はてなキーワード: 進化論とは
えーと、すこし補足してあげる。
遺伝子からみた場合、自然淘汰説というのは否定せざるを得ない。
DNAの置換率は時間と正比例して、置換速度は遺伝子ごとに一定であることが確認されてる。
遺伝子の変化率というのは、淘汰圧がかかろうとかからまいと一定であるということに他ならない。
むしろ、自然淘汰とまったく関係ない、不必要な遺伝子ほど置換速度は速い。
現生人類のある遺伝子の塩基配列と、10万年後の人類のそれがどれだけ変化してるかっていうのは予想できる。
ただ、だからといって自然淘汰説を否定することは出来ない、っつうかDNAの置換率だけで全てを説明できない。
マクロ経済学から導きだした答えとミクロ経済学から導き出した答えが一致しないようで、自然淘汰からみた(表現型からみた)進化論と遺伝学(DNA)からみた進化論は折り合いがついてない。
元増田です。
キリンの首が長いのは、高い位置にある木の葉を食べるのに、首が長い方が有利だからだ
に加え、もともと首の短いキリンもいた→それらは高い位置にある木の葉を食べることができなかった→そのため飢えて絶滅した、という淘汰の過程がある。
実はそこは承知しているけれども、それは本論なのではないのであえて書かなかった、というかむしろそこを突っ込んで欲しかった。
例えば、首の短いキリンが絶滅した時期に、ウシも住んでて、絶滅を免れた、とかが発見されたりすると、高い位置の葉っぱのために首が伸びた説は危うくなるんじゃないか。
この話は、あくまで進化論の枠内において、「キリンの首が長いのは高い位置にある木の葉を食べるのに首が長いほうが有利だからだ論」の反証にはなりうる。けれど、進化論そのものの反証にはならないわけで。
進化論それ自体を反証する方法は存在するのだろうか、というのが疑問。
そもそも進化論は何か生物がいた時にその形質を説明することはできるけれども、何かを厳密に予測することはできない。予測ができないならば反証もできないから、進化論はポパーの言う意味で疑似科学になってしまうわけで。
予測と違っていても修正できる、という話がでるだろうけれど、それを言い出すと、進化論は先に書いたフロイトの理論(anond:20090326205141)とどの点で違うと言えるんだろう?
キリンの首が長いのは、高い位置にある木の葉を食べるのに、首が長い方が有利だからだ
に加え、もともと首の短いキリンもいた→それらは高い位置にある木の葉を食べることができなかった→そのため飢えて絶滅した、という淘汰の過程がある。
そして、過去に絶滅した生物や、生物のご先祖さまは、化石であったり遺伝子であったりを調べれば分かる。
例えば、首の短いキリンが絶滅した時期に、ウシも住んでて、絶滅を免れた、とかが発見されたりすると、高い位置の葉っぱのために首が伸びた説は危うくなるんじゃないか。
彼は科学と疑似科学の境界を「反証可能性」に求めた。ある理論が科学であると認められるためには、それが「反証可能」でなければならない、すなわち、
2:かつそれを現実世界の経験と照らし合わせて検証することができなければならない。
ポパーは疑似科学の例としてフロイトの精神分析論を好んで取り上げた。例えば、ある男が子供を川に殺意を持って突き落とそうとしており、もう一人の男はその身に代えても子供を助けようとしているとする。フロイト論者は、この二人の行動を、同じくらい簡単に説明することができる。一人は抑圧されており、もう一人は昇華を遂げたのだ、と。フロイト論者は、どんな行動に対しても、それに対する説明を編み出すことができるわけだ。ポパーはこれはおかしいのではないかと考えた。何でも説明できてしまう理論は、むしろ理論と呼ぶに値しないのではないかと。
進化論もこれに似たところがある。どんな生物でも、その形質は進化論で説明できるとされる。キリンの首が長いのは、高い位置にある木の葉を食べるのに、首が長い方が有利だからだ、という。進化論者はどんな生物に対しても、理由を探し出して進化論的な説明を編み出すことができる。
フロイトの理論と進化論が違うのは、進化論は理由を進化論の外に求める点だ。進化論は自己完結した理論ではない。「高い位置にある木の葉を食べるのに、首が長い方が有利」であるという主張は、進化論それ自体からは導き出せない。その主張を入れ替えれば、進化論はどんな生物にも適用することができる(もちろん主張それ自体がある程度の説得力を持っている必要はあるだろうけれど)。
進化論は反証可能性を持つのだろうか?そもそも自己完結していない進化論を科学理論と呼んでよいのだろうか?それとも単に僕の中での言葉の定義がおかしいのだろうか?
