はてなキーワード: オブジェとは
自分はあまり人の嫌なところに気づかず、みんなが嫌っていても「はあ?どこが嫌なの?」とか思うけれど、結局みんなの方が正しかった、と思い直したりする。残念だけれど。ワンクール遅れて自分もその人の受け入れられない部分に気付き、最終的には、自分もその人を嫌だと思ってしまう。
他人のいい部分しか見えない人間ではない。単に、他人の嫌な部分に気付きにくい人間ってだけなのだ。最後には気付く。そして気づいた時に自分が取る態度は、相手にとって裏切りに映るだろう。「やっぱりあの人もあっち側についたのね」と。「ついた」わけではないが、態度を変えた理由をいちいち説明したりは出来ないし、することもない。
最初から嫌だったらよかったのか。それとも、最後まで嫌な部分に気付かなければ良かったのか。どうでもいいことなのか。嫌な部分なんていっても、誰にでもあるはずなのに、何で彼女のだけ気になるんだろう。しかもみんなも気になってるんだろう。
「やっぱりみんなの言う通り、この人ちょっと違うかも……。」と思ってしまう瞬間の自己嫌悪が、変な形で自分の中にたまっていって、気持ちの悪いオブジェみたいなのに育っている。
地元の町BBSに書こうかと思ったんだけど、身バレしたら怖いんで、増田に書いてみる。
うちの近所-近所と言っても数百メートルくらい離れているんだが-の民家の二階のベランダに頭蓋骨らしきものを発見した。
発見したのは偶然で、その道は散歩の帰り道に迷い込んだ初めて通る道だったんだけど、正確な位置は今でもはっきり覚えてはいる。
古びた民家の二階のベランダに、頭蓋骨とおぼわしき丸い物体が何十という数で積み上げられていた。
ぱっと見た目は頭蓋骨だったんだけど、数が尋常じゃないのと、皮膚や毛髪等の残存が無く物凄く綺麗なアイボリーだった事や積まれている割には下のほうの頭蓋骨も割れていないだとか、形状が妙に均質な感じがしたことや、何よりそんなブツが積まれているのを近所の人が知らないとも思えないというのもあってオブジェか人体模型を野ざらしにしているのかな、と思った。てかそうであって欲しい。
個人的には写真撮影して「ちょwwww頭蓋骨の山発見www」とか書いてブログに書いてしまおうかとも思ったんだけど、万が一にも事件性があったらヤだし、ブログに掲載した事で自分の身が危険に晒されるのはもっとヤだよね、とかいろいろ考えてしまったという
こういうちょっとしたセンセーショナルっぽい話題を写真を交えて掲載するのもいろいろ考えると躊躇するけど増田なら安心して書けるよね、という事が書きたかっただけなので「写真も掲載しないでエントリとな」とか「他人の家の写真を撮影してネタにするだなんてプライバシーの侵害です、ぷんすか」とかいうコメは出来れば勘弁してくだしあw
ネットを見ていると非常に多くの人が現状を嘆き、憂い、悲しんでいる。モテない、就職できない、対人関係に悩んでいる。そういう人たちを見ると、何か力になれる事はないかと必死になって慰めの言葉を探したり、自分の経験から何かアドバイスできることはないかと推敲を重ねて文章を書いたりしていた。そういう人たちをどうにかして救えないものかと考えないではいられなかったのだ。しかし、この考えは間違いではないかという事を最近考えるようになった。
自分を顧みて自分は何ほどのものぞ、という事だ。高々ネット歴数年の自分のような凡人が、長年ネットに滞在する人々にアドバイスするなんて、釈迦に説法だ。もう議論なんて出尽くしている。定石、反論、オブジェクション、全部ご存知なのだ。知っていて、さらに嘆き、憂い、悲しんでおられるように素人目には見えるだけなのだ。
ネットで悩んでいるように見える人々のニーズの深遠など凡夫にわかるべくもないのだ。そのニーズとは、ただ共感して欲しいだけであったり、おっさんにアドバイスなどして欲しくないというものであったり、美少女からのみアドバイス募集中ということであったり、俺にアドバイスして良いのは東大のみということが前提条件であったり、いやむしろ偉そうにアドバイスする人を地球上から殲滅するのが目的であったり、そのニーズたるやわかろうはずも無い。
果たして自分は、全ての人のニーズを理解しているのかしらん、くらいのことは熟慮して、アドバイスすべきかどうかを吟味する必要がある。
いや、大体そういう人たちに対して、『嘆き、憂い、悲しんでいらっしゃると見ること』自体がおこがましいのだ。何らかの憐憫の情を感じている時点で、お前は何様だという事になる。彼らにとってみれば、そういう憐憫の情こそが、すでに押し付けであり、鬱陶しいものなのだ。
例えば、モテないという人を集めて、理想の国家を建設するという方法を考えてみよう。絶世の美女で性格が良い処女のみを集め、モテない人たちに配布するのだ。もちろん国家のために生まれてきた女の子は国で接収し、モテない男に配布するために英才教育を施す。条件に合う女性が少なくなれば諸外国から略奪するしかない。国民の男子がこれはどうみてもモテるだろという男に成長したら国外に追放するしかない。これはモテない男にとっては良い国かもしれないが女性にとっては言語道断の国だ。
仕事が無いという人には、仕事を与えるしかない。これはもう、武装蜂起して不正で私服を肥やす役人を廃し、適切な仕事のみを残し、企業を全て国営化するしかない。能力の無い人に不平が出ないよう、国民に等しく平等に仕事を与えなくてはならない。デスマーチと呼ばれる過酷な労働が無いよう、週休三日くらいにして給料は全員、年間1000万円。現在これ以上の給料をもらっている人から不満も出るだろうが、国民の5%にも満たないので、民主主義の観点からも無視して良い意見だ。ひょっとしたら給料が足りなくなるかもしれない。しょうがないので、国民の財産は全て没収しよう。給料を支払うので問題ないだろう。変に貯蓄するから景気が後退するのだ。これで、国民全てに遍く仕事が行き渡るはずだ。
