というのは、良く言われるが、学生は理解しないものだ。
もちろん、全員というわけではない。東大には、原則論としては、優秀な人材が集まっている。
同時に、落伍者もたくさんいるのだけれども。
旧司法試験の頃の文Iの学生は、2年ぐらいになれば予備校に通って司法試験に備えていたように思う。
ロースクールが始まり、弁護士の門戸は広がったが、同時に「人余り」がささやかれるようになった。
離婚調停や破産処理などが多いー京大から弁護士に進んだ知人がそう言っていた。
悲しいかな、それは現実なのだろう。資格者数に対して、案外、分け合うべき果実は少ないのかもしれない。
もちろん、文Iが進むべき道は弁護士だけではない。官僚や有名企業の社長に多かろう。
理文という境が正しいかという議論はさておき、理系の相対的価値は昔に比べれば上がったように思う。
それは、文系の相対的な価値の低下の裏返しであろう、と想像する。
なんども言うが、もちろん、全員ではない。だが、そういった文系が余りにも増えすぎた。
理系から理数的能力を差し引いたら文系、と言われてしまえば、文系の価値など無いに等しい。
それは文Iとて変わらないのだ。
そういった理尊文卑マインドの中で、文Iに真に求められるのは、新しい文系の在り方ではないか、と思う。
「最強の文系」像とは何か。
その答えは、割合、理系とか文系とかそういうことにも有るようにも思う。
理文無関係に過ごす駒場の2年間と、安田講堂の左右(厳密ではないけれども)で分かれる本郷の2年。
その期間が、あなたにとって有意義でありますように、お祈り申し上げます。