ポケモン映画最新作「ガラパゴス超克の離島」の封切りを前にの総合研究大学院大学教授長谷川真理子(進化生物学)が18日、
異例の記者会見を開き、進化論研究について誤解をしないよう訴えた。
進化とは、生物が世代交代によって個体群中の遺伝子の頻度が変化していくこと。
より多くの子孫を残せる形質をもたらす遺伝子が、世代交代を経て増えていくことを正の自然選択という。
映画は「究極の生物兵器」をつくるため、ガラパゴスのダーウィン研究所(CDRS)から 新種のポケモンが盗まれるという筋書き。
湯山邦彦監督、松本梨香主演で、7月18日に世界同時公開される。
CDRSでの進化研究に実際に参加している長谷川教授は会見で研究の歴史などを解説。
「生物が一生の間に新しい種へ進化することはなく、現在の科学ではオスの孔雀の羽の説明ですら確かな説明ができない。兵器をつくるのは全く不可能だ」と強調した。
記者会見を開いた理由については「映画はエンターテインメント。科学性を論じるのはヤボなことだと 承知している。ただ、最近、進化研究は危険ではないかという問い合わせが相次いだので、 正しく理解してほしいと考えた」と話した。
http://www.ebookoff.co.jp/sell/nid/PurchaseList/cid/1002
http://www.ebookoff.co.jp/detail/0010777113
何日か前まで無かった。
http://www.ebookoff.co.jp/detail/0010781309
はまだ高価買取値つかない。
http://www.ebookoff.co.jp/detail/0010732376
http://www.ebookoff.co.jp/detail/0010733885
はもう無理っぽい。新刊「断る力」
http://www.ebookoff.co.jp/detail/0010816262
は高価買取値つくかつかないか?
今さっきググったら、東大の駒場の学生向けに、生命科学の入門的教科書が出版されていることに気がついた。
東京大学より初の文系向けテキストが登場!「食」「健康」などの身近な話題から「生命倫理」まで,社会的関心の高いテーマを軸に生命科学の基本を解説.一般教養を身に付けるために最適!日本図書館協会選定図書.
東京大学発の必修教科書第2弾!今回も強力な執筆陣が,分子から細胞,個体,種への連なる生命現象の全体像を基礎から解説.理・医・農・薬・歯学部など生物系を専攻するなら,必ず読んでおきたい一冊!
教授から、上記のような生命科学の教科書をつくる動きがあると聞いたときに、開口一番
「是非、科学史の人たちに作ってもらってください」
と言ったことを思い出した。
本自体は総合文化研究科の生命系の人たちがオムニバス形式で作成したようだ。
擬似科学やニセ科学、進化論論争といった話が盛り上がるのを聞くたびに、
科学史が決定的に足りていないよな、と思う。
理由は、「あまりに科学が進みすぎた」こと。
「」付きにしたのは、「普通に生きている人が共通常識として共有するには進みすぎた」程度の意味。
もちろん、「普通の人」だけではなくて、医師国家試験でも、そういった進歩の弊害は指摘されているようだ。
現代において正しいとされている科学的知識を得たところで、
多くの人は空中分解しちゃうんじゃないかな。
だからヒストリーとしての科学が必要だろうと思う。(ヒストリーと書いたのは「ゲシヒテではなくて」程度の意味)
もちろん学問としての科学史が科学者研究的な面や公共政策学的な面があるのは、
(デカルト研究とか、ダム建設の科学的根拠を住民がどのように受け入れたかとか、そういうテーマ)
寡聞ながらも承知しているのだけど、
「大きな科学の物語」が必要なんじゃないのか、と思うのですよ。
今の教授たちが学生だった頃に比べると、修士といえども桁違いの知識が要求されるわけでしょ?
しかも、ネットを使って、そういった知識に簡単にアクセスできるから、
「知りませんでした」とは言えない。
Analysis Paralysis になっている大学院生も多いんじゃないかな。
Analysis Paralysis なのは、大学院生だけではなくて、
普通の人も同じでしょう。
普通の人にとって「科学的であるためのコストが大きすぎること」が問題の本質なのではないですか。
今更、科学の量は減るわけではないので、
触媒が化学反応に必要とされる活性化エネルギーを下げるように、
工学出身の東大現総長の小宮山先生が、「知の構造化」を掲げている。
確かに、マインドマップ的な構造化・可視化も、科学理解の手助けになると思うけど、
物語が一番理解しやすいと思うんだよなあ。
アタシ
黒曜石
割るとガラスみたいに尖りやすい
昔から
ナイフに使われてた
みたいな
だからさ
ねぇ
磨いてよ
俺は神で万物の創世主なんだから、進化論なんて信じるわけなかろうが。
進化論には科学的根拠があると理解するアメリカ人は僅か35%(http://hiddennews.cocolog-nifty.com/gloomynews/2004/12/35.html)
約3,000万人の成人が識字能力に深刻な問題<全米識字法'91の内容に学ぶ>(http://blhrri.org/kenkyu/bukai/kyoiku/shikiji/shikiji_0019.html)
国語・歴史・理科……などの科目が社会に定着していないと、迷信が蔓延り社会的な教育格差を抱え込んでトータルで社会全体が莫大なロスを抱えることになるのは明白だぞ?
それとも増田自身が『文化や教養の社会的価値への理解が低く、かつ歴史的なものの見方が苦手な人間の認識にある問題点』の実例を示そうということなのか。いずれにせよ、ホッテントリの「国語滅ぼすべき」的愚論と併せて晒し上げておくべき話だ。
~動物臭ことってどんなこと? 他人を気にしないこと~
動物はそこらに糞尿を垂れる。なぜならば,「他人」という概念がないからだ。
当たり前のことを書くけど,「人間は何故服を着るの?」ということは大切に問題だ。
全裸であれば,他人に不快感を与える可能性があるからだ。肉体は,よほど清潔にしていなければ匂いもするし,不潔感もある。
現代のように毎日シャワーにあびれる環境ではなく,昔のようにこまめにフロに入れない時代であれば,皮膚病もあるし,とにかく清潔ではなく,相手に不快感を与える。それが「清潔にされた特別な美女」でない限り。
このため,人は衣類を着用する。
衣類を必要とする理由は,自分のためではなく他人のためだ。
あなただって,もしも無人島に一人しかいなくて,助けに来る気配もないとする。まわりには動物しかいない。気候が温暖であり,岩場やとげのある植物もないようなところだったら,それでも衣類を着るだろうか?
