はてなキーワード: 屁理屈とは
第三章 国民の権利及び義務
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
すべてのXについて、XはPされない(14条)。
Xたる要件はQである(10条)。
憲法14条1項は,法の下の平等を定めており,この規定は,事柄の性質に即応した合理的な根拠に基づくものでない限り,法的な差別的取扱いを禁止する趣旨であると解すべきことは,当裁判所の判例とするところである<略>
憲法10条は,「日本国民たる要件は,法律でこれを定める。」と規定し,これを受けて,国籍法は,日本国籍の得喪に関する要件を規定している<略>このようにして定められた日本国籍の取得に関する法律の要件によって生じた区別が,合理的理由のない差別的取扱いとなるときは,憲法14条1項違反の問題を生ずることはいうまでもない。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kokusekihouiekennzennbunn.htm
憲法第10条は「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」とありますが,そのことは,この「法律」が憲法第14条に反する差別的なものであってもよいということを意味していません。法律を作る国会議員が,そのような憲法論の基礎の部分を理解されていないようでは困ってしまいます。
【むしろ,自民党が心配】
http://benli.cocolog-nifty.com/la_causette/2008/11/post-8c0c.html
ああ、するどい。それはそういうこと。人より上だと思いたがる。屁理屈つけてでも。
でもね、それも若いからだよ。多少、年食うと、大したことない自分を素直に受け入れられるもの。
読んでみたが、日本に住んでる外国人にも日本国民と同じ(一部を除く)自由を認めるべきというのであれば、別に国籍を取得させなくてもいいような気がするんだよね。これって、日本に帰化しなくても同等の権利が与えられますよーという趣旨の話だろう?それがどうして「審査無し罰則無しでジャンジャンバリバリ日本国籍取れますよー」という話になったんだろう。
つくづく感じるが、こういった議論はとことん表沙汰にすべきだよなあ。世間一般の感覚と乖離した学者連中が屁理屈こねて、それが判例に影響を与え、法律に影響を与え、世間一般に影響を与えていく構図に見える。
- 形式化すると、10条と14条は、次のような関係に立つ。
すべてのXについて、XはPされない(14条)。
Xたる要件はQである(10条)。
第三章 国民の権利及び義務
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
すべてのXについて、XはPされない(14条)。
Xたる要件はQである(10条)。
何にしても日本は民主主義だから、税金が高い(実際は違うけどそう思っている人もいる)・省庁関係の汚職が酷いなどと言う問題は結局国民が悪いのであって、政治家や官僚のせいにしている日本人って馬鹿というかノーテンキというか身勝手だなーと思う。
民主主義だから重税も官僚政治家の汚職も国民のせい、政治家官僚を批判する国民は馬鹿というのは屁理屈だろう。汚職を罰する法律が整備されてるのも民意なわけで批判するのは当然では?
しかも選挙してるといってもいつも自分の支持政党が勝つわけでもないし、アローの定理で示されてるようにどういう選挙でも民意を完全に汲み取るのは不可能である以上、政府のやってることが各国民の意識とずれがあるのも当然のことだし、それについて不満を言うのも国民の権利であるはず。
しかも消えた年金とか見てもわかるとおり選挙を経て政治家が正式な手続きにのっとって決めたことすら役人がちゃんとやってないわけで、民主主義国だから官僚に一切責任ねえというのは強弁じゃないかと。元次官刺殺で年金テロだと騒がれてるときも民主主義国なのに官僚の責任にするのはおかしいと言いたげな意見あったけど、こういう人らは制度が民意に基づいて決まってるかということとその制度をきちんと運用してるかを意図的に混同して役人から国民に責任転嫁してるように思う。
ネットで論点のおかしさ及び理論展開の矛盾を指摘すると「確かにそういってるのはわかるしその通りだと思うけどまぁなんていうかかわいげがないよねまぁお前みたいな不細工相手にしねーけどなpgr」と言われるのでくそムカつく。言い返せねーだけじゃねーか。
そういうタイプに限ってリアルでは「君って女の子っぽいし数学苦手とかだったりするんだよね?そうだよね?強がらなくていいからwwwww」とか言うのでさらにムカつく。屁理屈をこねるしか能がないくせに理論的とか言ってるのが何よりもムカつく。ムカつくので冷静に指摘しているのに認めないのがまたムカつく。もしくは卑屈になって終始言い訳を始めるのでいらいらする。結局リアルでもかわいげがないといわれる。間違ってると思うのなら指摘して根拠を述べろ(゜Д゜ )ゴルァ!!