あれ? これってどこかでみた事があるような。理想を掲げて世界を席巻して崩壊した社会主義とか、資本主義に飲み込まれつつある共産主義とかいうものでは?
もしくは、自由も無く、情報も厳しく制限され、インターネットなどもちろん無く、何かの拍子に一族郎党全て粛清される、村人同士が監視しあい、通報しあい、理想を夢見ながら働けど働けど暮らしが楽にならない、極貧に喘ぐ、小太りでメガネのチリチリパーマのおっさんとその一族だけが栄華を尽くすような社会。
今の日本にクーデターを起こしてそんな社会主義や共産主義や独裁政権を打ち立てて、喜ぶ人がいるのだろうか? 誰が救われるのだろうか?
クーデターは極論としても、全ての人を救うなんて、方法が無いのだ。あるという方がどうにかしてる。アルファブロガーが「全ての人を救うたった一つの冴えたやり方」とか「人類遍くみんなを救う3つの方法」とか、釣り記事を書くくらいが関の山だろう。
むしろ、今の日本は社会主義や共産主義や独裁主義とかそういう世界に生きている人たちが、『三つの願い』を願って、それらを叶えてもらったような世界なのだ。
「字の読めない私に、情報(知識)を下さい。勉強をさせて下さい」
「働いた分だけでいいから、お金を下さい」
「自由を下さい」
今、世界に於いてこれだけの願いが叶っている国がどれだけあるのだろうか。
今の日本は、言わば一巡してきたような世界なのだ。モテない人を救うため、仕事が無い人を救うため、クーデターを起こして理想の社会の建設を目指したが、国がとんでもない方向に行ってしまい、民衆が民衆の力で民衆自身の願いを叶えたような社会なのだ。また一からクーデターから起こすような愚を犯せばいいのか。いや、すでに願いは叶えられているはずなのだ。
昔は賢人と呼ばれる為政者が国を治め、民を大事にしておけばそれで良かった。今は情報が溢れていて、誰もが賢人になれる。賢人になった民にはそれぞれの幸せがある。押し付けの幸せは幸せではない。
ネットの世界で悩んでいるように見える人は、すでに色々な選択をしている。今の日本では情報を得ようと思えば、いくらでも得られる。世界経済の知識の代わりにアイマス、法律の知識の代わりに初音ミク、雇用してくれる会社を探す代わりにエヴァンゲリオン、そういう形で常に情報を選択している。これはもう、すでに救われているのだ。
自由の名の元に、超ハッピーなのだ。つまらない仕事でストレスを溜めるよりも、萌えで脳内麻薬を分泌しまくっている方が数百倍は良い、と自ら選択しているのだ。そういう英断を尊重すべきだ。もうすでに救われている。アドバイスの必要は無い。全てわかっていらっしゃって、しかも選択を終えていらっしゃるのだ。
ネットで悩んでいるように見える人に対して、何かをしてあげようとか、こうすべきとアドバイスするとか、する必要はないし、しなかったからと言って気に病む必要は微塵も無い。
放っておいて良いのだ。
彼らを救う必要は無い。
via アニオタが非オタの彼女にのガイドライン anond:20080721222220
まあ、どのくらいの数の箱○オタがそういう彼女をゲットできるのかは別にして、
「オタではまったくないんだが、しかし自分のオタ趣味を肯定的に黙認してくれて、
その上で全く知らない箱○の世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」
ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、箱○のことを紹介するために
プレイすべき10本を選んでみたいのだけれど。
(要は「脱オタクファッションガイド」の正反対版だな。彼女に箱○を布教するのではなく
相互のコミュニケーションの入口として)
あくまで「入口」なので時間的に過大な負担を伴うMMO・マルチメインは避けたい。
あと、いくら箱○的に基礎といっても古びを感じすぎるものは避けたい。
パズルゲーム好きが「テトリス ザ・グランドマスターエース」は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。
そういう感じ。
彼女の設定は
ゲーム知識はいわゆるファミリー向け・学習系を除けば、マリオドラクエ程度は知っている。
サブカル度も低いが、頭はけっこう良い
という条件で。
まあ、いきなりこれかよとも思うけれど、「ギアーズ・オブ・ウォー以前」を濃縮しきっていて、「ギアーズ・オブ・ウォー以後」を決定づけたという点では
はずせないんだよなあ。COOPも対応してるし。
ただ、ここでFPSオタトーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。
この情報過多な作品について、どれだけさらりと、嫌味にならずに濃すぎず、それでいて必要最小限の情報を彼女に
伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」の試験としてはいいタスクだろうと思う。
アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうなゲーム(そう箱○オタが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの
