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2014-10-05

ホンモノより本質を捉えてると思うニセモノ芸術作品10

http://anond.hatelabo.jp/20141003100544

ブコメ好きな物評価されるよう啓蒙するか、そうじゃないもの評価を下げようとするか」に触発されて。

どちらかというと、自分は高次なものを読んで、低次なもの共通点を見いだして一人悦に入るタイプだとわかったので、記録してみることにする。

ここでのホンモノ=より高く評価されているジャンル、およびオリジナル、ニセモノ=より低く評価されているジャンル、およびコピーとする。

ちなみに嫌いなホンモノやニセモノも当然ながらある。映画自分にとっては舞台のニセモノで、基本、CGが多用されたアクション映画しか受け付けない。

文学の場合

好きなホンモノはシェイクスピアドスト。嫌いなホンモノは伊坂幸太郎。嫌いなニセモノは特にないが、ラノベは読んだことがない。

1.ソローキン「ロマン

 望月哲男曰く、“19世紀ロシア小説の百科事典ともいうべき体裁をなしている。プーシキン『オネーギン』、トゥルゲーネフ『猟人日記』、トルストイ戦争と平和』、ドストエフスキー罪と罰』、チェーホフ『黒衣の僧』『桜の園からのアリュージョン。また、19世紀ロシアの小説に現れるモチーフを混ぜ合わせた一種のカタログ的な側面がある”という本作。高次なものの高次なコピーなので一般受けするかどうかというと違うと思うが、割と読みやす大衆的ではあると思う。途中までは。途中からは文学を殺している。早稲田文学の力もあって、作者ソローキンは、最終的には篠山紀信グラビアを撮られる程の人気を獲得した。


2.ティメール・ヴェルメシュ『帰ってきたヒトラー

 ヒトラーに関連する作品は、どうも反省や真面目さを持ち合わせたものが多い。ヒトラーを嗤う。ヒトラーと笑う。この恐怖体験を面白く思ってしまうのは何故だ?もちろんヒトラーパロディならミュージカルプロデューサーズ」の中でも見られる。しかし、あの作品ではヒトラーゲイが演じていた。今回はヒトラーのものが、緻密なリサーチの上に、いかにも言いそうなことをくっちゃべる。それがなんだかおかしくて笑えてしまう。彼が目指した理想の方が、現状のドイツ極右政党移民問題に揺れる)より良く見えてしまうことがあるのは気のせいか?



絵の場合

好きなホンモノは17〜19世紀はだいたい。嫌いなホンモノはフェルメール。嫌いなニセモノはあまりいないが、村上隆には興味がない。メインカルチャーすぎてニセモノがホンモノっぽい。

3. エドゥワール・マネ『フォリー=ベルジェール劇場のバー』

 マネがゴヤベラスケスティツィアーノなどのポーズをそのまま借りてきたことは有名。エル・グレコの影響も指摘される。正直言ってゴヤ『1808年5月3日、 プリンシペ・ピオの丘での銃殺』の模倣である『皇帝マクシミリアンの処刑』はとてもじゃないがホンモノに敵うとは思わない、マネがマネなりの政治的美術的な意図作品に込めたことを加味しても、だ。しかしながら、総合的に過去画家たちを再構築したことに加え、何と言ってもベラスケスの『ラス・メニーナス』を解釈した絵、『フォリー=ベルジェール劇場のバー』が素晴らしい。『ラス・メニーナス』にまつわる作品は、ピカソダリも多数残しているが、そのいずれもがマネには及ばない。他の拝借作品に比べ、鏡のある構成・見つめられる人の不在の2つ以外、共通点がないマネ独自構成が光る。

4.ジェフ・クーンズハルク

NYホイットニー美術館で回顧展。バルーンを模したいくつかのアートがあるが、明らかにビニールしか見えないチープな質感の『ハルク』は実はブロンズ製。ブロンズバルーン特有の皺を模すという、高価で難しいものを使って、安価で簡単なものを再現する試みを行なっている。写真で見ただけでは決して分からないだろう、その意味のない凄さが凄い。1億6千万の値がついたというマイケル・ジャクソン陶器も、スキャンダラス話題性ではなく、実はアートとしては失われつつある高度な陶器制作技術をつぎ込んである、と考えることもできる。