ま,いいんですけどね。八方美人したいわけではないので。
自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。
すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。
今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。
まず、オタクがオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。
名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメの現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダールを敬愛していてたまたまタツノコプロの求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。
「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫がオタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本でオタクが市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通や村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。
まずは、宮崎駿。アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。
宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要なポイントだ。
押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ的想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。
他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。
オタク監督だと言われるウォシャウスキーやタランティーノだって、ウォシャウスキーはSFの人で決してオタク的想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノは高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。
エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァはオタクがオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク的想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督は庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実をオタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。
このようにオタクがオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク的想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛や新房昭之の姿だ)。
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
オタクはオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアート的アプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコードに平積みされ、オタク的想像力は一瞬で敗れ去った。
それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。
そして、それは明らかにアニメの進化を阻害している。その理由を書こう。
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
しかし、アニメオタクは萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。
例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品が萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。
そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクはアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーションの快感をマイケル・アリアスに取られてしまうのだ。
もう一度言おう。オタク的想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメの進化を阻害している。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。
大荒れもいいところだ。恥ずかしい。
寛解できなくてもかまわないと思っている。一生憎んでいこうと思ってる。自分はそれでいいんだ。許せないならそれはそれでいい。許すのが怖いのかもしれない。
昨日も一日からだが冷たくていつまでたっても寝付けなかった。体中が凝って緊張しているのがわかった。何とか明け方頃に寝入ったけれどもすぐ起きてしまい、今日は一日頭が冴えなかった。元々胃腸が弱いが、飲み物だけで吐けるほど弱っている。別に多分風邪ではない。気から来るってやつだ。
街中で小さな子供を見かけるたびに考える。自分はどういう子育てをするんだろう。いずれちゃんと考えなければならないことはわかっているけれども、いつも怖くて途中で苦しくなってやめてしまう。子供は多分好きだ。いやでもわからない。毎日夜泣きされたら、わがままを言われたら、どうするだろう。どう思うだろう。自分はなにをするだろう。時々止まらない感情があることはわかっているのに、それをどうにかしないうちに親になってしまったらどうしよう。どうなるのだろう。怖すぎる。だから許してはいけないのだ。あれにはならないという意志を強固にもって些細な自分の制御できない部分に触れるたびにあれを思い出してそして自分自身を止めねばならない。あれになってはいけない。だから私は許してはいけないのだ。絶対に許してはならないのだ。
あるひとにじっくりと話し合えば寛解できる、できないわけがないといわれたことがある。そうかもしれないと思った。一時は少しましな関係になったかのようにも思えた。だがそういった彼自身が私を裏切り傷つけ、ずたずたにしたとき自分で築いた幾重ものバリケードの向こうにかわらないあれがいた。きけばきくほど吐き気がした。理解しようと思えば思うほど理解できなかった。もしかしたら彼の影がさしているだけかもしれないと判断を保留して数年たったがあれはあれのままだった。理解できなくてもいい、今はまだ許さなくてもいい、そう自分で思ったときもあれはあれのままだった。変わることはないのだと思った。
寛解できる人もいるだろう、よく話し合って理解できる人もいるだろう。でもあれは無理だった。理解は、した。多分したと思う。でも許すことはできないと思った。過去を水に流すことはできないと思った。大切なひとだということはできなかった。
何気ない言葉に傷ついている。言ってる人たちは悪くないし、普通はそういうものだろうと黙って笑っていることにしている。勝手に傷つくのが悪い。黙っていればそれでいい。誰にでも言わなくてもいい。弱いところを突かれるだけだから自分のために黙っておいた方がいい。
あれは自分の心の安寧を保つためだけに周囲に人間がいると思っていた。あれにとってはすべてが自分を満足させるために存在しているものでそれ以外は排除すべきものだった。愛情はあれを都合よく根拠なく肯定することによってしかありえなかった。あれはいつも言っていた。勝手に生まれてきたくせに育ててもらってる感謝をしろと言った。おまえを養わなきゃいけない理由なんてどこにあるんだろうと心底不思議そうに言った。その言葉通りいとも簡単に存在をけそうとし、大量の血が流れたが病院にかかったことはない。言葉で何度殺されたかわからない。何度も何度も死んでついに何も感じないようになり、すべての人にとって都合のいい人間になった。誰にも逆らわなかった。誰からも存在を認められなかった。
私が苦しかったかつらかったかどうか人と比べるのは無意味だ。恵まれているかどうか不幸か否か人と比べることは無意味だ。私がそうだと思う事実だけが過去には存在していてそれでかまわないのだ。私は言ってもよかったのだ。反発をしてよかったのだ。相手のせいだと一方的に言ってもよかたのだ。今となってはできないが、そうすべき時があったのだ。そうすべき時を経て、自分は悪くないという感情とだがそうとは限らない自分にも非があるという冷静な思考を養わねばならなかったのだ。でも私にはそれができない。まずすべて自分が悪いのだと思い、それから苦労して自分が悪くないという屁理屈をこね上げなければならない。でもそれでもいいのだ。それでも自分がどういう人間かわかっているならそれでいいのだ。自分がまずすべて悪いと思い込んでしまうと言うことを理解してくれる相手がいるなら、それでかまわないのだ。理解した上で立ち止まってくれる相手がいるならそれでいいのだ。私が悪いと思い込んでいるのをいいことにすべて私にかぶせてしまう人でないなら、ちゃんと対話することができる。立ち止まって思い込みをただしお互いに冷静なまま話をしていくことが可能であるのならば、それでかまわないのだ。そういう信頼を置ける人がいるなら、それで十分なのだ。
