杯代表に北朝鮮が勝ちあがった場合、それでも日本入国を拒否する」のであれば、W杯そのものが成り立たない。
・・・というか、中井氏は「そもそも日本のW杯誘致自体に疑義を呈している」ので、
その点では「一貫している」と言うべきか。
…う、あの…クライアントさんむけに迷惑かける、というのは、どちらかというとプライオリティがたかいほうのことなので、後回しにするとか、ないですから…
どうしても、要求を満たすモノができなくて、周囲を巻き込んだり、徹夜したりしてもできあがらず、迷惑かけるとかはありえますけど…
っていうか、なんで、自分の仕事で直接に迷惑をかけてるわけでもない人に叱られてるんだろう…じぶん…
*
ちなみに、自分も、クライアントの側にまわったときにやきもきしたことは、ママあります。
でも、あまりに問題の発生が多い時って、クライアントとしての自分オーダーの出し方にもたぶん、問題があったんだろうな、とか、思うことにしております。
原則論を言えば、もちろん契約書通りにしっかりと仕事をしてもらわないと困るし、締めるところはしっかり締めるべきですけど、
オーダーを出す、というのもディレクション能力の訓練のうちかな、とポジティヴシンキングで!
やっぱり、一緒に仕事をするのがはじめの相手って、どこの部分にどういうパフォーマンスを期待すべきかがわかりにくいですよね。
たくさんブクマがついてるのは知っていたが、無視してたんだが、読んでみりゃあくっだらない話。
http://d.hatena.ne.jp/harutabe/20091012/1255348374
http://d.hatena.ne.jp/harutabe/20091015/1255541833
http://d.hatena.ne.jp/harutabe/20091017/1255761383
ようは、手を出したら出した方が負けってことだけでしょ。それ以上のことは id:harutabeさんは言っとらんだろう。
id:mojimojiにしても、id:hokusyuにしても、あいつらバカなんじゃないか。彼らが言いたいことはid:T-3donさんのコメントが、よく言い当ててると思ったんだが、
mojimojiさんやhokusyuさんのエントリーは、排外主義や差別に際して「法に反してないから」「直接的な暴力に及んでいないから」それは暴力ではないと目を背ける人々に向かって、「いやそれは立派な暴力だから」と断じ問題に直視させる意図があるように思います。
http://d.hatena.ne.jp/harutabe/20091012/1255348374
それは、意見としては分かるんだよ。文脈を無視してここだけ抜き出せばね。
でも、排外主義そのものの暴力性と、実際に暴力をふるうこととは次元が違うのは当たり前の事だ。
人間には思想の自由、内面の自由があるよ。たとえ排外主義であっても、心のうちでそういう思想をもっていること、そういう内面そのものは誰にも否定できないよ。当たり前のことじゃないか。もし排外主義は暴力的だからいけないといってそれを否定する、そういう思想さえもつなというというなら、それはどんな独裁国家なんだろって話。
ただ、議論にできるとすれば、その排外主義を「表現する自由」がどこまであるかどうかという話。これは社会や国によって事情が違うでしょう。でも、id:mojimojiがいうような一方的な議論は成立しやせんよ、そりゃ。あんな議論が成立するなら、もしも左翼の思想なり議論なりが社会の根本にかかわって危険だとなったとき、「みんなで左翼を叩きましょう」なんて運動になりますわ。そういう正当化の根拠を与えようとしている、だからバカだと言うんだ。
手を出された時に警察は何をしてるんだというのは当たり前の話だ。そりゃid:harutabeもid:mojimojiもid:hokusyuも、みな社会に生きていて、その構成員である以上、法に縛られるのは当たり前の話であって、原則論を言えば実力として手を出したなら罰せられるべきなのは当然だ。もちろん、建前としてはね。でも、法としてどう運用されるかは、別。そこらの小さいもめごとでいちいち暴力だと言って警察を呼びたてるほどのものでなければ、無視されるのもそれは当たり前。そこには右も左もない。
そこを屁理屈こねて自由民主主義がとか2たす3がとか言うんじゃないよ。欧州の国でヘイトスピーチ規制があるのは、法として規制されてるんであって、それは社会の合意でしょう。排外主義者によるヘイトスピーチが本当に認められないと考えるなら、法によって社会的に規制する以外手がないのが現実だ。それを、国家権力に頼るのはいやだから、自分たちで何とかしようって話にしてるだけ。馬鹿馬鹿しい限り。