という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには
一番よさそうな素材なんじゃないのかな。
「箱○オタとしてはこの二つは“レバガチャレベルでも楽しめるゲーム”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。
ある種の哲学オタが持ってるオブジェクティズムへの憧憬と、Ken Levineの演出へのこだわりを
彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにもレトロアメリカな
の二人をはじめとして、オタ好きのする要素をゲーム中にちりばめているのが、紹介してみたい理由。
たぶんこれを見た彼女は「ジョージ・A・ロメロだよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。
この系譜の作品がその後続いていないこと、これがアメリカでは大人気になったこと、
アメリカなら実写映画監督に訴訟を起こされて、それが日本のほうに影響与えてもおかしくはなさそうなのに、
日本国内ではWii版が予定されていること、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。
「やっぱりシューターは2Dだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「式神の城III」
でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この作品にかけるトレジャーの思いが好きだから。
断腸の思いでXBLA容量のために削りに削ってそれでもプロトタイプモード搭載・オプション充実、っていうのが、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、
その「16:10対応」ということへの諦めきれなさがいかにも箱○的だなあと思えてしまうから。
オプションの充実を俺自身は冗長とは思わないし、もう削れないだろうとは思うけれど、一方でこれが
バンナムだったらきっちり糞ラグCOOPにしてしまうだろうとも思う。
なのに、XBOXLiveに常時セッション張ってチート不可の完全な世界ランキングを作ってしまう、というあたり、どうしても
「ワールドワイドでのスコアアタックの魅力を捨てられないオタク」としては、たとえ鷸の回転レーザーがアケと同じ方向でなかったとしても、
親近感を禁じ得ない。作品自体の高評価と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。
今の箱○購買層でロンチタイトルプレイしたことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。
プロストリートよりも前の段階で、NFSシリーズの哲学とかゲームシステムはこの作品で頂点に達していたとも言えて、
こういうクオリティの作品がハード熟成期のみならずロンチでもプレイできたんだよ、というのは、
別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなく箱○好きとしては不思議に誇らしいし、
いわゆる痛車ゲーとしてしか箱○レースゲーを知らない彼女には見せてあげたいなと思う。
Infinity Wardの「FPSとしての完成度」あるいは「マルチの面白さ」をオタとして教えたい、というお節介焼きからやらせる、ということではなくて。
「ムービーばかりの映画ゲーはいらない」的な感覚がゲーオタには共通してあるのかなということを感じていて、
だからこそロストオデッセイはムービーゲー以外ではあり得なかったとも思う。
「ゲームだからこそ表現できることを目指すべき」というゲーオタの感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「ゲームらしさ」の
源はCoDシリーズにあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういう原作フリゲのシューティングをいかにも水口哲也なかたちでXBLAに出して、それが非ゲーオタに受け入れられるか
気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。
9本まではあっさり決まったんだけど10本目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的にアイマスを選んだ。
GoWから始まってアイマスで終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、ニコニコ動画以降の箱○始まったな時代の先駆けと
なった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。
というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10本目はこんなのどうよ、というのがあったら
教えてください。
「駄目だこの増田は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。
こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。
自分はアートとか理解できない。
アートを理解する、ってなんだと思う。それがそんなに高尚なことなんだろうか?
