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はてなキーワード: 伝統とは

2009-05-05

http://anond.hatelabo.jp/20090504163059

1、まずは、物理的に立ちはだかられて逃げれなかったというのもあります。

10数人にすぐに囲まれました。宗教法人ではないともいわれました。


2、みなさんがおっしゃる甘さだと思うのですが「国」に対する信用が

当時はありました。

(これは、大学という権威に対するものも含みます。予備校生ですから。)

①変な団体に活動の許認可は与えないだろう。法人格なども。

警察交番近くで活動を許可するくらいだから害はないだろう。(伝統宗教なみか?など)

という認識です。また、これはコミュニティに対する信用だったのかもしれません。

道行く人は多いわけですから、まさか昼間から詐欺的行為は働かないだろうという認識でした。

これは幻想でしたね。学校建設許可まで与えてしまうのですから。


3、あとは人に対する信用です(田舎でしか通用しないですが)。

これはある意味生き方というか人間に対する挑戦ですね。

そうあるべきという。

神を語って悪いことをする人はないだろう。

大の大人大学生予備校生に悪いことはしないだろう。

そうあるべき、そう信じるべきだ。という当時の付き合い方ですね。

リスク高いですけど。結構礼儀なども重んじてたんでしょうね。

甘さというより、何か強いポリシーでしょう。

残念ながら、彼らの考えは、「学生学校いくな+借金してでも布教献金しろ」

という想定外思想でしたが。

良心を利用するとは思わない。

自身の親族の一人の若年での他界や、友人の父などの病気がありましたが、

そういうものを治せるという弱みに付け込まれたかもしれません。

もちろん信じていたわけではないですが。そういう心の部分をたくみ

ついてきます。

4、言いくるめ

今年は勉強だから無理だ。

→今しかない。入るだけ入っておくべきだ。

など。いろいろ数限りなく。(詳細省く)

親の承諾がいる

結婚就職受験も親と決めるのか?だから受からないのではないか?

など。

これは、若いので、甘さを露呈。軟禁されるとどうにもならない。


人間デリケートな部分、良心善意というを

利用して陥れることを許しているのが日本の現状ですよね。

だから今、不信の社会です。

冷笑的な無関心、モラルハザードが各所で起きていますが、

戦後反動から日本人が振舞うべき括弧たるポリシーを失ってるかもです。

モラル基準としてカルト宗教しかない、たんなる自己中心的な振る舞いしかない

というのであれば、早晩、国(という幻想なのですが、みなさんによると)

破綻してくると思います。(みなさんみたいなしっかりした人が多く安心しましたが)

着実に個人が一人一人破綻してきているわけですから(笑)

(こういう青臭いことは本来口にすべきことでなく、文にして強調する

こと自体カルトと似ているとも感じますがw。微妙な問題ですね。)


多少、論理が飛躍してるかもしれませんが、一人でも被害者が減れば。

コメントにある通り、かかわってしまえば、こちらが悪いということになります。

そして、団体は糾弾されることなく、自由意志に基づいたものだろ。

…と、一生個人の信用の負債となります。

団体は豪奢な生活、VIP扱いされても個人の信用(履歴)

は回復することはありません。美術館などで

かかわる時は十分気をつけてください。

伊藤若冲ブログも以前ありましたが、

あれも館長の辻さんの見出し作家です。残念ながら

美術館も完成度が高く、太鼓グラミーのはずです。)

若さゆえの甘さと弱さと馬鹿さの反省として書きました。

http://anond.hatelabo.jp/20090505010215

経済格差の拡大は学歴の拡大の結果でもあるし、原因でもある。

学歴の拡大って学歴の差が拡大してるって意味?よくわからんかった。

でもって、文化はもともとダメなんだと思う。伝統文化以外は。

本気て育てたんじゃないからね、余興が育って芸になった、

アニメだってスポンサーのめちゃくちゃな注文を何とかこなしてそれでもやりたいことやった人たちが作ってきたものだし。

現代芸術とかは、海外で評価されてからの逆輸入だから、輸出するための戦術的視点がない。

アニメ漫画サブカル系も海外で評価されてるから押し出すか程度の逆輸入ネタだしね。

そこはマーケティング戦略が必要だと思うなー。

2009-04-23

http://anond.hatelabo.jp/20090421145231

私の右翼イメージは・・・

えーと、なんだろう。

街宣車で叫んでる人かなあ。

権威とか伝統とかが大好き。

デヴィ夫人を根拠なくボコボコにした人たち

海外旅行とかしない。

自分の周辺以外のことには興味がなく、外国の人はすべて敵か自分よりも劣っていると思っている。

演歌が好き。

自己批判とかしないし、客観性はない。

文才とか芸術才能ゼロ

みんなで野球を観に行ってビールを飲んでいる。

お祭り好き。

まああんまり悪い人ではないね。

2009-04-19

歴史伝統なんか糞の役にも立たない

http://image.blog.livedoor.jp/mumur/imgs/a/7/a7b61293.jpg

↑こんな年表見て「日本すげー」とか言ってるバカがいるけど

新興国アメリカに色んな分野で負けてるし。

iPS細胞研究競争激化、日本は米に「1勝10敗」」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090419-00000363-yom-sci

http://anond.hatelabo.jp/20090419043927

うーん、避けたいと思っているわけでも無いな。

これからの日本労働政策上、本当に移民を大々的に引き受けるべきだということになるのであれば、それで治安が悪化しても日本社会伝統的美徳とやらが失われても、それは受け入れるべき事態で民族差別につなげるのはバカで野蛮なやり方だとは思う。

