はてなキーワード: 進化論とは
東方愛好者が集まるとあるコミュニティで、下品な話で盛り上がっている中、調子に乗って「霊夢さんに股間の異変解決をしてほしい」という末期的なギャグを放ってしまった。
投稿直後にふと我にかえった。いい歳こいて股間の異変解決。どこの高校生なのかと我ながら情けなくなった。
「課長 島耕作」の連載が始まった当初、主人公の役職は係長だったと思う。年齢は今の俺と同じぐらいだろう。結婚して子供も授かって、自宅も構えて、総合職として日本中を飛び回る30代がそこに居た。
男なら誰しもがいずれはそういうコースを歩むと思っていた時期があっただけに、未だに「股間の異変解決」と平然と言い放つ今の自分のことが、なんだか男として失格なんじゃないかと思えてきた。
OL進化論のメガネの人みたいな日常が理想的なのだが。彼の場合はたとえ酔狂で「股間の異変解決」と言い放ったとしても、それを咎めてくれる仲間が居る。俺にはそれがない。
俺は40代になってもこんな調子なのだろうか。
グールド自身による(自己の言説の歪曲された利用への)反論(訳は大意)
[T]ransitions are often found in the fossil record. Preserved transitions are not common -- and should not be, according to our understanding of evolution (see next section) but they are not entirely wanting, as creationists often claim. [He then discusses two examples: therapsid intermediaries between reptiles and mammals, and the half-dozen human species - found as of 1981 - that appear in an unbroken temporal sequence of progressively more modern features.]
移行形態の化石記録はしばしば発見されています。保存された移行形態は一般的ではありませんが、そしてそれは私たちの断続平行説が正しいのであればそうあるべきですが、まったく欠如している、そう創造論者は主張していますが、そういうわけではありません。
Faced with these facts of evolution and the philosophical bankruptcy of their own position, creationists rely upon distortion and innuendo to buttress their rhetorical claim. If I sound sharp or bitter, indeed I am -- for I have become a major target of these practices.
こういった進化の事実と彼ら自身の哲学的立場の破綻に直面して、創造論者は彼らの修辞的な主張を強化するために、歪曲と暗示に頼っています。もし私が辛辣に見えるのならば、実際その通りなのですが、それは私が彼らの実践の主要なターゲットとなっているからです。
I count myself among the evolutionists who argue for a jerky, or episodic, rather than a smoothly gradual, pace of change. In 1972 my colleague Niles Eldredge and I developed the theory of punctuated equilibrium. We argued that two outstanding facts of the fossil record -- geologically "sudden" origin of new species and failure to change thereafter (stasis) -- reflect the predictions of evolutionary theory, not the imperfections of the fossil record. In most theories, small isolated populations are the source of new species, and the process of speciation takes thousands or tens of thousands of years. This amount of time, so long when measured against our lives, is a geological microsecond . . .
私は自分を徐々に漸進的に変化が起きるというよりも、気まぐれで断続的に起きると考える進化論者のひとりであると考えています。
Since we proposed punctuated equilibria to explain trends, it is infuriating to be quoted again and again by creationists -- whether through design or stupidity, I do not know -- as admitting that the fossil record includes no transitional forms. Transitional forms are generally lacking at the species level, but they are abundant between larger groups.
(変化に)波があることを説明するために私たちが断続的平衡を主張して以来、何度も何度も創造論者によってデザインやなにやらを通じて、私が化石記録は移行形態を含まないと認めていると引用されたのは、はらわたの煮えくりかえる思いです。移行形態は一般的に種の水準では欠如していますが、それより大きいグループの間では豊富に存在するのです。
http://blog.goo.ne.jp/premier310/e/1fcfef25834d5f80331f42bfcc6b1c4c
The extreme rarity of transitional forms in the fossil record persists as the trade secret of paleontology. The evolutionary trees that adorn our textbooks have data only at the tips and nodes of their branches; the rest is inference, however reasonable, not the evidence of fossils. Yet Darwin was so wedded to gradualism that he wagered his entire theory on a denial of this literal record.
