はてなキーワード: 優等生とは
大学が始まりました、わざわざ一時間目出たというのに内容説明の20分足らずで終わってしまったので今暇しています。
なんかさ、色々わかんないんだ、夏休みなんて高校時代の友達と一晩しか遊んでないし、家族と出かけたのは競馬だし、もちろん彼女なんて生まれてこの方できたことねえよ。まぁ自分の名誉のために言っておくと一回遊びに行ったのはかわいい女の子の家だし、競馬って言ったてそんな荒れている家庭じゃない、彼女はいなかったけど告白されたことは何回かあるさ、まぁ今はラブプラスがほしいけどさ。
ただひたすら引きこもって、11時起きる、2時にオナる、4時寝て、7時に晩御飯食べて4時に寝るみたいな、何の刺激もない何の成長もない、腑抜けきった日々をただただ怠惰に、無感情に、何の考えも、不安にさらされることなく、ある意味平和だった気もしなくもない、そんな生活が二ヶ月近く続けてしまった、一日一日の記憶が恐ろしいほど曖昧模糊で昨日までの日々は圧縮したら3日分の濃さにしかならないのではないかなんて思ってる。
そんなふやけた日々が終わって今日からまた学校なんだけど、あーちなみに俗に言うFランな学校で、高校までは微妙に優等生で通ってきたがためになじめず、友人はノートを見せたり、履修の仕方を聞きあうくらいの薄い繋がりが2~3人いるだけで遊んだりみたいのはない。
後は夏休み前までは弓道部に所属していたこともあった、高校は弓道の強豪校でそれなりの腕はあった。ただこの大学の弓道部が色々(弱かったり、金かかったり、俺が言いたくなるくらい人としてどうかと思う人が多くて)あって
時間もったいないかなーと思って連絡も取らず夏休みには一度も顔出してない(人としてどうかと思う)
そんなこんなで何かいてるかよくわかんないけど次の授業の教科書買ってなかったから買いに行ってきます。
こういうの書くの初めてなんだ、書き方とかわからないし特に何したい訳でもないんだけど生暖かい目で見てほしい。
今年Fラン大学生になりました。元々優等生で通っていたのにどうしたものか。
高校は地元の中堅上位くらいで大きな弓道場が有名な高校だった。
中学はテニスの王子様に影響されてかソフトテニス部だったけれど、弓道場の雰囲気に魅せられて弓道部に入った。
三年間「辞める」を口癖にしてなんとか引退まで生き残っていた、今思えば引き止めてもらいたいだけのかまってちゃんだった気がしなくもない。ごめんなさい。
ただ今となってはこの部活をやっていた期間は自分の人生の中で一番楽しい期間だったのではないかと思ってしまうくらい大切な物のように感じている。
別に弓道がそんな好きだったわけでもない、ちゃんとやっていた人には怒られるかもしれないけど、手先と集中力と度胸と運を試される的当てゲームくらいにしか考えてなかったし、高校の2年半じゃ真面目にやってもある程度の一線を越える事ができないと才能や環境のために負けてしまう人がゴロゴロ居たので、最初から真面目にやって負けることを恐れて最小限の努力で最大限の結果を出すことにシフトしていった気がする、まぁそんなやつに栄誉が掴める訳もなし、高校弓道の試合には1チーム3人で出るんだけど一番のチームには入れず二番のチームに甘んじる結果になりあんまり個人でもいい記録は残してないけど、強い学校でまずまずのポジションという事で後々大学の弓道部に入ることになる。
見た目は高嶺の花で近づき難いし、社交的な人でもなかった。微妙に浮いてた。その上に部内の争いの発端となるような行動もしばしとる困った人だった。
でも面食いは面のいい人にしか魅力を感じない。そんなんだから彼女いない暦=略となってる。自覚は少しある。
なにはともあれ1年目の10月位に自分とその人の間に転機があった。
部内の友人A(部内に彼女持ち)から相談を受けた。
その頃の自分は男子部員、女子部員の一部と満遍なく仲が良く人と人とのパイプ役を確立していた。(元より根暗内気の自分はそこに生き甲斐を感じていた気もする)
自分にその人から相談があるから話を聞けという、女の子との距離の詰め方がさっぱりわからず半ば諦めていた童貞へタレは驚いた。
・・・文章書くのって意外と大変なんだね、もう1時間近く経っちゃった。ほんとは夏休みほぼ引きこもりきりだった事に関して書こうと思ったのにどうしてこんなことになってしまったんだろう?
何か過ちを犯した人がいる。
過ちを犯した人が反省すべきなのは当然。人に被害を及ぼしてしまった場合は、きちんと謝罪もしなければならない。批判も制裁のひとつとして、甘んじて受けねばならないだろう。
でも、その過ちについて、誰でも見ることのできるブログや公的な場で、“過剰に”批判する人って何なのだろう。同調を得たいのだろうか?