が、今具体的にどうこうすべきというビジョンがあるわけではない。

つーか移民賛成派の物言いにもなんか不愉快なところはあるんでなあ。ひらたくいって奴隷を求めてるだけっぽい雰囲気なやつもいるし。

安く買い叩いたやつのモラルは、そりゃ安かろうよ。

2009-04-18

http://anond.hatelabo.jp/20090418190735

生存競争は別に人間的な活動でも伝統的な文化でもないぞ。

ミジンコでもやってるようなものに過ぎない。

むしろ、弱者淘汰の生存競争からどれだけ距離を取れるかというところに人間の文化の精髄がある、という考え方も出来るだろう。

自由主義市場競争といいたいのなら、実際に働いで稼いで暮らしてるやつらが実権持つのは自然という考え方も出来るんじゃないの?

もちろん市場原理も、冒涜がどうだの言われるような倫理規範ではないが。

これらは、違う考え方もあるよって紹介であって、押し付けるつもりは無いんだけどね。

君が何を身体的な感覚に置き換えて考えようが自由だけど、他人もそうだと思い込まないほうがいいぞ。

外国人地方参政権をやったからといって俺の財産が減るとも思えんので。

2009-04-15

http://anond.hatelabo.jp/20090415005901

へぇ

ハワイの日系移民も100年以上経ってて4世、5世がいる時代になっているけれど、日系人で固まっているという感じはあまりしない。日本人会もあるし、祭りもやってるけど、伝統の保存にこだわってるようにはあまり見えない。もしかすると中の人はそういう意識があるのかもしれないけれど。3世より下の人はたいていファーストネーム英語名で、ミドルネーム日本名がついているかな。非日系人との結婚もそんなに少なくないと思う。私が付き合いのあるのはだいたい3世以降だから、1世2世の人たちの気持ちというのはほんとうのところはわからないのだけれど。

何が違うんだろう。


あたりかなあ。第二次世界大戦で直接の交戦国になったことは大きいと思う。

2009-04-10

外部から評価されて始めて分かる良さ

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090410-00000324-reu-int

世界一グルメな都市」は東京=米誌

 [ニューヨーク 9日 ロイター] 米フード・アンド・ワインマガジン誌が選ぶ「グルメのための都市」に2年連続東京がトップに輝いた。革新的なレストラン豊富さと素材の素晴らしさがその理由。

 2位はバルセロナで、次いでコペンハーゲンロンドンニューヨークとなった。

 最先端料理と活力ある食事情を格付けする同ランキングは今年で4回目。

 同誌の旅行部門編集者ジェン・マーフィー氏は「東京は確固たる『食の都市』だ」とコメント。その上で「東京シェフたちが革新を求めに行く場所であるとともに、伝統的な食の歴史をも持ち合わせている」と述べ、東京の首位は圧倒的ものだと評価した。

 また、今回のランキングでは、ミシュランガイドで評価された多くのレストランを有し、昨年2位だったパリが圏外となる意外な結果にもなっている。

革新的なレストラン豊富さと素材の素晴らしさ

素材のすばらしさはピンキリだろうけど、レストラン豊富さは確かにそうなのかも知れないなあと思う。和食のみならず洋食中華もそこかしこにあるし、足を伸ばせばマイナー地域民族料理店だって見つかるしね。セレブから低所得者層にいたるまでそれが当たり前だと認識されているってのは、実は凄い事なんだろうな。

2009-04-08

http://anond.hatelabo.jp/20090408173354

確かに才能のあるなしは、アーティスト崩れみたいな人の方が分かると思うんだ。

でも、芸大出にとって教職についてる人はわりと成功者の部類ですよ…と。少なくとも全く関係のない職についている人や、プーよりまし。トップ美大でもそうなんだから、下は推して知るべし。

ただ、伝統的な芸術家としての道はムリでも、イラストレーターとかクラシカルクロスオーバーみたいな方向で頑張れば、セルフプロデュース能力と、戦略と、音科は哀しいことにお顔次第で成功しないこともないよ。千の風秋川さんとか。あの人はテノール歌手としては特別上手いわけじゃないけど、選曲が上手かったね。そういう形の幸せもあるので、わざわざ思いとどまらせることもないんじゃないかな。