こうして一つ一つ文字にして自分に言い聞かせることでしかまだやっていけない。無意識の思考の中ではまだ自分自身の思考を整理できない。それでも一歩を踏み出したのならいつか幸せになれると信じている。恐れないで自分とは何かを表現して傷つくことを恐れずに進んでいけば、いつか普通が何かがわかると信じている。もしかするとそれは青い鳥かもしれないが、実際に探し回る過程こそが必要なのだからそれでいいのだろう。
私はあれを許さないしあれにまつわるすべては捨てようと思う。罵られても非難されても、それで弱気になっても、それでも行くしかないのだろうと思う。次の世代に渡さないために。連鎖を一つずつ断ち切っていくために捨てなければならないのだ。すり込まれた恐怖も何もかも。
とd:id:hokusyuがここのブコメで書いていたわけだが。
http://b.hatena.ne.jp/hokusyu/20081101#bookmark-10639649
まー厨二病患者ってのはどこでもバカの割に口が減らないもんで、「大阪城を建てたのは秀吉ではなく大工だ」みたいな屁理屈をいうわけだ。
しかしd:id:chnpkが、ここで
http://d.hatena.ne.jp/chnpk/20081101/1225541142
hokusyuさんはただのサヨク。←昨日からピーピー騒いでたのはこれが言いたかった。
と言っているのは、異議を唱えたい。「ただのサヨク」とか言わないでくれ。本当の左翼が可哀想だから。
hokusyuはサバイブのプロフィール画像でもグラムシの画像を使っているが、グラムシという人は、決して、
こんな思考停止は言わん人だから。人生の多くを獄中で過ごしたので、自分で実践ができなかったという事情はあっても、自明だなんだと「自分が楽してサヨクぶれる小理屈」を捏ねるのとは対極の人だから。本当に、一緒にしたらグラムシに対する侮辱以外の何者でもないから、「ただのサヨク」という言い方は止めてやって下さい。
はてサというのは、ブクマで集団リンチする快を貪っていた低俗な、ファッション似非左翼、シャンパン体制批判派だから。こんなのに比べればまだd:id:inumashのほうがまともに見えるくらいだから。
人の注文した料理の選択をあげつらって笑い
食べ方の汚さを指摘されると屁理屈をこねなおそうとせず
いつも注文しすぎては残している
お互いにはじめてだった行為のあとに
ひどくまじめな顔で何度もはじめてだったのかどうか疑わしそうに聞き
最後に責任とってねと言い放つ
あたりまえのことをわざわざできるの?と聞き
予想外のことにはなにそれ頭おかしいんじゃないの?と言い
ぽろりと愚痴をこぼせばそんなのはたいしたことないと言いながら愚痴を延々と垂れ流し
あるいは
人のおなかの肉をつかむのが趣味なんだと笑いながら
今日はここの肉使うの?と皮をひっぱり
やせたことには気づかないくせに太ったことは些細な変化であってもひどく嘲る
外に誘い出せばめんどくさそうに着いてきてこんなところにきたくなんかなかったと文句を言い
自分の行きたいところへは行き先を教えもせず連れて行き問題が起きれば相手のせいにし
寂しいといえば求めすぎと言い
何も言わなければめんどくさがりすぎという
会いたければ来てと言い
自分がくれば恩着せがましい
人の服装にけちをつけるくせに自分の服装はひどいもので
選ぶから付き合ってといわれついていけばアドバイスなんて求めてないと怒り出す
それでもなぜだろう
秋になると思い出すよ
そういえばきんもくせいの香りがするたびにトイレの匂いってうるさく言っててうざかったなって
君はどこで野垂れ死んでいるのかしらないしあいたいとも思わないけど
http://sankei.jp.msn.com/life/education/081008/edc0810080731000-n1.htm
個人的に、日教組の組織率や、数字に表れない影響力と学力に直接の相関関係はあまりないんじゃないかと思ってる。リンク先では「関係があるっぽい」という論調だけど。
問題なのは、組織としての日教組がどのような思想を肯定もしくは否定しているのかという点と、政治的に中立であるべき公教育に携わる立場との整合性だろう。日教組が思想的にかなり偏った組織である事を示すものは枚挙に暇がないわけで、それらの是非を世論に問い、当事者達を日の当たる場所に引っ張り出して大勢の目の前で弁明させるのが、この問題の解決の近道なんじゃないかと思う。
その通りだが、そこで言われる「政治」にはちゃんとした手続きが存在する。それを通さずに好き勝手やろうとしているのが教職員組合。
2008年10月19日 furukatsu furukatsu 増田, 政治, これはひどい 公教育に関わる人間は特定の政治思想を持ってはいけないのか? 自分の正義に基づいて運動をすることは誰にも咎められないだろう。
政治思想を「持つ事」と「運動する事」の区別くらい付けろよガキの屁理屈じゃあるまいし…。「自分の正義」とやらに基づいて自衛官の子息を「人殺しの子」と罵倒してた教師とかどうするんだ?