“過ち”は、その人の長い人生の中で切り取られた、ある一部分に過ぎないかもしれない。その人だって、そんなことはしたくなかったかもしれないし、自分の間違いについて自覚していたかもしれない。ただ、自分の感情をうまくコントロールできなかったり、もしくは自分では正しいと思ってやっていたつもりが、結果的に間違ったことになってしまう、ということもありうるだろう。
特に、10代から二十代前半にかけての若いうちは、本当によくあることだと思う。若者を相手にする年長者で、彼らに対して安易に“過剰な批判”をする人がいたら、その人は若者を相手にすることをやめたほうがいい。彼らの経験不足につけこんで“過剰な批判”をするなんて、彼らのその後の人生にどれだけ暗い影を落としてしまうことか。
それは、職人が愛を持って弟子を鍛えるのとは全然違う。彼らは、自分の弟子の欠点を“世間に向かってさらけ出し”たり絶対にしない。
人の過ちをその部分だけ切り取って、それを文章に残して、人の目につくようにさらして、その人の欠点を“周りの人にさらけ出して”、一体何がしたいのか。本当に相手に欠点を改善してほしいなら、本人にだけ直接、その手厳しい“過剰な”批判をすればいいではないか。
批判が過剰になる人の批判には、だから、“相手のためにあえて厳しいことを言う”という感じを受けない。相手のための批判でなく、何か他の目的のために批判しているように思えてならない。
相手のためを思ってあえて厳しいことを言うのでなく、相手を叩きのめし、そのことによって何か他の事をもくろんでいるとしか思えない。
彼らは結局、自分のパフォーマンスのために批判するのかも知れない。批判する自分に酔っている。相手の過ちを、“自分の正しさ”の主張にすり替えている。批判する相手のことを、ネタだとしか思っていない。それでいて、自分は人のためを思って厳しいことを言っていると思っているのだから手におえない。
もちろん、過ちを犯さなければ、批判を受けることもない。
いくらその過ちが“切り取られた一部”だとしても、その一部分しか見ていない人にとっては、それがその人の評価の全てになってしまうのだろう。だから、何かひとつでもしくじると怖い。誰もがその切り取った部分だけで全ての判断を下してしまうかもしれないから。
一事が万事。もしも、過ちの反省を生かして改善できなかったら、一生そう言われても仕方がない。
しかし、人間だったら誰しも、一度は“過ち”を犯したことはあるのではないだろうか。少なくとも、私が出会った人のなかには、“完全無欠”の人なんていない。私には、自分で自覚しているだけでも数々の“過ち”や後悔がある。
私は、自分の“過ち”を正当化するためにこんなことを書いているのだろうか。いや、違う。批判自体は悪くないのだ。“過ち”は、他人からの批判も含めての“過ち”だ。
私が違和感を覚えてしまうのは、批判が過剰な人なのだ。
ただ腹が立つからといって、感情的に全てを断じてしまうのは、酷ではないか。特に、自分が相手のことを良く知らない場合、“これはこの人の切り取られた一部かもしれない”という想像力を働かせることが大事ではないだろうか。
人のことを過剰に批判できる人は、自分をよっぽど“完全無欠”だと勘違いしている人なのだろう。もしくは、過剰に批判することで何か他の事をもくろんでいるのか。
それと同じに、すごくおおげさに褒める人の“賞賛の内容”というのも信用できない。その褒められている部分もまた、“切り取られた一部”かもしれないから。
私には経験があるのだが、“過剰に”自分を評価する相手とは、うまく関係が築けない場合がないだろうか?そう思われていることを誇りに、そういう自分を演じようとして、結局は率直に自分の心が開けなくなったことがある人はいないだろうか?(これは優等生タイプに多いかもしれない)
自分の、だめな部分を素直に見せられる仲間とこそ、長続きしたりするものではないだろうか。本当に苦しいときに、“苦しい”といって助けを求めることのできる相手にこそ、本物の友情を感じることができるかもしれない。だからこそ、自分がまだ“自分を偽る”ことを知らなかった幼い頃からの友人とは、率直に話ができたりする。もちろん、傷の舐めあいでは決してない。
ただ、相手にかっこいいところばかり見せようとする友情は、疲れるだけだ。要らぬ嫉妬が発生したりする。恋愛も同じだ。
閑話休題。
ブログ等に、誰かに対する絶賛のコメントを載せた場合。こちらに関しては、内容がポジティブなだけに、多少眉唾かな?と思っても楽しく読める。
んー、結局は、ネガティブな内容を書く場合には十分に注意が必要と言うことなのか?分かりません。
振り子は、一つの方向に振れると反対にも同じだけ振れる。
ぶれが大きい人の評価は、どこかしらこちらを不安にさせる。
※これは、ある程度多数の人が読んでいるブログや人前のスピーチなど(影響力のあるような場)で、その場にいる人が共通して知っている(時には直接面識がある)ような人に対しての、“過剰な”批判をする人について思ったことです。
中学2年のとき。
私は学年トップクラスの成績だったのですが、見た目はあまり賢そうに見えなかったらしいです。
それでなのか、担任の英語教師が、単語テストのときに私の席にやってきて、突然答案用紙をめくりました。
その瞬間はいったい何をされたのかわからなくてポカーンとしてしまいましたが、あとからあれはカンニングを疑って確かめようとしたのだと思い当たりました。
母がその教師に抗議をしたらしく、母への謝罪はあったようですが、私本人への謝罪は一切ありませんでした。
それ以来、私はその教師の授業を受けることを拒絶しました。
教室には居るし、教科書も机の上に出す。しかし耳をふさぎ、窓の外を見たり考え事をしたりして授業は完全無視。
塾に通っていたので勉強はそこでしました。
そして定期テストでは満点を取り続けました。
おまえの授業など意味がないのだと教師に見せつけるように。
おとなしい優等生の私にできる、精一杯の反撃でした。
http://anond.hatelabo.jp/20090831151117
数年ぶりに王道カップリングにハマったかもしれない。なにしろ受の子がやんちゃ系。やんちゃ系でDQN。典型的な受の子。ひゃあっほー!これで同人誌を買う時に「もう本の形をしていればいい…」なんてこともなくなるぜー!