2009-04-02

http://anond.hatelabo.jp/20090402184742

知らなかったことに責任はないかもしれない。

(あることもあるだろうが、場合によるので、今は措く。)

でも、知らせてくれた人に向かって

いや、そんなこと言われたって

と言ってしまう/書いてしまう のは、悪質な開き直りだと思うな。

「知らぬこととは言え、大変ご無礼をいたしました。あいすみません。」

という伝統的な謝罪のしかたがあるのにね。

2009-03-25

http://anond.hatelabo.jp/20090325111356

元々日本にはそのような「空気」は濃厚にあったはず。それが女性解放運動その他戦後経済成長期の社会変化によって薄れてきたのが問題。

伝統的な家族観結婚出産に関する価値観復興するにはどうすればいいのか、を考えなきゃね。

民間企業が、非婚者や子供を持たない者の昇進を抑制するような仕組みを考えるとか。

今でも銀行なんかでは聞く話だけど、そういうのを他業種でも奨励する。

あと、能力に関わらず一定以上の収入は得られないようにするには、未婚者未出産者に非常に極端な累進課税をかければいいね。

2009-03-20

http://anond.hatelabo.jp/20090320121833

ぐぐれ。

国立大学の附属校になっている学校だ。

大概は○○大学教育学部附属○○高校となっている。

今もどうか知らんが、伝統的に国家公務員弁護士医師の子弟が通うことが多い。

自営業経営者の子弟が、慶応や成蹊みたいなところに通うようなもんだ。

東大附属みたいにやたらと双子の多い学校もあるがな。

2009-03-17

■さわやかな有村悠のガイドライン

さわやかな有村悠のガイドライン

「ありむー」

「ありむー」

さわやかな有村信者挨拶が、澄みきったブクマこだまする。

はてなブックマークのお庭に集う有村信者たちが、今日天使のような無垢な

笑顔で、ありむーのブログブクマを付けまくっていく。

汚れを知らない片手に持つのは、ユリイカ聖典ユリイカ

汚さないように、高尚な青土社歴史を尊重するように、ゆっくり読むのがここでのたしなみ。

もちろん、有村悠は高学歴ブルジョアだからユリイカに連載が持てるなどといった、はしたない発言など存在していようはずもない。

はてなブックマーク

平成十六年創立のこのブックマークは、もとは高学歴ブルジョワジー政治力増強の為につくられたという、

伝統ある新月お茶の会東大分校である。

はてな下。駒場の面影を未だに残している高学歴の多いこのサーバで、東京大学に見守られ、

新入市民から古参市民までの一貫教育が受けられる高学歴ブルジョワジーの園。

時代は移り変わり、元号平成から改まっていない平成今日でさえ、

三年ブクマし続ければ高学歴純粋培養有村信者が箱入りで出荷される、

という仕組みが未だに残っている貴重なブックマークである。

http://anond.hatelabo.jp/20090308235742

消費者は基本的に我侭で欲張りなもの。

その我侭で欲張りな消費者の欲しいものを売ることで、お金を得るのが商売。

優れた文化は非常に優秀な商売道具に成り得ますが、商売でしか成り立たない文化というのも寂しい気がします。

>違うよ!と反論してみたのだが、よくわからない様子。

はっきり言って、私も良くわかりません。

わざと稚拙な表現を使っていますが、妹さんが言っていることの一部はある意味で心理です。

いらないものはいらない、とはっきり言っているのですから。

自分たちは何も文化を創り出さないくせに、文化を殺す方向にしか考えがいかず

殺そうとなんて思ってないでしょう。

ただ欲しいものを欲しいといって、そうでないものをいらないと言っているだけ。

あと文化を創り出さないと決めつけているのはいただけないと思います。

>その理由は、別に見てもしょうがない、という『必要でなければいらない』という発想。

必要でなければいりません。

若者だろうと年寄りだろうと、いきなり好みでないものを押しつけられて、「左様でございますか」などという話にはなりません。

どんな文化も、必要に支えられて生きているのであって、文化を受け入れるために自分の意志を捨てるのは明らかに間違いです。

音楽はタダでいい。

泥棒の理論(笑)とか言って、思考停止している人は置いておいて。

リンク先の筆者はこの意見に反対されていますが、タダで聴けるのならば消費者にとっては嬉しいもの、という考えは変わらないと思います。

ならば先に考えるべくは「どうやってその要求を満たすか」であって、「そういう考えはいけない」と一蹴するべきではないと思います。

消費者音楽に直接お金を出さなくても音楽を聴けて、かつ音楽業界も儲けられる、そういう新しいビジネスモデルが求められています。

私は「文化なんて廃れてしまえ」なんて全く思っていません。

が、いつまでも今までと同じ手法で、ある文化を原資とした商売ができるというのは、文化を創る人の甘えでしかありません。

文化が廃れていくのが悲しいのならば、廃れさせないように努力するべきです。

そのために、新たな時代に対応できるような文化のあり方を考える必要があると思います。

伝統・慣習・綺麗事だけでは文化は維持できません。

2009-03-15

http://anond.hatelabo.jp/20090315134659

俺が通ってた高校東大進学率トップ3に入る伝統ある某校だが、飲酒喫煙なんてありふれすぎて、誰も突っ込む奴なんか居なかったけど。教師も、目の前でやってなきゃ余裕で見逃してたし。