訳のわかんないでかい人形だかオブジェつくって、それが私の言いたい事です。とか言われても。
何にも感じないとき、すごくそれってモノを消費してるよなー、と感じる。
ビニールだかの人形を成型し、多大な絵の具を使い。巨大なモノを作り出し、そして私はクリエイターだという。肥大した自意識を見せ付けられてるような気がする。
自分にとっては、それは大いなる消費にしか見えない。
全てのものが、永遠に取っておくほど価値のあるものになるとは限らない。
そして正直なにも感じられない時点で、それは私の役には立たない。
そんなに消費しなければ自分を表現できないのか、と思う。
最近Perl界隈ではMoose、MooseってなんかMooseってのが流行ってるらしい。
自分自身のブログでは、さもずっと前からMoose知ってたかのように振舞うために、増田で先に放出しておく。てへへ。
プログラマ層が限りなく低い増田にこんなこと書いてもだれも見てくれない気はするけど。
初めてのMoose - Mooseのすすめ - はてな#hide-k
meta object protocol について考えてみる - TokuLog 改めChumbyとどきました日記
YappoLogs: Moose のコードを探索して理解を深めた
Mooseってのは結局のところClass::MOPのラッパーみたいなもんだと。
で、Class::MOPってのは何だ?ってことだけど、メタなんとかプログラミング?え?プロトコル?まーどっちでもいい。
よくよく読んでいくとメタなんとかとか大層な名前が付いてるけど、結局のところPerlのpackageそのものの操作をオブジェクティブ扱えるようにしたものみたいだ。
つまりだな、例えばpackageに対して動的に(静的ではなく!)メソッドを追加したい場合、今までなら
package Foo; **Foo::method = sub { return 'hoge'; }; print Foo->method;
のように型グロブに関数のリファレンスを突っ込むということをしなければなかったが
use Class::MOP; my $class = Class::MOP::Class->create('Foo'); $class->add_method('method',sub { return 'hoge'; }); print Foo->method;
みたいな感じでかっこよく追加できるってわけさ。ま、これはほんの一例だけどな。(他にもメソッドを削除したりフックしたり色々できる。その辺は今回省略。)
本来なら「package Foo」とするところを「my $class = Class::MOP::Class->create('Foo');」と書ける。
これの何が良いのかというと、$classというオブジェクト経由でFooパッケージを色々操作できるところにつきる。
型グロブを使用したり「no (warnings|strict)」をしたりパッケージを操作する処理っていうのはPerlのキチャナイ構文が多かったのだが、Class::MOPのおかげでスッキリ綺麗に書けるようになったってこった。
で、次にMooseだが、これは結局のところClass::MOPのパッケージ管理の部分に+αしただけのラッパーだ。
でもその+αってのが結構凄かったりする。
もうこの辺の話はさんざん既出だが、例えばhasという関数を使ってアクセサや型定義が出来たり
package Foo; use Moose; has 'method' => ( is => 'rw', isa => 'Int' , default => '10' ); my $obj = Foo->new; print $obj->method; # 10 $obj->method(50); print $obj->method; # 50 $obj->method('hoge') # Int型じゃないのでエラー
Moose::Roleを使ってRubyのMixinみたいなことができたりする。
でも実はこれらの処理ってのは本当は別に凄くもなんとも無い。
アクセサ生成なんてClass::Accessorがあるし、関数の引数の型チェックなんてのもParams::Validate等昔から存在してるし、Mixinに関してはもともとPerlは多重継承できるので最初からできるし。
じゃあなんでみんなMoose、Moose言ってるのかっていうと、それはやはりClass::MOPの存在が大きいであろう。