…と思ったら、世の中はDQN攻らしい……。なっなんでだよ。
そのDQNは、何かと面倒を見てくれる優等生(クラスの女子に片思い中)に矢印を出していて、なんか言葉には出来ないフェロモンの出てる子なんですが、一言で言うと「素直になれないツンデレ」なのです。
で、801でよくある「ツンデレDQN→優等生」という構図の場合、王道はDQN×優等生なんですね。そりゃ腕っぷしの強そうな方が行動的なのは当たり前なわけで。
ただ私はこれがどうしても納得がいかない。だってこの王道の場合、優等生受はDQN攻の毒牙にかかって流されてしまうわけですよ。そんなのなんか可哀想じゃないですか優等生受が。今回は攻がやんちゃ系だから幾分可哀想度は軽減されますが、これが夜光花先生が描くようなスーパーDQN攻だったら、可哀想どころの話ではない。無理強い→レイプ→犯罪です。
もちろん801での優等生受の気持ちは「好きだから許す」なんですが、そもそも「許す」という言葉を使ってる時点でどうかなあって。
そこで颯爽と登場するのが、優等生攻×DQN受ですよ。同じDQNの勢いに流されるのなら、「優等生が手を出される」より「優等生がうっかり手を出してしまう」方がまだマシだと思うんですね。DQNは優等生に恋をしてしまったことに思い悩み、かなわぬ想いだと自覚しつつもここぞとばかりにツンデレを連発し、あらん限りのフェロモンを放出して優等生の理性を揺さぶると良いと思います。そういうのが好きだ。
がちほもうけええええええ!的なことを始終叫んでいる方が、なんで腐女子は隠れてしまうん?みたいなことを言っていたので、自分の属性について思うところを書いてみた。実際のところガチホモもノンケもショタもそれほどこだわりはありません。私の属性はただひとつ、DQN受属性です。どきゅんうけええええええ!
武士ってよく分からない。
戦う人なのか単なる行政官なのか。
なつきさんの親戚には自衛官に警察官、消防士、救急と「公僕」が多い。
だけど、戦う、に関しては、
なつきさんちで語り継がれる戦いは「防衛」戦である。
拡大は商売によってなされた。
戦って名を上げ、領土を拡張するという武士のもう一側面はなつきさんちでは劣勢だ。
だから、東大→アメリカ留学という道で「名を上げる」ルートの評価は微妙な位置にある。
人工知能に注入されたのが、拡張を目指す知識欲なのは示唆的だ。
◆
その中でもっともそうした「縁」を体現するのはなつきの曾祖母だが、
この「縁」がくせ者だと思う。
戦うことと縁には考えればすぐ分かるように固有の緊張関係がある。
ゆえに平時には縁が強調され、
戦うは非常時に押し込められる。
だが、名を上げる、には「競争」が必須であるように、
戦うは非日常に封じ込め切れるものではない。
サマーウォーズを観ていての一番のひっかかりは、
曾祖母が掲げる「負けない(戦う)」と「つながり」の矛盾を映画が解ききれていない気がしたことだ。
縁にはレイヤーがいくつもある。
黒電話で活躍する曾祖母のネットワークは、平和と危機のコントラストの中では機能するが、
恒常的な闘争状態ではどうだろうか。
こうして、戦う、との矛盾が最小限の、
一致団結したつながりとして親族が浮かび上がる。
だが、親族には血による縦のラインとは別に、
婚姻によって拡大する側面も存在する。
この婚姻の困難を、主人公が引き受ける。
婿ドノは他人なのだ。
他人を親族に引き受けるために、曾祖母さえ約束(契約)の形をとらざるをえない。
◆
曾祖母は、負けない、と、つながりに加えて、
飢えない(食べる)も示すが、
これもうまく掘り下げられてる気はしなかった。
戦うと縁の矛盾は、婿ドノの困難に関しては、
戦ってる人はかっこいい!(恋愛)というモメントで解消されるのだけど、
それは、悪くはない。
でも、戦ってる人はかっこいい(cool!)って感じで、
戦いに必要な数が動員されるのは(分かっててもグッとくるだけに)なんだかなあ。
セカイ系?