いま貴方はどんな部屋にすんでいる?
頻繁に友達や恋人が訪れる部屋ならば,掃除が行き届いてるいることだろう。部屋が不潔であることは,来客に対して失礼であるからだ。
しかし,誰もこなければ部屋は汚くなる。
他人という存在を知覚し,理解するからこそ,つまり「社会」という概念があるからこそ,言葉遣いも正確になって誤解のない表現をつかい,几帳面になり,物事にたいして正確になる。
他人を意識するからこそ,他人に共感するからこそ,他人の権利や心情を理解し,他人の権利を侵害しない。つまり,違法な行為をしない。
動物には「他の者」という概念がない。世界には自分一体だけだ。だから,誰にも関心を示さないし誰からも関心をもたれないと思っている。
従って,他人の権利という意識もないから,女が欲しいとおもったら犯すし,空腹になれば盗むし,感情的になれば殴るし,違法な行為をする。
能動的にしなくても,自分の義務を全うしない。法律に何がかいてあっても,「ただの紙」と思う。
人間であれば,常に他人の目を意識する。だから,感情的になるような不愉快なことがあっても,社会秩序と自分の権利義務の範囲で行動する。
動物と人間の違いは,「他人の目がある」という意識があるかないか,ということにある。
だから,私たちは,不潔な格好をしていたり,いつも「へらへら」とわらっている気色の悪い表情の者や,円滑に会話することすらできないほどの無知,その他の「反社会的行為」が起きる。
結論をいうと,人間は犯罪をしないし,動物は「躾」や「鎖」がない限り,必ず犯罪(違法行為)をする。
動物には意思がない。だから,いきなり性行為を強要したとしても,「嫌だ」という意思がないのだから強姦にならない。
従って,動物同士には,窃盗も強姦もない。「とられたら嫌だ」とか「おかされたら嫌だ」という意思がないからだ。
しかし,これを人間相手にしたとき深刻な被害が生じる。
他人の心(犯されたくない,殺されたくない,傷つけられたくない,盗まれたくない等)は,そもそもそこに心があるからこそ,「読みと力」が発達する。
相手の意思を確認する能力,それが共感能力であり,これは人間の前頭葉にあるミラーニューロンによって機能する。
言葉とは,相手の表情や筋肉の動きからではなく,より的確に「相手の心」を把握する手段だ。だから,人間だけが言語を発達させた。
「他人と連携するため」に。
だから,法律も守らないし,法律という意識がそもそも存在しない。他人の所有権という概念を理解できない。そして,たいてい,言葉がろくに話せない。
単語を発することが出来るが,オウムのように何かを模倣して繰り返すか,コピーのみできる。どれも「不適切」な用法で。
だから,人間社会は言葉を話せない者,聞けない者を人間として認めない。
(ただし,その人が幼児または動物にかこまれて半生を生きたため言語能力が発達していない場合除く)
動物世界では,反対に言語を自由にあやつる者を「動物として認めない」。
さて,以上までは社会科学の立場から論じた。
自然科学の立場から,「動物」を論じることが今,世界中で起きている。
事の発端は,「恐怖の大魔王」が世界を滅ぼすという予言のあった1999年,人類の起源そのものをかえてしまう発見がポルトガルであったことだ。
人間(サピエンス)と,旧人(ネアンデルタール)の混血化石が発見されたことだ。
2002年,米ワシントン大のアラン・テンプルトン博士が,人類の常染色体の10座標から,原人,旧人の血統を発見した。
2008年,この研究発表に対して様々な反論がくわえられたが,ついに断念,人類の「混血」が確定した事実となった。
混血の頻度は,西欧がもっとも低く,ついで東欧,中央アジア,東アジア,の順となっている。
ネアンデルタールは,人間に似た形をしているが人間ではない。共食いが大好きだし,空腹になればまず子どもや妊婦を殺して食べる。
感情的になればすぐ相手を殺すし,つまるところ他の動物となんら違いはない。
ボスの座をめぐって,殺し合いをするチンパンジーの習性と全く違わないし,子どもの脳(栄養価の高い)を食べて空腹を満たすチンパンジーの母親となんらかわることはない習性を持つ。
言語ははなせないが,石器などから人間の真似をすることはできる。勿論,劣化コピーとなる。
旧人はお互いに交流しないと連携しない。だから,交易はない。たいてい,近親相姦によって子孫を増やす。
遺伝的に等しいので,近親相姦をしても問題がないのだ。
進化の速度がはやい人類は,劣性遺伝があるので,近親相関は奇形児の生む確率が高い。しかし,旧人は進化の速度が遅くて均一しているので問題ない。
勿論,「旧人との混血なんて無いはずだ」と感情的にただ叫ぶ者もまだ世界には多い。
だが,考えてもみてほしい。
人間であるあなたは,「全て人間だ」つまり自分と同じだと思えるだろうか。「全て」に対して。
人間の「裸の理性」(思いつき)によって為されたことは失敗し,長い歴史と時間の積み重ねによって得た英知が,「偏見」にあると論じた。
確かに,一つや二つ異常をみたところで,人は先入観を抱かない。
歴史的に連続した「異常」によって,偏見が形成される。偏見は,すぐにはつくられない。
もちろん,偏見の中にも,時代の変化によって不適切なものが含まれてくる。その場合は,再び時間の経過によってその事象が偏見の中から削除される。
あなたは,今までの人生の中で,明らかに「人間ではない存在」を多く見たり,或いは新聞やニュースの伝聞で聞いているはずだ。