綺麗且つ柔軟にパッケージの操作が出来るClass::MOPが土台にあって、今まで別々の役割として存在してきたモジュール達を統合し、よりわかりやすく、より柔軟に、そしてより強力なPerlのオブジェクト指向を構築できるようにした。それがMooseなのだ。
・・・しかし、小生。
Mooseについて調べていくうちに一つ残念に思ったことがある。
オブジェクトにメソッドを追加する機構がないのだ。
オブジェクトにメソッドを追加する、だ。パッケージにではなく、オブジェクトに、だ。
具体例をあげる。
package Foo; use Moose; my $obj = Foo->new; $obj->meta->add_method('hoge', sub { return 'hoge' }); print $obj->hoge; # hoge
ちなみに$obj->metaというのはFooパッケージを管理するClass::MOPへのアクセサだ。
ということは上記の処理はFooに対してhogeというメソッドを追加していることになる。
では次の例。
package Foo; use Moose; my $obj = Foo->new; $obj->meta->add_method('hoge', sub { return 'hoge' }); print $obj->hoge; # hoge my $obj_2 = Foo->new; print $obj_2->hoge; # hoge
$obj_2->hogeが呼べてしまうわけだ。
$obj->metaは結局のところFooパッケージなのだから、そこにメソッドを追加しているので当然の結果である。
$objだけにメソッドを追加することは、Mooseではできないのだ。
非常に残念である。ああ、残念だ。
・・・しかし、小生。
これでもプログラマの端くれである。こんなことでめげていてはMooserを名乗れないのである。(あ、MooserってのはMoose使いの人の俗称ね。今僕が考えたの)
なのでオブジェクトにメソッドを追加できるように拡張して見せよう。
package Foo; use Moose; use Class::Object; my $class_object = Class::Object->can('new'); override new => sub { ref($class_object->(shift))->SUPER::new(@_) }; my $obj = Foo->new; $obj->meta->add_method('hoge', sub { return 'hoge' }); print $obj->hoge; # hoge my $obj_2 = Foo->new; print $obj_2->hoge; # エラー
たった3行追加するだけで実現できる。さすがMoose。
ただし、Class::Objectを利用しているのでFoo->newで返ってくるパッケージがFoo::0といったようにFooではなくなってしまっているのでrefとかでパッケージ名の比較ができなくなってしまう問題が発生する。
でもこれも継承順をいじったりと本気で頑張れば、表向きに見せるパッケージ名をFooすることも可能だろう。
その添削の役目はどこかのハッカーに任せるとして、今日のところはこの辺で終了としたい。
Moooooooooooooose!と叫ぶのが流行ってるみたいなので、もっとも長くMooooooooooooooose!と叫んだ最初の男となるべく下記の処理を残しておく。
length q chdir uc and print chr ord uc q rmdir and do { print chr ord q xor x while $a++ < 0xffffffff } or print chr ord qw q sin q and print chr ord q ne sin and print chr hex length q q shift shmread bless q;
と、大げさなタイトルをつけて煽ってしまった訳だが。
今は亡きゲーム批評みたいで良い感じだな、と思ったり、どうせ書いても面白い記事だったら、パクられて他人の手柄にされるし、つまんない記事だったら、ボロカスに叩かれると思っている訳で、書くかどうか迷った末に、ええい書いてしまえと書いている今日この頃です。
