ネット黎明期には「誰が言ったかではなく何を言ったかが評価される世界」「フラットに議論ができて正しい結論が導ける世界」などという期待がありましたが、どう考えてもそのような世界は実現できていません。なぜでしょうか。
答えは簡単で、みんなが馬鹿に構って議論すべき相手と議論していないからです。
ここで、あるイシューに対して賛成する陣営をA陣営、反対する陣営をB陣営としましょう。AとBには右vs左でもオタクvsフェミニストでも自由なものを入れてください。
このとき、当然ながらAもBも中身は一枚岩ではなく、多種多様な人間が存在しています。
ではここで、少し視点を変えて「より良い結論を出すための議論の場」を考えてみましょう。
学生なら部活のMtg、社会人なら会社の会議あたりを想像すればいいかもしれません。
このとき、「より良い議論」をするには複雑なステップを踏む必要があります。よくあるのは
4.それぞれの意見を表明する
5.各意見を整理し、合意している部分と合意できない部分を明確にする
6.合意できない部分について、さらにそれぞれの意見を表明する
7.目的に照らしてどの案が良いか、お互いに軌道修正をしながら検討していく
8.どうしても合意できない部分については多数決や委任、場合によっては保留などによりその場での結論を出す
という感じでしょうか。
このように、本来議論を行うには目的とゴールの一致、合意形成のための地道な意見交換が不可欠です。
ところで、話を戻してAとBです。ここには多種多様な人がいますが、ひとつの切り口として「より良い議論をしようとする人」と「自分の意見を言いたい/通したいだけの人」が存在します。
前者(仮に「賢者」と呼びましょう)は大抵の場合、留保や意見聴取を伴うために地味で穏当で目立ちません。後者(仮に「馬鹿」と呼びましょう)は極端な物言いと押しの強さがあり、目立ちます。
本来、より良い結論を導くためには賢者同士で話をするべきなのです。それは頭の良し悪しなどといった話ではなく、「より良い明日を作りたい意思」があるかどうかです。
ところがネットでは賢者は目立たず、馬鹿は目立ちます。そして、馬鹿の意見は粗が多いため非常に突っ込みやすいのです。
かくしてA陣営はB陣営の馬鹿を攻撃し、B陣営はA陣営の馬鹿を攻撃し、馬鹿はさらに注目を集め、議論は一向に深まらず、喧嘩と炎上がネットの華として十年一日の光景を続けるのでした。めでたしめでたし。
相対的に馬鹿の関与を減らす「代表制民主主義」や利害関係が一致するメンバーを集めた「法人」は本当に良くできた仕組みですね。
議論に向かないネットで有益な議論を諦めない私たちは頑張って馬鹿を無視して語り合いを続けましょう。
終わります。
ネットは議論する場所ではありません
うんち
あたまいい文章ひさびさにみたよ 悟空
ユーモア0の文章だな