サマーウォーズの中で訪れる危機は、
セカイ系でしょうがないって気にさせもするけど・・・
親族は中間項たりえてない気がする。
◆
映画の観始めに考えていたのは、
戦うと縁とかではなく、
エンドレスエイトが終わった時の実況のまとめスレはさらにすごい。
皆が、キター、っていうことは、確実に目眩がするぐらいの心の打ち震えをもたらす。
グッとくる。
映画の中の、コイ!、も同じな。
ただ、この量的な過剰さが「溢れる」ことによる感動は、
AAが崩れて、いくらスクロールしてもパチパチやキターが続くのはなかなか圧巻。
だけど、同じ理屈でいくと、
映画館のスクリーンにこの種の「過剰さ」による感動は向くのかという疑問がわく。
このグッとくる感じは、映画の「細部」がもたらす「豊かさ」とは違うと思う。
定義はしない方がよいだろうけど、
人はこの二者を別物として感じると思う。
記号としてのモノは溢れていても風景はない。
(細野さんらしい)
初め「家」に見えたものが増殖して「城」とか、あっと驚く瞬間はあるけど。
記号としてのモノの、数量的な過剰さ。
画面を「文字」が溢れて埋めるんだから。
戦う、と、つながり、と数量的なものを、
戦ってる人はかっこいいからつながる(恋愛&数量的なcool)以外で見せてほしかった。
見逃してるだけなら教えて。
◆
以下過剰書き的に
・アニメで横にパンするってすごくない?
受けるというかザッツザジャパニーズアニメ!って感じにもてはやされそう。
船て
・止めて、が世界の話と個人レベルをつないでて、セカイ系な感じ。
・公僕が、より大きなおおやけのためにルールを無視するあたりも好き。
・やっぱ、おばあちゃんが何を望んでるのか、
伝統か、負けないことか、勝利か、飢えないことか、つながりか、
明確でないことがダメなとこな気がする。
そのせいで、各人の心理が論理的でない。
そこを、グッとくる、「情」で押し流してる。
・ただ、曾祖母が「生きてる」こと、
人が生きて死ぬことの中には、
そんな矛盾とか織り込められてる気もするが、
半ば死んだ英雄、神話にしてしまっている気がした。
やっぱ○○みたいな逆らえないやつらが一番上にいて。
次に俺らがいて。
お前や●●みたいな優等生がいて。
ちょっとつまらない◆◆みたいな奴がいて。
□□みたいな関わりたくない奴が一番下。
お前はレベル低い奴とばっか絡んでるから低く見られるんだよ。
もっと俺らと一緒に遊んでればいいじゃん。
-----
もう7〜8年前だけど。
衝撃を受けた、友人だと思ってた人の言葉。
彼の話の中に出てきた定義をまとめるとこうらしい。
レベル5:逆らったら何されるかわからない不良集団
どうやら俺はレベル3に属する模様。
それなりに誰とでも話す人間だったので彼にとっては面白くなかったらしい。
自分まで低く見られると思ったのかな?
で、一番上の会話に繫がったわけだけど。
どこの猿山だよと思う。
でも現実見ると変わり者なのは俺の方なんだってことにそれからしばらくして気づいた。
その言葉の周辺で正に彼の言ってたレベル2〜レベル4のランク付けがされていた気がする。
皆さんは普段どんな目線で人を見ていますか?
つきあって一年くらいの彼女の実家に遊びに行った。彼女には兄さんがいて、二十代半ばにして子供がすでに二人生まれてて、実家で親と同居。できちゃった婚なのだと聞いていた。結構優等生タイプな彼女と違って、大学を中退したり仕事も続かなかったりしたが、子供ができて結婚してからはまじめに働くようになったらしい。
彼女の姪っ子はあまり人見知りしないらしく、彼女の両親や実家に緊張しまくりで喉カラッカラの俺にポニョの歌を歌えとせがんできた。小さい手でぎゅーと俺のズボンをつかむ、自分の頭で喋る、「いつもこうしてるのよ」と言わんばかりにまだ赤ん坊の弟をあやす、かと思えば自分も眠くなってぐずりだし母親に甘える。この子は中絶されてたらこうしてここで生きていないんだと思うと、なんだか恐ろしくなってしまった。あまりにも人間だったから。
現実学生が育てるのは困難だし、経済的にきちんとしてない状況で生まれる子供だって不幸だろ=できたら、中絶しかないんだろうなぁ…というスタンスでいたけど、それでいいのか考え始めた。行為をしない事を含めて。するなら本当の覚悟を決めて。一度彼女の兄さんにそのときの心境とか聞いてみたいくらいだが、失礼すぎるだろうな。
「俺、あだち充だよ」と言う男に、好きな作品を聞いてタッチの名前があがってくるとげんなりする。心底がっかりする。タッチは私も大好きだし、素晴らしい作品だと思うけども、臆面も無くタッチ・H2の名を挙げる人のほとんどが、それ以外のあだち漫画を読んでいないんだもの。それどころか、そのあだち充の最近の作品も読んでいない。せめて「いつも美空」ぐらい読んでから言ってもらえませんかね。
要するに「あだち漫画を理解する心の広い俺」を演出するために、いちばんてっとり早くて優等生な回答なんですよね。タッチ・H2は。あと、ラフもこのカテゴリに入る。
確かにあだち充に人気のあだち充として鉄板なことは間違いないけど、本当にあだち充が好きならもっとたくさんの作品が挙がってもいいと思う。もっと読めよ!小学館以外も!最近のも!「タッチ」「みゆき」「ラフ」「H2」のコンボはもう飽きました。
1度だけあだち勉という回答が返ってきて、土下座せんばかりに感動したことがあります。あ…この人、本当にあだち充だ…と思ったよ。