たくさんブクマがついてるのは知っていたが、無視してたんだが、読んでみりゃあくっだらないことじゃないか。
http://d.hatena.ne.jp/harutabe/20091012/1255348374
http://d.hatena.ne.jp/harutabe/20091015/1255541833
http://d.hatena.ne.jp/harutabe/20091017/1255761383
ようは、手を出したら出した方が負けってことだけでしょ。それ以上のことはharutabeさんは言っとらんだろう。
mojimojiにしても、hokusyuにしても、あいつらバカなんじゃないか。彼らが言いたいことはT-3donさんのコメントが、よく言い当ててると思ったんだが、
mojimojiさんやhokusyuさんのエントリーは、排外主義や差別に際して「法に反してないから」「直接的な暴力に及んでいないから」それは暴力ではないと目を背ける人々に向かって、「いやそれは立派な暴力だから」と断じ問題に直視させる意図があるように思います。
http://d.hatena.ne.jp/harutabe/20091012/1255348374
それは、意見としては分かるんだよ。こういうコメントに書き直すとね。
でも、排外主義そのものの暴力性と、実際に暴力をふるうこととは次元が違うのは当たり前の事だ。
人間には思想の自由、内面の自由があるよ。たとえ排外主義であっても、心のうちでそういう思想をもっていること、そういう内面そのものは誰にも否定できないよ。当たり前のことじゃないか。もし排外主義は暴力的だからいけないといってそれを否定する、そういう思想さえもつなというというなら、それはどんな独裁国家なんだろって話。
ただ、議論にできるとすれば、その排外主義を表現する自由がどこまであるかどうか。これは社会や国によって事情が違うでしょう。でも、mojimojiがいうような一方的な議論は成立しやせんよ、そりゃ。あんな議論が成立するなら、もしも左翼の思想なり議論なりが社会の根本にかかわって危険だとなったとき、「みんなで左翼を叩きましょう」なんて運動になりますわ。そういう正当化の根拠を与えようとしてる、だからバカじゃないかと言う。
手を出された時に警察は何をしてるんだというのも当たり前の話だ。そりゃharutabeもmojimojiもhokusyuも、みな社会に生きていて、その構成員である以上、法に縛られるのが当たり前の話であって、原則論を言えば実力として手を出したなら罰せられるべきなのは当然だ。もちろん、建前としてはね。でも、法としてどう運用されるかは、別。そこらの小さいもめごとでいちいち暴力だと言って警察を呼びたてるほどのものでなければ、無視されるのもそれは当たり前。そこに右も左もないよ。
そこを屁理屈こねて自由民主主義がとか2たす3がとか言うんじゃないよ。欧州の国でヘイトスピーチ規制があるのは、法として規制されてるんであって、それは社会の合意でしょう。排外主義者によるヘイトスピーチが本当に認められないと考えるなら、法によって社会的に規制する以外手がないのが現実だ。それを、国家権力に頼るのはいやだから、自分たちで何とかしようって話にしてるだけ。馬鹿馬鹿しい限りじゃないか。
もし警察権力を持ち出すならば、在特会だけ優遇してるという主張ならこれはまだまし。在特会の横暴だけ認めている、これは不当だというなら、まだ納得できるけど、そうじゃないでしょ。
はっきり言うけど、一番悪いのはhokusyuだのmojimojiだの、ああいう議論を真に受けるネット住民だよ。人がよすぎるんだよ。小難しいこと書いてるからちゃんと読まなきゃいけない、分からない自分が悪いと思いがちだけど、それは違う。ことにhokusyuは、すぐに国語の成績が悪いと言い出すけど、あんな複雑怪奇な日本語を書く人間の方が国語の成績が悪いんだ。彼の文章ほど、解読して何が言いたいかが分かった瞬間にアホくさくて脱力する文章はない。あんなもってまわって書く必然性がどこにもない。脳の失敗なんてタグを作ったのが誰か、絶対に忘れちゃいけない。左翼の片隅にも置いておけないクズだ。