いま、同級生のほーむぺーじという奴をみたら

いわゆる魔法のiらんどだっけ、そんなんに作ってるやつなんだけど

みんな飲酒経験を書いてて笑った

おいおい、本当に俺たちの高校って伝統のある名門進学校かよ

全然違うんじゃねえの、これ

にちゃんあたりに張ったら、なんか面白いことになるかな?

2009-03-09

http://anond.hatelabo.jp/20090309161735

生まれる時に股を締めて…とか言うヤツか。


するってーと、最近何回かニュースになった女子高生赤ん坊トイレで…ってのは

日本の闇の伝統を受け継ぐ行為なのかね…無意識的に。

http://anond.hatelabo.jp/20090308235742

触れてないから楽しみ方が分からなくて、必要性が感じられないだけでしょ。楽しみ方が分かればどう転ぶかは分からない。

だから「クラシック音楽なんて聞かないからいらない」になる。

好みも問題もあるけど、それならどうにかして、そういう人たちから興味を持ってもらって楽しみ方を覚えてもらうかを考えた方がいいんじゃないかな。

そういうのをやってるところはあるけど、やっぱり日本全体に浸透させるのは難しいような気もする。

あと、文化って高尚になればなるほど間口が狭くなるよね。歌舞伎も庶民文化から離れてしまって伝統芸能になってしまっている。

どんな時代も一定の割合で、そういったものに理解を示さない(示せない)人がいるからある意味仕方の無い事だなとは思う。

何をもって文化とするか、という問題もあるけど、長く続いてなきゃ文化じゃないの?という事も考えなくてはならない。

「何も文化を生み出してない」というけれど、将来、どうなるかは分からないし。今、いらない、くだらないと思っているものが、研究対象になったりするかもよ。

お金を払う事に対して積極的でないのは、単純に物量に対して所持金が少ないからではないのかと思う。

今大量に物(情報)が溢れているけど、いいなと思ったものに対してお金をいくらでもつぎ込めるのは、もう少し大人にならないと無理なのでは。

近年は情報が溢れすぎてて、いわゆる文化を取り巻く環境も変わっていってるけど、本当にそれが文化を殺す事になるのかはわからない。

著作元にお金がちゃんといくシステムは残さなきゃいけないと思うけどねー。お金がまわらないと、何も出てこなくなるんじゃないかという危機感はある。

ただ需要がないと、文化や伝統は廃れていくものだと思います。無理やりにでも存続させるか、記録だけ残って消えていくか道は様々だけどね。

結構支離滅裂だな。ごめん。

2009-03-07

顔が悪くてもモテる奴はいるが、声が悪くてモテる奴はいない

日本人英語が苦手だと言われる。理由として最初に思い浮かぶのは日本語欧州言語に比べて、英語の発音と根本的に異なるからというものだ。しかし自分経験から考えると、日本語の発音体系に問題があるわけではなく、単に原因は英語っぽく抑揚をつけて喋るのを恥ずかしがってるだけという印象がある。学校英語の授業を思い出してほしい。音読のときにアメリカ人のように思いっきり抑揚をつけるのは恥ずかしくなかっただろうか?逆に言えば日本人でも感情を込めてメリハリある日本語をしゃべる人は英語の上達も早い。日本語に「抑揚を抑えて発音しろ」というルールがあるわけではないのだ。しかし大部分の日本人英語圏の人々と比較してボソボソ喋るので「感情が伝わりにくい+発音が悪い」と二重のファルターがかかって壊滅的な英語を話すハメになる。

日本人農耕民族だから抑揚の少ない言語が発達したのだ、というのは一理ある。だが能楽師剣道家の発する声を聞いてほしい。抑揚があるというより抑揚しかないと言えるほどにメリハリのある声だ。確かに日本人には猫背でボソボソ喋りがちになる歴史的背景があるが、それは尊ぶべき伝統ではなく克服すべき弱点なのだ。例外的に読経など抑揚を無くすことを良しとする文化もあるが、単純に日常生活でのコミュニケーションに上達したい!というなら抑揚はつければつけるほど良い。良い声というのは抑揚のある声なのだ。低い声や高い声というのは生まれつきだしあまり関係がない。以下、抑揚のある良い声になるための方法をいくつか挙げる。腹式呼吸を鍛えるとか呼吸筋のトレーニングとかは面倒くさいし誰も実践しないので書かない。