「俺、萌え系4コマ漫画好きだよ」と言う男に、好きな作品や作家を聞いてアニメ化作品の名前があがってくるとげんなりする。心底がっかりする。アニメ化したのも私も大好きだし、素晴らしい作品だと思うけども、臆面も無くらきすた・けいおんの名を挙げる人のほとんどが、それ以外の萌え系4コマを読んでいないんだもの。それどころか、そのアニメ化作家さんの別の作品も読んでいない。せめて「棺担ぎのクロ。」ぐらい読んでから言ってもらえませんかね。
要するに「萌え系4コマ漫画を理解する心のアレな俺」を演出するために、いちばんてっとり早くて優等生な回答なんですよね。らきすた・けいおんは。あと、あずまんがもこのカテゴリに入る。
確かに男性に人気の萌え系4コマ漫画家として鉄板なことは間違いないけど、本当に萌え系4コマが好きならもっとたくさんの名前が挙がってもいいと思う。もっと読めよ!きらら以外も!エロマンガ雑誌のも!「あずまんが大王」「らき☆すた」「ひだまりスケッチ」「けいおん!」のコンボはもう飽きました。
1度だけむんこという回答が返ってきて、土下座せんばかりに感動したことがあります。あ…この人、本当に萌え系4コマを読んでる人だ…と思ったよ。
(元ネタ古…)
「私、エロ漫画好きだよ」と言う女に、好きな作品や作家を聞いて快楽天作家の名前があがってくるとげんなりする。心底がっかりする。快楽天は俺も大好きだし、素晴らしい雑誌だと思うけども、臆面も無く鳴子ハナハル・ぼっしぃの名を挙げる人のほとんどが、それ以外の少女漫画を読んでいないんだもの。それどころか、その快楽天作家さんの最近の作品も読んでいない。せめて「お嬢様はHがお好き」ぐらい読んでから言ってもらえませんかね。
要するに「エロ漫画を理解する心の広い私」を演出するために、いちばんてっとり早くて優等生な回答なんですよね。鳴子ハナハル・ぼっしぃは。あと、道満晴明もこのカテゴリに入る。
確かに女性に人気の少女漫画家として鉄板なことは間違いないけど、本当にエロ漫画が好きならもっとたくさんの名前が挙がってもいいと思う。もっと読めよ!快楽天以外も!最近のも!「マコちゃん絵日記」「キャントば」「少女セクト」「まいちゃんの日常」のコンボはもう飽きました。
1度だけ朔ユキ蔵という回答が返ってきて、土下座せんばかりに感動したことがあります。あ…この人、本当にエロ漫画を読んでる人だ…と思ったよ。
これが最も尊厳を保ちつつ、あわよくば回復する可能性もある手段。
因みに付け加えておくと、現在ワープアだけども親から一定の遺産相続が見込める方は死んではいけません。(是非、相続税を緩いままにしてくれる政党に投票して下さい)
幸せというものは、人それぞれの形があると思います。
しかし、ある程度の一般形とも呼べる幸せの形は存在すると思います。
そのある程度に達するには汚いようですが、はっきり言ってお金が必要です。
一定の所得がなければままなりません。こんな事はワープアを自覚する人ならとっくに理解していることだとも思います。
ですが、ここで改めてそれについて確認したいと思います。
物質主義と吐き捨てる人もいるかもしれませんが、
普遍的に望むものとしてまずは車でしょうか。軽自動車か中級クラスのものかは問わずに、とりあえず車の所持です。
次は住宅ですね。何千万のローンを背負って何十年もかけて返済していくあれですね。
もっともこれはワープアの身分ではおそらく契約もままならないでしょう。
まず、結婚に必要なものについてはしばしば、ネットでも議論が散見されますね。
個人の信条などで大きく左右されます。しかし、確実に一定の所得は必要だとは思いますね。
出会いやお互いの尊重が一番大切という、実に優等生な回答もよくみかけますし、部分的には私も賛成です。
ですが、この手の論を展開する人をよく見てください。
そういった人たちはまずワープアではありません。ワープアでない人たちの人生観を真に受けると
苦しみが増えるだけに終わることも多いですよ。
教育。これはワープアの方なら大概は高卒もしくはFラン大でしょう。
仕事を通して如何に学歴が人生を左右するかもよく存じておられるかと思います。
これもまた学歴だけが人生ではなく、社会にでてからは実力で勝負だと言うテンプレのような優等生的回答が存在しますね。
結婚の話と同じように論を展開する人をよく見てください。
それなりの学歴を保持している人が多いですよ。もしくは中卒だけども今は起業して平均以上の年収だという人もいます。
後者のような方は本当に実力で抜きんでたんだなぁと、感心させられるような人も実際います。
ですが、これはなかなか本人たちが言葉に出さないので見抜けないのですが(成功者は他人から良く見られる姿勢を心得ています)
強運、もしくは汚い真似を成している人が多い。
運も実力であり、汚いかどうかは個々人の基準で変わりますが、ワープアのあなたとは全然違うという事だけは理解してください。
もうひとつは老後の生活です。
仮にワープアのまま実直に生き続けたとして、若年層のあなたが高齢者になったとき
この制度はどうなっていると思いますか?年金制度については破綻論者のほうが優勢です。
ここではとりあえず、破綻したケースで考えてみて下さい。
ワープアではない方たちは良くも悪くも消費を抑えて貯蓄傾向があるそうですが、ワープアな貴方に貯蓄はできますか?