犬は犬に対して異常とはおもわない。しかし,人間が犬の行動をもし「人間がしていたら」と思うと,「異常だ」と思う。吠える,噛む,糞尿をたれる。
しかし,「あれは犬だから」と認識することで自然だと考える。だが,もし犬が形態的に人間とあまりかわらない形をしていて,かつコピーされうような人間の言葉をある程度再生できる能力を有した状態で,「犬の行動」をしたらどうなるか。
「異常」とあなたは感じるだろう。
なぜならば,人間の中には,吠えたり噛んだりする者はいないからだ。
参考までに,一つの「事実」を示そう。
「プレ・ネアンデルタール」というのがいる。これは人間とそっくりだ。何故ならば,人間から分離して別の進化(まはた退化と呼ぶべきか)を遂げてから間がないからだ。
そして,旧人には渡航能力がない。まだ島と大陸が同じだったとき,または氷河期に海面が凍結していたときに徒歩で移動した。
従って,原則,アフリカとユーラシア大陸にしか旧人はいなかった。
イギリスや日本にも徒歩で移動できるが,島であればそこにいるだけの旧人を殺してしまえば,後から「次は来ない」。
以前まではの内容は,いままで散々日記に書いてきた。過去4年間にわたって書いてきた。
ここからが,「旧人と接しつづけた人間は,どうなったか?」という新しい考察だ。
人間は猿から進化したといっても,その「進化した様子の化石」がいまだ発見されず,「失われた輪」であり,想像の産物に過ぎない。
一方で,神などの知的な存在が人間をデザインしたという説も,具体的な根拠がない。進化論もID論も物証がない。
「彼らが,次の旧人ではないか」と。
次の,というのは現時点で彼らの中にホモサピエンスがいることに違いはない。しかし,明らかに彼らは島嶼部の人類と形態的にも試行的にも異なる。
専門的なことをかくが,島嶼部の人類および「アダム」の時代とされる初期のホモサピエンスの頭示数は81以上-86未満であるのに対して,大陸の人類は頭示数が86以上であり,サピエンスと形態的に変化しているのだ。学術的には「過短頭」と呼ばれる。
もはや,目でみて「大陸の人間だ」とわかるようになるまで形態的な差が生じてきている。
ここで私は考えた。
もし,生まれたときから旧人と共に生活し,それが何世代にもわたってしまえばどうなるのか。
恐らく,心を持つこと自体不毛であり,精神的につかれてしまう。他人をおもいやる気持ちをもっていても相手は自分を尊重しない。
愛しても愛されない。守っても守られない。盗まなくても盗まれる。犯さなくても犯される。傷つけられなくても傷つけられる。殺さなくても殺される。
この時,「他人を思いやる気持ち」(共感能力)を持つ人間は,精神的に疲弊して,やがて死んでしまうのではないか。死ななくても,子孫をつくる気力さえなくなってしまうのではないか。
こうして,人類の中にも,旧人と共に暮らしてきた者は,「共感能力をなくす」つまり,退化するということで,旧人に対応したのではないか。
動物に対応する方法は二つあって,動物を殺して統制して飼い慣らすか,或いは自分自身も動物になってしまうことだ。
能力の高い人間は動物を統制して対応し,能力の低い人間は同化したのではないか。その際に,全てを捨ててしまったのではないか。
つまり「人間性」を。
朝鮮人,シナ人への偏見は,「非人間性」を持つ。それは今更説明しなくても報道をみればわかる。
彼には明らかに退化している。人間としての機能が退化している。「他人を思いやる心」が無い。共感能力が無い。法がない。
退化することで,自然淘汰を免れ,旧人と共に暮らす進化ベクトルをおせんだのではないか。
ここで一つの答えがある。
どうして,プレ・ネアンデルタールは人間から分離してしまったのか。後期型ネアンデルタールは明らかに人間と違う形態をしているが,初期型ネアンデルタール,つまりプレネアンデルタールは人間と極めて似通っている。まだ分離して間がないからだ。
このため,「進化している」と当初勘違いされた。実際,ネアンデルタールは80万年前に人類から分離して「退化」したのだ。
なぜ退化したのか。
そこには「原人」がいた。原人にふれた人間が,「他人を思う心」をなくすことで適応し,それが旧人へと「退化」したのではないか。
彼らは知能の問題から,人間と動物を見極める能力を有さない。だから信じては裏切られ,ということを繰り返し,そのうち考えることも信じることもやめて,機能そのものを遺伝から削除した。
退化した。
それが生きる術だった。
島嶼部の人間は,旧人を殺せば次はこないため,人間同士で生活し,人間特有の機能をそのまま進化させた。
協力すること,信じること,愛すること,理解すること,尊重すること。
アルフレッド・セイヤー・マハンによれば,シーパワーとランドパワーはあきらかに区分することが出来るとする。
それは地政学上の問題では論じることの出来ない,思想・思考の違いがある。
ホモサピエンス,つまりアダムの子孫が住む地域は,日本,イギリス,台湾,およびこれらのイギリス人の子孫が入植した地域に限られる。
自分が信じても相手は信じてくれない。自分が誠実にしても相手は適当。与えた分だけ相手に着服される。
そんなことを繰り返していては,自分が死ぬ。だから,死ぬ前に彼らを殺すか,或いは自分自身が「彼らと同じになる」しかない。選択肢は二つしかない。
私は,旧人を殺すことが正しいと思う。
それは私の生育環境に人間が多かったことが原因していると思う。
私のこの意思は,ここに矮小ながら発信している。
あにたは私の意思に共感するだろうか?