で、何が言いたいのか先に書いてしまうと、「はてなはひろゆきの影響受けすぎじゃね?」という俺の邪推ね。2chとかニコ動はひろゆき自身も言っている訳です。「時間の無駄です。僕はほとんど追ってません」。んで、真面目なはてなはそれを真に受ける。教科書通りに娯楽性重視の軽くてゆるいサービスを作る。その結果。Rimo失敗。はてなハイク失敗。はてなワールド失敗。もちろん、異論・反論・オブジェクションはあるだろうが、上のサービスを俺は使っていないし、はてブほど成功してないでしょ、実際。という訳で、俺基準で失敗と断罪。おまけに、これだけ失敗が続いたからか、人力検索で新しいサービスも期待されていないことが分かった。従来のサービスの利便性を上げて欲しいという要求が強いことが分かった。めでたしめでたし。
じゃなくて、じゃあ、どういう方向に進めば良いのよ?ということなんだろうが、初心に帰れよ、と言いたい。人力検索を作った理由は、機械検索が不便だからでしょ?つまり、利便性上の理由から作ったわけだ。はてなダイアリーも、当初は手軽にブログを書けるという利便性が重視されていたんじゃないかな?(勘違いだったらスマソ) つまり、もともと、はてなのアプローチって、インターネットの利便性を上げるという方向性であり、2chとは全く間逆からのアプローチだった訳だよ。
だから、Rimoも、はてなハイクも、はてなワールドも初心を忘れて失敗した。これらのサービスはインターネットの利便性を上げるためのサービスではないから。ネットマスコミのインタビューでえらそうなことを言っている割にはこの体たらくであるwwww ただ、はてなスターは良かったね。スターをもらうと、純粋にモチベーションが上がるから。有用な文章を書こうという気持ちが強くなるから。
いや、世の中を有用な文章で満たしたいとか、そういうことではなくて、はてブにあるような「実用性」と「娯楽性」が入り混じった状態が個人的には理想だと思っている。というか、勉強は面白いんだということなんだと思う。そして、それがはてなの進むべきだと思っている。もちろん、例えば、ライフハックの「実用性」を疑う人はいるし、別に馬鹿にしてもかまわないと思うが、ライフハックの記事にブックマークする人は相変わらず多いし、夏目漱石の言葉を借りるなら、「向上心のないやつは馬鹿だ」ということなんだと思う(例え、向上するための方法の間違いに気づいていなくても)。問題は、試してみて、使える物は使うし、使えないものは捨てる現実主義であって、使えるなら宗教でも使えば良いと俺は思うんだが、まぁその辺は個人の考えが色々あるだろう。
で、話を元に戻すと、相変わらず、インターネットは危険な場所は多いし、相変わらず、情報が多すぎて、自分に有用な情報を見つけるのがめんどくさい。インターネットの利便性はもう向上できない?新サービスは必要ない?本当に?本当に?
当然、叩かれるかも知れないが、せいぜいこの文章がたたき台になれば良いと思う。反応がないならないで良いけどさ。
ある芸術家が餓死寸前のイヌを展示して「イヌの餓死」という芸術を発表した。やせ細ったそのイヌは、薄暗い部屋に置かれた太い鉄格子の折の中で、もちろん餌も与えられずただ放置されていた。イヌはときおり頭をもたげては、虚空を虚ろな目で見上げたりもしていたが、体を起こすだけの力もないらしく、またぐったりと横になってしまうのだった。
芸術家は、これはまだ最初の布石に過ぎず、私が表現しようとする芸術の準備段階だと宣言した。「イヌの餓死」だけでも非人道的なのに、それが準備段階に過ぎないと宣言したことで、様々な人から非難が集中した。ネットでは芸術家のブログは炎上し、自宅には反対するグループが押し寄せ、それらをマスコミが取り上げ更に盛り上がり、収拾がつかない程に社会問題化した。
しかしそれだけの騒ぎになっても、芸術家は展示を取りやめ様とはせず、コメントも発表しなかった。その間も、イヌは餓死することなく、あいかわらず衆人の目の中で生き長らえていた。
芸術家が沈黙する中で、憶測と中傷だけが勢いを増していった。そんな折に、事態が一転した。とある過激な動物保護団体の者たちが、高い塀で囲まれた芸術家の家に、自家製の火炎瓶を投げ込んで放火したのだ。古い木造の家はあっという間に燃え上がり、家で寝ていた芸術家は逃げる間もなく焼け死んでしまった。
芸術家の死により、「イヌの餓死」の展示は中止となり、死にかけていた檻の中のイヌは無事に保護された・・・かと思われた。しかしイヌを助けようとした人々は、その折を開けてみて驚いた。そこにいたのはイヌではなかった。精巧に作られたイヌのオブジェだったのだ。簡単な機械仕掛けで、ときおり首を持ち上げるような動きをする。たったそれだけのものだった。
そこへ美術館の館長がやってきた。これだけの騒ぎになりながらも「イヌの餓死」の展示を取りやめず、芸術家と共に非難を浴びていた人物だ。その館長が、持って来た封筒から手紙を取り出して皆の方へ見せた。それは死んだ芸術家の手記だった。手記にはこう書かれていた。