生きる中で発生する苦悩は上記以外にもたくさんあり、またそれ以上の苦痛を覚えさせるものもあるでしょう。
ありがちなものばかりですが、大勢に適用できるであろう事を改めて挙げてみました。
しかし、漠然と問題に対峙するのではなくそれの除去が可能かどうかを更に考えてみて下さい。
今から所得を増やす方法はありますか?
昭和の時代ではありません。終身雇用でもなく定期昇給もありません。ワープアではそれどころか解雇されるかどうかの瀬戸際でしょう。
地道に銀行へ預けても無駄なことですね。昔の用に金利がついて増えていくこともありません。(老人はこの辺りを隠してポジショントークを展開する人が多い)
今から政治体制を変える方法はありますか?
話し合いで解決したことって何かありますか?
これは本当にタチの悪い幻想ですね。物事は恫喝か誘惑で動きます。
善意で動くものゼロではありませんが、大局には何ら影響を与えません。
見事な高齢化社会です。世代ごとに利害関係が衝突も起こしてます。
国会答弁を見ていると、政治家も流石に完全な鬼ではなく若年層の貧困について野党がもの申しています。
しかし、与党は財源がないと切り捨てて終わりですね。財源が無いというのは一見正当性があるように見えますが、
まぁようするに問題放棄です。仮に与党が変わってもワープアは放棄されると思いますよ。
選挙に当選することが至上命題なのでご老人にとって不利益となることが国会で成立することはありません。
寝言ですね。こんなもので国は変わりません。すさまじい暴力はイノベーションを生みますが、
ワープアの引き起こす微々たる暴力は世の中に何ら影響を与えません。
人に平気で迷惑をかけるようなやつだからおまえらは落ちぶれたんだと、団塊の皆さんが説教垂れておしまいです。
全うに問題と対峙しても、明確に閉塞感を感じるだけですね。
突き詰めればやはり人を救うのは自殺です。
現在、日本では確認されているだけでも年間3万人以上の自殺者がいます。
WHO基準を用いるとなんと10万人の自殺者が発生しているとも考えることができます。
日本では年間14万人の変死体が発見されます。WHOでは変死体の半分は自殺と考えますので14万人の半分
7万人と確認された3万人で10万人といった数字に相成ります。
3万人であろうと10万人であろうと、多いと思いませんか?
また、変死体が14万人というのもすごい話です。この科学と道徳のある程度浸透した日本ですら
自然死を迎えるというのはとても難しいことなんです。ことさらワープアな人にとっては。
首吊りのインセンティブとは上述の諸問題を解決してしまうことです。
自殺とは自己保存欲の一環です。これ以上苦しみたくない。傷つけられたくないという己の尊厳を守るための尊い行為です。
一時期、硫化水素を用いた自殺が流行しましたね。しかし、あれは好ましくありません。
あれは周囲に迷惑をかけるという面において影響が大きい。迷惑をかけることそのものよりも、
事後において自分一人で死ねばよかったのに、というTVのコメンテーターにいるような普通の人々につけいる隙を与えてしまうからです。
まず、これは確実です。服毒やリストカットなどは未遂に終わったり、後遺症が残るなど確実性に欠けます。
女性の自殺志願者が未遂に終わることが多いのはそういった方法を用いることが多いからです。
よく、糞尿を垂れ流して醜い死に様であると揶揄されるこの方法ですが一定の誤解があります。
人は死後硬直が発生します。死後1~2時間程度で始まります。ポイントとなるのはいつまでも硬直しているわけではなく
数十時間経過すると筋弛緩が始まります。ここで初めて体内から糞尿が漏れ出すという事態になるのです。
およそ丸一日は硬直していられますので、こういった面を気にする方は割と発見しやすいところを選ぶと良いのではないかと思います。
また、一般的に首吊りというと空中に宙ぶらりになった状態をイメージすると思いますが、これを定型縊死と呼びます。
それに対して非定型縊死という状態があって、これは膝をついた状態で首に荷重をかけた死に方です。
結局のところ、動脈と静脈に荷重をかければいい訳なので、およそ30kgほどの荷重が必要です。
先にあわよくば回復と書きました。
とかく、ないがしろにされるワープアですがそれなりの母数はいるのです。
一人一人では本当に脆弱な一介の貧乏人に過ぎませんが、連ねれば産業構造に欠かせない要素の一つなのです。
ここに勝算があります。
現在サイレントテロなどという行動様式があります。しかし、そんなものではなま温く遅い。
従来の外部へと働きかけていたテロルを自己がいつのまにか所属していた属性にぶつける。つまり自殺です。
ドラスティックに短期間で多くのワープアが自殺すれば産業構造に大穴を開けることができるのです。
これは社会的強者、上位層を道連れにできるという効能を備えています。
他人を能動的に傷つける従来の先鋭的自殺(自爆テロ)よりも、遂行者を貶める隙を与えません。
一人一人の小さな自殺がいずれ社会を大きく変えていく……これって素晴らしいことだと思いませんか?