2008年10月18日 blackdragon blackdragon 増田 公務員が憲法を守りましょうって方に偏っているのはむしろ正常。日教組の偏り云々する人が自民党や教育委員会の偏りには無批判なのが不思議。
日教組と政党を同等に扱ってるのがそもそもの間違い。前者は特定の思想に染まった人間が勝手に寄り集まってる集団で、後者は選挙で有権者から相応の支持を得ないとなれない。
http://scarecrowbone.crz.jp/etc/himotemap/himoteMap.html
おれはどこにいるんだろう。
まず非モテであることは間違いない。なにせ年齢=彼女いない歴であり甘酸っぱい経験など皆無なのである。そのくせ嫌経験値だけ異様に高く対人関係に適度な距離を求めてしまうのが積極的行動を取れない原因かと思われるわけだが。ぶっちゃけ人間不信寸前。他人を信じる自分を信じろ的屁理屈によってギリギリのところで踏み止まっているが、これって生命力だけで踏み止まっているようなもんだから非常に危うい状態。実際折れることもあるしな。けっこう折れやすいのかもしれない、と最近思っている。
うっわ、こりゃあ非モテなワケだ。なにこの中二病。自意識過剰も大概にしろと。
話を続けよう。ここで落ち込んでいたらしょうがない。でもおれは彼女が欲しいわけだ。おれが「彼女が欲しい」と思っているのは前述の嫌経験値を相殺できる経験を求めているからだと思う。このままだと過去に囚われてろくな未来へ進めないことは明白。具体的には孤独死が待ち受けている。おれに他人を信じさせてくれ。だから「彼女」というのは概念に過ぎず「友達」でも良いはずだが、そこはそれ、やはり男の子、彼女が欲しい。おれは女の子が好きなんだ! と、ここで性欲肯定思考停止はたやすいが、もうちょっと踏み込んでみよう。だいたいそれほど切羽詰まった性的欲望は持ち合わせていない。だったら「友達」で満たされるはずだ。どうして「彼女」なのか。
「友達」と「彼女」はどのように違うのかといえば、なにより「関係性」が違うだろう。
「友達」は趣味嗜好など自分自身以外の要素で結びつくことが可能である。それに対し「彼女」は自分自身に魅力なくして結ばれることは不可能な関係性である。つまり自分自身を受け入れて欲しいという願望が「彼女が欲しい」には現れているのではかろうか。あるいは「相手(彼女)の自分自身」を自分に預けて欲しいという「信頼」を求めているという可能性も考えられる。いずれにせよキーワードは「自分自身」だ。この推論に自分の状況を照らし合わせてみると、どっちにも当てはまる気がする。そりゃあ当然「自分自身」を受け入れて欲しいし他人に頼られるのも、めんどくさいけど、なんだかんだで引き受けてしまう性格だ。
となると嫌経験値の相殺とは「自分自身」と「相手(彼女)の自分自身」に対する信用回復を求めていると解釈できる。だから趣味嗜好で結ばれることのできる「友達」では足りなくて自分自身で結ばれる「彼女」が欲しい。ままならない状況でうまく立ち回ることのできない「自分」や自分を苦しめるような「相手(彼女)」ばかりとは限らず、「自分」も「他人(彼女)」も、もっと信じるに足るものだという確証を求めているということではなかろうか。って、おれって結局人間不信なんじゃねえか、どこが人間不信寸前だ。とっくのとうに立派な人間不信患者じゃねーか。踏み止まることができていない。折れてる。ちょっとヘコんだ。
自分が「他人を信じたい」のはわかっていたけど、まさかここまでとは。「友達」じゃなくて「彼女」が欲しいのは相当重症のようだ。せめて「親友」がいれば違ったのかもしれない。けれどもそこまで親しい友達はいない。おれが距離を作っているせいもあるけど。たとえ同性相手だろうとも、おれは滅多に心を許さない。どこかしら予防線を張ってしまっている。もしも「自分自身」が受け入れられなかったり「相手の自分自身」を預けてくれるような信頼を得られなくても傷付かないように「他人を信じる自分を信じろ」なんて言って本当は信じていなかったんだ。
だけど、まだ人間を信じたい。
だから「彼女が欲しい」と思っている。
おっかなびっくり人間を信じたいと思っている日陰者。
いまはまだだれそれが好きというわけじゃなくて漠然と「彼女が欲しい」と思っているけど、いつかだれかを心の底から信じたいと思ったとき、そのときおれは相手(彼女)に惚れるのだろうか。そのときおれは積極的な行動に出ることができるのだろうか。というか、そもそもこんなテキストを書いたのは「非モテMAP」のどこに自分が当てはまるか考えてみようというのがことのきっかけだったのだが、なんだかどこにも当てはまらないようで、ちょっとだけ寂しいです。こんなところでもひとりぼっちなんて! だれかー!