1.姿勢を良くする。

やっぱりか、といわれそうだが姿勢というのは声に直結しているし、スラっとした姿勢というのは人類にとって最も普遍的な善だ。その範囲は東洋古武術、読経から西洋オペラバレエ、果てはアメリカ大統領選挙マニュアルにまで及ぶ。姿勢を良くするトレーニングというのは何百種類もあるが、最も簡単な方法は「頭のてっぺんに糸がくっついててそこから上にひっぱられてるイメージ」を持つことだ。これならヨガマットを敷いたりダンベルを買ったりする必要は無く、歩いてるときやデスクワークをこなしてるときでさえも、思いたった瞬間に実践できる。

2.自分がデーブスペクターになったと思って喋る

コミュニケーションという観点からみればデーブの日本語日本人よりもうまい。彼の声はどんなアナウンサーよりも抑揚に富んでいる。なんとなく聞き流してるだけではあまり実感できないが、実際にデーブ口調で喋ってみるとあまりの抑揚の豊かさにびっくりするほどだ。デーブ可愛いよデーブ。

3.相手を言葉の通じない外国人だと思って喋る

脱オタしたら以前のオタ仲間と会話が盛り上がらなくなって関係が消滅した」というのはよく聞かれる現象だが、これは多くのオタがテキスト化可能な2ch的、blogコミュニケーション依存しているからだと思われる。この方法に依存しすぎるとテキストを共有していない人間と話すときに頭がフリーズして感情が生まれなくなり、ボソボソ喋るハメになってしまう。相手と自分に共通点が少かろうとかまわず抑揚のある声で喋れるようになるためには、目の前の人間ブラジル人だと思って喋ってみることが有効だ。言葉がほとんど通じないブラジル人とコミュニケートするには、クソ生意気小学生のように興奮したりはしゃいだり踊ったりしなければならない。必然的に自分の声はどんな相手に対しても抑揚のあるよい声になる。