私自身は絶対に自殺なんてしません。自分を殺すくらいなら平気で他人を傷つけます。
その方が比べようもなく爽快で愉快な手段です。
これから先しばらくはサイコパスだけが生き残る。そんな世の中が続くと思います。
4月。新しい始まりの季節。
大学生のわたしは、新しい学年に進み、ようやく専門する分野も決まって、少しだけ張り切っていた。
これから頑張ろう。頑張って授業に出て、勉強しよう。
わたしは、もともと引っ込み思案の暗い性格で、友達も少なく、サークルというものにはいちおう入っていたけれども、そこでも友達といえるほどの仲のよいつながりは作れなかった。
だから、そのぶん勉強で頑張ろうとした。
4月。新しい始まりの季節。
それは一日目だった。前の晩、次の日の授業にちゃんとでようと思って、早めに寝ようとしたけれども、眠れなかった。眠れない、眠れない、眠れない。
ようやくうとうととしはじめたのは、ほんの少し外が明るくなり始める頃。わたしは、ぼんやりとした頭で、起きられるのかな、と思った。
そして、起きられなかった。
目が覚めたら、もう日は高く昇りきった後の時間。枕もとの時計を見たわたし。心臓が、どきんと鳴る。
授業に、出れなかった。
その日の授業には、もう間に合わない時間だった。その日、わたしは、家の外に出なかった。
わたしはそれまで、優等生だった。授業は休まず、勉強はきっちりとして、試験ではいい点数を取る。
友達のできないわたしが唯一できたのは、勉強だった。
一日目の晩、布団に入ったわたしは、考えた。一日くらい、なんとでもなるさ。誰だって、学校にいきそびれることは、ある。
だけれども、それは、一日だけではなかった。
次の日も、目が覚めると日は昇りきっていた。昨日と同じ。心臓が、どきんと鳴る。
その日、わたしは眠れなかった。一睡もできなかった。目が冴えて、疲れた頭が、じりじりと焦げる。
結局、その一週間、わたしは学校に行けなかった。
わからない。なんで急に。行こうとしても目が覚めず、目が覚めても体がだるい。そんなことは、わたしにとって初めてだった。どうしたらいいか分らなかった。
わたしは、学校を休むほかなかった。明日はきっと行ける。ちょっと疲れてただけだよ。気にせずに休んでれば、明日はきっと元気に行けるはず。
わたしは、だけれども、結局次の一週間も学校に行けなかった。
なんで? なんでわたしは……
わたしはもう完全に元気を失っていた。ぼんやりとした頭で、布団の中でまとまらない思考をじりじりと巡らせる。
わたしは、いったいどうなってしまったのだ?
誰か、誰か、助けて。
だけれども、わたしを助けてくれるひとは誰もいなかった。わたしには、友達が、いない。
どうすればいいのか分らない。誰か、助けて。
誰もわたしを助けてはくれない。
布団の中でぼんやりと過ごす毎日。気がつけば、五月。連休が始まっていた。
布団の中でひとり、ぼんやりと過ごす毎日。
どうすればいいのか分らない。
誰か、助けて。
某エントリを読んで、ちょっと思ったことを書きます。
なので二次以上はしたことはありませんが。
でスペック的には一定の水準…。
だけど、一次面接でおちちゃう。
なんで落ちちゃうのか気になったので、
僕も、なんでこの人落としちゃったのかな?って考えてみたよ。
受け答えに隙がないような人も、ちょっと暗い人も、やたらに偉そうな人も、
面接官を逆にやりこめようとする人もいる。
いろんな人がいるけど共通していることが一つあった。
面接しているうちに「あ、この人うちに居つかない!」って、
ピーンって来るんだよね。
そういう人は本人が気が付いているかどうかは分からないけど、
「俺、なんでこんな事してるんだろう」とか
「ここは私の居る場所じゃない」とか
「なんだかむなしい」とか思ってるんじゃないかな。
分かりやすい場合は中二病みたいになるけど、
心の中で押し殺している人もいると思う。
優等生や人気者なのに凄く疲れているような…。
まだ20代だし、色々迷うことがあるだろうけど
事をもうちょっと意識してみたらどうかな?