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うわー。
なんか勢いに任せて書いたので書き足りないと思って修正していたらいつのまにかトラックバックが沢山付いている! どうやって返せばいいのかわからないので、とりあえず追記で。すみません。
・追い詰められているのかな。ぶっちゃけ薬服用してますが。
・承認欲求をすべて「彼女」に求める気はないです。嫌経験を払拭できる「きっかけ」が欲しいだけなのです。たぶん。
・女友達はいるけどそういう雰囲気になることがないんです……
・「彼女」は「友達」の延長線上にあるという考え方はアリだと思います。だけどその延長線上にどうやってステップアップするのでしょうか。
・ハムスターを飼っていたのですが死んでしまいました。超泣きました。
まあ、テレビの人気司会者が無責任に紹介したのがそもそもの始まりなんだけど、欲望自体を悪とみなすようになってきた社会の風潮に微妙にマッチしていたのかもしれない。
痩せられないのは欲望に負けるからだ、じゃあその欲望を減退させちゃえばいいんじゃね?というのが
お腹がすくなら映画を見ましょう、TVゲームをしましょう。という水のごとく低きに流れる方向性は、とても受け入れられやすかった。
これに「ゲーム脳の恐怖」とかいう屁理屈で煽った(煽られた)連中は反対した。以前はその言説に乗っていたTV局はというと、現金なもので当時自社企画中のホラー映画が成功するためにならと「スプラッタ・ダイエット」を持ち上げ、その一方で科学的な特番をつくり、「ゲーム脳の恐怖」を徹底的に叩いた。巻き添えになって一緒に叩きのめされた「水からの伝言」にはえらい迷惑なことだったろうと思う。(もっともネットで見る限りではTV局の意図は周知の事実となっていて、「水からの伝言」たたきはめくらましにもなっていなかったのだけれど)
「ゲーム脳」の連中、「水」の信者が「陰謀だ、よくわからないけど大陰謀だ」の合唱を繰り返してはいても、「スプラッタ・ダイエット」はそれなりの結果を示していて、結果、推奨作品リストはレンタルショップでも枯渇し、ブルーレイでレアだった過去の名作のリマスターが発売されたりした。これはダイエットに関係のないファンにとってもありがたいことだった。コアなファンなら品揃えの少ないレンタルに頼るより買っちゃったほうが確実だったから、レンタルでスプラッタが全て貸し出し中でも別に困らなかった。
食えるとか美味いとか最初に言い出したのは誰なんだろう。
慣れというのは恐ろしいもので、初見で食欲を壊滅させるような映像でも二度三度と見れば、ジャンルを網羅する勢いで見れば先鋭的な怪作でも、それなりに対応できてしまうものだ。
そして人間なんて単純なので、腹が減っているときに見ていた映像がいつも似たようなものであったなら、それと食欲が結びついてしまうのもとてもよくあることだった。
でも、禁忌の壁は高く強固だ。ダイエットしていた人々が僕らのようにゲラゲラ笑いながらピザをコーラで流し込みながらスプラッタを見ていたら、あんなことにはならなかったんだと思う。でも彼らは飢えに目をぎらぎらさせ、食欲を押さえるためと称して、ゾンビが人間に齧りつく様を見ていたんだ。だから、かれらの背中を押すには一言でよかった。
「人肉って美味いらしい」
騒動が治まるまでには、デマもかなりあったけど、少なくない数の真実もあったと思う。実際、件のTV司会者は逮捕されたわけだし。でも、あの司会者は騒動の前から食ってたよねというのは僕らのあいだだけでの共通認識。