僕もドイツにいたし、分野は違うけど学歴でも同じようなものだから言っとくけど、仮にhokusyuの文章をドイツ語に翻訳したってドイツ人には理解できないでしょうよ。現代のドイツ人でも意味不明の文章を書くので現代語訳が出たというカントだって自分の悪文は自覚していて、すまなそうにしてる。そういうものなんだよ。ドイツ人だって、あんなもんは分からんわと鼻で笑ってる。ましてhokusyuみたいに、理解できない人間を国語の成績が悪いなどとバカにしたところで、効き目がないんだ。あ、そう、で終わっちゃうから。なお悪いのは、hokusyuは書こうと思えば普通に書けることで、ならはじめからもっと普通に書けばいい。そうしないのは、わざと複雑怪奇に書くことで、純朴なネット住民を釣ってるだけ。それを、同じサヨクだというだけで持ち上げる人がいるから、余計に普通の人たちは、理解できない自分が悪いと錯覚する。釣られちゃいけないんだ。
仮にも東大のエリートにあんなのがいるってだけで、日本の恥だよ、恥。他人事ながら恥ずかしいよ。東大京大卒にももっと普通に話しやすい人はいる。あんなアホどもばかりではないと、これだけ、言いたい。本当に知性も教養もある人間は、自分の考えをきちんと他人に分かってほしいから、伝えたいから、そのように書いたりしゃべったりするものなんだ。わざと分かりにくいようにするなんてのは、テクニックとして愚の骨頂。それで国語の成績が悪いなどと罵倒するのは最低だと、ハッキリ書いておきたい。
(追記)
おもったよりブクマがついてしまったので、少し反応しとこうと思う。
tari-G うん、ほんとはNTさんの言うとおり。彼わざとやっている訳じゃないしね。要するに勉強不足。問題は勉強不足なのにそれを自分でちゃんと補えないこと。ま、日本の人文系は大概そうだけどね。 2009/10/19
NaokiTakahashi ああいうのは、むしろクソ真面目に文字通りに読んで解体してあげるのがいいのかもしれない。そんな暇はなかなかとれないが。 2009/10/18
まあ、本当にやるなら、真面目に「解体」するのがいいんでしょうが、わざわざそこまでする意味があるとも思われず。
でも「彼わざとやっている訳じゃないし」というのは、どうなのかな。彼の別のブログだとすっきり書いていて、その気になればできてる。真面目に書くとああしか書けないというより、ああいう文体を利用して立派に賢そうに演出してるだけだとみた方が正解でしょう。
もっとも、こういう弊害は彼に限ったことではなくて、まさに「人文系は大概そう」な一面もあるから、それはそれで脱力してしまうのですが。実際、分かりやすく、咀嚼して書いてやると、かえってバカに見えてしまって信用されにくい、とかね。
藤井財務相が極端な介入否定論者じゃないのはこれまでの経歴(細川政権での仕事)からも明らか。
また、急激な為替変動が好ましくないと思ってるのもこれまでの発言から明らか。
その原則論の射程とか、他の政策との整合性とか、他の閣僚との合意形成とか、
あまりに不明なところが多すぎて正直どん引きしてるのだが。
そもそも何のためにウェブサイトを作るかっていったらそのウェブサイトに集客して何かをさせたいからじゃない。
広く集客したいのかある程度ターゲット絞ってるのかあるいは会員にのみ何か特別なバリューを提供するためのサイトなのかっていうので、どういうメディアを使ってどういう手段で存在を告知したらいいかっていう戦略は変わってくるし、それはサイトの構成とかデザインにも関わってくることなわけ。
PRの部分については代理店が代わりに考えてくれる場合もあるけど、PRツールしか知らなくて目的別に使い分けられないアホ営業も多いし、デザイナ側もそういった意識を持っていて顧客に対してそういう角度からデザインとかコンテンツ構成に対して提案をしてあげられると重宝される。
原則論から言やあ、「働かざるもの食うべからず」であって、親の金は親の金であって子供の金ではないってことかな。倫理的にはね。
でもそんなもなあ、解釈次第でどうとでもなるしな。「俺に与えられた環境、、、これは神が俺に研究を続けろと言っているのだ!使命なのだ!」とかいかような解釈でもできるしな。自分を天才だと思う人もいるし。解釈とは別名ファンタジーとも言う。
http://www.ocn.ne.jp/game/og/32-survival/special.html
これを熟読してけっこう笑ったんだけど、こいつのファンタジーに対する迷いのなさに糞ワロタよ。本人のホラとライターのリライト力が大きいだろうけど。
で解釈をどうしようが基本的にそれはファンタジー。ただファンタジーをつらぬくならこのくらいの強さは必要だよね。人間は常に現実という「気づき」にさらされているから。