過渡的形態が化石記録には非常にまれであることは古生物学の「業界の秘密」であり続けてきた。教科書を飾る進化の系統樹には先端と分岐の結節点しかデータがない。どれほどそれが合理的なものであろうと、(過渡的形態の存在は)推論であって、化石の証拠によるものではない。それでもダーウィンは、彼の全理論をこの直接的な記録(過渡的形態の証拠の欠如)を否定することに賭けるほど、熱心に漸進主義を主張した。<()内は私の挿入>
原文はこれか。あと、訳はあんまり自信ないので大意、ということで。
ソースはここ。ちゃんと創造論批判の英語のサイトが検証してるみたいだな。
http://www.talkorigins.org/faqs/quotes/mine/part3.html
Quote #3.2のとこね。ざっと斜め読みしたところでは、グールドの断続平行説のからみで、中間形態がすべて存在するというところに疑問を投げているところで、進化論とか、化石の証拠能力に文句をつけているところではない、というところか。くわしいところは誰か訳して。
ちなみに、創造論者によって過渡的形態の欠如は進化論への反証として持ち出されるが、グールドの立場では、種が分化するときは漸進的にではなく急激に変化する、つまり過渡的形態が欠けることがある、ということだから、勿論、進化論とは何の矛盾もしない。くわしいことは断続平行説でぐぐれ。
ついでに、ここにも同じ発言への言及があるな。
http://www.allaboutthejourney.org/japanese/fossil-record.htm
IDの大御所の人の訳を見つけた。
化石記録における移行形態が極度にまれである事実は、古生物学の企業秘密(trade secret)になっている。我々の教科書を飾っている進化の樹(系統樹)は、その枝の先端と節においてのみデータが存在する。残りは、いかにもっともらしくても、推測であって化石の証拠によるものではない。
別に学術書まであたったりしたことがあるわけではないんだけど、
おそらくはダーウィンの進化論て現在も大きく否定はされてないと思うんだけど、
なにか納得できない。
たとえば、キリンの首が長くなったのは他の動物は食べられない樹上の葉を食べるため、
と当たり前のように説明されてるけど、なんかおかしくないか?
職業や普段の生活が体に影響を及ぼすのは、実際に見てるから納得できる。
ピアニストの指は普通の人より長めであるとか、大工さんの指は太いとか。
でもこういうことは一代限りの変化であって、遺伝するような性質ではない。
次の世代は、また初めからより高いところにある葉を食べるために首を伸ばさなくてはならない。
自然淘汰は樹上の葉を食べることが出来たものだけが生き残っていくことが出来た為、
より首の長いもの同士での交配により、
種そのものが首の長い性質を持つことになったというように説明されていると思う。
一見理に叶っているように思えるが、
これだけ多くの生物が、この方法でこれだけ異なる性質を獲得することは可能なのか。
地球には大変多くの種類の生物がそれぞれ全く異なる特徴を持って生きている。
食物連鎖という単純なようでいて複雑なしくみも、
出来上がったものをみれば自然のなせる業と納得できるかもしれないが、私はそうは思わない。
いきなりオカルトめいてしまうけれど、
やっぱりこの世界の成り立ちにはなんらかの意志が介在したと思う。
アミノ酸のある海に雷が落ちて生命が生まれたという説があったと思うが、
これに異をとなえる説もあったように思う。
うろ覚えであるが、ただアミノ酸がただよっている海に雷が落ちても、
すでにいろいろな人が注目しているけれど、世界各地に広がる、世界の成り立ちを描く創世神話。
それらはなぜか多くの共通項を持ち、かつて地球全体が同様の思想を共有していたかのようだ。
そうであったかもしれないことを、多くの人たちが感じている。
オカルトは好きだけど、それなりに眉につばつけて見てしまってもいる。
でも、あらゆるトンデモ話の中に、きっと真実は含まれていると思う。
しばらく忘れていたけれど、子供の頃は世界は仕組まれ、プログラムされたものだと普通に信じていた。
こんなに複雑な世界のしくみが、なんの意図もなくできるわけがないと思っていた。
いわゆる中二病だったのかもしれないけれど、
それを口に出して理解を得ることが出来ないのは子供ながらにわかり、同意を求めたことはない。
今思うと、どこからそんな思想を吹き込まれたのかそれこそふしぎだ。
エロは人のやる気を引き出します。
けっこう僕はなじみの女友達がいれば
乳はクリクリモミモミ揉みしだきます。
「え~、そんなことないよ~」とか言ってます。
バカでしょう。
「そんなことあるかいや」
とバシッといえ。
で、「あるよね~」と男同士で言い合ったりするな。
ないんだよ。
「それってまずくない?」と言うな。僕は間違ったことしてないけど
キミは間違ったことしてるよね。でも危害を僕には及ぼさないでね。
といいたいのか?