「この展示には3つの目的があります。1つ目は、私が作ったイヌのオブジェがどれだけ人に『本物のイヌ』として見えるかを確かめること。作品を見た人に本物だと思ってもらえること。これこそが今の私にとって、芸術家としての望みです。2つ目は、動物に対する愛情を再確認して欲しいといこと。このみすぼらしいイヌを見て、人々はかわいそう、と思ってくれるでしょう。そして動物への虐待や安易なペット化を再考してくれることを願います。3つ目は、人の強さを確かめること。もしこのイヌを本物だと思ってくれる人がいるなら、きっとこのイヌを檻から解放してくれることでしょう。そういう強い人間が出てきてくれることを私は期待します」
そして手記の最後にこう書かれていた。
「私と共にある32匹のイヌのために」
毎日呼吸をするように、自然に絵を描いたら上達するだろうか。
常に難しいこと、新しい技術やモチーフに挑戦し、切磋琢磨しなければ上達しないだろうか。
へのへのもへじばかり描いても、突然にインドゾウが描けるようになるわけではないし。
だけど、目の前のノートにへのへのもへじを描くことならできる。
毎日呼吸をするように、自然にインドゾウを描いたら上達するだろうか。
常に複雑な図形、オブジェや風景などに挑戦し、切磋琢磨しなければ上達しないだろうか。
インドゾウばかり描いても、突然に人間が描けるようになるわけではないし。
だからと言って美術館で写生するのはめんどくさい。
だけど、目の前のノートにインドゾウとカタカナで書くことならできる。
毎日呼吸をするように(ry
友達と、元彼に、肉便器って言われたんだよね、という話をしたところ、大ウケで、今年の我が家の流行語対象にノミネートされた。Wikipediaとかにあるかなぁ、なかったら項目作ってやる、なんて思って調べてみたら、ちゃんとあった。
wikipediaの肉便器のページ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%89%E4%BE%BF%E5%99%A8
すごいことを言う人だなあ、と今さらながらあらためて思う。いや、その発想はすごい。しかし、wikipediaで定義されていることと、彼が言わんとしたことはどうもちょっと違う。彼の場合は、まったくセックスに興味がないわたしがマグロであることに対して腹を立てて、そんなに反応がないなんて肉便器だ、みたいな使い方をしていた。つまり、動かない、オブジェ。ダッチワイフ。wikipediaでて意義付けられている、貞操観念の欠如と言う意味では使っていなかった。そう言う意味では、ヤリマン、って言われたなぁ。。。 わたし、恋人とすらなんもしてないのに、一体誰と何をするんだ、と思ったけれど、そこでいちいちもめるのも面倒なので、ハイハイ、って言わせておいた。
いや、なんか今になって考えてみると、結構いろいろ面白いことを言われていたのだなぁ、と、友達と大爆笑。その中でも一番のヒットはー「肉便器」。
ちなみに、wikipediaによる「肉便器と言う言葉の使われる状況」は以下。
>>この語はおおむね、男性がある相手の女性または男性を性的に淫佚であるとスティグマを貼り付ける事で、第三者や世間に対し、その相手に対する男としての社会的責任の回避の承認を得る目的で使われる事が多い。すなわち、ある女性または男性を誘惑し、思いを遂げたとする。これに対しては誘惑した男はその相手に対する社会的責任(妊娠、結婚、ヒト免疫不全ウイルスの罹患)が課せられる事になる。しかしながら、その相手が性的快楽を求めて多くの男性(両性愛者であれば男女)と関係を持っている人間であるとの評価があれば、誘惑した男に対し敢えて結婚に踏み切るべきや性病罹患の責任とする社会的圧力は加わらない事になる。このような目的で男性はお互いに、「○△兄弟」と呼び合う事で、その女性に対する婚姻や性病罹患への責任を回避し、性的対象として関係を続けていく正当性を担保する事が出来るのである。
ひどい。
こんなことを言っておきながら、好きだ好きだと毎日言える神経がよくわからない。でも、家出してみてよくわかったのは、彼が居心地のよい状況を維持するための呪文でしかなかったのでしょう。人生最大の後悔。
しかし、こんなことを言われても、ハイハイ、そういうことも言えちゃうのねーと、怒りもしなかったわたしが一番ひどい。怒りすらしないって、要はまったく興味がないってことだもん。あー、ひどい、わたし。
女子高生見るとああ俺も女子高生になりてぇっていつも思ってしまう。
自分にだって目標とか生き甲斐とかそれなりにあるにはあるけど、女子高生には敵わない。