もし共感したならば,もっと私を知って欲しい。私の考えや発想を暗記するほどに知って欲しい。そして私の目的をより理解してほしい。
それがあなたの利益になるのだから。
一体だれが,愛のない世界,他人の協力のない世界に生きたいのだろうか?
「他人を信じ合い,協力すること」でビルがたつ。製品が出来る。
これを壊すことなく,維持発展させるには,旧人・原人を皆殺しにすることだ。
最近は「DISりたい奴の文章を勝手に増田に転載してブックマーカーに叩かせる」という手法がはやってるらしいので、某所で見かけた電波文を載せてみました。
とりあえず自分は生きてるわけですよ。
こうやってキーボード打ってるわけですから、まぁそれは誰も否定しないでしょ。
幽霊ではないのですよってことね。
我文章打つ、ゆえに我ありって感じで、とりあえず一応存在してるわけです。
すいませんね。ほんと。
まぁ人生色々つらいことありますけどね。
んで、自分がいるってことは、親がいるわけですよね。
これは確実ですよ。
父と母がちょめちょめして、精子と卵子が結合して、自分が生まれたわけですよね。
まぁ生まれてよかったかどうかなんてわかんないけど、気にしないでおきますね。
んで母親にも親がいるわけですよね。祖父、祖母。
んで祖母にも親がいるわけですよね。
要するにこれが繰返されるわけですよね。
どんどん祖先をさかのぼっていくと、進化論的にいうと、ダーウィンさんでしたっけか、哺乳類抜けて、は虫類的なものまでさかのぼるわけですよね。
んで、は虫類ぬけると魚類とか菌類ってなるのかな。中学レベルの知識だからまぁ細かいことはいいんです。
とりあえず続いてるってってことですよね。
我文章打つ、ゆえに我ありってことで、とりあえず我あるからには続いてきた結果が自分で今文章打ってるんですよね。
自分は今の自分の認知できるすごい狭い範囲しかわからないけど、とりあえず自分個人じゃなく、生命としての連続の過去があるわけですよね。
認知できないものなんて存在しないのと同じと割り切ればそうなんでしょうけど、ここはね、認知してると思って思考してみますよ。
A(自分)→B(両親)→C(祖父母)→→→→→誰か?誰っていうのは人間を指すから何かの生命か?
とりあえず自分がいるってことは繋がりの連鎖の結果とりあえずいるわけです。
人類の誕生は旧約聖書だとアダムの肋骨、コーランだと精子だっけか?
まぁここは進化論を信じますけど。とりあえず今自分がいるってことは、とりあえず数万、数十万?
地球が46億年ということであれば、40億年に生命が生まれたとしてね。
40億でだいたい1世代が10年として、平均ね、4億か!すごいな。
なんで40億とか10年で計算?とかは聞かないでね。
うん。あるある。小さいことは気にしないほうがいいっておばあちゃんがいってたもん。
個人として考えるんじゃなくて生命、種として自分の今のいる原因をふと思ってみると、俺の知的な考察の結果10億世代の結果自分がいるわけ。
いるってこと現在の結果の前には、結果にいたる原因があるわけで、その原因っていう結果の先にはさらに原因があるわけで、それが
10億回くらいつづくわけ、
人間って弱いもんでね。
仕事で嫌なことあって、酒あおってるわけですけどね。
ウイスキーラッパ飲みですよ。
要するに酔っぱらってるわけですけどね。
こんな酔っぱらってる自分でちょっとなんで俺苦しんでるんだろとか思ったわけです。
苦しんでる原因は何?
上司?顧客?仕様?いやいや生まれたから苦しんでるだろって思って考えてたわけですよ。
んじゃ生きてる意味考えてみようと思ったの。
酔っぱらってるけど、酔っぱらって誰にも迷惑かけてないから許してね。
とりあえずここまで考えて酒がうまいよ。
生きてる意味とか、この今の自分がいるっていう現時点での最終結果の意味があるかわかんないけど、なんとなくなく、
そこはかとなくがんばるかって思ったのよね。
酒うまいし、いい気分だし、それでいいか、ごめんね祖先の諸君。
とりあえず自分は生きてるわけですよ。
この手の社会ダーウィニズム的言説が疑似科学だという反論は増田でも何度もなされているのに
なぜ性懲りもなくこういう主張を行う奴が現れるのだろう?