個人的には歴史上最もよい声をしているのはヒトラーだと思う。声というのは良くも悪くも絶大なパワーを持っているのだ。

http://anond.hatelabo.jp/20090307135441

女自身の、女同士の中にも

結婚する男の格や収入で身分に差がつくみたいな意識あるよね

でも女が男の従属物みたいに扱うのは差別だと

俺は後者に賛成だが、

後者に賛成する人間は当然ながら前者みたいな感覚も棄てるべきだろう

金持ち結婚した女が、自分が全く構築に寄与しなかった財産に手を伸ばせる意味もわからん

離婚するときに半分食いちぎっていく権利もどこから湧くのか分からん

俺の言ってる女への文句は

伝統的な価値観で見ると「女々しい」「尻の穴が小さい」「器が小さい」そのものだけどね

2009-03-06

ボーカロイド曲の普及にふと思う

私は母親音楽教師であったこともあり、

小さい頃からいろんな楽器音楽に親しんできた。

あくまでもいろんなメロディーとか演奏が好きなだけで、

どこそこのバンドの~とか、クラシックの薀蓄とかに詳しい人じゃないのだけれども、

ボーカロイド曲の違和感にはどうにもむずがゆい思いがあった。

決して嫌いなわけじゃない。曲調や歌詞なんかも悪いものではないと思う。

そりゃあ中には雰囲気だけでそれっぽく見せてる曲とか、

何かの焼き直しにしか聞こえない曲もあるけど、それも一つの表現だと思う。

ただボーカロイドが歌うとただただ単調に聞こえてしまうこともある。

それが歌ってみたとかなんかで人が歌うとすごく良かったりする。

人間的なものが感じられないなんて書くと「古い人間だな」とか言われそうだけれども、

ボーカロイド人間の声のゆらぎはまだ出せない。

その辺り、ボーカロイドシンセサイザーなんかと同じで、人間の表現を演出するための一つのツールなのだと思う。

何が言いたいのかぐちゃぐちゃになってきてしまったが、

ボーカロイドがすごいのではなくて、その裏にある人間の魂の表現がすごいってことにもっと目を向けてもらいたい。

なんだかボーカロイド曲をノリや雰囲気で全肯定して、旧来の音楽を古いって言う人たちがいたからこんなこと書いてるんだけども、

そんなに自分の受信帯域を狭めないでほしい。

世の中にはもっとたくさんすごくて、美しいものがいっぱいあるんだってことを知ってほしい。

そして、逆にボーカロイドを無視したり全否定する人にも「新しい表現」への受信帯域を広げてもらいたい。

伝統とか格式ばかりに囚われて停滞するのは音楽がかわいそうだし、人間すべてにとっても残念なことだと思う。

もっと新しい試みとかにも目を向け、愛してほしい。

新しいのも古いのも全部手を取り合って認め合ってほしい。

小集団ばかりで凝り固まってないでほしい。

もっと音楽には可能性があるはずだから。

2009-03-05

http://anond.hatelabo.jp/20090305221614

世の中のすべての音楽ニコニコから供給されるようになると、

どうなるんだろうか。

PVはほぼ全滅。

スタジオ録音はなし。

音質、および楽曲の内容は全般に低下する。

世の中が全般にオタクっぽい趣味に影響される。

ジャニーズなど金のかかったアイドルは全員死亡。

素人のちょっとした録音が持て囃されるようになる。

参加のための敷居が大幅に下がる。

歌謡界の伝統的なヒエラルキー破壊される。

古いものが突然生き返る可能性が大きくなる。

音楽流行についての流動性が高くなる。

逆に食えなくなった歌手を養うためにパトロン的な動きをするものが出てくる。

音楽に関するCMは全滅。

CD屋、CDレンタルは全滅。

音楽を自由にダウンロードできるサイトが大量にできる。

音楽作成ソフトウェアの質が上がり、値段が下がる。

そんなに悪くはないじゃないか。

2009-02-27

なかの人から見た大学大学院がクソな理由

http://blog.riywo.com/2009/02/27/120733

を読んで、なかの人から見て考えたことをまとめてみます。

ちなみに私は地方国立大学の複合領域系(文系とも理系ともどちらとも言いにくい)の准教授です。今年は卒修論それぞれ数本ずつ指導しました。

学問という産業

退学届けを提出されたriywoさんお疲れ様。

一応の大学人としては退学なさったのは残念とも思いますが、むしろ他の学生と違う選択を積極的に行ったその勇気に敬意を表したいと思います。(余談ですが、お金払って来ているのに、教授会承認されないと退学できない仕組みってヘンですよね。893新興宗教じゃあるまいし。)

上記エントリに関連してコメントさせていただくと、大学人としては、大学が「学問」の府であるというのは絶対に譲りたくない主張です。しかし、その一方でほとんどの大学目標の1つに、高度な職業人を輩出することが上げられていることから、就職予備校という役割があることは社会的に見て当然のことではないかと思っています。

もっとも、常々私はこの議論の前提がおかしいのではないかと思っています。その前提とは、「学問」というのは崇高なもので、民間でのお金儲けとは違う。というものではないかというもの。教員をしていると常々思いますが、本当の意味社会から必要とされていない研究研究とは呼べません。その意味で全ての学術研究は何らかの社会的意義があり、社会的コスト負担を伴って推進されるべきものです。ただし、その性質上そのリターンの回収が困難なので税金を使って基礎研究をやる必要がある。つまり公共財的な性質を持っているというだけの話ではないかと最近思うようになりました。

その点では、大学教員も立派な普通職業であり、大学も1つの産業セクターであることは間違いないです。そのために、少なくとも自分価値あると思っている研究を推進するために、世の中の大学教員は(自分ポストも含めて)必要な資源(金、人、もの)をかき集めて成果を出すために必死になっているのです。公的な資金を使う事が多いというだけで、本質的構造ビジネスと変わってないのです。その意味では、博士課程は研究者のための職業予備校みたいなものです(余談1)。

そのように書くとまるで私が学問を貶めているかのように思うかもしれませんが、もちろん人類の利用できる知識、認識を増加させる学問という行為はかけがえのないもので、かつ人間にとって根源的な欲求であると思っています。そのおかげで貧困をはじめとした様々な社会的問題を解決してきたのが人間歴史だと思っています。

しかし、その一方で、何が何でも学問こそが唯一の価値であり、その他の様々な産業セクターより優れているという考え方は私は持ちません。小売業金融業もそれぞれ社会で固有の価値を持っています。それと同じようなレベル産業セクターだと思っています。もっとも、このような認識を一般の大学人は認めにくいでしょう。それはどの産業セクターも同じだと思いますが、自分たちのやっていることは他と比較して特別な価値があると考えているものです。

集中する権力

その点で、大学人が研究を神聖視するのは当然です。ただし、やっかいなことに大学というのは、優秀な能力と意欲を持った若者層を教育する機関でもあるのです。当然、教育課程を通じてその若者たちに学問のすばらしさを説きます。そして、場合によっては学問のすばらしさをわかってない学生にも研究上必要な作業の協力を得たりすることも多いのですね。その背景には大学で優秀な研究者大学以外の民間企業環境を知らない事も遠因になっています。(余談ですが、就活指導をする教員が通常の就活をしたことがないような事例はいくらでもあります。)

それがしばしばいわゆるソルジャー問題として噴出したりします。もっとやっかいなのは多くの(特に理系の)研究室で、学生に対して教員の持つ権限が専制的だということです。教員の取り替え(研究室変更)もなかなかできない。人間同士なのだから、相性の悪いことも一定の割合で発生するとは思うんですが。そこで、様々な問題が発生する原因にもなります。特に、先生の指導に根本的に問題がある場合は、若者の有為な数年間が残念な期間に成り下がるリスクがあります。なので、特に大学院研究室といった方が適切か)の選択は慎重に行って欲しいものです。