「あれ、、もしかしたら俺天才じゃないかも、、」
そんな状況で、人間誰しもファンタジーと現実のあいだのどこかに妥協点を見いだしてやっていく。完全にファンタジーは捨てきれないし、かと言ってどっぷりでもない。
君の場合も、そうするといい、というか、そうなってしまうと思う。たとえば「30歳までにモノにならなかったら就職する」とか。で30になったらなったで希望してた職にはつけず、悩んだあげく底辺だと思ってた職に就いたり。
みんなそうやって生きているのさ。
あんまよくわからんのだけど、池田信夫氏は
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/1b94f612486b80ee6bfc0d14a7d63364
で、
その結論は、われわれとほぼ同じだ。危機の背景には、新興国の過剰貯蓄をアメリカが吸収したことによるグローバル・インバランスがあり、高いリターンを実現したようにみえる投資銀行の金融商品の中身は多分に詐欺的なものだった。それが放置されたのは、オフショアの「影の銀行システム」が銀行規制の抜け穴になっていたためだ。したがって今回の危機の主要な原因は、時代遅れの規制による「政府の失敗」であり、これを「新自由主義の行き過ぎという観点で捉えることは、誤った判断となる」。
と言ってるよね?池田氏が言うには、原田氏も彼同様に『危機の背景には、新興国の過剰貯蓄をアメリカが吸収したことによるグローバル・インバランスにあり』と言う主張だったと述べているように見えるけど、後段のこれでは、
しいて原田氏とわれわれの違いをいうと、彼は「グローバル・インバランスは必ずしも悪くない」という立場です。これはわれわれも、原則論としては同意します。インバランスが永遠に維持可能であれば、そのぶん世界のGDPが嵩上げされるので、結構なことです。しかし今回の危機は、それが維持可能じゃないことを示したのだから、原田氏の原則論はちょっとおかしいし、後半の「日本は内需主導に」という話とも辻褄が合わない。
『しいて原田氏とわれわれの違いをいうと、彼は「グローバル・インバランスは必ずしも悪くない」という立場です』となってる。これだと正直何が言いたいのかさっぱり分からん。田中氏の指摘を認めているようにしか見えない。田中氏の後段の指摘については反応が無いのがなおのこと良く分からない。
また「日銀はもっと果敢に金融緩和せよ」という話も随所に出てくるけど、FRBが「果敢」にやった金融緩和がこういう悲惨な結果をもたらしたことを原田氏がきびしく指弾しているのと比較すると、ダブルスタンダードの印象はまぬがれない。
つまり、原田氏は金融緩和に肯定的なスタンスであるってことを自ら認めているように読める。
そう受け取ると、田中氏が
http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20090226#p1
で指摘していた
さらに日本が内需主導に転換するには云々の文脈に、公務員改革の話はまったく関係なし! それは長期的な効率化の話としてでてきたのであり、当面のこの不況への対応(つまり内需主導への転換)には直接関係ない。内需を増加させるのは、原田ら本では緩和政策。さらに本格的な回復にはアメリカの回復が必要である、というのが原田本の結論なのである。
の後段部分が説得力を持ってくる。前段部分については言及がないけれども、上記議論からの類推では、説得力のある主張なのかどうか怪しく思えてしまうなあ。構造改革を肯定する立場から田中氏に反論をするのであれば、この部分にしっかり反論しておかないとダメなんじゃないかと思うけど(全体的に反論できているように見えない)。
まあ、こういう議論が延々と続くのは確かに不毛なんだろうなあ・・・。
http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20090226#p1
不幸にもまた目撃したあるブログでの話だが、原田さんたちの新刊『世界経済同時危機―グローバル不況の実態と行方』の内容が間違って紹介されていた。
世界経済同時危機の背景には、新興国や日本とかの過剰貯蓄を、米国が吸収したというグローバル・インバランスの存在がある(とそのブログでは書いてあるが)、なんてことは原田さんの主張には基本的に関係ない。むしろグローバル・インバランスが危機の原因の説明としては正しくない、というのが原田さんの主張であり、まさにまったく正反対!