参考:http://anond.hatelabo.jp/20080327221759
生きるために食べること、寝ること。交尾をして子孫を残すこと。これらは生き物として最低限の活動であって
その「最低限の活動」を全うできない個体が「劣っている」と評価されるのは至極当然のことだと思う。
とっくに学問的には否定されてる社会ダーウィニズムを信じている馬鹿がいつまでも淘汰されないのはなんでなんだろうね。
その、進化論的文脈でいう「劣っている」とか「優れている」は「繁殖」という一面に着目しての評価だから、あんたの言ってる「繁殖力の優れた個体は(繁殖力に)優れている」ってのは単なるトートロジーなの。そんなことぐらいちょっと考えればわかるだろ。
もし進化論が正しければ、生き難いブス・ブサイクは淘汰されるはずだ。
特に古代・中世とは違いメディアの発達した近代では、庶民でも労せずにレベルの高い美人・イケメンを目にすることはできるため、真の美人・イケメンを知らないため見切り発車(発射)してしまうということも少ないはず。
それでもブス・ブサイクが減らないのは、進化論が正しくないかもしくは、
のどれかなんだろうか?
「一億総クリエイター」という言葉が使われている文脈では、生み出されたコンテンツの質は議論の対象になってない。
「一億総クリエイター」がうんぬんという話が浸透したのは、梅田望夫がその著作「web進化論」で言及したからだけど、
そこではチープ革命によって安価に必要な機材等が手に入るようになったので、
それなりのクオリティのものを誰もが手に入れることができるようになった、という話がされていた。
だからこれまではプロにしか表現できなかったものがアマチュアでもそれに近いレベルまで表現できるようになった、というのがそもそもの論旨。
それにプラスアルファして「発信のしやすさ」というのが挙げられるわけだ。
なので単なる「一億総発信者」という話だけではない。
さすがにこれについては本人、この対談の中でもう少し触れています。
東 (前略)個人の価値観でこういう風に生きてもらいたいとか、こういうふうに生きるべきだということを、友人や知人に言うことと、社会のみんながそれを信じるかどうかということについての予測は、まったく関係がないでしょう。その時に、ぼくは、そういう友人や知人を増やしていきたいとは思う。それこそが希望だから。でもそれは社会への絶望と両立するしかないんですよ。
大塚 それが公共性っていうことなんじゃないの?
東 それを公共性だというのであれば、南京虐殺は絶対になかった、韓国人や中国人はいますぐ死ぬべしと友人や知人に向けて書いている連中と同じになる。だって、彼らもそれは公共的な言説だと信じているのだから。だから私的な希望と公共性を混同することはできない。
大塚 (中略)たしかに、ネットの人間たちの狭い議論の中で、南京虐殺はなかったという人間と、あったという人間の間に何かが生まれると思うのは不毛なのかもしれないけど、ぼくはそこに、何かが生まれないとはやっぱり思わないし。
東 たとえ生まれたとしても、それは関係がない。問題はそんなことではなくて、ぼくが言いたいのは、いまやいろんな人間が自分の思想こそが公共的だと勘違いして、何億というホームページを開設して情報を垂れ流している。その時に、それに対して、ぼくこそが公共的なのだ、なぜならぼくは本も出しているし、東大とかも出てるからと言うわけにはいかないでしょう、ということです。もしそんな立場をとったら、それこそ不遜というものですよ。
大塚 ぼくの言っている公的というのはそうじゃない。あなたがいう公的というのは、俺のことを認めろ、ということだってのがよく分かったんで、理解はするけれども、ぼくはそういう意味では公的っていう言葉をまったく使っていない。ぼくは、つねに他者との関係によってあらわれるものを公的と言っているわけだから。
東 そんな公共性はネットによって実現されている。そのうえで、その「公共性」がいったい何を生み出しているだろうかというのが、先ほどから言ってるぼくの失望です。
同 pp.222-223
東 今なら、南京虐殺について調べたいと思ったら、ネット上で、一瞬にして、いろんな立場の人の意見を読むことができる。だから、その意味では、大塚さんのいう「公共性」は実現している。で、読んだから何が起きているのか、っていう話です。読んだから、そこで議論ができる。本当に真実の議論ができるか、それはできない。なぜかといったら、真実になんて誰にも近づけないからです。そうするとそこで起こるのは、誰が優位に立てるかの競争だけです。(中略)情報量が大きくなると「誰が頭がいいか競争」しかできなくなってしまう。
大塚 それは情報量が大きくなったからじゃなくて、まだそこに生きるわれわれがそういった環境に対して、どのように情報の処理や判断をしていくかの訓練ができていないからだと思うけど。
東 ぼくは、リテラシーの発想では対応は無理だと思います。
大塚 少なくともリテラシーの問題として対応し得る部分が、ぼくには充分ありうると思うけど。
東 リテラシー論というのは、普通読者の側の論理ですね。つまり読む側の話です。
大塚 いや、リテラシー論っていうのは、発信者論でもあるんだよ。読者の論理ではなく、書き手を教育する論理だと思う。
東 (略)百歩譲って、受信者のリテラシーは教育可能かもしれない。(中略)しかし、発信者の能力を教育するというのは難しい。人びとがネットで好き勝手なことを流す権利は、教育では止められない。だって、彼らはそれをやりたいんだから。
大塚 いや、発信者の教育はできる。にもかかわらず発信者としてあるための教育が未だなされていないということが問題だと思う。(中略)だからぼくはインターネットによって書く主体や、書き手としての自分、発信者としての自分というものを、この国において全員が意図すれば獲得できるという環境が生まれたときに、少なくともそれを断念していいほどに近代を通じてまだ努力はされていないと考える。(後略)