反面、学部から大学院への進学は極めて容易になってきています。成績がそこそこあれば、無試験で進学できる制度採用している大学が多い。特に学生研究に対する意識や、自分人生についてのしっかりした考えを持てないまま、3年冬の就職か?進学か?という選択を迫られたときに、もう2年のモラトリアムを延長するつもりで進学する学生が後を絶ちません。これは不幸の始まりです。

しかし反面で教員にとって、進学してくれる学生は一緒に研究をすすめていく上で重要パートナーです。場合によっては箱入り娘よろしく、専門分野以外の世間をあまり見せないようにする、一方で研究のすばらしさのみを説き続け、研究活動に全ての資源を投入するように誘導している教員も散見されます。特に理系では伝統的に就職活動時間を取られないよう、大学教授)推薦による就活を主体にしているところも多いのではないでしょうか?もちろん推薦にも一定のメリットはあるのですが、推薦先を決定する権限を持っている教員に(研究指導も含めて)過度に権力が集中しているのでは?という疑念を抱かずにはいられません。

学生モラトリアム画一的教育

個人的には、そのような権力教員サイドに集中する環境にいる、(いわば「学問」という名の宗教的な組織にいる)学生が、もっと自発的に自分たちの人生や将来をよく考えた上で、大学のあり方について自ら対抗して欲しいような気持ちもあります。ですが、現状の学生の問題意識や行動様式を見るにそれは難しいことのような気もします。

それどころか、就活までの時間的猶予がある時期に、進路についてよく考えなさいと指導をしても、全く考えようとしない学生が多いのには困ります。(もちろん私個人の指導力不足も原因。)一例として、大学勉強したこととその社会的な評価によって、生涯賃金ベースで数千万円は平気で変わってくると説明しているのですが、うまく伝わらないという問題を抱えています。結局のところ、適当卒業すれば自分人生何とかなると考えている節が見受けられるのですが。

そして、適当卒業させてしまう大学もよくありません。

http://d.hatena.ne.jp/next49/20090222/p2

先日上記のnext49さんのエントリに大量のブクマがつきました。

同業者として、next49さんぐらい学生のことを考えてくれる教員に指導される学生はいいな等と、興味深く眺めていたのですが、私の疑問はなぜ自分で考える事ができない学生を無理矢理にでも卒業させてやらなければならなかったのか、またそうさせてしまう深刻な大学の持つ雰囲気です。

自分自身そのような環境にいますから、卒業論文以外の単位内定先をそろえた学生卒論で不可をつけることがかなり難しいことは百も承知なのですが。自分で考える習慣を身につけられなかった学生にもっと考える時間を与えることが望ましいと思うのですが、今の日本大学のもつ雰囲気としては、無理矢理にでも卒業させようというところが多いです。自分大学ですとそうなった場合指導教員内定先にお詫びの連絡を入れる風習があるそうです。なぜ教員がお詫び?というのは不思議で可笑しいです。(自分はまだやったことがないですが。)

この問題はかなり根が深くて、大学の最短修業年限にこだわる学生と「(留学などの特別な事情がないのに)留年する学生は要領が悪い?」と社会が見なしていることが問題のように感じています。ホントかどうかわかりませんが、留年生が増えると文科省の評価が下がるということを同僚から聞いたことがあります。学生の学ぶペースはそれぞれで、遅ければ遅いなりにしっかり本質を獲得する可能性もあるのに、とにかく画一的な年限で卒業させようとする雰囲気が強いのは困ります。

優秀な学生も、学習内容の獲得に時間がかかる学生も、外部から見たら区別がつかないのが今の大学の現状ではないでしょうか。(もちろん社会大学で学ぶことにそもそも期待していない(と考えている)風習も遠因でしょう。でも本当にそうなら、卒論が未了で卒業できない学生でも企業採用して欲しいものです。)その点では、それに限らず、様々なところで大学教育の画一性が現場で深刻な混乱を招いています。文科省大学設置基準をはじめとした時代にそぐわない規制が未だに現場を支配しているのが現状です。もっとも、文科省責任になすりつけるのは不本意で、大学のなかの人のマネジメントが成功しているとは言いにくいという点も付記しておかないと不公平でしょう。

なんだか天に唾するエントリになってしまいましたorz

余談1)について

ちなみに、博士課程進学者就職難が問題になっていますが、個人的には研究者というのはリスクの高い商売で、小説家に近いような印象を持っています。小説家作品セールスに失敗しても誰も同情してくれませんが、博士課程に進学したのに満足に仕事もないと文句を言う人が多いのは、博士課程という高学歴社会的成功と線形の関係を持つと考えている人が多いのでしょう。実際には研究テーマも自由に決められるのだし、そんな単純なものではないと思います。もっとも、一度終の棲家に就職してしまえばサラリーマンですが。