嘘くさいんだよ。いい子だから視界から消えろ。
東京人は、自分に危害が及びそうになるとすぐにうそ臭い予防線を
貼って逃げようとする。
逃げるな、東京人。お前らはキショいんだよ。自覚しろ!
アルバイトの店員ども!
腹に力入れてからしゃべれ!
逆に「ああ?なんて?もう1回言ってもらえる?」
「はい?、じゃなくてもう1回言ってくれ」
と俺はいつも言ってるぞ。ちゃんと言え。
「~よろしいですね?」
と言うな。
「いいから言ったんだから、間違えて理解したらいけないので
確認させてください」とちゃんと言え!
ダラダラするな、アルバイト。
俺は厳しい、だから店での注文は大声でする。
一度は近くの子どもが泣き出したことがある。
注文とは戦いなのだよ、坊主。
そんなこたぁどうでもいいんだ。
たまんねえ、むしゃぶりついてやるぜ。
むふうむふう。
女どもも所詮は自分のボディが気持ちよくなりたい生き物なのだよ。
ああ、街あるいていてもむしゃぶりつきてえ女どもが
たくさんいるぜ。きどってんじゃねえ。メス豚どもがああああああああああああ。
はやく進化したいものです。
僕がどうすれば東京でセフレができるかどこに遊びにいけばいいのか
それが知りたい。
それでは。
個としての強者というのは、数が少ないために、数の暴力という見方では弱者。
個としての弱者はというのは、数が多いために、数の暴力という見方では強者。
なので、世界は個としての強者が上位に来るようにはなるけれども、暴動・革命を恐れて弱者への迫害は数千年単位では少なくなってきている。
見方を変えれば、弱者を守らない世界と、弱者を守る世界では、後者の方が長い目で見れば成長しやすい。よって、競争の原理・進化論の原理に基づいて
『弱者を守らない世界』は『弱者を守る世界』に比べて弱者であるので、『弱者を守らない』という原理によって弱者である『弱者を守らない世界』は滅びる。
ヨーロッパの香りを漂わす裕福な家庭に生まれ、父は劇作家であり博報堂の取締役、母は映画女優という、生まれながらにして「ハイソ」な環境が周りにあった。
当然、御学友たちも文化的香り満載の本物のセレブが多かったに違いない。
小さい頃から本物を見続けてきた望夫は、それらに比べて自分の力がいかに劣っているのかを思い知らされてきただろう。
おそらく、例えば自分で文学的な文章を書いてみたこともあるだろう。
しかし、出来上がってみたものは今まで見てきた本物と比べていかにちっぽけなものだろうか。
下手にそう判断できるだけの客観性と教養があったがために、しだいにどんどん身動きがとれなくなっていった。
文学者の息子が理系に進むのは、偉大な父と同じフィールドに進むことから逃げるためだろう。
違う場所なら自分も人並みになれるのではないかと期待を持って。
他人の能力のすごさを嫉妬せずに理解できる、できるからこそ、同じ舞台にあがろうとしない、畏縮して上がれなくなってしまう。
無能の自分ができること、それは埋もれた天才を世に広めることだけ。
指したところで一流の棋士には、どうあがいたって彼らにはかなわないから、最初から指さない。
自分は優れた人間で無いことを自覚してるから、自意識を守るために勝負しない。
一流と戦って、負けることでも成長して、いつかは彼らの高みに近づこうという気力が無い。
一流のそばにいて、彼らは一流ですとアピールしてれば、彼らと勝負する事がないから、負ける事がない。
不良に「アツシさん、マジハンパねぇっす」といっている線の細いヤンキーのメンタリティー。
彼の不幸は、本が売れ、自分も勝負を挑まれる立場になってしまったこと。