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/1b94f612486b80ee6bfc0d14a7d63364
補足 (池田信夫)
2009-02-26 17:14:37
田中秀臣氏は、日本語が読めないのかな。p.20に「世界[的]貯蓄過剰が生み出すアメリカの低金利」という見出しがあるんだけど。
しいて原田氏とわれわれの違いをいうと、彼は「グローバル・インバランスは必ずしも悪くない」という立場です。これはわれわれも、原則論としては同意します。インバランスが永遠に維持可能であれば、そのぶん世界のGDPが嵩上げされるので、結構なことです。しかし今回の危機は、それが維持可能じゃないことを示したのだから、原田氏の原則論はちょっとおかしいし、後半の「日本は内需主導に」という話とも辻褄が合わない。
もう一つは、世界的な低金利の原因は貯蓄過剰ではなくインフレ率の低下で、実質金利はそれほど下がっていないという話です。これはなるほどと思うけど、原田氏も認めるように中央銀行も含めて名目金利を見て取引しているので、単なる偶然の一致かもしれない。さらにいえば、世界的なインフレ率の低下の原因は新興国の台頭による相対価格の変化なので、「新興国によるグローバル化が低金利の原因だ」という結論は間違っていない。
また「日銀はもっと果敢に金融緩和せよ」という話も随所に出てくるけど、FRBが「果敢」にやった金融緩和がこういう悲惨な結果をもたらしたことを原田氏がきびしく指弾しているのと比較すると、ダブルスタンダードの印象はまぬがれない。
http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20081208/1228726052
普通に、知らんやつに、「お前」とか命令形で言われるのは儀礼的におかしいと思うのだが、それでも「無限の応答責任」が生じるのが「知識人」というやつか。それこそもう一度問うが「そもそも、なんでネットの馬鹿どもとコミュニケーションなんかしなきゃいけないんだ。 」
http://twitter.com/naoya_fujita/status/1042662107
なるほど、なぜだろうか。言葉遣いの悪い「言論的な野蛮人」をコミュニケーションの外に排除してはいけないのは。では、どっちもどっちで片付ける「論理的な野蛮人」をコミュニケーションの外に排除してはいけない理由はなんだろうか。
そもそも「ツイッター」というつぶやきサービスやミクシィは公共的なのか。私的/公的という範疇が融解しているから、なんでもかんでも「公的」にすんなよ、別けろよ、という僕の思想というか主張があるのだが、君たちは「藤田直哉」の思想について不勉強で無知な馬鹿だ。
http://twitter.com/naoya_fujita/status/1042663811
たぶんこれはメディア論(かっこわらい)の人たちが「じゃあなんで『私的』なことなら大学ノートに書かず『知らんやつ』が読めるところに書いてんだよ」っていうのにうまく答えられなかった程度の話でしょう。無論そんなこと、君の思想を逐一知ってる義務はないということ程度に、知ってる必要ないことだけどね。
逐一、発言を拾っていくつもりだったけど、めんどくさいから止める。
まずあの、
基本的な立場として僕は「南京はあったし数は30万は行き過ぎだけどそこそこはあっただろう」ということをまぁ認めるよ、という立場です。
「30万は行きすぎだけど」ってところだけれども、君にそれを判断できるほどの情報があるわけ?((ぼくにはないよ))南京事件以前の南京城内外の人口がどれくらいで、南京事件以後の非難区、非難区以外の城内外がどれくらい、とかそういうことを踏まえたうえで言っているわけ?『南京戦史』であるとか、南京事件資料集((その手のはわりと多いので、どれと具体名を挙げるのは遠慮させていただく))であるとかを熟読してそういっているわけ?
無論、そんなわけないでしょう。この人がそう言っているのは、『バランス感覚』、(別に誰が見るというわけではないだろうけど)誰もが納得してくれる『おとしどころ』としていっているわけでしょう(その『おとしどころ』で不興をかっているわけだけれども)。だいたい、君はその正当性の担保をどこに求めるつもりだろうか。言説に「善」(つまり道理)はないのに「正」(つまり公正さ)があるとでも言うつもりなんだろうか。であるならば、言説の公正さとは何で、誰がそれを決めるんだろうか。それとも、君に対して礼儀正しいか、そうでないかが、公正さの基準なの?
