人間はゴルゴ13ではなかったけれど、背後に人の気配を感じるといつも攻撃的な気分になった。
大抵、電車を降りる時とか、スーパーのレジ待ちのタイミングで、
ただその人物が立ったということ自体、その認識の瞬間に怒りが燃え上がる。
分別のない中高年に多いが、男女問わずそのまま押し退けようとぶつかってきたり、
連れと大声でお喋りに夢中になっていたり、後はベビーカーで靴のかかとを押されたら、
怒りのクッションが深く沈み、そこから跳ね上がって振り返って睨み付ける。
(ベビーカーを使うのは構わないが、大きなスーツケースと同じように、人にぶつけたらちょっと頭を下げるくらいの振りはして欲しい。)
一度若い男に駅のショッピングモールでぶつかられた時、明らかにわざとだったので振り返って睨みつけた。
男は睨みつけられた苛立ちから、なんだよお前が悪いんだろと怒鳴った。
言い返さずに罵声を聞き流し、右手の中指を立てたところ、ますます男は燃え上がって、
歩きながら何度か振り返って親指で首を切る真似をしていた。
真似した手技で反論してくるのは創造性がないので、この勝負は人間の勝ちだった。
人間は自分の中に、決して上品とは言えない暴力的で乱暴な一面があることを自覚していた。
それは月並みな暴力性だが、持ち合わせている人間は他にもたくさんいる。
中指を立てるのは舌打ちの代わりだ。舌打ちをすると美しくないという美意識も少しはあったので、
アメリカ産のドラマで頻繁に見かけたジェスチャーで代打することにした。
それは我慢だった。
冗談まじりでルートを変えて欲しいと告げたら、怒鳴り散らされて驚いた。
中学生の頃、教室に入ってきた蜂をやっつけてと先生に冗談まじりで告げたら、
なんで俺がやらなきゃいけないんだと怒鳴り散らされて、やはり驚いた。
電車から降りてきた老人に突然手首を掴まれて憎々しげに引きずられた時もびっくりした。
それから車内で降りようとする見知らぬ男に何度もわざと突き飛ばされるという暴力を振るわれた時もびっくりした。
何故自分が暴力をあからさまに他人から振るわれるのかわからなかった。
謝ったり、一歩引いたりして小さく謝罪すれば終わるようなことなのに、彼らは一様に拳を振り下ろした。
人間はホームや、電車の中で、誰かが怒鳴ったり、窓を乱暴に叩いたりしていると、この鬱屈とした怒りを思い出す。
弱い惨めな気分のまま終わって、後から泣いたり悔しがったりして、消化することはできなかった。
人に聞かせて面白い話でもなく、相手の顔を写真に撮ってSNSにあげるようなこざかしい真似もできた試しがない。
せいぜい中指を立てるくらいだった。
だから人間が望むのは、今度こそこの、自分に対する暴力の生じた瞬間に相手をブチのめすことだ。
今度こそ、顔や腹に拳を打ち込んで、向こうが鼻血を出している間に吐くほど痛めつける。
相手が死ぬとか、怖いとか、やめろということをやる。暴力は理不尽なのだ。
晒されて精神に残った暴力の痕跡は消えない。暴力は感染する。暴力は強いからだ。
そうしないと、いつまでも暴力の記憶から自由になれないと分かっている。
いつかやるつもりで今日も電車に乗っているし、ホームを歩いているし、街を歩いている。
今までは暴力を振るわれるかもしれないと怯えていたけれど、