「それなら、自分でなんとかしてみろよ」という批判に答えるためには、自分で何かをしないといけないが、自分で何かを作り出す事から逃げてきた人生。
やればできるかもしれないこともやらない、やっても一流の人にはかなわない。
「はてなブックマークはバカばっかだ」取締役という立場を離れないと言えない
逃げて逃げて逃げて。
200X年X月、将棋ファンのMさんが著した「将棋進化論」は、将棋の可能性をポジティブに語り、国内の「将棋 2.0」ブームに火を付けた。
だがここ最近は、将棋について語ることは少なく、昨年11月には終盤まで優勢に進めた将棋を二歩で反則負けするという“読み抜け”も起きた。
指さない将棋ファンであるという立場を離れて言う。将棋ファンには、バカなものが本当に多すぎる。棋士を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている将棋を指さずに、指し手の批判や自分の読み筋を披露できるのだろう。そこがまったく理解不明だ。
一方、今年5月には、最新刊「千駄ヶ谷二丁目からチェスを観る」を出版。その名の通り、チェス観戦の魅力を語った本で、帯にはこうある。
「わたしが本当に書きたかったのはこの本でした」
同書で彼は、“指さないチェスファン”としてチェスを語り、第一線のGMの努力と天才性を「千駄ヶ谷二丁目の棋士と通じる」と賞賛。リアルタイム観戦記を自ら執筆し、チェスを将棋という日本文化を広げる媒体として位置付ける。
3年前、将棋を賞賛し、将棋の可能性を力強く語ったMさんが今、将棋について語ることを休み、一流のGMたちに魅了されている。
Mさんは日本の将棋に絶望し、チェスに“乗り換え”てしまったのだろうか――記者は新刊からそんな印象を受け、Mさんに疑問をぶつけた。
最近Mさんは、日本の将棋についてあまり語っていらっしゃいません。新刊を読んでいると、「日本の将棋はチェスのようにはなれないから、今度は世界のチェスに期待する」と思われているような印象を受けました。
今の将棋について、意図することがあるから語ってないわけではありません。
とはいうものの残念に思っていることはあって。英語圏のチェスと日本語圏の将棋がずいぶん違う物になっちゃったなと。
仮に今の将棋がネガティブなものになったとしても、それを分析しようというモティベーションがそもそもないんですよ。
(http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0906/01/news045.html 続かない、カッとなって書いた反省している、ゴメン)
関係ないけどあのウイルス進化論の中原って人はテレビの中で「よくわかんないけど医者にきいとけばいいか」的話題のコメンテーターとしてしょっちゅう出てきますな。テレビ出るのが好きなんだろうなあと思う。
いろんな説があるといっても遺伝的に変化するという部分は共通してるわけで進化論を丸ごと反証したいならそれを反証するしかない。たとえば自然選択を反証しても中立説の反証にはならないわけで、この場合進化を起こした要因について変わるだけで進化自体は否定されない。
進化論を反証したいなら、生物の化石は全部今の生物と遺伝的な関係がないものばかりで今の生物は将来も遺伝的に変化しないという証明をしないと。
これが反証不可能ってことなんじゃないの
進化論、進化論っていうけど、どの進化論の話よ。それを考えずに漠然と書き散らしているから「反証可能なのか」なんてこと思いついちゃうんじゃない?