ある程度の確からしさがあると認めるのであれば、そこにも強度があると考えれないだろうか。つまり、この確からしさは、あの確からしさよりも正しい、と。その『確からしさ』とあの『確からしさ』はどちらも確かではないから、一緒だ、排除してしまえる、とするのは実に非科学的で暴力的な態度でしょう。
そもそも、こんな風に「公正さや正義を無視するものはコミュニケーションから排除してしまって良い」という風なアメリカ的なポストモダン・プラグマティズム((想定するのはローティやフィッシュだ))をマルクス主義者を自称するぼくが振りかざして、あらゆるものにコミュニケーションは開かれるべきだ、というような(野蛮なコミュニケーション的理性を基にする)原則論・理念をポストモダニストを自称する人たちが振りかざすというのは矛盾した話だと思うけど。
『デリダ的に言うならば』、こんなふうにテーゼがあってアンチテーゼがあってジンテーゼあるというような弁証法的なものの考え方自体がどうなんだろうか。飲み会(ある種の『問答』だな、無論皮肉で言ってるんだけど)なんかでクダを巻いてそれで『思想』((ゼロアカの、でも、ロストジュネレーションの、でも、好きな接頭句を入れてくれよ))を作り上げてしまう、そんな馬鹿みたいな真似がどうかということだ。
A.違います。
社会の時間に「言論の自由」について習って、んでもってそれ以上の勉強はしてないふつーの人には、相対主義批判は「言論の自由」に反しているように見えたりします。意見の多様性を認めない、ということだからですね。でもそもそも、「多用な意見を認めない」の「認めない」ってどういう意味だ。
さらに言えば、「馬鹿は口を出すな」は、「非国民は黙っていろ」と被って見える。ほんとは大きく違います。「学」と「愛国心」がまず違う。迫害の有無が違う。ただ、時勢によってこれらは見分けがつかない物になるかもしれません。戦時においては「無知ゆえに非国民」という考え方もあったでしょう。
いろんな文化を認めましょう、というのも相対主義。文化相対主義。宗教だったり食文化だったりに偏見を持つのはやめましょう、っていう考え方。捕鯨だったり、食用犬だったり。どうですか。どう思うよ。どうだ。文化相対主義の理論自体を否定する人はあまりいないけど、テロ、奴隷、虐殺なんかを文化と居直った物を認めるべきか、っていう問題がある。んで、倫理と文化は密接に関わっている物の、そこは別問題だろ、ということになってるらしい。倫理相対主義とか言っちゃったり。
でもね、そもそも相対主義は何かを擁護するためのものではなくて、単に偏見を持たないようにするためのものなわけだ。だから原則論としては、相対主義そのものより、歴史修正主義や疑似科学が相対主義を利用することをこそ、批判するべき。するべきなんだけど、相対主義が歴史修正主義や疑似科学の温床になってるから相対主義そのものを否定しておきたい。ええい、もう相対主義はうんざりだ! 諸悪の根源め! うんざりうんざり! うるさいうるさいうるちゃい!という思いを抱いてる識者や学者は多い。もうピリピリしてる。
彼らにとって、隙あらばこちらに身をねじ込もうとしてくる歴史修正主義や疑似科学(或いは、歴史修正主義を含む疑似科学)に対抗する手段は、「そうは言っても、実際のところはわからないよなー」という意見をも、認めないことなのです。ようするに、「わからないなら、わざわざわからないってことも言うなよ!」なのです。そうすると、議論が混乱しない。理想的ですね。
ところで、この対抗策は現実的ではないですね。馬鹿に「馬鹿は黙っていろ。口を出したきゃ勉強しろ」と言うことはできるけど、でも言うことができるだけ。これは言論の自由の否定でも、言論統制でもない。説教でしかないんです。言論統制なんてできるわきゃないんです。
で、逆に言うと。言論の自由が認められている以上、誰が何を許さなくても、誰が馬鹿を糞の如く罵ったとしても、結局、あらゆる意見が世の中に出回るってことは、容認されてしまう。最近やり玉にあがってる東氏の考えは、それでも暴走しない社会作りをどうすればいいか、というものですね。