ミュージカル歌手場合

ミュージカルのものが、オペラバレエ下位互換である。という風潮は、ある程度あるように思える。

この場合複雑で、自分はホンモノに興味が持てない。高い金払ってオペラを見てもあんまり感動しないのである

一方、ロイヤルバレエを出てミュージカルスターになることを選んだアダム・クーパー(今度来日)のように、この世界ではクラシックトレーニングを積んだ人が続々出て着ている。

5.ジェロニモ・ラッチ

現在ロンドンオペラ座の怪人ファントムを演じているが、将来ジョン・オーウェン=ジョーンズや、ラミン・カリムルーに次ぐ世界的なスターになるに違いない逸材。アルゼンチンクラシックトレーニングを受けてきた。なぜミュージカル界に進出したのかはよくわからない、しかも英国。ファントムの前はレ・ミズでJVJ役をやっていた。

6.シエラ・ボーゲス

今更だが、やはり彼女ソプラノミュージカル女優としては別格。彼女オペラトレーニングを積んでいるが、あのサラ・ブライトマン比較しても、こっちが怖くなるくらいの情念の込め方で、単なる美しい歌を、心を締め付ける歌に昇華させる無二の能力を持っている。サラのオペラ座の怪人比較すると、ああ、シエラがオペラ歌手にならなくて本当よかった、と思うのである。鼻とかぐじゅぐじゅで、めちゃめちゃになっても歌い続けるような、そういう地に足がついた役者根性を感じる。


ミュージカル場合


7.Avenue Q

こんなトニー賞を取ったような超メジャー作品を挙げるのも何だが、ブロードウェイ代表作として。パロディミュージカルは数多くあり、今年も50 shades! The Musicalなどが上演されていたが、その中でも珠玉の出来を誇り、オフブロードウェイで今も上演されている。ジム・ヘンソンマペットを使いセサミ・ストリートを思わせる設定と楽曲で、普段はクチにできない本音をぶちまける。その後作曲家はもう1つトニー賞を取った後「Let It Go」でアカデミー賞受賞。


バレエ場合

バレエオペラにとっては添え物、現代ダンスにとっては堅苦しい教科書的な物と見なされる、難しいポジションにある。

8.クランコ「オネーギン」

オネーギンはコピーなのか?オリジナルなのか?翻案なのか?単なるアダプテーションではないか、マンガアニメ化するのと同じじゃないか、ニセモノと呼ぶとは何事だ、と、きっとあなたは言うだろうが、オネーギンには本来の作品にあるべき重要な要素が2つ欠けている。まず、オネーギンは韻文小説であって、詩のような形態で描かれている。ダンテ神曲と同じく、単なる小説ではないのだ、とはいえ我ら凡人が、ロシア語を学び本来の魅力を解することはおそらく一生ないであろう。というわけでバレエにしてくれるととっても有り難い訳だが、ここでつけられた音楽は、他の物語バレエ作品と違って書き下ろされたものですらなく、チャイコフスキーが奥様向けに月刊誌に書いたピアノ曲オーケストラアレンジしたものである。このように、他のバレエ作品に比べて若干不利になる要素を持っている本作だが……結果はどうだ。シュツットガルトけが持つこの演目を、自らのレパートリーに加えようと、世界中の著名ダンサー客演にくるような、まさにワン&オンリー珠玉の名作に仕上がっている。人々の所作振り付けにしてしまうのは、この時代バレエの特徴で、クランコはその名手。昔はストーリーダンスが完全に分離されていて、ストーリーマイムで進んでいた。


