「人生ってのはね、幸不幸が50:50くらいなもんなんだよ」
だって小学生くらいの自分にとっては人生は楽しくて面白くって仕方がなかった
昼休み、放課後、クラブ活動、夏休み、じょぎピン、アニメ、金曜ロードショー、家族、友達。
辛いことといえば、
たまにお腹を壊して苦しんだり、
塾に行かなきゃいけなかったり、
門限が6時で夜まで遊べなかったり、とか
そういう即物的な辛さしかなかった
だからもう体感的に言って幸不幸99:1くらいの感覚で、遊びに忙しい日々を送っていた
でも自分が成長するに連れて「幸不幸50:50」説がなんだかよく分かるようになってしまった
それどころか
社会に出るにつれて、幸不幸「20:80」「1:99」くらいの説を潜在的にでも唱えている人の多さに気がついた
理由は自明ですね。
我慢を強いられるのは当たり前
社会における受動的な存在から能動的な存在へ変身せざるをえないんだ、大人になるってことは
小学生の頃みたいに、親という庇護者によって欲しいものが与えられるなんてことはほとんどない
有給、幸せな金曜夜、夏休み、金のかかる趣味、地位、新しい家族、恋人、自尊心その他諸々を。
幸不幸「99:1」くらいになりえるのかもしれない。
違う、違うんだ。
私が言いたいのはそんなことじゃない。
幸不幸の割合がオトナ化とともにだんだんおかしなことになってくる一番デカイ原因はそんな瑣末なことなどではない。
死、である。まぁ当然です。
死について。
これはもう、その瞬間は絶対にもう不幸だ。
オトナ化すると、死というものが親しい人や自分に降りかかる確率が当然上がってくる。
親しい人の訃報に触れると、本当に幸せとは一番遠いところに突き落とされますね。
どんなに親しい人がいない人だって、自分の死は避けようがない不幸ですね。
いくら愛だなんだ叫んで少しずつ愛を獲得しても、確実に対象は死んでしまう。
そして、自分も。
あとね、小さな失恋について。
べつに大失恋なんかじゃなくていい。
職場やクラスのアイドル的存在やらイケてる人をほのかに可愛いなーかっこいいなーと思っているけど、
同窓会で再開したら、あの子がものすごい美人になってた、とかものすごい出世してた、
早速私も話しかけてみるも、会話の感じからして相手にとって私は「その他大勢の一人」ってことがソッコーで分かった、とか。
もうもっと小さな失恋でいうと、テレビでみかける素敵な女優や俳優に熱愛報道がでた瞬間とかもね。
これ、でかいと思うんですよ。
給料が上がらん、とか
休暇がとれん、とか
そんなのより大分。
多分失恋の場合、私という個人が負けた分、他の見知らぬor知り合いの誰か個人がほぼ確実に勝っているということが
それに給料とか休暇とかってのはそんなに恒常的なものではないのに対して
失恋に関しては、人と比べ続ける限り一生ささやかに失恋し続けなくてはならないからね。
まぁとにかく
こういう小さな挫折が生きている限り積み重なるので、
人生において幸不幸の割合がだんだんおかしな事になってく気がするのだ。
取り巻く環境がどうであろうと、幸せは自分で呼び寄せてやるんだ、って自然に前向きに考えられる人も一定層いるのは承知。
というかそっちのほうが多数派かもしれない。
でもそういう心持ちで常にいられるってのはすごい恵まれている。
そういうモチベーションに自分のメンタルを持っていける努力が自然と出来る人だから。
言葉でうまく説明できませんでしたが、
とにかく私個人については「断続的な小さな失恋というものが人生不幸説の一因である」と思いつめるほど、
昨日の同窓会が原因で。
死を不幸だと思えるうちは全然幸せだろw