で、表現に気を使わない東さん、「勉強不足」や「誤認識」を持つ人間が出ることは避けられないし、彼らを黙らせる有効な手段はないですよねー、どうしましょう、という例に「南京大虐殺」を使ったことで、歴史修正主義者どもにぴりぴりしてる歴史学者さんとかに総叩きにあってるわけですね。「僕も実感がない」とか言っちゃって、「わからないなら勉強しろ、勉強しないなら口を出すな」と言われてるわけです。傍目から見てたら「過剰反応じゃないの……?」って思う人もいるかも知れないけど、さっきも言ったように学者や識者はぴりぴりうんざりだ。
ところでどうすりゃいいんだ。そうだ。そもそも、全ての人間に、正しい歴史認識をちゃーんと教育してやればいいんです。そうすれば、無知な民衆を味方につけようとしている、故意犯的な歴史修正主義者達を孤立させることができます。理想的ですね。
ところで、この案は現実的ではない。たとえば歴史学だけならば、それほど多くの問題はない。いや、歴史学が簡単という意味ではないけど。でも歴史学でよく問題になる重要なことだけを抑える、というなら不可能とは言えないかもしれない。極端な話をすれば、まともな学者とそうでない学者を見分けることができるようになるだけでもだいぶ違う。
でもこれは歴史学だけに絞った話で、全ての馬鹿が、全ての分野において正しい見識を持つのは無理ですね。持つのが理想だけど、無理なわけです。無理なんだよ、よく覚えとけ天才ども。
とすると、無知そのものを批判するわけにはいかなくなる。全ての分野において正しい見識を持つことが不可能である、と論ずる人を批判するのもおかしくなります。そう、全ての分野において正しい見識を持つことが不可能である、という事実を言い訳に、勉強しようともせず好き勝手言う人を批判するべきです。勉強していない分野のことは黙っていろ、という話になります。あ、戻ってしまいましたね。
実際あの手の議論は、この単純な二つの議論を行ったり来たりしてるだけですよね。ねこ大好き。
俺は別に「ステップ全段に人が乗る可能性があるならそれに対する対策をするべき」とは思っていないが、現実可能かどうかは別として原則的な考え方をひとつ。
たとえば車だと200キロ以上で走ると暴走するならたとえば150キロ以上スピードが出ているとなったら燃料供給を抑制するし、パソコンのCPUだって同じものだけど2.6Ghzにしか耐えられないやつ、2.88GHzまでもつやつとテストして、それぞれの使用範囲に限定するよね。
理想論としては、絶対に壊れないエスカレータというのが理想だが、それは物理的に無理。となると二番目の論としては(これも理想論だが)厳密に耐えられる負荷を計算して、それ想定以上にならないように管理するというのがある。
今回の場合もそれが問題なので、何らかの方法で、一人ずつ一列にしか乗れないようにするとか(あくまでも実現可能性を無視した原則論なので方法にはつっこまんでくれい)するのが対策として有効だと思う。
ということなので、吊り橋の例だに応えるとすれば「理想としては壊れない吊り橋を造るべきだが、現実的に無理ならば吊り橋の入り口に回転ゲートでもつけて、必ず耐えられる人数しか同時に橋の上にいないようにすべき」というのが理想論としての回答になるかと思う。安全に降った考え方の極論としては「壊れるようなことはそもそもできなくしておけ」というのが原則。(何度も言うが原則の話なので実現性はおいといてくれ)
まぁ、現実は「三人以上のったら死ぬぞ!」とかでっかく書くとか、そういう対策になるんだろう
これをエスカレータに持ってくると、全段に人が乗る可能性があるというのはそういう可能性を低くする対策をとればよいということになる。つまりエスカレータにエレベータみたく明確にでっかく乗員人数を書いて、しつっこくアナウンスするスピーカーをつけるとか、そういう知らせる対策も、対策の一つだったと思うね。
それが無いことを欠陥だとするなら、欠陥なんだろう。個人的には欠陥とかだれが原因とかそういうふうにあげつらうのではなく、事故なんだから粛々と対策してノウハウとして残していく方を重視すべきと思うけど。こんな事故、きっとどこだって発生しうるわけだし。