「無限に開かれた討議」というのは、根拠とか証拠とかデータを参照せずに、ひたすら思いこみだけでしゃべることも認めなくてはならにゃーようですにゃ
と東を批判します。この批判は全く妥当だと私も思います。少なくとも、知識人という立場にあるものが、知や学問に対してこのように不誠実であってはならない。大塚はこの対談では一貫してそういう立場から、東への激しい苛立ちを隠さずぶつけ続けていきます。
しかし一方で、おそらく東はそんな批判は織り込み済みなのだろうとも思います。たとえば、上記のような批判に対しては、それでは「ひたすら思い込みでしゃべる」人間を公共圏から駆逐していいのか、それが「公共圏」なのか?という反論も可能でしょう。そこまで下品な反論でなくとも、フレイザーは「複数のマイノリティによる多元的公共圏」は、それらの中には決して上品でないものも含まれうるが、しかしそれでも単一の公共圏よりはいいのだ、ということを「公共圏の再考:既存の民主主義の批判のために」で書いていたように記憶しています。
(もちろんフレイザーは、歴史修正主義公共圏?を容認はしないでしょうけれど)
さらに言うならば、インターネットの時代において、「ひたすら思い込みでしゃべる」人間を駆逐することがそもそも可能なのか、また、彼らが公共圏の議論に参加可能なレベルの「知の技法」を身につけることが可能なのか?という問いもあるでしょう。そして、東はその可能性に完全に絶望しています。ゆえに、
(同、p.189)
公民的な自覚をもたない人をどれだけ抱えられるか、そちらから社会設計を考えるしかない。これがぼくの前提です。
(同、p.231)
市民であり公民であることが正しい人間であり、それを育てていくことでしか社会は変えられないという理念に対して、ぼくは違和感がある。ぼくの関心は、むしろ、全員を市民や公民に育てあげることなど不可能だという諦めのうえで、でもそれでもいい社会をつくるにはどうするか、というところにある。
と語ります。
つまるところ、東が歴史修正主義を「容認」するとすればその限りにおいてであって、歴史修正主義者がどれほどネットの中で暴れ回ろうとも、結果として歴史修正が実現しないような社会であればそれでいいし、それよりない、と言っているように私は読みます。その結果として歴史修正主義を容認したように見えたとしても、それはそうした態度の反射的効果にすぎない、とは言いうるかもしれない。
とするならば、デリダが歴史修正主義を支持もしくは黙認した言葉が彼の著書にあるか、と聞くよりは、デリダの思想が、公共圏に対する東の絶望に結び付くのか否かを問うた方が生産的であるように思います。おそらく東本人も、デリダが歴史修正主義についてどう語ったかは問題ではないと語るでしょう。もちろんそこは、十分に問題ではあるのですが、そこで水掛け論を行っても仕方がない。
大塚―東対談における大塚は、激しい苛立ちと同時に、東から一生懸命言葉を引き出そうと我慢を重ねています。もちろん大塚の我慢を我々が共有する必要は微塵もありませんが、しかし東の公共性に対する批判を行うとき、どれだけ絶望しようと対話の中から公共性を見出していこうとする大塚の態度に私は共感を覚えるし、それに倣うべきだという態度を取りたいという志向は否めません。
> 卵と鶏のどちらが先かを問う文脈で進化論スルーしてスーパーの商品分類を持ち出すのは詭弁じゃなかろうか。
スーパーの商品分類を持ち出したのは、一般的な名称としてわかりやすいだろうからってことさ。
一般的には鶏が産んだ卵を鶏の卵と呼び、鶏が生まれてくるであろう卵は鶏の卵とは呼ばない。
鶏が生まれてくるであろう卵を鶏の卵と呼んでしまったら、産まれてくるまでそれが何の卵なのかわからないじゃないか。
じゃあ卵であるとき、それをなんと呼べばいい?
生まれてきたあとなら卵はなくなるから、卵の呼び名がなくても困らないのに、鶏が生まれてから鶏の卵だったって言うのかい?
鶏が生まれてくるであろう卵を鶏の卵と呼んでしまったら不便が生じるのだよ。
だから鶏が産んだ卵を鶏の卵と呼ぶのは合理的だって話さ。
近年にわかに、非常に注目を浴びている研究がある。それはクローンである。この研究が近年になって注目を浴びた原因が存在する。一九九七年二月二七日に「ネイチャー」誌が掲載した「核移植」という技術により作製されたクローン羊によって、多くの議題があがったのである。この研究によってさまざまな問題点が指摘され、そして多くの批判なども挙がり、現在では討論なども世界各国で行われている。本稿では、まずクローン、核移植とは何かを提唱し、その研究によりどのような利点、問題点が存在するのかという点について述べてみたい。
まずはクローンという言葉の意味について検証してみたい。今井(1997)によると、細胞を大概で培養し、それらがある特殊な性質を獲得した場合、たとえば遺伝子組換を行っている場合、それらはクローンと呼ばれる。さらに広辞苑によると「遺伝子組成が完全に等しい細胞または生物の集団。一個の細胞または生物を共通の祖先として、それから無姓生殖的に、かつ突然変異なしに増殖することによって生ずる。」いわゆる同じ物のコピーのようなものなのである。すなわち、今存在する人物のクローンも作ることの可能性はあると考えられているのである。一九九七年に発表されたクローン羊もこの無性生殖的に誕生した生物なのである。クローン羊は一九九六年夏に政府特殊法人のロスリン研究所のイアン・ウィルムット博士とキース・キャンベル博士によって無性生殖的に作り出された生物である。このクローン羊が誕生して7ヶ月たった後にウィルムット博士とキャンベル博士によって発表された。