ファッション場合


9.モスキーノ

ジェレミー・スコットの就任で、故・モスキーノを上回る直接的すぎるパロディファッションを世に送り出したモスキーノ。就任直後の2014a/wコレクションマクドナルド元ネタだった。

http://youpouch.com/2014/02/25/174143/

モスキーノ自身が持ち合わせていた反骨精神、批判精神、風刺の能力を彼がどこまで発揮できるかが見物。


漫画場合


10.冨樫義博

作品の中でいくつか画像トレースしたことで知られるが、28、29巻の表紙ではマネよろしく古代美術ポーズを借り、また30巻表紙では2年越しの伏線を仕込んでいるなど無駄に芸が細かい作者。マネは足がなくなり、ゴヤは耳が聞こえなくなっても描き続けていたのに……という気がしなくもないが、やはり彼の行動原理は極めて特異だと言えよう。それは、野火ノビタも指摘する、「強制された身体のマイナスへの変化と、強さに相関がある女性」への異様な執着である玄海、躯、ビスケパームコムギカイトキメラアントになったレイナも、もしかしたらアルカも。玄海以外は皆、見た目がマイナスに変化する方が強くなるという特性を備えている。そこに共通するのは、極端なまでの女性の“自立”であり、“私はわたしである”というぞんざいな主張形態である。好みの女性タイプとして、「見た目がいかつくて、強くて、自分を持っている人」と答える人は、「見た目が華奢で、守ってあげたくて、頼ってくれる人」と答える人に比べると圧倒的に少ないと思われるが、冨樫は、冨樫だけは、なぜか前者に“変化させられる”女性大好物なのである

そして、怪物の戦いを描く時、冨樫は必ず怪物の味方をする。更に言えば、怪物の味方をしてくれるから、もしくは自分も怪物であることに気付いたから、という理由しか人間を肯定できない。それは「君と僕はおなじだ」という同質性への反応であり、「私とあなた全然違う、私はわたしだ」という状況に身体的に追い込まれた玄海、躯、パームなどと対極をなす。そして、男性は、(女性に比べればよっぽど自分の意思で、積極的に)怪物化する。幽助も、目の移植を受けた飛影も、ゴンもだ。さらに、怪物化した男性は、“自立”した女性に縛られ、ある種“依存”する。戸愚呂の玄海への、飛影の妹への感情が形を変えた躯への、メルエムからコムギへの、コルトレイナ(とカイト)への、ゴンコアラカイトへの、キルアアルカへの“依存”は、このように示される。「お前があって自分がある」。こうした究極の女←男の関係性を何度も描き続けているのが冨樫義博であり、男性作家のこういった表現への執着は世界でも類を見ない。いや、そんなことないか。なんか、ヒラリー・スワンクはいつもそんな役どころな気もする。まあどうでもいいや、出来るだけ多くの芸術を見てこようとしたけれど、その一つ一つが冨樫義博をより特別存在にしていく。たか漫画たか漫画なのだけどね。「あたちに謝りながらあたちの言うとおりに働いて あたちのために生きるんだ」と蟲になっちゃった女性が男性に言い放つ、これが冨樫イズム。



終わりに

もちろんホンモノ/ニセモノなんて区切りはこのエントリしか通じない区分けで、世間には通用しません。

ここではあえて、ラノベみたいに「くだらねー」「所詮○○」ってレッテルを貼られそうなものを、「ニセモノ」と書いてみました。

ただ、いろいろな芸術を見て思ったこと。ライトノベル純文学より面白いとか、そんな逆転はありとあらゆる場所で起こっている。じゃないとバンクシーとかどうすんのさ。

入れようと思ったけど、仮にも「ニセモノ」と呼ぶのがおこがましいと思ったインスピレーション作品高橋源一郎日本文学盛衰史」。あれは評論として受け止めるのが正しいかと思って。

正直「元ネタ」と「パクリ」の区分自分でも難しかった。ま、とにかく自分パロディが大好きなのであるラップサンプリングとかも好き。圧倒的にオリジナル好きな物もあるけどね(高慢と偏見ブリジット・ジョーンズとか)。あと冨樫義博が好き。

 
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