別におじさんが買ってくれるからとかそういう意味で言っているのではなく、
街にいるだけでオブジェの役割を果たしている。(女の人に取ってはどうか知らんけど。)
友達とアイスなど食べていたりしていたりして、何つうかすげえ羨ましい。劣等感で発狂しそう。
ていうか別に女子高生じゃなくても若い女子がキャッキャッ言ってるのが羨ましい。
俺だってそうゆうのやりたい。混ぜろ。
でも混ざったところで自分でも気持ち悪いのわかってるけどね。
仮にオッケーそんじゃお兄さんも混ざろうよって言われて喜んで入っていって
混ざった様な気になっても結局俺男だし。声低いし。髪短髪だし。
越えられない心の溝がある訳で。断絶。悶絶。
またid:TNIOPか。
http://d.hatena.ne.jp/newmemo/20070623/1182609527
http://q.hatena.ne.jp/1181654258#a728085
質問文の画像を見ますと、オブジェに隠れて読めませんけど「何でも!買います」「何でも!買取ります」と大きな看板には書かれているようです。回答者はそこに狙いを付けて、あとは長浜にある同店を適当に回答したようです。ところがプラチナプラザを検索しますと、商店街にお店を構えていることが直ぐに分かります。画像では店の前は駐車場となっていますので明らかに違います。
http://www.indivision.cc/thc/makaiyurayura/2006/02/post_145.html
専門的知識を必要としない質問は、その事に関して全く何一つ知らなくても検索することで正解を導き出せます。たとえば「元阪神タイガースの湯舟投手がオーナーである焼肉店を教えて下さい」という質問は、焼肉店の店名や所在地を知らなくても湯舟敏郎氏の名前さえも知らなくても検索すれば答えが見つかります。
「人力検索はてな」はこのような質問に対して適しているはずです。ところが、これも一部の回答者によってデタラメな回答が横行するようになってきました。誰でも勘違い・思い違いや読み違いで質問とは外れた回答をする事があります。そのことを一々あげつらうつもりはありません。しかしながら、同じ回答者がデタラメ回答を繰り返していれば、明らかに確信犯だと判断せざるを得ないです。回答者本人も正解では無いことを知っていながら回答をしているようです。何の目的なのか、そのような行為を繰り返して面白いのかどうか聞いてみたいものです。おそらくポイントゲットする事が一つの目的なのでしょう。「はてな」はポイント制故に良回答が多く集まるというコンセプトを有しています。でも現実はポイント獲得だけを目的として毎日いい加減な回答を繰り返すユーザーも引き寄せているのです。
あー、そういえばヤリマン女のオフ会に行ってきましたよ。メイド服で。死にてえ。
メイドで山の手線で行って恵比寿像で待ってましたよ。死にてえ。
ビックイジューも買いましたよ。買われる側になるかもしれないからね!死にてえ。
「メイド服の人がオフ会の人じゃなかったらよかった」とか言われましたよ。死にてえ。
当日は晴れていていい天気でしたよ。死にてえ。
飲み屋行きましたよ。まんことおっぱいのオブジェがかざってあったお!死にてえ。
いきなり「何歳に見える?」とかきいて「キャバじゃねえよー」って突っ込まれたお!死にてえ。
「だから童貞なんだよ!」とか言われましたよ!死にてえ。
しかも男に。死にてえ。
なんかれいぶーとか行っているらしいですよ。死にてえ。
一人なんかさーせふれとかさーいたらしいっすよー。死にてえ。
まあ匿名だからここで言ってもしかたないっすけどねー。あははは。死にてえ。
なんか帰りに総武線とか近く感じましたよ。あははは。死にてえ。
セックスさせろ
セックスさせろ
セックスさせろ
セックスさせろ
セックスさせろ
セックスさせろ
死にてえ。
http://anond.hatelabo.jp/20070301093604
「あなたは道の真ん中に立っている大木です。切られないように一言で自分をアピールしてください」
呪うよ? ほら、言葉喋れるし。
「あなたは時間を正確に刻まない時計です。捨てられないために一言で自分をアピールしてください」
ちょっとくらい狂う方がレトロでいいんじゃないかな?オブジェとかにいかが?
「あなたは窓ガラスです。いつも磨いておいてもらうために一言で自分をアピールしてください」
一度付いた汚れを取るのは大変だと思うし、綺麗な方が気持ちがいいと思うよ?
「あなたは眼鏡です。コンタクトの人に変えてもらうために一言で自分をアピールしてください」
眼を傷付けちゃったら大変だし、この際イメチェンなんて、どう?