このクローン羊は「ドリー」と呼ばれた。この研究に使われた方法が、核移植であった。熊谷(1997)によると核を提供する細胞は、六才の雌羊の乳腺細胞、羊の胎児から取った繊維芽細胞、受精9日後に当たる羊の胚からとったED細胞の三種類をクローン羊の作成に使われたと述べている。核移植とは精子の代わりに他の細胞の核を卵子に移植したのである。熊谷(1997)によると、ドリーの以前の方法では人間のクローンを作成できはしなかったが、ドリーの方法では細胞さえあれば、クローン人間が生まれる可能性はあると述べている。以前の方法だと一卵性双生児とにたようなもにしかならなかったが、新しい方法を使用すればほぼ同じようなコピーを作り出すことができると考えられている。
クローン人間が与える利益は多様にある。不妊症対策がそのひとつである。軽部(1997)は、男性に精子がない場合、クローン技術によって子供を作ることができると述べている。もちろんみずからのクローンを作ることですらできると考えられる。映画、「ジュラシックパーク」のなかで行われていた、恐竜を作り出すことも可能であると思われる。すなわち、すでに絶滅している生物を作成することもできるのではないのだろうか。今井(1997)は、クローン羊の報道があった後、一部の人々がヒトラーなどの危険な人物がよみがえるのではないかという不満があったと述べている。しかも非常に屈強な兵士を何人も同じような兵士を作り出すこともできるのではないだろうか。
クローンが作られる過程のなかで、問題が指摘されている。それは無性生殖的に増殖するということである。すなわち、性行為がこの過程の中で行われないのである。自然界の法則の中にも提唱されているように、雌雄間の性行為がない限り、子孫は残せないという理論がある。特に人間のクローンを作成すると、さまざまな理論を覆してしまう恐れがあり、多くの議論が出されることになる。
一つは宗教の理論を全面的に否定することである。宗教の考え方の中には、人間は神から生命を授かった生物であるという理論がある。そして同じ生物が二人存在しかねない時代もまじかに迫ってきている。その生物は人間の手で作り出されたものであり、宗教家から考えれば、それは禁断の科学ではないのかという議題があがるのは、明らかである。だが実際にこのような議題は時代とともに承認されている。たとえばダーウィンの進化論なども否定され続けられていたが、近日ローマの法王が進化論の一部を認めたことは記憶に新しい。一九九八年一月には人間へのクローン技術応用禁止令が欧州19カ国で調印された。この調印もクローン研究は神への冒涜とおもわれているゆえに発展した調印ではないかと考えられる。軽部氏(1998)によると、人間が神の変わりになってはいけないかという考えがある。
クローン人間が大部分の人口を占めたとき、非常な危険な状態になると考えられている。軽部(1998)によると、人間の遺伝的多様性が減少し、主としてヒトの長期的存在にかかわる問題となると述べている。すなわち、強力な伝染病などが流行すると、すべての人口がまとめて死滅しかねないのである。太古の時代から生物は少しずつ進化しており、このクローン人間の出現により進化が止まってしまうと考えられるのである。
前述でも述べたように、クローンは無性生殖的に行われるものである。結婚という概念すら必要なくなってしまうのである。さらに、筆者は性別という概念すらもなくなってしまうのではないかという問題が考えられた。女性は子供を産むために必要であるが、男性は不要になってしまうのではないだろうか。男性がいなくなるということではないが、彼らが不必要となったとき、少しずつ減少していく可能性も否定できない。
最相(1998)によると、「クローン人間が生まれてきた場合その子供は差別を受ける可能性が非常に高い、と述べている。子供とは親との家族関係、すなわち子供と親というものによって確立されるものである。これは特に女性のみで、クローンが作られた場合による。」養子などは子供の権利が象徴されるがクローンの場合親の権利によって生み出される可能性がある。子供の権利は完全に無視した状態になり兼ねないのである。
だが、実際に内面まで類似しているクローンを作り出せるとは考えにくい。その一つの原因は、人間の性格は生まれたときに決まっているのではなく、育つその過程によって性格が変わっていくものなのである。重要なことは、外見、そして根本的なものの類似しているものは作成できるだろう。筆者としては、実際に完全に一致したクローンを作り出すことは難しいと思われる。それゆえに前述でも述べた新しい第二のヒットラーが産まれかねない可能性はないと考えられる。元の人間とまったく同じような人生を歩まない限り、酷似するとは考えられない。
最後にクローン問題が世界各国に与えた影響を述べたい。軽部(1997)によるとアメリカではヒトクローン研究の一時的停止を議会に提出したと述べている。だが実際はいまだ審議中であり規制が実施されるのはまだ先と考えられている。他の国でも、いまだ完全な規制は敷かれてはいない。特にクローン技術を悪用する国家が現われることが無いよう監視をするべきではある。
クローン人間問題に対する議題は特に本稿でも述べた宗教関連によるものである。そして、クローンを研究している科学者はさまざまな批判によって研究が進められていない。実際にはクローン技術によって利益もあるが不利益も存在する。だがこの研究は今までの人間の理論を完全に覆すことのできる研究の一つである。人間はさまざまなものを今まで開発してきた。原子力なども以前は革命的と考えられてきたテクノロジーも第二次世界大戦では殺戮兵器としてつかわれてしまった。どのように新しい技術を使っていくのかという点を考慮しない限りクローンも原子力のような過ちを繰り返しかねないと思われる。