2009-02-25

1980年代:基礎研究に走った日本企業欧米大学ベンチャー主体に

http://anond.hatelabo.jp/20090225123751

電子産業史】

 1980年代を私は本誌編集長として過ごした。当時と現在とで,1980年代に対する私の見方は大きく違う。当時を振り返るとき,「なぜ気付かなかったのだろう」の思いを禁じ得ない。

 例えば1980年代欧米企業研究開発方針は大きく転換した。要約すれば「中央研究所の時代から産学連携の時代へ」である。

 西洋社会伝統では長いこと,「知」と「技術産業」は分断されていた。大学産業界の距離は,西洋世界でこそ遠かった。それが1980年ごろから様子が変わる。「新産業を生み出すのも,新しい雇用を創出するのも,大学であり,大学仕事に基づくベンチャー企業であり,それを起こす企業家だ」。世界中でこう期待し始めたのである。今にして思えば,それは,ほとんど革命大学革命と呼ばれる)だった。

 伝統大学人の強い抵抗と社会的な摩擦を伴いながら,この革命は進行した。歴史的に大きな転換であるだけに,痛みもまた激しかったようである。欧米におけるこの革命について,日本の産学官もマスコミも鈍感だった。私も例外ではない。なぜ鈍感だったのか,自省を込めて考え続けたい。

 大学革命の波が日本に及ぶのは遅かった。確かに21世紀初頭の現在は,日本でも産学連携大学発ベンチャーへの期待が,産学官挙げての大合唱となっている。その点,世界の他地域と大差ない。しかし日本では途中経過が違う。1980年代後半のバブル経済華やかなりしころ,日本を基礎研究ブームが覆う。「キャッチアップは終わった,さあ,これからは基礎研究だ」。

 背景にはリニアモデルがあった。「基礎→応用→開発」=「研究→開発→生産」=「科学技術産業」。この順序で事が起こるとする。そしてこの順序の上流ほど偉いとする。欧米でようやくこれが終わろうとするとき,バブル日本では逆に燃え盛ってしまった。国立研究所産業界も,産業的な価値を無視するかのように基礎研究に力を入れようとした。

 おごった産業界はうそぶいた。「大学頼むに足らず。ノーベル賞会社が取る」。中央研究所の縮小に走る欧米企業は,このとき反面教師だった。「研究から手を抜くようになっては,欧米一流企業おしまいだね。これからは日本企業の時代だよ」。折から「経済一流,政治三流」と,まことしやかに唱えられていた。

 確かに1980年代末に日本経済は空前の繁栄を謳歌する。しかし今振り返ると,周回遅れを先頭と誤解していた節がある。日本バブルを謳歌していたころは,世界の大転換期である。この時期世界は次の時代の生みの苦しみにあえいでいた。そのため工業生産を一時弱体化させる。同じとき,工業生産に特化した古い構造日本は温存し,転換に加わらなかった。それ故大きな利益を上げる。そういうことではなかったか。

 おごれるもの久しからず。バブル崩壊とともに基礎研究ブームも泡と消え,それどころか研究所そのものの縮小・再編に日本企業も励むに至る。再び欧米が教師となる。そして欧米がこの四半世紀,血みどろの努力の果てに,大学産業価値の源泉に位置付けていたことを,ようやく知る。こうして1990年代後半から日本でも,産学関係の再構築と大学改革が始まる。

 「日本株会社」批判と並んで欧米からの批判がもう一つあった。「基礎研究ただ乗り」批判である。「日本産業は繁栄している。ということは科学,すなわち基礎研究の成果がなければならない。ところが日本では基礎研究には見るべきほどのものがない。よそで達成された基礎研究成果にただ乗りして,日本産業的繁栄を実現しているに違いない」。

 ばかげた批判である。基礎研究の直接の応用とはいえない産業技術など,山ほどある。しかし,時の通産省貿易摩擦への対応に苦慮していた。「ただ乗り論」を受け入れて基礎研究を強化する道を選ぶ。傘下の工業技術院に属する研究所に対して,基礎研究を強化するよう,ほとんど強制する。

 やがてバブルが来る。産業界研究開発投資も急拡大した。拡大の方向は基礎研究である。日本の外で中央研究所の縮小と産学連携が進行しているさなか,日本企業は基礎研究を拡大する。

 背景にあったのは,繰り返すが「キャッチアップは終わった。これからは基礎研究だ」という認識である。研究者大学人・官庁科学技術政策担当者にとって,この認識は快いものだったのだろう。「科学技術産業」の流れの上流を担うところほど「偉い」という思いを,日本研究コミュニティーも共有していた。それは,ヨーロッパに対して後進国だった時代の米国研究者の思いと同様である。

 皮肉にも同じ時期に,米国産業界は,基礎研究や中央研究所経済効果を疑い,研究開発投資の方向を事業密着型に変える。基礎シフトという1980年代日本の政策は,欧米とは逆方向を向いていた。

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