反証可能性はその通りだけれども、進化論に限らず、理論と呼ばれるものは、常に条件付の言明であって、if A then Bの形でかける。進化生物学の教科書みれば、進化論(自然選択説)で何がAにあたり(具体的には、形質の変異、適応度の違い、遺伝の3条件)、何がBにあたるか(進化が起こる)かは分かるはず。全ての理論と同様に、Aが起こっているときBにならないことを示せば、進化論は反証可能だ。
進化論は理由を外に求める、っていうけど、何の理由?キリンの首の例では、現在見られる首が長くなっていること(パタン)を説明するために進化論が有力な仮説となるという話なんでないの?その場合にAが起こっている証拠をつかまずして進化論の証明にはならないわけだが、Aを起こす要因(首が長くなるほうが沢山の子孫を残せるようにさせる要因)がたくさん考えられるので、それらの要因を、進化論の外に求めているだけでは(首が長いほうが、他の草食動物との資源をめぐる競争に強くなるとかいろいろあるよね)?だから、進化論のif A then Bのフレームワークは維持されたままなので、進化論自体はその正当性を支える理屈を外に求めることはない。たぶん、言葉の定義に問題があるのでは?
http://anond.hatelabo.jp/20090326205141
彼は科学と疑似科学の境界を「反証可能性」に求めた。ある理論が科学であると認められるためには、それが「反証可能」でなければならない、すなわち、
2:かつそれを現実世界の経験と照らし合わせて検証することができなければならない。
ポパーは疑似科学の例としてフロイトの精神分析論を好んで取り上げた。例えば、ある男が子供を川に殺意を持って突き落とそうとしており、もう一人の男はその身に代えても子供を助けようとしているとする。フロイト論者は、この二人の行動を、同じくらい簡単に説明することができる。一人は抑圧されており、もう一人は昇華を遂げたのだ、と。フロイト論者は、どんな行動に対しても、それに対する説明を編み出すことができるわけだ。ポパーはこれはおかしいのではないかと考えた。何でも説明できてしまう理論は、むしろ理論と呼ぶに値しないのではないかと。
気象理論もこれに似たところがある。どんな天気でも、その原因は気圧変動で説明できるとされる。昨日雨が降ったのは、日射により大気が膨張し、上昇気流が起きたからだ、という。気象理論はどんな天気に対しても、理由を探し出して気象理論的な説明を編み出すことができる。
フロイトの理論と気象理論が違うのは、気象理論は理由を気象理論の外に求める点だ。気象理論は自己完結した理論ではない。「日射により大気が膨張し、上昇気流が起きるから」であるという主張は、気象理論それ自体からは導き出せない。その主張を入れ替えれば、気象理論はどんな天気にも適用することができる(もちろん主張それ自体がある程度の説得力を持っている必要はあるだろうけれど)。
気象理論は反証可能性を持つのだろうか?そもそも自己完結していない気象理論を科学理論と呼んでよいのだろうか?それとも単に僕の中での言葉の定義がおかしいのだろうか?
メカニズムについての理論と、個々の事象への対応を混乱するとこうなるのかな。天気予報が外れたからといって、気象理論のモデルが否定されるわけではないというところを、もうちょっと考えてみたらいいかもね。
http://members.jcom.home.ne.jp/natrom/index.html
A.例えば先カンブリア紀の地層から大量の石器が発見されれば進化論に対する強力な反証になります。進化論が科学ではないと思いたいために「進化論は反証不可能である」と主張する創造論者もいますが、原理的に反証不可能であることと、反証の証拠が見つからないことを混同すべきではありません。進化論は原理的に反証可能ですが、現在のところ反証されていません。[2000.4.11]
ここで使われた仮定が間違っている、あるいは論理の飛躍があり、必ずしもその通りにならないなら、進化論は間違っている、あるいは普遍的なものではないと言えよう。
予測と違っていても修正できる、という話がでるだろうけれど、それを言い出すと、進化論は先に書いたフロイトの理論(anond:20090326205141)とどの点で違うと言えるんだろう?