もちろん、お客さんを幸せにするって気持ちが第一だよ。
レスしてるじゃん。
どういう意図で
おそらく、こういう書き込みはこれからちょくちょく出てくるだろうが、それに対するレスは概ね同調的で、優等生的なものになるはずだ。だけど、そういう人の中にも、匿名掲示板では平然と国辱的な暴言を吐いているケースはきっとあると俺は思ってる。
これを付け加えたのか知りたいな。ただ何の意味も無く他人を疑っているだけにしか思えないのだが。
いや、二面性のある人いるだろうけどさ。当たり前にいるだろうけど。
そうか、それは悪かった。
ではこれに対するレスをよろしければ頼む
http://anond.hatelabo.jp/20090324195121
一応言っておくが「他人」ってのは「それに対するレスは概ね同調的で、優等生的なものになるはずだ。だけど、そういう人」のことだぞ。
ニコニコ動画のWBCまとめ動画を見ていると、まぁあるわあるわ、韓国ざまぁ的コメントが。
幼少の頃、運動会の徒競走でコケた対戦相手(赤組)の走者に「ざまぁ」と野次を飛ばしていたら担任に体罰を食らわされたことがある。殴られる筋合いまでは無いが、まぁ保護者を呼び出して説教されるぐらいのことはしたと思ってる。大人になってからはそんな愚は犯さなくなった。「溜飲が下がる」という言葉があるが、敗者に対する私怨・わだかまりの解消は、基本、勝利をかみ締める事をもって最大のものとするべきだと思ってる(そういう意味では高校生にはガッツポーズぐらいはさせてやれよと思うのだが)。
ああいうアスリートたちの競技を、低俗なナショナリズムを満たすために見ている連中には本当にうんざりする。
おそらく、こういう書き込みはこれからちょくちょく出てくるだろうが、それに対するレスは概ね同調的で、優等生的なものになるはずだ。だけど、そういう人の中にも、匿名掲示板では平然と国辱的な暴言を吐いているケースはきっとあると俺は思ってる。
世界的な金融危機の荒波をかぶって、ポーランド経済がふたたび窒息死直前にある。
ブームだった不動産投資が裏目にでて、市場が頓挫したのは、各国共通だが、ポーランドの相違点は、なぜか多くが、スイス・フラン建てで住宅ローンを組んでいるために、為替相場の変動で、二重の苦しみなのである。
もともと異様な投資境遇にあった。
ソ連崩壊後、いち早く投資が集中したのはポーランドで、米国にはブレジンスキーなどポーランド系の移民が多く、またカソリック教会のネットワークもあった。
筆者が最初にポーランドへ行ったのは90年だった。ワルシャワ駅前の(昔の)一流ホテルに宿泊、ジャガイモのサラダがいっぱいのったステーキが「一万ズローチ」と言われ、目を白黒させた。
すごいインフレだった。
ポーランド通貨は「ズローチ」。当時、一ドルが一万ズローチだった。ハイヤー(ベンツ)を雇ってグダンスク(グダニスク)を日帰り往復。高速道路をぶっ飛ばした。朝九時にでて、ワルシャワへ戻ったのは午後九時ごろ。途中、高速道路にドライブインが一軒しかなかった。
ハイヤーが往復わずか百ドルだった。グダニスクが「連帯」発祥の地、議長のワレサは、そのご、ポーランド大統領になった。
それから二年ほどして、再訪したら、はやくも証券会社が乱立し、株式市場が盛況を極めていた。
このときはワルシャワのホテルに一週間ほどいて、ヤルゼルスキー元大統領に会見したり、南のクラコウにも足を伸ばした。
ポーランド政府の招待で共同通信、日経、産経の記者と同じ政府系のボロ・ホテルが宿舎だった(招待と言ってもポーランド政府が出してくれたのは、このホテル代だけ)。近くの豪華ホテルには朝日、読売の記者もいた。
外国との合弁アパレル工場を見学し、社長とあったり、忙しかった。その時のルポは『財界』に連載し、なにかの単行本に収録した。
王宮跡の広場にあった有名なレストランへ行くと、素晴らしい鹿肉料理、音楽隊の伴奏もあった(余談だが、そのとき一週間隣室だったのが当時の産経ボン特派員の前田徹氏。その後かれはワシントン支局長から上海へ飛んで、先日まで上海からの特電を産経に書いていましたっけ。上海時代には二回あった)。
閑話休題。ワルシャワにはショパンの記念館もあり、昔の栄華の面影が甦った感覚があった。
駅前にはマリオット・ホテルの偉容が輝き、発展は約束されていた。駅裏にはホリディ・イン・ホテルもできていて、なんと日本経済新聞がデュッセルドルフから空輸されて読めた。
実際にポーランドは急激に発展したのだ。
西側から奢侈品が入り、ドイツや日本のクルマが疾駆し、レストランは満員。人々はスイスフランに投機を始める。
▲ドイツマルクにもユーロにも見放され? スイス通貨に依存した
ポーランドはドイツを憎み、ロシアを憎むが、それゆえにスイスが投資の的になるのか、或いはポーランド人というのは、もともとがギャンブル好きなのか。
スキームはこうだ。住宅ローンをスイスフランで借りると、金利が低い。
それを進めるファインス会社がたくさん出来た。またポーランドの輸出が好調だったので、通貨ズローチが切り上げになったことも大きな理由だった。
住宅ローンの60-70%がポーランドではスイスフラン建てである(ワシントンポスト、3月15日付け)。
欧米の銀行が機能しなくなって、突然ポーランド通貨ズローチが崩落、対スイスフランで半値、いや半値以下となる。
ズローチ建てに換算すると「天文学的な借金」が目の前に現出した。
つまり、日本で喩えると3000万円のマンションが、6000万円にいきなり化けたことになる。値上がりではない。債務が膨張するのだ。同様にフラン建てで不動産を借りている企業もオフィスレンタル急騰に悲鳴を挙げる。
同時期、ハンガリー、ウクライナ、ブルガリアなどの通貨も暴落を始めた。
他方、EU加盟を認められて以来、ポーランドからおよそ百万人がイギリスなどへ出稼ぎにでた。
レスゼク・ザルニッキという不動産王がいた。銀行も経営していた。いや、両方とも倒産の危機には至っていないが、このレスゼクが、スイスフラン建て不動産ビジネスとファイナンスをポーランド全土に広めてビリオネアになった張本人である。
「スイスフラン建てビジネスは失敗だった。しかしもっと悪いのは格付け機関と外国銀行だ。外国銀行は投資家に向かって東欧から資金を引き揚げろとアドバイスしているし、格付け機関はどんどんと投資不的確マークを東欧企業に打っているではないか」。